【往復書簡】7通目(ジャッキーさん)

おてがみの枕がてら、つい先日のお話をさせていただきます。

その日夜遅く、26時半頃に最後のお客様をお見送りするため階段を降りた(ひつじがは2階にあります)のですが、その時ちょうど店先で普段お昼よく行くご近所のお店の方達と鉢合わせになりました。数名で連れ立っていて、「今から行けますか?」とわざわざ寄ってくれたとのこと。悩んだものの、その時もう閉店時間を過ぎていたので(ひつじがの閉店時間は26時頃です)、店じまいを理由に断ってしまいました。

入ってもらった方が面白い話を聞けるかもしれないという己の嗅覚があり、一方で閉店時間という決まり(ルール)もある。そしてその時は後者を選びました。これはパッと考えて「正しい」選択だとは思うのですが、例えばこの時「正しくない」方を選んでいたとして、その結果別に誰も困らないんですよね。強いて言うならいつもより寝るのが遅くなって僕が多少疲れるぐらいなのですが、それ以上に楽しい気持ちになるのはなんとなくわかっている。なのに結局そちらを選ばなかった。自覚もないうちにいつの間にか自分が閉店時間という《ルール》に支配されていた。なんとも恐ろしい気持ちになりました。

営業時間外の受け入れ可否をどうするのかはそんなに単純な問題ではないとは思いますし、今回の本筋とは異なるので割愛しますが、ちょうどこのやりとりでルールについて考えていた折、言うのとやるのでは全然違うことを身を以て実感した次第です。その日もっと『将棋vs麻雀』のように柔軟に楽しい方向へルールを改変することができていたら。そんな反省文から幕を開けて、本題へ入らせていただきます。お目汚し失礼しました。

「誰か(たとえばお客さん)と向き合うとき、《相手と自分》の一対一の関係を考えるのではなく、《相手と世界》という関係を考え、自分はその《世界》の一部だと自覚する。そして、その《世界》をより美しくさせるにはどうしたらいいか、を意識しているのがよいのではないか」と。

Kさんお見事! この一節を読んで目から鱗がポロポロと落ちました。《自分と世界》ではなく《相手と世界》なのが凄く素敵。

自分の外部にあるもの(目に映るもの)を「世界」と感じてしまいがち(恥ずかしながら僕もそう思っていた)ですが、そうではなくて世界を相手の目に映るもの(そして自分もその一部)と捉えたら、同じ世界なのに、なんだか内側に入ってきたような気がしてコントロール(調律)できそうなのが不思議です。

『俺か、俺以外か』なんて有名な本もありますが、世の中のあらゆるものを自分と自分以外にわけるのは特別な考えではありません。高らかに言わなくとも、大半の人は無意識の内にそれをやっていると思います。「私」はこちら側、「あなた」や「世界」はあちら側といつの間にか分け隔てる線を引いて、その線ありきで物事を見つめ、考えてしまう。

自分だけじゃなくて、当然相手も同じように線を引いてる。この相手が引いた線のありかを探し出し、その中であちら側の一部として世界を美しくしようとすることが大切で、さらに言えばお互いに(その場にいる全員が)自発的にそれをやることが場においては重要なのだろうなと思いました。一人でもそれをサボるとあっという間に不公平感が出てしまって良くない。そもそも公平/不公平を考えるものではないのかもしれませんが、どうせなら全員で心地よくなりたい。

それにしても夜学さんはあすかさんといいKさんといい層が厚くて羨ましい限りです。ひつじがは総勢一名で運営しているので、大抵の問答は僕の脳内で繰り広げているのですが、たまにお客様が問答相手になってくれます。今回もお近くに住まれてる方(Iさん)とこの書簡を読みながら、《相手と世界》の関係性においてどうすれば世界を美しくさせることができるのだろうか、についてお話していました。

Iさん曰く「そもそも《世界》がどのようなものか定義されない内に、それをどう美しくさせるのか考えても答えは出ない(よくわからないものは美しくさせようがない)」とのことで、なるほど論理的ぃ! とこれまた目から鱗が落ちました。最近落ちっぱなしです。

さて、世界とは?

夜学バーさんやひつじがのように実際の場があるところは、その空間(壁の内側)はわかりやすく世界が可視化された場所と言っても良さそうです。じゃあ壁の外側は世界ではないのかと問われたら答えに詰まる。ジャッキーさんの頭の中にある「ひつじが」や僕の頭の中にある「夜学バー"brat"」はそれぞれ世界に含まれるのかどうなのか。仮に含まれるとしたら、その世界までもを美しくしようとするのは果てしなく難儀なことのように思えます。

Iさんとは「世界を定義するのって一筋縄じゃいかないよね」という結びで論を一旦着地させましたが、そのぐらいに世界の定義はまだふわふわしている。自分以外全てというほど大きくはないけど、目に見える空間だけというほど小さくもない。おそらくここで言う「世界≒僕らが考える場」になる予感がしているのですが、ジャッキーさんのお考えもぜひお伺いしたいです。

とはいえ、お互いすでに目に見える世界(お店)を持っていて、それを使わないのはもったいない。並行して「その世界をより美しくさせるにはどうすれば良いか」も考えていければ幸いです。

最後に余談ですが、ひつじがには本を読むために来られるお客様が結構な数いらっしゃいます。屋号に「ブックバー」を入れているので、当然こちらとしてもそんな皆様に優しい店でありたい。その一方で本を読む以外の目的で(お話をしに)来られる方もいらっしゃいます。それはそれで有難いのでそんな皆様にも優しい店でありたい。店主の欲張りはさておいて、そういうお客様同士がカウンター席で横並びになることも少なくはないのですが、話の最中で隣にいる本を読む人に気づいて自発的に声のボリュームを下げてくれる方が多く、その姿を見ては「美しいなあ…」と日々感じます。

その美しさがあるからこちらも「お静かに!」なんて野暮なルールを提示しなくても済むし、読書をされている方も(本を読むのに疲れたら)会話に参加できる。結果的にカウンター席で本を読む人と喋る人が共存している不思議な空間が出来上がりつつあります。これはもしや将棋vs麻雀に近いのではと個人的に思っているのですが、来られる方々の気遣いさえあれば一見合わなそうな分野(読書と会話)でも共存しうる。今は実験的にそれを試せているので、来られる方々に感謝しつつ、その美しさをこれからどんな場所でも再現できるように、おてがみのやりとりでもう少し丁寧に紐解いていきたく。

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