【往復書簡】(仙仁透様)

拝復 仙さんへ

ちょっと油断している隙に福岡には冬が到来しました。油断も何もお返事をいただいてからもう十日以上が経っているんですね。こちらよりも寒さが厳しいと思われる(※当社比)京都の気候はいかがでしょう?

前回のお返事をいただいてから、「いき」とそのほかの日本的価値観について自分がどのような視点を持っているのか考えていました。元はと言えばこちらが投げたボール。この質問が返ってくることもある程度予測はしていましたが、改めて言語化するのがむずかしいですね。。

このところ頭を悩ませている「いき」に限らずですが、自分がまだ意味(本質)を掴めていない言葉は日常でなるべく使わないようにしています。視点というか立ち位置かも。仙さんがあげられているような「婆裟羅」「侘び寂び」「数寄」などなども辞書で引いた説明程度はわかるものの、その本質が理解しきれてないので、それらしい場面でもカッコつけて言わないようにしています。誤用して恥をかくのが怖いんだと思います。(笑)

そしてこれは過去の言葉に限らずで、現代(もうそうでもないのかもしれませんが)の「エモい」や「チル」なんかも普段若い人たちと話をしていて度々耳にはするものの、意味を知ろうとすればするほどに訳が分からなくなるので未だに使えていません。この調子だときっと使えないまま死語になるだろうし、「卍」とは生涯仲良くなれる気がしないです。

そんな感じでむっちゃ距離を置いたところから慎重に言葉を眺めているので、ぶつかるたびに「むむ、これはどういう意味で使われているんだろう?」と立ち止まってしまいます。例えば先に仙さんがあげた中でも「侘び寂び(wabisabi)」なんかはたまに誰かしらが発してたりします。ほとんどが結局「Cool」で片付けられるような使われ方をしているように感じるのですが、そこにいわゆる「侘しさ(心情)」や「寂しさ(状態)」はどこまで意識されているんだろうか……と余計なことばかりに思考が飛んでしまいます。そんなことを考えつつ、以前お勧めいただいてた『はじめての構造主義』を読んでいたんですが、ちょうどぴったりな一節が書かれていたので引用させていただきます。

ソシュールは、ことばが意味をもつ(言語として機能する)のに、歴史など関係ないではないか、と言う。ふつうに言葉を話すのに、そのことばが過去どのように用いられてきたか、いちいち知らなくても平気だ。ある時点で、ある範囲の人びとに規則が分けもたれていれば、それで十分である。
『はじめての構造主義』p44-p45

サンキューソシュール。。。素性も知らない過去の偉人にスリッパで頭を叩かれたようで、感謝の念で胸がいっぱいになりました。

この本によると、歴史を捨ててある時点に釘付けにした言語の秩序「共時態」というらしいですね。なんとなく太字にしてみました。「いき」の本質を探る上で感じているモヤモヤを解決するヒントがそこにあるような気がしました。少なくとも僕が考えたいのは、その言葉が過去どのように扱われてきたのかではなく(手段としてそれを知ることは大切ですが)、今この場で共に暮らしている周りの人たちとの間でその概念がどう役に立つかなので、まずはその範囲での共時態を見つけるのがとりあえずのゴールだし、このやりとりもその過程を楽しめたらと思います。

その点から考えると、仙さんが前回のお返事で書かれていたように「いき」のモヤモヤの解に「美意識」を持ってくるのは、物凄く現代的でしかもなんだか共時態感がありますね。それに紐づく「不粋」と「野暮」の説明も鮮やかです。昨今はビジネス本の表紙でもよく「美意識」という単語を目にしますが、例えば「(仕事が)できるビジネスマン」の《できる》なんかはコミュニケーションの観点から見ると「いき」に通ずる部分がありそうです。『いきの構造』を現代の共時態を踏まえて体系化したらとんでもないものができるかもしれませんね…!

さて、意味を掴めない言葉は慎重に眺めてるだなんだ言ってるそばから目にしたばかりの「共時態」を闇雲に乱発して恥ずかしさでやられそうなので、今回はこの辺にしておきます。構造主義とその前後を学ぶのは期せずして始まった「いき」の研究に役に立ちそうです。

一方でこういうことを考え出すとつい難しい方難しい方へ頭がいってしまい、その道中で単純なことを見落としがちになるのが悩ましいです。仙さんは日頃塾講師としてご活躍されてますが、例えば難しい話を子供達に教える際に気をつけられていることなどはありますか?

2019.11.17
月末の京都遠征が楽しみで睡眠が浅いシモダヨウヘイ

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