【短編小説 原稿用紙15枚】スモモの木で一羽の鳥が 〜藤井佯「故郷喪失アンソロジー」落選作〜
いっそ雪になればいいのにと思う、冷たい雨の降る晩だった。
残業を終えて勤め先からアパートに帰ってきたヨウイチが郵便受けを検めると、クリーニング店や新興宗教やデリバリーピザのフライヤーに混じって、高校の同窓会案内の封書が入っていた。
ヨウイチは初めて見る封書だけ鞄に収め、濡れたフライヤーを握ったまま、部屋のある三階まで用心しいしい階段を上っていった。
濡れた階段に足を取られそうになる。靴の買い替え時だと思う。
十一時半になろうとしている。食べずに寝る方が体にいいのは分かっているが、寝る前に胃に何か入れないと眠れない性質のヨウイチは、手早く作れるアーリオ・オーリオ・エ・ぺペロンチーノを食べることにした。エアコンの暖房をつけ、部屋着に着替え、フライパンで湯を沸かし、一掴み分のスパゲティを半分の長さに折って放り込む。換気扇はあえて動かさない。雨が降っていても部屋が乾燥しているように思われたので、沸騰する湯の水蒸気で加湿したかった。フライヤーはごみ袋に入れる。
ニンニクと鷹の爪としなびた大葉をみじん切りにして--本来はイタリアンパセリを使うが、大葉の方が安いし、何より爽やかな青臭さがヨウイチの好みだった--オリーブオイルで炒める。湯切りして笊にとっている茹で上がったスパゲティを加え、中華料理用調味ペーストを少し加える。パスタがフライパンにくっつきそうになる前に水を加えてかき混ぜて乳化させ、一気に皿に盛る。料理と言うほどでもない、失敗する方が難しいくらい単純なパスタの出来は予想以上で、食べているのにますます腹が減る気がした。
後片付けを手早く済ませ、紅茶を淹れて、封書の中の同窓会案内の文面を眺める。
「高校卒業してから二十年、節目の年でもありますので、地元のホテルの宴会場を借り切り盛大に同窓会を執り行いたいと思います、芸能人や国会議員になった同期にも声をかけ、ゲストとして来てくれることになりました、大いに楽しみ、旧交を温めただきたく存じます」、云々。
紅茶を啜りながら学生時代を思い出した。封書が来るまで母校の存在を忘れていたほど愛校心のないヨウイチは、内向的な性格もあって友人はほとんどできなかった。同窓というだけで友達になれるほど社交的ではないヨウイチにとって、地元で行われる高校の同窓会は違う町の花火大会よりも遠い行事だった。
両親が亡くなってから地元に帰っていない。実家を売却し、墓守もしないとは何事と叱るひとがいないせいもあるが、ヨウイチにとって地元は、憎いとまでいかなくても疎ましい、一種の重圧でしかないからだった。ヨウイチは自分と似たような感性の持ち主を見つけたかったが、君は地元は嫌いか、どう思うか、などと藪から棒に訊くのも何だかばかばかしく思われて、結局誰に訊くでもなくここまで来てしまった。
だから大学進学の際に地元を離れ、卒業後も地元に戻らず上京して就職した。地元では就職先が少なかったからだが、何より戻りたくなかった。そして、いったん地元に戻ったら何か大きな事件でもない限り一生出られなくなる不安を感じたからだった。脱獄に失敗して捕まえられ、再び収監される恐怖に震える脱獄囚の心境に近かった。ヨウイチにとって地元は牢獄だった--実際の牢獄の方がまだ過ごしやすいのではないかと思うほど、牢獄よりも牢獄的な土地に二十年近くもいなければならなかった運命が呪わしいほどだった。
生きることの違和感を醸成する見えないゲットーだった。住民同士で絶えず緩やかに監視し合っている気配があった。「もちろん監視しているわけないじゃない、わたしだってよそ様の暮らしぶりに干渉するつもりはないし。でもさっき歩いていたらあなたがあの店から出てくるのが見えちゃったもんだから」と言われればどうしようもない、どう動いても体の一部のどこかが必ずひっかかるような閉塞感、プライバシーの絶え間ない侵襲にヨウイチは悩まされた。
その一方、地元は世界の縮図のように思われることもあった。地元にいると息苦しかったのは日本全体が息苦しいからかもしれず、日本に住んでいると息苦しいのは世界全体が息苦しいからかもしれない、と。
新型コロナ禍の前、オフィスからすぐのところにある商店街の中に入っていたリフレクソロジーサロンで、セラピストが教えてくれたリフレクソロジーのメカニズムを思い出した。リフレクソロジーの理論は、体のすべての情報は足裏に投影されるというものだった。たとえば甲状腺のはたらきを良くしたいときは、足裏の、甲状腺の情報が投影されるエリアを刺激すれば、足裏を介してその刺激情報が脳を経由し、さらには臓器にも伝わって体の調子が整う。そんな感じだったと思う。
