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幸せは、共有するくらいがちょうどいい。

ある日、友達とのご飯に行っていたパートナーが、帰ってきてポロポロと泣き出した。

久しぶりに会う友達とのご飯。さぞかし楽しかったのだろうと思っていたからこそ、急に泣き出した彼女の姿に動揺する。

「どうしたの?」と聞くと、言おうかどうか一瞬ためらいつつ、彼女が口を開いた。

「『はやく結婚できる恋愛が見つかったらいいね』って言われたの。私は付き合ってるだけで幸せなのに、そのうち別れるだろうって、可哀想だっておもわれてて。ショックだった」

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自分が良く聞かれる質問の1つに「パートナーさんのセクシャリティは?」というものがある。

この質問に対して、「ストレートです」といつも答えているのだけど、大抵の人はキョトンとする。だから、いつもこう付け加える。

「彼女も、すごく悩んでいるとは思います」

彼女は、異性を好きになれずに困ったとか、赤いランドセルが嫌だったとか、性自認/指向/表現に悩む経験をせずに生きてきた。だから、彼女いわく、たまたま下山田志帆が好きになっただけらしい。(自分で書いていて恥ずかしい)

つい最近までは、お付き合いしている事実を「彼氏はいる」「サッカーをしている人」のようにカモフラージュしていた。(余談:サッカーをしている人って伝えると勝手に男性だと思っちゃうのやばくない?)

けれど、今は共通のともだちを含め、職場の親しい人や趣味活動のともだちにも、「女性とお付き合いしている」「女子サッカー選手なんだ」と話すようになった。個人的には、彼女が信頼している人に自分のことを紹介してくれるのはすごく嬉しい。でも、話をすることで「それってあなたもLGBT当事者ってこと?」とラベリングをされ、いわゆるマイノリティの1人として見られるようになったことに葛藤している彼女の姿を見るのはつらい。

「誰がなんと言おうと何者でもいいんだよ。理解をするために、みんなラベリングが必要なんだよね。しょうがないよ」と、一緒に悩みながら自分たちのなかで落としどころをつけてきたのだけれども。


はやく結婚できる恋愛が見つかったらいいね。


結婚することが人生の幸せだ。だから、同性愛者はかわいそう。

無意識な幸せの押し付け。無意識につけられた幸せの上下関係。意図せぬ形でマイノリティの1人として見られるようになった彼女にとって、そして、長い期間をかけて現実を理解し飲み込んできた自分にとっても、その言葉に落としどころをつけることはできなかった。

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ある記事を読んだ。

耳の聴こえない両親をもつライターさんが、"聞こえる世界で生きてきた人たちが聴こえない世界と直面した時にどんな感情を抱くのか"を知りたいと敢行したインタビュー。

そんなインタビューの相手は、耳が聴こえないとお子さんが診断されたお父さん(ピ社で働いている大熊さん)だった。

大熊さん、お子さんの耳が聴こえないと診断された直後の想いをnoteに綴っている。当事、リアルタイムでそのnoteを読んでいたのだけれど、ある文章が彼女の姿と重なり印象に残っていた。

今まで、のらりくらり付き合ってきた社会という大きな塊が、急に僕たちの前に立ちふさがる。どうしたら、社会はこの子を受け入れてくれるのか?
その問いは、すぐに自分に跳ね返ってくる。「お前が今まで聾者にしてきたことが、この子がこれから立ち向かう社会だ」。自分の人生を振り返る。そういえば、街で聴覚障害の人を見た記憶がない。視覚障害者や、車椅子の人は見かけるのに。あ、見た目では分かりづらいのか。そんな言い訳にほっとした自分に愕然とする。つまり、ほとんど意識していなかった。


彼女は日々の中で、子どもと触れ合う機会が多い。そして、触れ合う子どもに対してLGBTQに対する偏見を押しつけている大人の姿を見かける機会も多い。

「女の子っぽい男の子がいるんだけどね、同性が好きなんじゃないか心配だっていっちゃう大人がいるんだよ。」

そんなふうに、日々の出来事を報告してくれる。

「あの人、目の前にいる私も同性と付き合ってるって思ってもみないんだろうなあ。」そんな前置きを残しながら、最後にポツリと呟くのはこんな一言である。

「わたしも今まではそんなこと言っちゃってたのかな。」


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無意識な幸せの押し付け。無意識な幸せの上下関係。

ここまで大そうなことを書いておきながら、今までを振り返ると「あー、自分もやっちゃってたな」と思う出来事が多々ある。

昨年、耳の聴こえないトランスジェンダーの選手と会う機会があった。カミングアウトの記事を読んで「会いたいです」と連絡をくれた彼。DM上で日程を決め、いざ会うとなった時、正直だいぶ不安だった。というのも、どうやってコミュニケーションを取ればいいのか想像がつかなかったから。

「ちゃんと話ができるように配慮しなきゃな。」

そんな気持ちで会いに行ったことを覚えている。


いざ、彼と話をしてみると、お互いの意見を理解するまでに時間がかかったり、彼の言葉を聞き返す場面も何度かあった。けど、楽しかった。ただただ楽しかった。

「どうにかして配慮しなきゃ」「会話を楽しめるようにしなきゃ」

そんな考えは全くの不要だった。うまく理解できないことがあれば、携帯で見せたり紙やジェスチャーで伝えればいい。分からないと伝えればいい。普段、耳が聴こえる人と話をしているときに、分からないことがあればそう伝えたり、携帯を駆使して説明したり、それと何ら変わりはなかった。

