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思いがけず、大吉: 「交差」としてのおみくじ
1月31日、元々の予定を変更して、友人である中村賢治さんの京都での初の個展・写真展を観に行くことにした。合わせて行きそびれていた初詣に。
特に理由はないものの、毎年伏見稲荷大社にご挨拶に行き、以前の同僚に勧められた六波羅蜜寺の四柱推命みくじをいただくのが我が家の初詣の恒例。
六波羅蜜寺から個展の会場であるモナド・コンテンポラリー(単子現代)まで徒歩で行ける距離だった。ラッキーと思いつつ歩いていると、昔見たことのある風景が出てきた。京都はお寺や神社だらけとはいえ、一度来たら忘れない不穏な雰囲気。知る人ぞ知る、縁切りで有名な安井金比羅宮さんの鳥居が目の前に現れたのだった。
特に今、切りたい縁があるわけではないものの(本当に)、これこそ何かの縁だろうということで、久しぶりにご挨拶に行く。あくまで個人的な感想ではあるが、こうも何かが漂っているような、そう言ってよければ禍々しいとすら言える雰囲気の神社は、僕はほかに知らない。不用意に写真を撮ることもちょっとはばかられつつ、参道を進む。
よく知られる縁切り縁結び碑の目の前に、おみくじがあった。僕は縁みくじと通常のおみくじ。普段、神社仏閣に行っておみくじを引くことは全くないのだけれど、これまた何かの縁というか、ちょっと興味をそそられて、なんとなく引いてみることにした。100円。
昔は、おみくじを引くとそれにつられて物事の進み方がそっちに傾いてしまうような気がして引くのが嫌だったのだけど、最近はおみくじやタロットの類は、フォーカシング的な発想で言えば「交差の実践」だと捉えている。フォーカシングの考案者であるジェンドリンは、そのメタファー論の交差によって生じる意味は事前に決定されているわけでなく、まさに交差によって作り出されると捉えた。これは決定論的なものでも、とはいえ「何でもあり=全て無意味」だという立場でもない。意味は創造されるものだ、というのがジェンドリン哲学の特徴である。
占いでもおみくじでもタロットでも、その時の文言や図版が、今の私の身体と交差する。そうすることで生み出される何らかの意味がある。
身体との交差によって導き出されるその「意味」は、身体が、その身体自身の変化の要請によって生み出す「何か」である。今の自分(の身体)に必要なものとも言えなくもないが、それが何かというのは、すでに前もって決定されるわけではなく、恣意的なものでもない。最初は、不明瞭で曖昧で、それでいて確かに精密に感じられる感覚、「何か」として私たちに到来する。わからない。だから、探求する必要がある。それについての”内省(reflecting)”が必要になる。
「それ」がやってくると、身体は応答する。朝のテレビの占いか何かで、「疲れやすいので睡眠多めに」と言われれば、確かにな、ここのところオンラインmtgばかりだ、と思う。「時に手放すことも大事」と言われたら、それもまた確かにな、と思う。その字義通りの意味というよりもむしろ、私の身体との交差によって、それは精密にオリジナルな意味を持つようになる。私たちが占いを"信じてしまう"、"当たっているような気がする"のは、僕らの身体がそうなっているからなんじゃないか。
交差の理論について研究していく中で、最近はそなふうに考えている。というか、交差を研究するのに、占いやタロットはむしろ格好のテーマだと思って密かに色々と調べ始めているところだったりもする。昔流行っていた気がする、勘で選んだ本の任意のページを開いたところに今必要なメッセージが書かれている的なものも、交差だと「なんでそこに意味ある言葉があるように感じるのか」が説明できるのではないか。
安井さんで引いたおみくじは、「大吉」であった。
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今の心情としてはむしろ、何か修正を求められるような指摘っぽいものが欲しかった気もして、多少手厳しくても良かったのだけど、何せ一安心。
ただ、僕にとって目を引いたのは吉凶そのものではなく、その下に書かれている啓示的な一節のほうであった。
「人のため世のため祈るまごころは、神も宜しとみそなはすらむ」
なんか….後半の古文的なものがよくわからずありがたさだけをまず受け取ったのだが、文中の「祈る」という言葉がふと気になった。
祈るって、何だろう。今の自分にとって、祈るということは、何を意味するのだろう?
今のところ、日常の中で祈る習慣があるわけではないのだけれど、神社仏閣やお地蔵様、御神木があると手を合わせることにしている。そういえば最近、勤務先のキャンパスであった阪神淡路大震災の追悼の献花台の前を通りかかったときも、手を合わせて祈った気がする。
自分にとって、「祈る」とはどういうことなのだろう。こういう問いかけを生み出す"仕組み"として、おみくじやタロットはとても効果的な気がする。くれぐれもこれは決定論的なものではない、と思っている。
きっと祈りにもいろいろなかたちがある。ある人はベリーダンスは祈りだと言っていた気がする。踊りも制作も祈りに通じるのなら、自分が考えていた「祈り」という言葉の意味自体が狭かったのかもしれない。
おみくじの類は、身体感覚を研ぎ澄まし、自身の未来への予感をブーストさせる仕組みとして興味深い。そして今日の自分にとっては、「祈り」という言葉が、自身を振り返る時のキーワード、自身の変化の「徴候」になりそうな気がした。
追記:
写真展で賢治さんと話していて思い出したことがある。高校の時の修学旅行の沖縄で、天然の防空壕である「ガマ」を見学したときに、痛ましい戦争の話を聞いた僕は心底ショックを受けて、その時、自分なりに亡くなられた方々へ「祈る」ということをしたのだった。
その時、ちょっと不思議な体験をしたことを思い出した。軽く超常現象じみたことではあったのだけど、賢治さんと話す今の今まで忘れていたことだ。
ある何からの「徴候」(この場合はおみくじを引いて気になった「祈る」ということが)から、何らかの記憶や連想が展開していき、それが自分の今の状況やあり方の理解、あるいはこれからの予感へと交差していく。
ちょっと怪しい話なのだけど、フォーカシングのセッションをしていると、「そういえば…」という具合に、割とこのような身体的な実感を伴った展開というのはよく起こる。これを研究としても明らかにしたいし、多くの人にアクセスできるよう、わかりやすく伝えたい、という思いもある。フォーカシングの怪しさを、怪しさをディスカウントせずにもっと詳らかにできないか。それが今のところの僕の野望である。