本当かどうか分からず、足裏と全身の関係が地元と日本の関係と相同かどうかも分からないが、にも関わらず、日本らしさのようなものはヨウイチの地元にも確かに溶け込んでいるように思われた。どこに行っても別の「地元」があるだけ、逃げたつもりでも逃げられていない。逃げ場などない。孫悟空が世界の果てと見た五本の柱に「斉天大聖」と己の名前を書き小便をひっかけて得々と戻ってみたら釈迦の指だったという、あの狭さ。絶望を確かめ続けるしかない空間。
ーー生まれながらの適応障害だな。
その適応障害に苦しむ者からすれば、ふるさとが大好き、ふるさとを愛している、などと屈託なく言えるのは恵まれたひとだけだと思うのだった。ふるさとを愛するあまり外の世界に無関心になり、その結果偏狭で傲慢になる副作用など意に介さない、副作用だと認識することもないくらいに恵まれたひとびと。
裕福な、少なくとも貧しくない家に生まれたか、興味の対象など価値観が同じ人が多いという意味において家族や友人や隣人に恵まれたか、とにかく当人が気を使うことのない生活空間が確保できるのであれば、地元に居続けるのも、ふるさとを愛するのも無理はない。
地元やふるさとのことを考えれば考えるほど暗くなってくる。ヨウイチはスマホを充電し、冷たくなった紅茶を飲み干して、そのまま眠ったーー「小景異情」で、「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや」と書いた室生犀星が羨ましかったーー歴史に残る文語自由詩をものした詩才にではなく、詩に書くほど意識できるふるさとがあることに。
珍しく、夢を見た。ヨウイチは縁がどこにあるかも分からない巨大な黒い穴に落ちていた。落ちるばかりでいっこうに着地する気配がない。加速するわけでもない。背中を下にしたまま落ちていくうち、空気の摩擦熱のせいか背中がたまらなく熱くなってたまらず叫んだときに目が覚めた。
地元に帰るな。お前にふるさとはない。本籍地があるだけだーー無意識がそう忠告している気がした。ヨウイチは封書をまるごと書斎机のゴミ箱に放り入れ、仕事に出かけた。
日曜日の午後、ヨウイチは図書館に行って借りていた本を返し、興味を持った新書や単行本を新しく借りて駅まで歩いた。図書館で借りた本は、駅前にある行きつけのカフェで、窓際の席に座って読むことにしていた。ガラス壁越しに通り過ぎる人をときどき眺めながら本を読むのがヨウイチは好きだった。理解されないだろう楽しみ、自分だけ楽しければいい慰め。
目の前を通り過ぎる人を眺めながら、ふるさとのことを考えている人はどのくらいいるだろうとフェルミ推計をしてみた。三年に一度思い出すとして、おおかた千人中一人が歩きながらふるさとのことを思っているだろう。ヨウイチは交通量の調査のように通行人を数え始めたが、あまりに多くて数え切れず、百人に達しないうちに諦めてしまった。
本を読むにも飽きて紙ナプキンを人差し指で撫でているうち靴を買い直さなければいけないことを思い出した。底が摩耗してしまっていることに気づいていたのに履けないこともないからと放っておいた報いが二週間ほど前に来たことも思い出した。あの日も雨が降っていた。点滅して赤に変わりそうな信号を見ながら急いで横断歩道を渡りきったものの、点字ブロックの上で、バナナの皮でも踏んだかのように盛大に転倒してしまった。同じくらいの年の女性にだいじょうぶですかと心配され、ひどく恥ずかしい思いをした。
カフェを出て、靴屋で靴を買い直す。新しい靴の履き心地はヨウイチの気分を上向かせた。靴が新しくなったくらいで嬉しいなんて安上がりな男だと自らに呆れながらも、こういうところは自分の美点の一つだろうとも思った。
特に予定もなかったので、新しい靴を足に馴染ませようと、何年も行っていない森林公園まで出かけることにした。
森林公園の木立に囲まれた空は清らかに青く、高かった。木々が戦ぐほど強い風が吹いていたが、春めいた湿り気を微かに含んでいたのは数日前に降ったあの冷たい雨のせいかもしれなかった。
公園を歩いているうち、ヨウイチの頭の中で、ベルクのヴァイオリン協奏曲の冒頭ーークラリネット、バスクラリネット、ハープの短い序奏の後、独奏ヴァイオリンがゆっくりと音列のアルペジオを奏でる、三十秒ほどの短い音楽が唐突に流れた。
ーーなぜだろう? なぜ、よりによって?
