故郷はどこまでも「エモい」
お盆に実家の広島に帰省した。
帰省したといって、特にやることもあるわけでもなかった。
両親もそれぞれの用事があって出かけていたので、僕はお盆の日差しが照りつける広島の街をぶらぶらしていた。
約20年近く住んでいた街なので、大体の道は通ったことがあるし、思い出深い建物も多い。
よく見知った道に、よく見知った建物が僕と同じだけ歳をとっていることもあれば、
見知らぬ建物に取って代わられていることもあった。
かつて建っていた建物に特別な思い出があるわけでもないのだけれど、僕の知っている建物がなくなっていくのは何とも物寂しい。
「エモい」という表現がある。
綺麗な景色を見たときとか、感動的な映画を見たときなどに若者が使う言葉だ。
「エモい」の用途は僕もはっきり分かっているわけではない。
しかし、広島の街は至る所が「エモさ」で満ちていたように思う。
「エモさ」は過去に宿るのではないか。
感動的な映画も自分の過去と照らしあらせ、共感するからこそ強く感動する。
もしそうならば、過去の蓄積が多いほど、「エモさ」を感じやすくなる。
すると、「エモさ」は若者ではなく、ある程度歳をとった大人が感じやすい感情なのではないかと思う。
駅前のカードショップが潰れていることに気づいた。
中学生の頃に学校帰りに友達と通っていた場所だ。
かつてカードショップがあった場所を見て、僕も久々にその記憶を思い出した。
部活の練習をサボって、その店に入り浸っていた。
別に何かを買うわけでもなく、ただただ時間を過ごしていた。
あの頃の自分を思い出すと、不思議と優しい気持ちになれる。
かつての日常は、時間が経つとなぜこんなにも美しいのだろう。
当時の僕たちにとっては、ありふれた日常だったから、写真が残っているわけでもない。
カードショップ自体もなくなってしまった。
唯一残されているのは、その友達と僕の頭の中の記憶だけ。
カードショップという思い出のトリガーがなくなってしまった今、その記憶もいつまで残っているのかわからない。
たまたま掘り起こされたかつての記憶は、もう二度と姿をあらわさないかもしれない。
そのまま頭のどこかに眠ってしまうかもしれない。
できれば覚えておきたいけれど、ずっと覚えておくには、もろすぎるその思い出が、僕にはどうしようもなく「エモい」のだった。