【小説】デッドボール 〜第50回明石市文芸祭 落選作〜
バーカウンターでシングルモルトの水割りを飲みながら、ツトムはざわつく心を鎮めようとしていた。それでも、少し離れた席に座っている、三十前後と思しき三人の男性の話がどうしても耳に入ってしまう。
話題は、なぜ天才は幸せになれないか、なぜ天才は近しいひとを泣かせるのかというものだった。熱のある話しぶりから、彼らが天才に憧れているのは明らかだった。天才になれるものなら、魂の一つや二つ平気で売り飛ばしてしまうかもしれない。
一方のツトムは、天才という言葉を聞くたびに心が疼く。天才になりたい者と天才にうんざりしている者とが同じバーで酒を飲んでいる。何という巡り合せだろう? たまらなくなったツトムは、三人に声をかけた。
「天才なんて、なるもんじゃないですよ。そんなにいいもんですかね、天才って」
三人はおしゃべりを止めてツトムを怪訝そうに見つめる。気まずい空気が流れたが、こちらから言い出した以上、言っておきたいことは言わなければならない。ツトムは話を接いだ。
「わたし自身、天才、天才と言われてきたんで、よく分かるんです」
「天才って、何をなさっているんですか」
「昔、野球をしていたんです」
「現役時代、どこのチームに?」
「子どもの頃の話です。天才野球少年というやつですよ」
「プロ野球の選手ではない?」
「選手どころか野球もしなくなって、今は普通に勤め人です」
「失礼ですが、現に天才であるひとが天才の苦悩を言うなら分かります。天才でもないひとが言っても、ただの負け惜しみでは?」
「負け惜しみ、か。手厳しいな。そうですね、天才であるかどうかは周りが決めることだから、天才になれるかどうか気に病んでもしかたがないということを言いたかったんです。北原白秋だったと思います、自分に才能があるかどうか教えてくれと質問してきた弟子に、『才があるとかないとかだれがわかるか。質問にも相談にもならない。自分で決めなさい』と一喝したそうですよ」
ツトムから一番近い席の男性が声をかけた。
「何かご事情がおありなのでしょう。お話しいただけませんか、そう考えられるに至った理由を」
「話が長くなりますが、よろしいですか?」
三人とも頷いたので、ツトムは口の中を水割りで湿してから話し出した。
これは後に母から聞いた話ですが、わたしが生まれて間もない頃、わたしの祖母は、大阪でよく当たると評判の占い師に、わたしの星のめぐりを見てもらったそうです。占い師は「この子は勝ち負けの世界で日本一になる」と断言したそうです。
この予言、今となっては外れだと分かります。いや、本当を言えば、野球に熱中していた、それこそ天才野球少年と持ち上げられていたときでも、その予言は本当かと疑っている自分がいたのです。勝ち負けに興味がないわけではないですが、勝つためなら何でもするタイプでもなかった……
いきなり話を脱線させてしまってはいけませんね。
野球好きな父の影響で、物心がついたときから野球は生活の中にありました。ルールがシンプルなところが性に合ったのでしょうね。そのうち、わたしが周囲から注目され、期待されているのを感じるようになりました。自分で言うのも何ですが、上の学年と間違われるほど体格や運動神経に恵まれているのに加え、環境にも恵まれたのです。入った野球チームの監督は科学的な練習法やトレーニング法に詳しく、そのおかげで、的確な指導を受けることができました。
いい指導を受けているから面白いように三振が取れる。三振が取れると気分がいいからいっそう練習に励む。そういう好循環の中にいるうち、天才野球少年と呼ばれるようにさえなっていました。天才天才と連呼されると、子どもってうれしいんですよ。だから野球一色の日々になりましたね、わたしから野球を取ったら何も残らなくなるくらい。
その頃、バッティングの上手いリュウという少年の噂が聞こえてきました。彼も天才の呼び声が高く、ツトムとリュウの直接対決を早く見たいとみんなから言われました。見世物みたいで嫌だった反面、勝負するからには勝ちたいとさらに練習に励みました。
直接対決の日がどう決まったのか分かりませんが、唐突だったのは確かです。あの日のことは鮮明に覚えています。わたしの運命が暗転したからです。
バッターボックスに立つリュウを初めて見たとき、胸が締め付けられる感じがして息苦しくなりました。これまで一度も感じたことのない胸の痛みでした。
ツーストライクまで追い込んだものの、リュウもファウルで粘ります。勝負は永遠に続きそうな気がしました。
次の一球で討ち取りたい。討ち取らないといけない。天才が負けるわけにはいかない。そうした気負いの一方、試合が早く終わればいいと祈っていたところもありました。
経験したことのない鈍痛を右肩に感じながら投げたボールは狙いを大きく外れ、リュウのヘルメットを直撃しました。
鈍い音が聞こえたとき、わたしはリュウの脳が潰れた音だと思いました。
リュウは倒れたまま動かず、あちこちから悲鳴があがりました。試合は中断され、リュウの家族や相手チームの監督がリュウを介抱しました。わたしは動転のあまり、金縛りにかかったように動けませんでした。救急車が早く来てほしい。それだけを一心に祈っていました。