ヨウイチは歩きながら戸惑った。
高校生のときにCDでこの曲を聴いたときは退屈でしかなかった。調性を廃した無調の十二音音楽で作られている関係で、聴き慣れない音の重なりを受け容れることができず、メロディらしきパッセージもなく、盛り上がるところもあるものの全体的に曲調が落ち着いているのがじれったく感じられたからかもしれない。CD付属の解説を読んでも、偉大な作品だと高く評価されていることに同意できなかった。聴きこんでも好きになれず、かろうじてメンデルスゾーンやブラームスなどロマン派のヴァイオリン協奏曲と明らかに違う音楽を作ろうとする気概を感じるくらいだった。そうして、耳で聴かず頭で聴こうとしている自分に苛立った。自分には音楽の良し悪しが分からないという事実に向き合うのが怖かったのかもしれない。ともあれ、今まで、曲の存在さえ忘れていた。それなのに、今まさに、目の前で演奏しているかのような鮮やかさで蘇ってきたのだった。
太陽が雲に隠れて辺りが暗くなり、寒くなった。頭の中のヴァイオリン協奏曲は止みそうにない。
春一番かと思う突風にヨウイチは思わず震えた。見上げると空は灰色に暗くなり、雨の匂いがする。スマホで天気予報を見るとほどなく雨が降りそうで、傘を持っていなかったヨウイチは急いで森林公園を出、買い物を済ませて帰宅した。雨に降られたのはほんの数分で済んだ。
玄関で靴を脱ぐとき、買ったばかりの新品だということを忘れていた。履き慣れた感じがするから今度の靴は相性がいいのだろうと、少し嬉しくなった。
ヨウイチはベルクのヴァイオリン協奏曲のCDを探して再生させた。森林公園を歩いていたときに頭の中で流れていた音楽が耳に聞こえた。鼓膜の内側で聴くのと外側で聴くのとでは違うはずなのに、森林公園で聴いた音楽をそのまま引き継いだような聴こえ方だった。
第一楽章の終わりで、オーストリア南部のケルンテン地方の民謡「スモモの木で一羽の鳥が」の一節が流れる。ヨウイチはそれと思しき箇所を探して聴いてみた。厳格な音列の規則から解放されたようなメロディーが、ベルクにとってなくてはならない楽想だったと思うと、不思議と口ずさみたくなった。
ケルンテン地方はベルクの初恋相手のふるさとで、その民謡を曲に採り込んだのはメロディーラインが曲の性格に合ったからかもしれないが、初恋相手がよほど恋しかったのだろう。ベルクにとってふるさとは生まれ育ったウィーンではなく、初恋相手との思い出そのものだったのかもしれない。
一般には、ベルクが可愛がっていた、十八歳の若さで亡くなった親友夫婦の娘へのレクイエム代わりのヴァイオリン協奏曲ということになっているが、実際は、音で作った、ベルクのお気に入りの女性たちのカタログと言えないこともない。ヨウイチはベルクの性格の複雑さに理解できない暗さを感じたが、その性格もある面から見れば無防備なくらい単純かもしれないと思ったりもした。
晩になって風はますます強くなり、隣室とを区切るベランダのプラスチック製の波板やガラス窓がひっきりなしに音を立てた。ヨウイチは毛布にくるまったまま、ベルクのヴァイオリン協奏曲を何度も繰り返し聴いた。
どれだけ音楽が繰り返されたか、急に眠気に襲われたヨウイチは、横たわったまま目を瞑り、頭を後ろに反らした。
首から肩に走っていた甘い痛みと目の回りの疲労感が軽くなったと思って目を開けると、ヨウイチは一羽の鳥になってスモモの木に止まっていた。
昼に歩いた森林公園とまったく違う、ヨーロッパの自然を撮った写真集に出てくるような深い森だった。目の前に、天国に通じるような木漏れ日が幾筋も森を貫いていた。
ーーケルンテン地方の森だ。
ヨウイチは、今自分は、今の自分は、間違いなくふるさとにいると感じた。
少年時代、自分から最も遠いところにある、決して理解できることはないと諦めていた音楽が、自分のふるさとだったとは!
鳥になったヨウイチはスモモの木から飛び立った。木々の間を抜け、高度を上げていった。どこからか、第二楽章で引用されたバッハのカンタータ「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」のコラールが聞こえてきた。
天空で失神するまで昇ってみたい、ふるさとに包まれるのではなく、自分とふるさとの境界がなくなる清澄な悲しさを感じたい--ヨウイチは翼に力をこめてさらに上へ飛んだ。
ヴァイオリン協奏曲の終結部の独奏ヴァイオリンが鳴らす四点トの冷たく澄んだ高音が聞こえてくる。その中で一羽の鳥の魂は明るく浄められていった。(終わり)
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※本作「スモモの木で一羽の鳥が」は、藤井佯氏「故郷喪失アンソロジー」の落選作です。(2024/03/18)
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