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英虞湾クルーズ船は黒潮に乗ってヤスガーズ・ファームに漂着する


 僕が西岡恭蔵を初めて聴いたのは19才くらいの頃だ。その頃の僕といえば、ポケットはいつも空っぽで、お腹が空いていて、喉が乾いていた。音楽や映画を貪るように摂取していた時期で、今のようにサブスクリプションで定額聴き放題もなかったので、とりあえずはそういった趣味の合う仲間とレンタル店でまとめ借りをしてPCに取り込み外付けHDDに格納、データを
コピーしてシェアする。出来るだけ毎日聴いたことのない音楽を浴びるように聴き、映画を見続けた。漠然とした不安の上にある暮らしのなかでは、好奇心や蒐集欲だけが何者でもない自分を何者かであるかのように充してくれた。

その頃、西岡恭蔵の曲で特に好きだったのは「春一番」だった。ブリッジからキーが転調してサビに入る変な歌だと思った。奇妙な感触でありながらポップさはあって形容しがたい中毒性がある。サビで「春一番の風は/ヤスガーズ・ファームへ君を/連れていくのだろうか」と歌われるが、本書を読むまで「ヤスガーズ・ファーム」とは宮沢賢治における「イーハトーブ」のような恭蔵なりの理想郷のことと勘違いしていた。ヤスガーズ・ファームとは1969年にアメリカで開催されたロック・フェスティバルであるウッドストックの会場のことらしい。そこはヤスガーさんの農場だったそうだ。だか
らヤスガーズ・ファーム、恭蔵流のウッドストックのメタファーだ。深く調べず不勉強だった僕も悪いのだが、西岡恭蔵に関する情報もあまりなく、彼の歌全体に漂うお伽話のようなフィクション性がそう思わせたのだろう。

そろそろ本題に入ろう。本書はノンフィクション作家である中部博氏が9年間の取材を経て完成させた西岡恭蔵について初めて書かれた評伝である。著者は所謂音楽系ライターではなく、自動車系の本を多数書かれているようであるが、何故西岡恭蔵の評伝をと疑問に思ったが、あとがきによると単純にファンだったようである。それにしても大変な労作であることは、本の分厚さだけで推測できる。この本を読んだ人は皆、西岡恭蔵について何も知らなかったと思うと同時に、彼の音楽仲間たちが彼を「ゾウさん」と呼んだように、自分もそう呼びたい親しみを覚えるだろう。

本書の構成をざっくり二つに分けるとすると、前半は三重県志摩郡(現・志摩市)志摩町布施田、俗称「さきしま」で健やかに育った恭蔵少年が大学進学で大阪に行き、フォーク喫茶「ディラン」に入り浸り、代表曲「プカプカ」が出来るまで、及びその曲のモデルの女性がジャズ・シンガーの安田南以外にもう一人いたことへの考察、後半はKUROとの結婚、共同作業、海
外旅行、闘病、晩年まで、といった構成になるだろう。
僕も三重県南部の出身なので、恭蔵少年が見ていた風景とかなり近いものを見ていただろうし、理解も容易い。真珠養殖業の家庭で育った恭蔵だからこそ、「前も海、後ろも海」のさきしまの海という原風景のなかで、「街行き村行き」で歌われる海であったり、「春一番」における「イヤな街だよこの街は」のセンテンスにどこか潮の香りが混じった諦観とダンディズムを感じずにはいられない。

この本の偉大さは僕がまとめずともきっと読んだ皆が伝播してくれるという確信があるので、一先ずエイガカントク(正面切って漢字で書けない恥ずかしさが、一応ある)である僕の、この本を映画化することが出来るのではという下心で読んだ部分を述べたいと思う。先述した「プカプカ」誕生についてモチーフになった2人の女性がいるのだが、今まで明かされていなかったもう一人の房子という女性に、志摩から大阪に行った恭蔵は恋をする。房子は家庭が複雑で男関係も奔放な女性だったという。恭蔵と男女の関係があったが、他にも男はおり、若くして別の男と結婚を決める。恭蔵はお祝いのた
め実家の志摩へ仲間と旅行を提案し、夜宴会をしていると房子は夫ではなく他の男たちと過度に仲睦まじく飲んでいた。それを見た恭蔵が突然房子の頬
を打ったのである。この行為に恭蔵の複雑な心理が凝縮されていると思うし、代表曲「プカプカ」の誕生と、この大失恋は彼の人生のなかでまさしく青春の終わりと決別であったんだろうと想像できるだろう。「プカプカ」は
もう一人のモデルであるジャズシンガーで女優の安田南も出演する演劇巡業で雇われベーシストとして同行した恭蔵が、その仕事を終えて東京から大阪へ戻る際の電車で一気に出来たそうであるが、同じくシンガーソングライターの友部正人の著作『ジュークボックスに住む詩人2』によると、その出来たばかりの「プカプカ」を恭蔵の実家に向かう近鉄特急のデッキで友部に
披露したそうである。大阪に帰ってきてすぐ野外音楽コンサート「春一番」のための特訓でさきしまに友部と行ったのであろうか。


スペースがもうないのでこのあたりでこの文章も終わりにするが、レコードコレクターでもある僕からの願いとして、現在西岡恭蔵のレコードは中古市場では高騰しており、一般庶民が揃えるには大変な額となってしまう。近年
再発した『ろっかばいまいべいびい』を除けば、入手困難なものも多いので、この本を契機に再評価の機運となるのであったら、アルバムのレコー
ド再発を願っている。とりわけ遺作となった『Farewell Song』はCDしか発売されていないが、大名盤なのでこちらの初レコード化を待望している。

出典:下社敦郎「英虞湾クルーズは黒潮に乗ってヤスガーズ・ファームに漂着する」図書新聞 3528号 (発売日2022年01月21日)


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