ただ、自分が”耳の聴こえない人”を”特別に配慮しなければいけない人”として勝手に下に見ていただけ。正しいことをしているようで、実はものすごく残酷なラベリングをしていた。


基本的に、2人で話したことはネガティブなこと2割、ポジティブなこと8割くらい。それくらい、彼は何でもポジティブに伝えるのが上手な人だったのだけれども。あまりにもポジティブすぎて、話の途中に「耳が聴こえないことで、辛かったりすることはないの?」と質問をした。

「これが自分にとっての当たり前だから。ないですね。」

肩透かしを食らったような気分だった。そして、同時に自分の中で「耳の聴こえない人」は「つらい思いをしている人」と勝手にラベリングをしていることに気がつかされた瞬間でもあった。

彼は話の中で、日常生活で困ることを教えてくれた。でも、それがつらいかどうかはまた別で。耳の聴こえない人はつらいのではないかと思うことは、「耳が聴こえて当たり前」の押し付けだった。

LGBT当事者と伝えれば、どんな場面でも「コミュニケーションには気をつけなきゃ」と思われてしまうことに、モヤモヤを抱えていたはずの自分。自分自身ではなくLGBT当事者として見られてしまうことに違和感を感じていた自分。そんな経験をしていてもなお、耳の聴こえない彼に、無意識に自分にとっての幸せを押し付け、幸せの上下関係を作ってしまっていた。

耳が聴こえない世界を知ろうとしてこなかったこと、そして、彼自身を見ていなかったこと。それらをないがしろにしていたことで、無意識に人を傷つけてしまう可能性があることに気がついた。


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インタビュー記事の話に戻りたい。

インタビュー記事を読み進める中で、前述した大熊さんのnoteで印象に残っていた部分が、そっくりそのまま抜き出されていたことに驚いた。あの文章に同じような感想を持っている人がいたんだな、と。

そして、そんなインタビュー記事の中で、特に印象的だった部分がある。

大熊さんのnoteの中で、次男が音楽やラジオや落語を楽しめないと表現した文章がある。その文章に関して、耳が聴こえない両親を持つライターさんが意見を綴り、大熊さんのコメントが書かれた部分だ。

もちろん、聴覚障害者が「音で作られるコンテンツ」を楽しむことは難しい。ぼく自身、テレビや音楽、ラジオの面白さを100%の形で知ることができない両親を見てきて、可哀想だなと思ってしまう瞬間はあった。
芸人さんのテンポのいい漫才も、心揺さぶるアーティストの歌唱も聴くことができない。それだけで、人生を損しているのではないかと、彼らを哀れんでしまうこともあった。
そんな風に聴覚障害者にある種の同情心を抱くことが、なによりも差別なのだと理解できたのは、ぼくが大人になってからだった。
「音楽や落語が楽しめないことを哀しいと捉えてしまうのは、聴こえる側の思い込みですよね。その姿勢は、あまりにも聴覚障害者への想像力がなさすぎる。ぼくはこれまでの思い込みを捨てないといけないと思いました」


マイノリティに分類される人たちは「配慮しなくてはいけない」「かわいそうな人」と無意識に下に置かれてしまいがちだ。自分と同じ幸せを感じられない=かわいそう。無意識にそんな上下関係が生み出されてしまっている。

普段、自分とは違う価値観や身体的特徴を持つ人のことを想像する機会なんてそんなにないと思う。「自分には関係ない」と思ってしまう人がほとんどなんじゃないか。

でも、一旦考えてみてほしい。自分のことをストレートだと思っていても、LGBT当事者と関係を持つことがあるかもしれない。生まれてきた子どもの耳が聴こえないかもしれない。明日、事故にあって足を失うかもしれない。急に家族の借金を肩代わりして家を失うかもしれない。

違う価値観や、違う身体的特徴、マイノリティと呼ばれる存在。実は、それらは自分にまったく関係ない特別なことなんてことはない。いつ、自分が、そして自分の家族や友達が、”関係ない”と思っていた存在になるかなんて分からない。だからこそ、たとえ自分には関係ないと思っていても知ろうとしたり、心の中を想像してみたり、そうやって「理解しよう」と少しだけ寄り添ってみることが、いつかの自分を幸せにするのかもしれない。そして、目の前にいる誰かの幸せになるのかもしれない。

「聴覚障害者にある種の同情心を抱くことが、何よりも差別なのだと理解できたのは、ぼくが大人になってからだった。」
「聴覚障害者への想像力がなさすぎる。これまでの思い込みを捨てないといけないと思いました。」


幸せなんて人それぞれで、嫌なことや困っていることも人それぞれで。そんなこと分かっているはずなのに、”人それぞれ”を理解するのはやっぱりまだまだ難しい。

だからこそ、ちょっとだけ知らない世界に飛びこんでみたり、逆に知っている側が想いを発信してみたり。お互いの世界を共有する努力が今は必要なんだろうなあと思う。

泣きながら帰ってきた彼女がいつか、「今日はこんなこと話したんだよ〜!」と共有した幸せをお持ち帰りしてきてくれたらいいなあ。そんなことを考えながら、インタビュー記事を読み終えた。


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