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その5 歴史の上で生きている!

歴史は多層構造
表題の画像は、村で唯一の前方後円墳。浅間塚と呼ばれてますから、浅間神社も祀られてるのかも知れません。畏れ多いので、立ち入ったことも無いし、市役所の歴史にも書かれてない様子。夕刻の一枚です。
地主さんは村の個人らしいので、近々、聞いてみようかと思案中。
五世紀頃と伝わる、南北50mほどの大きさ。関西に残されている墳墓とは規模に違いはありますが、立派な前方後円墳です。
大地の下には、肥土(あくと)と呼ばれる旧鬼怒川の河川の跡の田圃が広がってます。鬼怒川の魚介と背後の大地を使った豪族が居たんでしょうね?
一族がどうなったかは歴史に遺されていない!

筑波山を望む畑の一角にポツンと・・。

駒の墓
明治生まれのジイサンたちは異口同音に仰せでした。
あれは、聖徳太子が当地を訪れた折に、騎乗していた馬が亡くなったので墓としたと。不思議なことに、農地の一角を割いて、墓標らしきものが建立されている。集落の呼び名である「黒駒」はこの事から由来している!と臆面もなく仰せだった。
侠客の黒駒の勝蔵が有名だったので、山梨あたりから流れてきた先人が故郷を思って名付けたのかしら?と思ったが。
故人の意思は、曲げられない! と云うことで子々孫々に、聖徳太子騎乗の馬の墓!と伝承するのがあるべき姿勢と考えてもいる^_^
大化の改新を成し遂げて、十七条憲法をつくりあげたのが聖徳太子ゆえ、西暦640年前後のことなんだろうね?

駒城址。土塁と石碑が往年の名残。歴史好きな皆さんが時折訪れている。

駒城址
鎌倉幕府が滅亡し、南北朝に別れた争乱があった。
諸説あるが、都を逃れ福島に向かった北畠親房が辿りついたのが稲敷あたりだったらしい。旧筑波町の小田氏を頼り、小田氏は南朝方に与したのが始まりの様子。小田氏は、将門公を滅ぼした藤原氏郷の一族であり、北関東では名門とされた。繋がりはあったのであろうが、大宝八幡宮に蟠踞していた下間氏も同調し、隣接の関宗佑(結城一族)の城主の関城と連係した様子。
たぶん、関城か大宝城の支城の一つが駒城であったかと。
城主は、公卿だったと伝わるので、地域の豪族では無かったようだ。
この城は南北三百メートルほどの土塁があったようだが、現在は北の端だけに土塁の一部が残されている。最後は、尊氏の重臣である高師直に滅ぼされたとある。

五輪の塔
一族の墓のど真ん中に鎮座している。
学者さんによると室町時代の作と伝わる。
ひょっとしたら、南北朝騒乱で高師直に従った下級武士でも居住したのかしら?と、大本家の当主に聴いてみたが、お寺さんの過去帳が焼失し、わからないとの由。駒城と駒の墓の間の台地に筑波山を望む墓。
訪れるたびに、悠久の時をひととき、感じさせてもらえる。

歴史の積み重ねが現代
旧くは平の将門公が支配した地域。
幕末には、近在から筑波天狗党に馳せ参じた者も多い。
先の大東亜戦争では、水戸5連隊の一員として幾多の先人が南洋のペリリュー島でイノチを散らしている。

水田と畑が点在する地が、当村の西端。
前方後円墳を造った一族の係累が居るかどうかは知らないしわからない。
同様に、駒の墓を設置した一族も不明。
駒城で奮戦した皆さんの子孫も不明。
五輪の塔を設置した一族だけは自明であるので、末席に連なる身でもあり、
当地の農地を活用出来たらいいやな~と常々感じている。
肥土(あくと)田が旧鬼怒川の流れを伝える、少なくても、五世紀には肥土田を鬼怒川が流れてきたと前方後円墳から推測できる。
その背後と周辺には、下妻市内唯一とも呼べる畑地が広がる。
歴史は、田畑併せて数百haにも及ぶ地域内に点在する。
この一角に農場が出来たら愉しいことが出来るなぁと空想している。

Google Earthからみた歴史が刻まれた地域

南北4km。東西が1,5kmほどの大地。



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