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食材、服、消耗品の廃棄の罪悪感をなくす方法

スーパーで買った食材をすべて食べ切るのはなかなか難しい。口に合わないこともあるし、食べたいメニューと噛み合わなくてタイミングを逃すこともある。なんとなく気分でなくて、賞味期限が切れるのを待つなんてこともあるだろう。

そうして食材を捨てるとき、私たちの良心が痛む。とりわけ日本人はこの感覚が強いかもしれない。食べ物は大切に。食べ物は無駄にしてはいけない。そういう教育をずっと受けているからだ。

しかし、消費できなかった食べ物を捨てるのは本当に悪いことだろうか?

そもそも、生産したものをすべて活かすというのは不可能なことである。家庭に入ってくるまでに、食品のかなりの部分が小売店で売れ残りとなり、廃棄されているのだ。飲食店でもそうである。家庭内においても、それなりの量が廃棄されるのは致し方ない。物には歩留まりというものがある。食品にもそれはある。

服も同じである。店舗で購入した服がすべてそのあと気に入るわけではない。店舗で見るのと、実際に家で着てみるのとではどうしたって違いが出る。一定割合、「買ったのに着ていない服」が出てくるのは仕方がないのだ。

ほかも同様である。どんなものでも、購入したときの見通し、気分、状況が同じわけではない。消費できないものが出てくるのは仕方がない。物によっては「そのときその場所でそれを買う」ことが目的であって、レジを通ったときにその役割を終えている物だってあるだろう。

考えてみれば、自然界でも同様である。残酷な話だが、たとえばウミガメは無数の卵を生むが、浜辺で孵化して海にまでたどり着く個体は少ない。多くが鳥に食べられてしまう。生物たちは、命についても歩留まりを前提にしている。

それでも人間はつい完璧主義に走りがちだ。一つ残らず、と言うのが好きである。しかし、そんなことは不可能だ。歩留まりで考えるのが自然の掟というものである。

だから、食材や服、そのほかの道具も、一定割合を捨てるのは致し方ないのである。世界は歩留まりを許容することで成り立っているのだから。そのように捉えれば、廃棄が出るのも必然的なことなのだから、食べ物をゴミ袋にいれるときにも罪悪感はだいぶ薄まるはずである。

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