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「畑違い」であることが、自分という土を肥えさせる〜考え方の"連作障害"を避けるために〜

今年もゼミ配属の季節がやってきた。3年生からの学部ゼミの一番の目的は卒業論文を書くことなので、教員は自分の専門性、関心を持ってやっている研究を学生たちに伝えることになる。僕はいつも、自分のやっていることを説明するのに苦労している。

自身の専門分野について書くとき、近頃は「臨床心理学、人間性心理学、身体論」と表記している。特に「フォーカシング実践とその考案者ジェンドリンの思想との関係」が、自分という屋台でメインでお出ししているメニューということになるけれど、これを学問の専門分野で、と言われると難しい。

自分がこれまでやってきたこと、今やっていることをそのまま書くと、僕の所属する心理学部の学生にとっては、基本的に「畑違い」のことになってしまう。弊学部は心理学の基本的かつ多様な分野を幅広く学ぶことができるが、とはいえ「人間性心理学」という授業も、ましてや「身体論」という授業科目もない。

自分か書いてきた論文などの研究テーマをそのまま羅列しても同様である。率直に自分のホットトピックを言えば、博士論文でフォーカシングと「なぞかけ」の関係について研究していた経緯で、認知意味論などの言語論、ユーモア論に関心を持っていたり、ジェンドリン哲学の関連で、「人が死ななくなる」という天命反転の思想を提唱した荒川修作+マドリン・ギンズの研究を通して、建築分野の研究プロジェクトに加わっている。最近は道化師(クラウン)になることの臨床的意義をめぐって、自分自身も道化師養成課程に通いながら、文化人類学や記号論を読み漁っている。説明の聞いている学生は十中八九「???」となる。

幼い頃からどこかで「本業が何やっているのかわからない人」に憧れ続けてきたので、今の自分の境遇を誇らしくは思うものの、不必要に学生たちを困らせたい訳でも、煙に巻いたりしたいわけでもない。でもこうやって自分の専門が言いづらいということは、それなりに深い悩みで、自分の興味を探究すると、すればするほど自分が「畑違い」になっていくことになる。

そもそも、フォーカシングのユージン・ジェンドリン自身がそういう人だった。哲学の出自でありながら、むしろ臨床心理学分野で評価されて、晩年こそもっと哲学分野でも自分の仕事を知られてもらいたいと思っていたと聞く。学際的という流行らなくなった言い回しを用いれば聞こえはいいが、学生にとっては要するに「何やっているかわからない人」なのだ。

そういえばカール・ロジャーズも、もともと農学部に入り、史学科や神学校、教育学を渡り歩いた人だ。結局今でも、ロジャーズは心理学者じゃないなんて揶揄されていたりもする。

ここのところすっかり植物好いていて、ガーデナーならぬ「ベランダー」(いとうせいこう)としてのキャリアを始める中で、色々勉強して興味深かったことがあった。植物の育てる中で気をつけるべきこととして、「連作障害」というものがあるらしい。
一部の農作物においては同じ畑の画地やプランターの土を使って同一の作物を育てると、発育が悪くなったり収量が落ちたりすることがあるようだ。
キュウリなどの瓜科やナス、トマト、そしてジャガイモのような比較的ポピュラーなこれらの野菜は皆、連続で育てると連作障害を起こすことがある。その植物が発育するのに必要な土壌の養分が偏って摂取されるため、土の栄養素が足りなくなったり、同じような害虫が繁殖しやすくなったりする。場合によっては枯れてしまうこともあるような、怖い状態である。

ガーデニングになじんでいる人にはよく知られているが、ジャガイモは通常、同じ場所で連続では作らず土を休ませる(別の野菜を植える)などの工夫が必要だったり、菜園でも土の栄養が偏らないように、葉物野菜、根っこを食べるもの、実を食べる野菜をローテーションで植えることが必要になる。

もともと博士課程でメタファーを研究していたので、僕はついいろんなアイデアを”何かの喩え”に応用してみたくなる。そう言ってよければ、ロジャーズの生き方や専攻の選び方自体が、考え方の「連作障害」を避けようとしていたようにも思える。昔、大学生の時にある授業で先生が「本当の天才は、光らない。見通しが効くから、ある分野を学んだらすぐにいなくなる」と言っていたのを聞いて、一定数そういう人が世の中にいるのだなと思った。見極めがきく人は、その場にいつかない。頭のいい人、というより勘のいい人は、こうやって物事の考え方の”連作障害”を避けようと、いろんなことをやったり、転々としたりしているのではないだろうか。

僕はといえば容量が悪いだけで、いろんなことを節操なく調べているだけの人だ。よく諸先輩方から「もうちょっと絞れば?」とお叱りを受けたものだった。確かに、一つのことを極めるだけでも難しいのに、中途半端なままで何かと何かを掛け合わせても、0.8と0.8を掛け合わせても0.64にしかならず、なかなかうまくいかず悔しい思いをしてきた。

とはいえ、自分の節操のなさを差し当たり棚に上げておいて言えば、今度から学生からの「なんでそんないろんなことやっているのですか?」という質問に対しては、「連作障害を避けているんだ」と答えるようにしようかとふと思った。しかし、きっとこれではまた学生をぽかんとさせてしまう。

何かを極めることは大切なことでもあるが、それは「偏る」ということでもある。大学では、何かに偏りつつ拡がりももつということが大事なのではと思っているし、それはとても楽しいことでもある。自分はそういう大学の学びに魅力を感じて続けてきたし、今も授業はそんな時間になればと思っている。

畑違いであることに口を出すこと、学際的であることは、近頃はあまり評判がいいわけではない。でも、自分という土が偏らないように、いろんなものを自分の中に植えて、育てていくことは、むしろ自分自身がヘルシーでいるためにもとても大切なことだと思っている。

色々なものを育てるから、土は豊かになっていく。人間もおそらくそうだろう。ジェンドリンが『プロセスモデル』の中で、こんなことを言っていた。

異なる人々のことをよく知るようになればなるほど、私たちは次に会う人のことをより容易に理解することができるようになる。次に会う人が、これまでに知っているどんな人と違っていても、私たちはこのことを説明できる。私たちがより多くの複雑性を持ち込むほど、より多くのことが交差できるようになり、その他の意味が私たちのそれから生み出されるからである。

ジェンドリン『プロセスモデル』邦訳91-2頁

難解なプロセスモデルにしては珍しく、ストレートにいいことを言っているような書きっぷりの箇所であるが、これは多くの人にとってもとても素直に受け取れるところだと思う。いろんな人に、物事に触れ、自分と交差していくことで、私たちは他者や世界、そして自分自身についてもより豊かに理解していく。一つのパターンに落とし込みすぎると、理解の「連作障害」が生まれやすい。

荒川修作もまた、建築物が白や灰色一色であることを「自然はそんな一辺倒ではない」と批判して、カラフルな建築物、養老天命反転地や三鷹天命反転住宅を創造した。

多様性というのは綺麗事だけでなく、時にカオスをもたらすが、それは理解を遠ざけるのではなく、多様でカオティックであるからこそ、私たちはより精密に世界を理解し、そしてヘルシーでいられる。

いろんなことを学ぶことは、関心の結果というより、むしろ戦略として尊重した方がいい。多様な関心を持つ学生に、僕自身が刺激を受けるので、ゼミ生と一緒に学んでいくことは、とてもありがたい。

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