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【小説 ショートショート】 調書
『…私の最初の記憶…。それは本当に自分が記憶している初めの記憶かはわからないが、印象に強く網膜に張り付くほど、残っているものは、クマのことだだ。クマがその黒い毛並みがたなびいて横たわっている姿だ。クマといっても、それは本当の熊じゃなくて、それは名前だ。子供の頃、家で飼っていた雑種犬の名前だった。
クマは家の庭で鎖で繋げられながら、青息吐息で苦しそうに倒れている。それは数週間前から続いていた。当時、5歳ぐらいだった私は、毎日、夜にクマを心配して、苦しむ彼の背中を撫でていた。
その様子を見ていた父は「もう、寿命さ」そういって、作業場から持ってきた鎌を振り上げ、クマの首に勢いよく落とした。
くまはその一太刀で絶命した。私は何日も苦しむくまを見ていたので、父をひどいことをする人だと思わなかった。
それが私の一番古い記憶と思われるものだ。
私が生まれたのは、今は賑やかな繁華街になっている、吉祥寺の隣の三鷹だ。当時はそれほど住宅や商店街もなく、キャベツ農家などの畑が街を埋め尽くしていた。その畑の中で、一つだけ立っていたのが、ボクシングジムだ。私はよくジムに行っては窓からボクサーたちの練習姿を眺めていた。
三鷹ジムには青木勝利という天才と呼ばれたボクサーがいた。
彼は天才であったが、天才が持つ気まぐれさに自ら翻弄され、当時、青木と並んで、ボクシング界の三羽ガラスと呼ばれたファイティング原田、海老原博幸らが獲得した世界タイトルも取れずに引退した。
私がジムを見学していた時はもう、青木は引退しており、ジムでその姿を見たことはなかった。しかし、父が語った青木の伝説を聞いて、ボクサーたちの練習を見ながら、彼らに青木の姿を見ていた。私がよく彼らを見に行ったのは、伝説の男と、男の取れなかった世界タイトルの幻影を見ていたのだと思う。
よく、窓からスパーリングする選手たちを見ていると、「君もやっていくかい」と練習生や、トレーナーにからかうように言われたが、私はボクシングはやる方ではなく、見る方だとわかっていた。それが今の私を象徴する出来事であっただろう。
小学校の頃、嬉しかったのは、算数のテストで、学年唯一、テストで満点を取ったこと。そして、母にカメラを買ってもらったことだった。
なぜ働いている父でなく母だったのか。今となってはよくわからない。母は家で専業主婦をしていたので、きっとそのカメラは個人的なタンス預金で買ったのだろう。
私は喜んだ。そのカメラは外国製で当時としては手のひらに乗るほどの小さなボディーをしていた。
私はカメラで何でもとった。弟の寝る姿、姉の浴衣姿。母の台所で料理をする姿。
できた写真も好きだったが、カメラ自体も好きで、本屋でカメラの仕組みの図版を見ては家で絵に描いてみた。高校で工業高校に進むと、カメラ自体を作り、いかに小さなカメラを作るかを試行錯誤して作った。
その頃になると、私も色気付き、女の子に興味を持ったが、どうも、実態が好きなのではなく、服や靴、髪型など、彼女たちが作り出す幻影を好きなのではないか、ということがわかってきた。
そのことは私の生業に影響していると思う。
私はいつも街に出て、幻影を追っている。私の撮るものは現実ではなく、幻影なのだろう。
私はシャッターチャンスを待ち、彼女らに忍び寄る。とても興奮するひと時だ。ただ、それは性的興奮を満足させるだけものではない。
もちろん、それもあるのだが…。
ジャクソン・ポロックの絵画展を見に行ったことがある。
ポロックはフリーペインティングをする前は、具象画を描いていた。それは実際にある景色や人物をデフォルメしたもので、形は崩れていても、具体的な形のあるものだ。しかし、フリーペインティングは、具体的な形はない。
しかし、そこには見るものを覚醒する起因力がある。
具体性のない、油絵の具の点や線、シミのようなものを見ていると、いつか見た映画や、過去に会ったことのある人の顔、旅行で行った海辺の景色、などが思い出される。
私の写真でも、柄物の下着は花や、果物、など、具体性はあるが、無地の下着は、その白さに母親の作った塩むすび、初めて手をつないだ女の子の白い手、高校の頃の卒業証書の白い余白、など止めどなく記憶を呼び覚ましてやまないものがある。
それはピンクならピンクで思い出されるものがあるし、黄色は黄色で思い出されるものがある。それは無限に記憶を呼び覚ます、アカシックレコードのようなものだ…。
その中で一番印象に残っている写真はというと、私が最後に撮ったものだ。それはスカートの下から撮ったもので、白い下着の股間には熊のイラストが描いてあるものだった。別に私はロリコンではないから、そんな下着は嫌いだ。しかし、撮った時はわからなかったが、家でパソコンで確認した時の驚きと言ったら…。その熊の顔は私が子供の頃飼っていた犬のクマにそっくりだった。私は驚きつつも、父がクマに下した最期を思い出した。あのクマの死に顔を…。それで私は悟った。これが私の最後の作品になるだろう、とね』
刑事部屋の自分のデスクに座り、黒い背表紙の調書を開いて読んでいた刑事部長は、はあ、と深いため息をついて、眼鏡を外すと、眼に疲れを感じて眉間を指で押さえた。
「部長。盗撮犯の調書をそんなに真面目に読み込まなくてもいいですって!」
少し離れたデスクに座っていた部下の木下が、飲みかけのブラックコーヒーが入った紙のカップ片手にからかうように言った。
「俺も読むつもりじゃなかったが、あまりにバカなバカしくて…」
「これじゃまるで芸術家気取りですよね」
立ち上がった木下が、調書を手に取りページをめくる。
「こいつのやってることはただの盗撮ですよ」
「まあ、変態には変態なりの人生があったんだな、ということはわかったよ」
苦笑いして部長はタバコを咥え、それにライターで火をつけた。
「この変なこだわりや性癖を、芸術に向けたりすることはできなかったんですかね?」
木下がそう部長に聞いて、調書を閉じた。
「どうかなあ。変態は変態でしかないのか。それとも、他に何かいい道はあったのかな…」(終)