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本当の問いかけが、本当の答えを呼び込む: 修辞疑問の落とし穴

私たちの生きている状況や問題についての漠然とした有意味な身体感覚、フェルトセンスにアクセスし、より精密で豊かな、新たな理解を呼び込むための技法であるフォーカシング。

フォーカシングの本質は、問いかけ方にある。フォーカシングのステップの後半にある「尋ねる(asking)」という技法について、ジェンドリンはこんなふうに書いている。

フォーカシングのなかで一番重要な手段のひとつは「自由回答式質問(open question)」で尋ねるこのやり方です。あなたはひとつの質問をしますが、意識的思考過程による答をしようとする試みを意図的に控えるのです。

ジェンドリン『フォーカシング』(福村出版) 邦訳90頁

例えば、ある人との人間関係について身体的に感じてみると、そこに「ずっしりと重たい、堪えたくても堪えきれない感じ」があるとして、その感じに対して、こんなふうに問いかけてみる。

「その人との関係で、堪えたくても堪えきれない、重たい感じを感じされるのは、いったい何なのだろう?」

「その人とのあいだの何が、堪えきれない感じにさせるのだろう?」

一般に、オープン・クエスチョンと言えば答えを限定しない、開かれた質問形式のことである。逆を考えれば分かりやすいかもしれない。クローズド・クエスチョンは、YesかNoで答えられる質問を指す。
この記事は面白いですか?とか、チョコレートは好きですか?とかのことである。相手にはっきりと回答を求めたい時に用いられる。得てして詰問のようなものである。

これに対して、オープン・クエスチョンは、答えが限定されていない。好きな色は何ですか?とか、最近どんなことに困っていますか?などである。
フォーカシングでは、この問いかけについて、「意識」で答えないこと、意図的にその回答を控えることをする。「頭で考えない」ということを意図的にするのである。

一見するとこのオープン・クエスチョンとクローズド・クエスチョンの対比はとてもシンプルであるが、実はジェンドリンが先に引用した『フォーカシング』で、オープン・クエスチョンに対比させているのは、このような閉じられた質問ではない。それは「修辞疑問(レトリカル・クエスチョン)」である。先の引用に続き、こんなふうに書かれている。

普通、人びとはこの種の質問に対する答を知っていると思ったり、答がなんであるかを決めてしまったりします。答の決まっている質問をするのです。ーー結果的には、自分自身ですぐに答えてしまうような修辞疑問(rhetorical question)になってしまうのです。

ジェンドリン『フォーカシング』(福村出版) 90頁

修辞疑問は文法や文学表現の一種として聞かれたことのある人が多いかもしれない。表現上は疑問文の形をしているが、それは一種のレトリックであり、実は本来の疑問文という機能を発揮していないものである。

「君は本当にそれが正しいと思っているのか?(そんなはずはない、間違っていると思っているだろう)」

「なんで電話一本できないわけ?(遅くなるんならちゃんと連絡しろ)」

「お前に何がわかるんだ!(何もわかるものか)」

というように、いささかエモーショナルなものが多いが、これらは質問ではないから、このような問いに答えてしまうと別の機能を果たしてしまうものである(余計に怒られるとか)。

人間はつい、答えがあらかじめ決まっている質問をしてしまうというのは事実だ。
僕自身は、学校で先生から質問されて、答えるのが非常に苦手だった。
なぜなら、それはもう答えが決まっているから。

質問というのは、本来は「答えがわからないから訊く」のである。
答えを知っているのに、なぜ質問するのか。答えを知っているなら、答えを言えばいいし、もし答えを知らないのだら、堂々と質問すればいい。
でも、往々にして、本当に答えを知らないことは、誰も質問しないのである。
幼心にそんなことを思っていた。

私たちは案外、本当に知らないから、質問をするということを、練習できていないのかもしれない。学生への質問に答えると、「…ですよね」という言葉が返ってくることも多々ある。
それで構わないのだけど、思わずどう答えていいかわからない質問を受けた時、私たちは驚き、ハッとする。

そこには、まだ言葉になっていない、何らかの新しさがある。いや、その新しさはまだそこに存在はしていない。ただ、何か予感されている。

先ほどの引用にも続きがある。ジェンドリンはこう述べる。

フェルトセンスに対してはそういうことはしてはいけません。フェルトセンスに尋ねるのは他の人に何か尋ねるのとよく似ています。質問を発し、そこで待つのです。

ジェンドリン『フォーカシング』(福村出版) 90頁

そこに予感されている、何かを待つためには、あらかじめ答えが決まっている問いを使って尋ねてはいけない。

ジェンドリンは他者に尋ねるように、自分自身にも尋ねよ、という。でも、私たちは普段、他の人に対してすら、一体どれだけ本当の問いかけをしているだろうか。

自分が本当にわからないことを聴くということ。無知の知を大切にする「ソクラテス的問答」というものもあるが、もっと素朴に、わからないということを

待つということ、わからないことを聞くことはとても難しい。単に、知らないことを開き直ることではない。自分が知らないこと、答えがまだわからない「問い」があること。

そのことに価値や意味を置くような態度で、日々を暮らすことは、身体からの本当の応答へとつながる豊かな態度だとフォーカシングは教えてくれる。

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