朝焼け__1_

【連載小説】風は何処より(18/27)

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神津の話は、戦後までさかのぼる。

日本はなぜ、無抵抗に近い形で、米国による単独占領することができたのか。
それは、日本の支配機構が、占領軍の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。

駐日大使ライシャワーは、戦争末期に、「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。
そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。
実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という短波放送を受信できる、ごく限られた者しか聞くことができないプロパガンダ放送を通じて、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。
1945年6月には、米軍の攻撃内容を詳らかにしたうえで、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と、木戸幸一が天皇に提言している。

1945年2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂が、近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。
「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。
彼らの関心は、戦争の勝敗などではなく、アメリカの占領下で、いかに日本国民を押さえつけて、自らの地位を守ってもらうかだった。
そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。

天皇・政府中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっていた。
しかし中国に負けることになれば、日本における支配的地位が失われる。
だから、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。

財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示しているし、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。
また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルンの鮎川義介、浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。
藤山によれば、終戦6日前の閣議で、アメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。
はじめからアメリカは自分たちを大事に扱うことを確信していた。
日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。

終戦末期になると、政府内および特高警察がマークしたのは、青年将校だった。
敗戦が濃厚になるなかで、彼らが反乱を起こすことを恐れた。
左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦闘経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。

敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに、青年将校の反発はすさまじかった。

1945年8月15日前夜、天皇の「玉音放送」を前に、陸軍の青年将校が近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。

敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。
天皇の命令だけでは動かない。
軍司令部の指揮系統が動かなければできない。
それを米軍上陸前にやらせるためには、軍中枢を残しておかなければいけない。
もともと海軍をはじめ、軍中枢部分には親米派が多かった。
日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。
しかし、日本を占領するには本来100万では足りない。
日本の支配階級が従って、代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。天皇以下、支配階級が全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。

敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。
戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。
戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。
支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。
それが、戦後50年たった今でも、今日まで続いている。

米国CIAは、第二次世界大戦中の1942年に改組設立された(OSS、戦略事務局)が(CIG、中央情報グループ)及び(OPC、政策調整局)を経て1947年に成立した国家安全保障法により改組され、誕生した。

日本が独立するにあたり、GHQはCIAに情報活動を引き継いだ。
米側は1952年12月27日、吉田茂首相や緒方竹虎副総理と面談し、日本側の担当機関を置くよう要請。
政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は、日本版CIA構想を提案した。
日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するが、CIA側は緒方を高く評価するようになっていった。
なお、緒方は、朝日新聞の副社長・主筆も務めた人物である。

吉田首相の後継者と目されていた緒方は、自由党総裁に就任。二大政党論者で、他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し、「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。

一方、1954年に、吉田茂の後を受け、首相になった鳩山一郎首相(当時は日本民主党)は、ソ連との国交回復に意欲的だった。
ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは、保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待した。
1955年には、CIAは緒方に「ポカポン」の暗号名を付け、彼の地方遊説にCIA工作員が同行するなど、政治工作を本格化させた。
「反ソ・反鳩山」の旗頭として、首相の座に押し上げようとしたのだ。

緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、アレン・ダレスCIA長官に直接報告された。緒方も1955年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、一年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語った。

だが、結成された、新生「自由民主党」は四人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁になれないまま、二カ月後に急死した。
CIAはこの事態に「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」とした。

さらに二カ月後、鳩山が初代総裁に就任。
CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣や岸信介に切り替えていく。
このように、日本の首相及び将来の首相候補には、CIAの情報網が張りめぐらされており、常にCIAの監視下にあったことは、一部関係者の間では公然の秘密になっていた。

また岸信介56-57代・総理大臣は、当時CIAの秘密エージェントであったと言われている。
岸は戦前、満州国に出向した官僚だった。
関東軍が満州鉄道の建設資金を、米国鉄道王・ハリマン財閥から出資を受けた関係から、岸は米国有力財閥とのパイプをもっていた。
また、満鉄の建設資金返済のため、アヘン王と呼ばれた里見甫らとともに、中国人向けに麻薬密売を行っていたとも言われている。

なお、ブッシュ・アメリカ大統領の祖先もハリマン財閥の一員であり、ハリマンは米国における麻薬密売組織を支配していたといわれている。
ブッシュ・ジュニアの父(先代の米国大統領)も70年代、CIA長官を務めているが、これはCIAが秘密工作資金を捻出するため、麻薬密売組織に関与しているといわれている。
その意味で、戦前、関東軍が麻薬密売を行っていたのは、ハリマン財閥からの入れ知恵と考えられる。

戦後、岸はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監され、死刑をも覚悟していたが突然釈放。
旧敵国に忠実な親米派に変身し、CIAエージェントになれたのも、戦前からのハリマン財閥とのパイプがあったからだろう。
十数年後に首相にまでなったのは戦後日本憲政史上最大の謎とされてきた。

