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【小説 神戸新聞文芸202409】生きがいと言われても ※落選作

 今津吉正が、俳句仲間の島本国雄の顔色が悪くなっているのに気づいたのは、俳句結社「銀の雲」の七月の句会のときだった。選句のときに明らかに覇気がなく、集中していないのが伝わるのか、隣の神経質そうな句会仲間の女性が国雄を流し目で見ながら顔を顰めている。その顔には指紋見てないで俳句見ろよと書いてあった。 

 はじめは句作のスランプ中かと思った。あるいは梅雨どきの蒸し暑さで体がやられているのかと思った。

 句が選ばれても、益体もないという表情を浮かべたまま、庭園に無造作に置かれている石像のように動かない。結社の主宰者も心配するほどで、何か身の回りで好ましくないことが起こったのだろうとしか思われない。

 句会の解散後、吉正は国雄をお茶に誘った。お時間ありますか。何でしょう。お互い誘ったり誘われたりすることに慣れていないこともあって、年来の俳句友達であるにも関わらず、異業種交流会で初めて会ったようなぎこちなさだった。もし疲れがたまっているなら、吉正が愛用しているアンチエイジングのサプリメントでも薦めてみようかと思った。

 国雄がコーヒーが飲めないというので、神戸の地元の情報誌に取り上げられるティーハウスで紅茶を飲むことにした。紅茶を飲むのは久しぶりだと思った。

 まるで就職活動中の学生みたいにちょこなんと座って、ティーカップにスプーンを入れて砂糖を溶かして黙っている国雄を見ていると、吉正も緊張してきた。沈黙の時間が長くなればなるほど、ますます声をかけずらくなる。吉正はままよ、と声をかけた。

「何だか、国雄さん、きょう顔色が悪いかな、と思って」

「そうですか? そんな自覚はなかったけれど」

「失礼ながら、何か悩みでもあるのかなと思ってお声がけしたんです。わたしでよければ、事情をお話しくださいませんか。秘密は守りますので」

 それでも国雄はスプーンで砂糖を溶かす手の動きを止めようとしない。ティーカップの中身を見る気はないが、あんなにかき混ぜているなら紅茶はとっくに溶けきっているはずで、自分の悩みを吉正に言ってしまっていいものかどうか、動かすスプーンが作る紅茶の表面の渦や光の反射具合から占っているように見えた。

 わたしのつまらない勘繰りでしたね、と吉正が心の中で謝罪し、それを口に出すことを検討していた頃、国雄が口を開いた。

「今津さんにとって、生きがいって、何ですか」

 吉正はまさかな質問に面食らった。鳩に豆鉄砲ということわざを思い出した。

「生きがい……生きがい、ですか。そうだな、美味しいものを食べること」

 言ってしまってから、もっと考えてから答えるべきだった、南無三、と吉正は後悔したが、国雄は口を開けて笑った。

「美味しいものを食べること、ですか。今津さん、正直ですね」

 その正直さが裏目に出るんです、今みたいに、と吉正は急に恥ずかしくなる。その恥ずかしさに向き合いたくない気持ちも手伝って、吉正は国雄が心ここにあらずな理由を訊ねた。

「また、どうして、生きがいについてそんなに思い悩まれるんです?」

 乗りかかった船とばかり国雄は事情を話し出す。先月、自治会主催のボランティア講座で、参加無料ということもあって気軽に申し込んで参加した。その講座のテーマが生きがいについてで、講師は生きがいを持つことの実際的な効能を話し続けた。生活の質が上がること、寿命が延びること、要するに幸せな人生、幸せな老後を過ごすためには生きがいを持つのは大切なのです、云々。

 国雄の話を聞けば聞くほど、吉正もそんな気持ちになってきた。これまで自分の生きがいは何か考えたこともなければ、人生の目標みたいなものも立ててこなかった。目標のある人生はさぞ充実しているだろうとそういうひとたちを羨ましく思うときもあるけれど、数日もすると羨ましく思っていたこと自体忘れてしまう。だが寄る年波のせいか、今回ばかりは、生きがいのない人生はまやかしなのかもしれないと思い始めた。

「何かこう、甘ったれた考えかもしれませんけれど、飲めば生きがいが見つかるサプリメントとかないもんですかね。視力が良くなったり、関節痛が楽になったり、記憶力が良くなったりするサプリがあるなら、それくらい作れそうな気もしますね、現代の科学技術を結集すれば」

「でもそれ、覚せい剤みたいなものになっちゃうんじゃないですか。禁断症状でも起きそうです」

「言われてみればそんな気もしてきました。だからみんな作らないのか。なるほどなあ」

 妙なところに話が落ち着いてしまったと思いながらも、国雄の顔色が少しよくなったのにほっとした。

 国雄と別れて帰宅した吉正は、妻の育代に話を振ってみた。つかぬことを訊くけれどさ。

「生きがい? 美味しいもの食べること」

「一緒だ!」

「だから夫婦!」

 一瞬一緒に喜びそうになった吉正は立ち止まって、国雄から聞いた話をしてみた。

「うーん、生きがいなんて、要るの?」

「ないよりはあった方がいいんじゃないか。生きがいがある方が長生きで生活の質も高いという研究があるらしい」

「そうかなあ。生きがいなんて、へそみたいなものだと思うんだけれど」

「へそ! どういうこと?」

「へそって、誰でもついているけれど、ついているって自覚しながら生活しないじゃない。神様だけが知っている生きがいというのもあるんじゃないのかなって。それが人によって、気づいたり気づかなかったりするだけで」

 食べることが生きがいにしてはなかなかいいこと言うなと育代を見直してみる。

「そんなこと、考えたことなかったな」

「だから、考えなくたっていいのよ。それで、以上を踏まえてあらためて訊くんだけれど、あなたの生きがいは?」

「だから、食べること。お前と一緒だよ。さっき確かめ合ったじゃない」

「違うでしょ。そういうときはね、嘘でもいいから育代だよ、と言うものなの。本当に思っていなくてもわたしの目をしっかり見て言うものなの。あなたって本当、人を喜ばせるのが下手なひとね。そりゃあ俳句も上達しないわよ、何あんな川柳に季語をねじこんだみたいなの」

 生きがいの話なんかするんじゃなかったかなと吉正は後悔する。あと殺意も芽生えた。

(終わり)

※本作品の著作権は本木晋平にあります。無断引用・複製・転載を禁じます。

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