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上妻地区農業再生協議会「畑作公社」

農地は未来からのあずかりもの
70年生きてきた中で、多くの先達、師匠とのご縁をいただいてきた。
農業以外の世界にも、師匠はたくさんいたし、師匠は年長者だけでは無いのは無論のこと。
農業の二文字から、思い出すのは、師匠の一人の口癖でした。

「農地は先祖代々じゃないんだよ! 未来からのあずかりものなんだよ!」

だから、肥やして返さなきゃいけないんだよ!と事あるごとに仰せだった。
現代と違いネットは無い! 自分で工夫して独自のぼかし肥をつくり、畑を肥やし続けていた。
畑作公社の設立にあたり、理念のあたまに掲げさせてもらった。
土作りの師匠は大勢居た。
若くして黄泉の国へ旅立った農家が居る。
農機具で片腕を肩から下を落とされた人物のぼかし肥づくりも凄まじいものだった。穀類中心の原材料を購入し、そんなにカネをかけてもいいの!と云うほど、十数種類の資材を中心に生産していた。
前者と同様に、畑の土はフカフカ。
当然、栽培している作物は絶品揃いでした。
爾来30年。
縁があって、帰郷することになって4年。
昨年秋の会合から3ヶ月。
勉強会をしようと集まってくれた旧村の若手の皆さんが6名。
提言を聴いてくれて、とりあえず、任意の組合をつくることになった。
名称は、旧村の名前を冠にした、上妻地区農業再生協議会「畑作公社」とした。ちなみに旧村名は、真壁郡上妻村。
ロゴマークは、以前に知り合いのデザイナーに作ってもらったモノ数点を示したところ、これが農業にはぴったり来るということでそれにした。

お天道さまと水と空と大地と緑ですね!


この二文字は外せない!

農業は農村と一体!結と講こそが日本文化の真髄!
会合の過程で感じ続けていたことがある。
農業と農村は一体であること。
一個人がデカくなっても、それは農業とは呼べても農村では無い。
幸いなことに関わってくれた諸君は、そのことを認識してくれていた。
隣村では、大規模な畑作農家が林立し、毎年のように、国税庁の告発を受ける農家が現れる。
当然、大規模化の過程で隣村にも耕地を確保する。
遠く、つくば市まで遠征して大規模畑作を維持している。
それもひとつの在り方であろうが、それとは別の意識を共有していることを知った。
誰か一人が突出する農業!と仰せであれば、自分は関わりを持たない!と決めても居た。
が、そうでは無いことが理解できた。
ジイさんが農協職員時代を過ごした昭和40年代は、村は、どこを向いても農家だった。養蚕、葉たばこ、梨、稲作、に加え畜産が導入されてた時代。
田植え機は昭和44年に初めて地域に二条植えが導入され、実演で田植えもさせてもらった。立ち会った、農家は100名を超えていた。
組合員は800名ほどあったかと思う。
新人の職員は、組合長の方針で、最低二年間二㌧トラックで飼肥料の配達が担当だった。後に知ったことだが、個別配送の仕事をすることで組合員の名前や家庭を知ることだった。磯山八左ヱ門なる立派な名前に恥じない人物だったが、同村の先達でした。
毎日、二人ペアでいすゞエルフの2t車で多い日は四台ほどの、飼肥料や農薬、農ポリなんぞを運んだ。合間に、養蚕の稚児の配達。葉たばこの搬入。
秋には上妻地区は、商系の集荷業者も二社あり、競合もあって、全ての農家の米を運んだ。酷い時は、ワンマン二台で積み込みから卸して検査の準備まで30KGで1,000袋を超えるのを引き取りもした。自分の給料一ヶ月分が米代金と変わらない時代だったから米農家は潤ってもいたし、農協も政府からの保管料で給料が賄えた時代。
それから40年。村の認定農家は、年長者も含めて、60名に満たない。
50歳以下の農家は、数えるほど。
それぞれに情報交換はしているんであろうが、たこつぼ型の孤立!と感じても居た。農協経営にとっては、組織を維持することが最優先となるのは自明。よるべき、農協の支所(元は、村単独の農協だったから本所だったはず)が消滅していた。

昔は全てが良かった!とは云わない
が、帰郷して周囲の様子を見るにつけ、これで良いのか?の思いは募った。
それでも、自分から出来ることは知れている。
それも三十数年ぶりの故郷は、知り合いが皆老いていた。
そりゃそうだ。自分が老いてるんだからね。
二年間は、環境と循環と農業を中心にした活動をしてやろうと、故黒須秀樹氏とだけ語り合って、一般社団法人を設立し、活動をしていくことに決めた。
一年目の大事業は、とにもかくにも耕畜連携をまとめることと決めていた。
在京の仲間を通じて、農水が政策の大転換をすることも解っていたからだが。無農薬無化学肥料の有機栽培を生業に出来ないことは認識しているが、せめて、古来から続けてきた共生型農業であったり、持続型農業であったりを脳裏に浮かべて、循環農業の町!が狙いでもあり、皆さんに呼びかけて、自費で堆肥づくりのイベントをおこなった。
幸いなことに見ず知らずの方たちも含め、30名も参加していただいた。
個人的には、人見知りの人嫌いだと思う。
それでも知ってもらうためには、少しは目立たないといけないからね。
多彩な職業の皆さんや昔からの仲間の助けを得て、堆肥をつくりあげた。
スリランカに関わりがあり、二組のスリランカ人も参加してくれた。
何をしているか?実態を認識していたのは、豚糞を運び込んでくれた斎藤養豚場のオーナー氏くらいしかいなかったとは思う。
が、土作り八部が農業の姿勢は変わらない身。
理解者がひとりでも増えてくれたらいいや!程度。
公社の6名もその折には参加していないけど、結局はタコツボだったわけだから責めるには値しないし、農村の風潮として、よそ者、若者、バカモノには近づかない!
ジイさんは、その中でバカモノ、痴れ者の類と世間は感じていたろうから止むを得ない。
当時、参加していただいた皆さんとは未だに親交が続いている。
とてもありがたいことだが、これこそが村だと思うし、農業・農村だと感じている。体調を崩していた二ヶ月の間に、当時からの知り合いがメールやsnsやら訪ねてきてくれたりと励ましていただいた。

やろうとしていることが、後世に昔あんなことをした連中が居た
継続してもらえる農業と農村を構築していきたい!と念じている。
むろん、貸していた農地を肥やして返してくれていると後世の皆さんが感じてくれる地域にしたい!
いろんな思いがあるが、残り少ない人生。
まったり、ゆったり、ありとあらゆる知恵を絞ってかな?
時には娼婦のように、時には、ヤクザのように・・・も師匠のひとりに教えられたな~

2020年6月6日。 右端が冥土へ逝ってしまった黒須秀樹の最後の姿。
2021年11月6日 ACT米のイベント 28名の顧客が参加してくれている。




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