CIAは自民党を取り込むため、情報提供に対する報酬の形で、将来性のある自民党政治家に資金を与えた。
カネの運び屋は、ロッキード社の重役が担った。
岸は、1955年に自由民主党を結成し幹事長に収まるが、CIAの工作を利用して、保守勢力を糾合した。政権トップを目指した岸は、安保条約の改定を米国に約束した。
岸との連絡役になったのは、フランク神津自身であった。
「日米同盟の強化」は1960年の日米安保条約に基づくが、それに調印した岸信介首相がCIAのスパイだったからだ。

1957年3月、岸が首相になる日、国会では安保条約に反対する動きが顕在化していた。
米国と日本は合意に向かって動いていたが、日本共産党は、投票当日、国会で反乱を起こす計画を立てた。それを事前に察知した岸は、自民党議員に命じ、「自民党以外の議員」が退席した隙に法案を採決するという離れ業をやってのけた。

1957年6月に、岸は訪米し、新任の駐日大使であるダグラス・マッカーサー2世(マッカーサーの甥)と会い「米国が権力基盤強化を助けてくれれば、日米安保条約は成立し、左翼を押さえることができる」と語った。
そうして、これまでのような「内密の支払い」ではなく、永続的な財政支援を求めたのだ。
アイゼンハワー大統領は、自民党有力者への資金提供を承認した。相手によっては米企業からの献金と思わせ、少なくとも15年間、4代の大統領にわたって資金提供は続いた。

1994年10月、公開されたアメリカの機密文書により「ニューヨーク・タイムズ」が「1950年代から1960年代に、CIAが、日本の自民党に対して、「秘密援助」として、数百万ドルを投入していたということを報じた。
それによると「1958年にアイゼンハワー大統領の命令で、自民党の選挙資金として1回について20万~30万ドルの現金が何度もCIAから岸に提供された」とのことだ。
当時の30万ドルは、当時の為替レートで約1億円、現在では10億円ぐらいになるだろうか。
岸だけでなく、佐藤栄作も1957年と58年にCIAから同様の資金提供を受けたという。その後も、4代の大統領のもとで少なくとも15年にわたって自民党への資金提供は続き、沖縄に米軍が駐留できるように沖縄の地方選挙にまで資金提供が行なわれたが、その出所は岸しか知らなかった。

CIAは世界中で政権転覆、操作に介入してきた。
チリのアジェンデ社会主義政権を倒した、ピノチェトらの軍事クーデターはとみに知る所だが、旧敗戦国であるドイツ、イタリアでもその影響力が強く残るものの、日本ほど露骨ではない。

日本の特殊性は、ドイツ、イタリアで、ナチスやファシストの追放が徹底されたのとは対照的に、岸を先頭にした旧軍国主義者が、CIAの支援で政界復帰を果たし、戦後政治の主導権を握ったことにある。
それが戦後の日本政治を歪ませたのだが、岸が「対米自立、自主憲法制定」を掲げ、自民党是になったことは一見して矛盾する。
それが岸の「悲願」とかばう見方もあるが、正体を隠し、国民を欺く偽装であった事は否定できない。

米国に操られる外交に異論を唱えた最初の日本国首相は、田中角栄であった。
田中は、日中国交回復を仕掛けてキッシンジャー国務長官を怒らせ、対北朝鮮外交でも新基軸を打ち出そうとしていた。
ロッキード事件で失脚するが、ロッキード社はCIAの傘下企業であった。
ロッキード事件は、田中角栄追い落としを狙ったCIAの陰謀だったのである。

CIAは、「戦争屋」とも揶揄される米国軍産複合体のボス、デビッド・ロックフェラー財閥から多額の闇工作資金の提供を受けており、彼ら戦争屋の国際利権を確保するため、反米諸国の政府闇工作を得意としている。

経済においても同様だ。
通商産業省は、戦後GHQによって作られたものである。
日米のエスタブリッシュメント達のために存在したのが当該機関であり、それが戦後日本の経済成長を牽引したとも言われている。
しかしそれは、決して日本主導で行われたわけではなく、旧・薩長から連綿と続く特権階級と、アメリカ上層部、そしてCIAによるものだったのである。

日米間の貿易交渉をめぐっては、主に通商代表部の要請を受けて、CIAが日本側の交渉態度を探るのが通例だ。1988年6月に決着した「牛肉・オレンジ市場開放交渉」では、農林水産省の情報提供者から「日本の最終譲歩リスト」を入手していたらしい。

電気通信分野の交渉に関連しても、郵政省の内部やNTT、さらに通産省内部からも情報を得ていたという。日本企業のハイテクの軍事的側面も調査、京セラや大日本印刷、宇宙開発事業団、三菱重工、石川島播磨工業などが調査の対象となったのは、有名な話である。

政治と経済は、引き離すことはできない。
CIAは、戦後日本の政財界に大きく関与していたのである。

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