映画芸術の終焉、あるいははじまり、の幻想〜守屋文雄監督『すずしい木陰』に寄せて〜
2020年4月7日、日本では七都府県に緊急事態宣言が発令、それまで自粛ムードが続いていた娯楽産業であったが、東京都の映画館のほとんどは翌8日から1ヶ月ほどの休業を決めた。それに先立って4月4日から新宿ケイズシネマにて公開が始まっていた『すずしい木陰』は、新型コロナウイルス対策のため、座席数を半数以上減らして上映を続けていたのではあるが、あえなく7日の上映をもって最終日を迎えてしまった。その幻のような最終日に鑑賞したので映画を見ながら考えたことを記載する。
『すずしい木陰』は概要としてはタイトル通り木陰で女の子(柳英里紗)がハンモックで寝ている、ということで全て説明はつくと思う。それをフィックスのカメラ1カット96分で作られた映画だ。おそらくそれだけを聞くと野心的で実験的な映画だと思う方もいるかもしれない。しかし僕としてはいたってシンプルな映画であると感じた。正確にはシンプルであることへの偏執や熱狂を強く感じた映画体験だった。
ポリバレントな映画作家としての守屋文雄、ということでここはひとつ考察を深めたいと思う。「何も変えてはならない、全てを変えるために」と言ったのはブレッソンだったか、ゴダールだったかはどうでもいいのだけれど、この言葉に政治的イデオロギーではない意味での、映画の右派、左派というものを我々は見て取れる。分かれ道があって、あなたはどちらへ行くのかという問いかけ。守屋監督の作品を見るとどうも「此処に居続けることの居心地の悪さ」というものを感じる。派閥で括られたり、タグで判別されることへの居心地の悪さ、またそれを避けるための抵抗や妄執を、守屋作品の一つの通底したテーマとして見出すことができるだろう。それは脚本作である『おじさん天国』、『UNDERWATER LOVE -おんなの河童-』(共にいまおかしんじ監督)などを引き合いに出さずとも、時間を経ても異質感を維持しているという点で、決してオールディーズ・バット・グッディーズな良作として収まらない魅力として我々の映画体験にこびり付いている。
長編初監督作となる前作『まんが島』における全編通してのテンションの振り切り方を見て、音楽で例えるならハードコア・パンクから派生したグラインド・コア、スラッジ・コアに似た、地を這いつくばり転がりまわり、のたうちまわる質感を感じたが、新作『すずしい木陰』においては、そのようなテンションの高さは一見鳴りを潜めている。前作共に音響を務めた弥栄さんによると本作はアンビエント・ミュージック的であると前もって言及されたが、ブライアン・イーノが作ったアンビエント・ミュージックとある種の異なる部分を想像や抽出してしまう点において、『すずしい木陰』もまたハードコア・パンクのような輪郭を帯びてくるという現象が起こる。そもそも空港において鳴っていることが分からないほど自然に馴染む音楽という出自のアンビエントと、意識的にスクリーンを注視する、という映画では、体験として大きく異なる性格を持っているのだ。
自然/反自然、意識/無意識、作為/無作為、緊張/緩和。この映画を見ながら、そのような言葉が浮かんでは消える。そしてそんな人為的な区切りが緩やかに融解していくさまにある人は苦痛を覚え、またある人は恍惚のまま絶頂に達することだろう。そして最も作為的たる音の切断面を見たとき(この場合、音のことではあるが「見た」が最も適切であると感じる)、映画芸術の誕生と終焉を同時に体験する。変わらないフレームから我々はいくつものカットを想像し、幻視を連続させる。映画は映画史のように発明と挫折をロング・フェードで繰り返していく。作為の最たるものとして発展を繰り返してきた映画産業に対する内省と希望をこの映画は何度でも抱かせるのである。
アルチュール・ランボーのいう「感情の振り幅」のように、静寂と喧騒、アンビエント・ミュージックとハードコア・パンク、右派と左派、その混濁した交わりの中に守屋文雄という作家を何度でも発見し続ける。自粛してもなお、我々は(僕だけじゃないという希望も込めて)何度でも映画を考える、考える、考える。
2020/4/8 下社敦郎