【往復書簡】6通目(岩谷さん)
岩谷さま
前回のお返事からおよそ1ヶ月弱。変わっているものもあれば変わらないものもあって、その中で自分はというとあいも変わらずのんびりとした生活を過ごしています。活動範囲も自宅とお店(自宅から歩いて数分)の往復、あとはたまに食料調達にスーパーへ行くぐらいですが、先日買い物がてらちょっと足を伸ばして近くの川を見にいきました。
いつもなら素通りするような場所なのに、水面を見るのが久しぶりすぎてちょっと感動して思わず写真をとってしまいました。絶景でもなんでもないのに。そのぐらい外に出ることが自分の中で特別な行動になっているのをふと感じ、我ながら大袈裟だなあと思った次第です。岩谷さんにとっての近所の砂浜しかり、息を抜ける場所って意外と身近なところにあって、行動範囲が狭められている今はそういうものに気づく良い機会なのかもしれませんね。
熊谷晋一郎さんが「自立とは、依存先を増やすこと」と語っています。人は無意識にたくさんのものに依存している状態を「自立している」と感じるのだと。
お手紙を読むまで、「自立=依存してない状態」だと何の疑問も持たずに思っていました。幼少期に誰かからそう教えられた覚えもなく、極々自然にそういうものなんだろうなと。なので、そうじゃない「依存先を増やすこと」を自立だとするこの考え方は自分の中ではめちゃくちゃ新鮮で面白かったです。
自立していたつもりが、実は日常は色々なものに依存しながら存在していたことのだということに気づかされているのかもしれません。
そう、そうなんです。日常の大部分を占めるひつじがを一時的であれ(もう2ヶ月も!)閉めている今まさに、自身が実はお店に関わる色々なものに依存しながら存在していたことをひしひしと実感しています。いや、別にそれまでは関わってくださる方々をぞんざいに扱っていた訳ではないですよ……!
例えばなにかを思考するとき。今は日常的に誰かと議論を交わす機会がほとんどなくひとりでぐるぐる考えてばかりなのですが、早々に行き詰まることが多くて。となると(岩谷さんもいつも話相手になってくださってましたが)お店での他愛ない話がなにかを考える上で物凄く助けになっていたということに予期せず気づかされるわけです。ああなんて贅沢な毎日だったのか、と。
他にも色々ありますが、キリはないしなんだか照れくさいので割愛します。とにもかくにもそうやって来てくださる方(や遠方から気にかけてくださる方)のおかげでひつじがは、そして自分は存在できていました。なんとなく周囲に救われてる自覚は以前からあったものの、今回日常を失ったことでより強く無意識の依存に気づかされた訳です。だからといって関わる人にわざわざ「依存してますよ!」なんて言うとお互いにいらぬプレッシャーになるのでやめておきますが、周辺の特定多数の方に対して感謝の念を持ちました。そのお返しは営業再開した暁に少しずつしていければなと思っています。
自分がそうだからといってみんなもそうだとは限りませんが、それでもやっぱりだれだって大なり小なり身の回りの何かしらに依存しているはずです。その中には当たり前に存在しすぎていてその大切さやありがたみに気がつかない(無意識)ものもあるかもしれません。
そういうものの大抵はなくなった時にはじめてその大切さを知ったりするのですが、そうじゃなくて当たり前に存在しているうちにそれが当たり前にあることのありがたさに気づけるようになれば、人間は他者に対してもっと優しくなれるのかなあとふんわりと思いました。
なんて口で言うのは簡単ですが、いざやるとそれが意外とむずかしかったりするんですけどね。自戒自戒。
話が変わりますが、つい先日大阪にあるお店の配信営業にゲストでお邪魔したのが思いの外楽しくて、それを真似てひつじがでも普段お店に来てくださる方をゲストにお招きして何度か雑談配信を試してみました。
お店での日常会話(を意識したお喋り)を垂れ流しているだけで、目的の大半は営業再開に向けてのお喋りのリハビリでした。ただそれをご視聴された方に家にいながらお店の空気感を知ってもらえたり、中にはコメントを通して会話に参加いただけたり、オンラインならではの利点を享受しています。うちみたいな小さいお店はまず知ってもらってなんぼなので、もっとうまく使えないものかと試行錯誤中です。
その中で、とあるゲスト出演者と仮にひつじがの機能をオンラインで代替するにはどうしたらいいかという話を配信前の打ち合わせでむにゃむにゃとしていました。どうすれば不特定複数の人が集まる(あわよくばそこで仲良くなる)リアルな場を再現できるのかと。それをするために必要なものとして「目的の共有」または「空間の共有」があげられました。
まずは「目的の共有」ですが、例えば一緒に一つのものを作り上げるだったり敵を倒すために協力するだったりという共通の目的の元に集う。これなら面識がなくても話題に困ることはないし、会話も成立できそうです。オンラインゲームのギルドなどのようにオンライン上での代替がイメージしやすい。以前岩谷さんが教えてくださったリモート運動会もその一つだと思います。(むちゃくちゃ面白そうだし、参加したかったです……!)
一方、「空間の共有」はそれぞれ別の目的を持った方々がただ同じ空間にいる状態で、コンセプトゆるゆるでお馴染みのひつじがはどちらかというとこちらに分類されます。あえて色んな目的を持った人が集まることで思いもしなかった化学反応を起こすことを良しとしているのですが、じゃあいざそれぞれが個人の場から参加するオンライン上で《空間》を共有するとはどういう状態なのかと考えても、なかなか答えが出ません。そもそもそれは可能なのでしょうか?
仮に知らない人とただ空間を共有することがオンライン上でもできるようになれば、ひつじがの機能もオンラインで代替可能になるのかもしれません。それはそれで新しい可能性に満ちているので、「どこでもひつじが」の実現に向けて引き続き模索していきたく思います。近くのものに感謝したり遠くの可能性を模索したり、なんだか忙しないお手紙になってしまいました。
さまざまな制限も日々緩和されつつあって、何かが劇的に変化したわけでもないのになんだか気だけがゆるみがちですが、引き続きどうぞご自愛くださいませ。
2020.5.24
シモダヨウヘイ
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