幸福を追求するというさもしさ
自分の幸福を追求することは是とされている。ほとんど絶対の価値だと思われている。幸福追求こそ人生の営みそのものとまで思われている。日本国憲法においても、個人の幸福追求権は保障されている。
しかし、私はそこにさもしいものを感じてしまう。
幸福であるのはいいことだが、それ自体を追求するというスタンスにはいくぶん倒錯したものを感じる。何かをした結果、幸福になるのはいい。だが、幸福自体を目的とするのは妥当なのだろうか。
同時に、幸福追求とセットで語られる、「一度きりの人生」という考え方も苦手だ。論理的に考えて、人生が本当に一度きりかどうかは分からないし、もし一度きりだとしてもそれほど大切に扱うべきものだろうか、という気もする。
今、ふと芥川龍之介の言葉を思い出した。
この言葉に寄せていえば、今の人間は人生をあまりに重大に扱いすぎていてばかばかしいのだ。
人間は平等ではないし、この世界の仕組み自体もフェアではない。不幸ばかりの人生もある。それなら、悲嘆に暮れながら死んでいくこともまた自然だし、肯定すべきではないだろうか。
満足して死んでいければ結構だが、別にそうでなくても構わない。無理に自分の人生を肯定せず、「ああすればよかった。あれもこれも、やりたかった」と後悔しながら死んでいくのも悪くないだろう。本来、人生はそういうもののはずだ。
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