見出し画像

【ショートエッセー 神戸新聞文芸202411】家の鍵が折れた ※落選作

 それは六月十四日の金曜日の夜の十時半頃に起きた。家の鍵を開けようとしたら、鍵穴の奥の方で鈍い音が聞こえ、鍵が動かなくなった。何事かと鍵を引き抜くと先端が斜めに折れていた。ドアノブを引っ張っても、折れた鍵をもう一度鍵穴に差し込んで回してみてもドアはいっこうに開かない。

 思わずウェーイ、と叫んでしまった。叫ばないとやってられなかったですよ、本当。

 もちろんそんなことで扉は開かない。仕方がないので、その晩は職場である西宮の鍼灸院まで戻ってそこで寝た。

 翌六月十五日の土曜日の朝、不動産屋に電話して相談したが、鍵まで面倒は見られない、自己負担で修理してもらってくれと言われ、ウェーイ、と叫ぶ気も起きなかった。 ネットで鍵屋さんを探し、修理を依頼した。待ち合わせ時刻、鍵屋さんは新入りを連れてやってきた。新入りに仕事のやり方を見せて覚えてもらおうということなのだろう。

「ご主人、これは鍵のユニットごと交換せんとあかんですわ」

 提示された見積額にわたしは息が止まった。

 六八二〇〇円(税込み)

  情報サイトに「鍵の修理代は高くて三万くらい」と書いてあったので覚悟はしていたが、その覚悟を上回る、衝撃の六万超えである。

 とは言え、「修理代がそんなにかかるとは思ってもみないことでした。別の業者さんに頼みます」と追い返すとその分家に入れない期間が長くなる。それに、別の鍵屋さんに頼むとさらに高い料金を要求される笑えない可能性だってある。観念したわたしは、六八二〇〇円(税込み)で修理をお願いした。

 修理時間は二十分程度ということだったが、あいにく財布には五万円しか入っていない。わたしは自転車に乗って急いで最寄りのATMに駆け込み、三万円を引き出した。

 自宅に戻ると、鍵の交換作業はすでに終わっていた。

 「ご主人」鍵屋が言った。「鍵も経年劣化するんです。だいたい十年。ですから、十年経ったらスペアのキーに交換してください」

 だが、果たして十年後、新しい鍵に替えることを覚えているかどうか、甚だ疑問である。

 この話をすると、みんな「鍵が折れるなんて、そんなことあるんですか」と、まるでわたしがすぐばれる嘘をついているかのように訝しげに首を傾げる。中には「どうして鍵が折れるんでしょうね」と「そんなこと俺が聞きてえよ」と返したくなることを訊いてくるひともいる。

 デンマークの女性作家、アイザック・ディネーセンは「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる」と言った。きっとディネーセンは、金曜日の夜中に家の鍵が折れる悲しみを経験をしたことがないんじゃないかと思う。開かないドアの前でウェーイ、って叫んだ経験がないんじゃないかと思う。まだまだよ。

(終わり)

※著作権は本木晋平にあります。無断での引用・転載・複製は固くお断りします。

いいなと思ったら応援しよう!