救護活動の後、球審がデッドボールを告げました。代走者が走り、試合は再開されました。監督に交代を打診されましたが、わたしは最後まで投げさせてほしいと懇願しました。
試合は完封勝ちで、わたしへの評価は頂点に達しました。デッドボールのアクシデントにも動じず完封勝ちに導いた精神力は大したものだ、と。
でも、わたしの野球への熱はすっかり冷めてしまいました。練習中でも、家で寛いでいるときでさえ、担架の上でぐったりしているリュウの映像が浮かんでくるのです。
天才は、デッドボールなんかしない。デッドボールを与えたとしても、動転してマウンドで立ちすくむことはない。スポーツマンシップ、人間として大切な思いやりが自分には欠けているのではないか……
わたしは野球に向いていないように思う、止めたいと周囲に相談しました。監督は考え直すようにと言いましたが、父はわたしに理解を示してくれました。ちゃんと考えての決断だろう、いいよ、止めなさい、と。
以来、ボールに触れたことがありません。野球が怖くなったんです、他人を不幸にしそうで。
今ごろ、どうしているだろう。無事だろうか。みなさんのお話を聞いているうち、つらい思い出が蘇ってしまって……何が天才野球少年だ、何が天才だ……
話し終えたとき、ツトムは涙を流していることに気づいた。いつから泣いたのかと恥ずかしく思う一方、長い間言えないでいたことを言えて心が少し軽くなったようにも思った。
バーのマスターが声をかけた。
「わたし、そのリュウさん、知っているかもしれません」
ツトムと若者たちは驚きの声をあげた。
「どういうことですか?」
「先日、まったく同じことを話されたお客さまがいらっしゃったんですよ。お名刺もいただきました。ファーストネームがリュウです」
ツトムがリュウの名前をフルネームで言うと、マスターは特別に名刺を見せてくれた。
あのリュウに間違いなかった。
「こんなことってあるんだねえ。天才でよかったじゃないですか。やっぱり、天才の方がいいんだよ。なあ」
「そうだ、そうだ」
「本当だ。良かったですねえ」
三人が盛り上がる中、ツトムは顔を赤くした。
「リュウさん、だいたい木曜日の夜八時頃に来られますよ。一度お会いになってみたら」
「そうします。リュウに謝りたい。たとえ向こうが許してくれなくても……謝らないことには、わたしの良心が許さないんです」
「お待ちしております。リュウさん、きっと許してくれますよ」
「そうなら、いいんですが。ともかく、今度の木曜の八時ごろ、伺います。みなさんがいらっしゃらなかったら、わたしがみなさんに声をかけなかったら、リュウと会う機会もなかったかもしれない」
「再会の前祝だ! 天才、万歳! 天才野球少年、万歳! 天才野球少年に乾杯!」
「まいったな。わたし、天才でも何でもないんだから」
「それじゃあ、元天才野球少年に乾杯!」
ツトムは久しぶりに、千鳥足になるほど酔った。
次の木曜の晩、バーでリュウと再会して、ツトムは胸がいっぱいになった。固い握手を交わした後、二人は並んでカウンターに腰掛けた。
「心配していたんだ、野球を止めてしまった話を風の噂で聞いて」
「ああ、あれね。こっちは野球を続けたかったのに、両親がひどく反対してね。危ないからって。まあ、あんな倒れ方をしたら心配するのも無理はないかな。でも、済んだ話だ。もう四半世紀も前のことだし、頭も首も、この通りまったく問題ない」 「良かった、本当に良かった。心配だったんだ」
「あの衝撃は今も忘れていないけれどね。デッドボールを食らわなくても、どうせ三振だっただろうなと思っていたよ。そうそう、実はね」
リュウは鞄からチケットを二枚取り出した。
「予定が空いていたら、そして君が良ければだけれど、野球の試合、一緒に見に行かないか。上司が、取引先からもらったチケットをそのまま譲ってくれてね、自分は急用ができたからって。来週の水曜日だけれど、どう?」
「喜んで。絶対に行く。大人になってから試合を生で見るのは初めてだ」
「よかった。それじゃあ当日、球場の駅前で」
久しぶりに見た試合は最高に面白かった。興奮のあまり、何度も歓声を上げ、観客席を立った。
野球って最高に面白いんだ、野球ほどわくわくさせる、観客まで幸せな気持ちにさせるスポーツはないんだ――子どもの頃に聞いた父の言葉がツトムの中で蘇る。天才野球少年と呼ばれる前、ボールを追いかけるのが純粋に楽しかった頃が思い出されてくる。
――野球、また始めてみようか。
熱狂の中、ツトムは少年時代に戻った気がしていた。
隣でメガホンを叩いているリュウを盗み見ると、やっぱり少年の目になっている。
――あのときの目だ。
ツトムは思わず笑ってしまった。
「うん? どうかしたの?」
リュウがツトムの顔を覗き込んだ。
「いや、野球って本当、楽しいもんだなあって。何でこんなに面白いんだろう。ねえ」
ツトムは慌ててごまかした。
(終わり)
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