「残さず食べなさい」がきらいな理由
子どもの頃から「食べ物は残さず食べなさい」とよく言われていた。基本的な食事の指導だ。家でも学校の給食でも言われたと思う。
最初の頃は黙って従っていたと思うが、ある時期からこの言葉に違和感を持つようになっていった。そうして、大人になってからは顕著にこの言葉がきらいになった。とても欺瞞的だからだ。
残さず食べなさいという理由のよくあるものとして「食べ物を作ってくれた農家や生き物に申し訳ないから」というのがある。だから、お米も一粒残らず食べなさいという。たしかにこれは間違っていないと思う。しかし、どうも胡散臭いのだ。
思うに、残さず食べさせたい最大の理由は、片付ける側の労力削減のため、ではないだろうか。親が食事の後片付けをするとき、残っていなければ片付けが楽だ。だから、子どもに残さず食べてほしいのではないだろうか。少なくともこういう理由はあるだろう。にもかかわらず、すべてを見たこともない農家の人や牛や豚に押し付けるのは欺瞞的である。
さらに、食べ物を残さないことを大事に考えるのなら、むしろ食品の流通のことをまず考えるべきだ。高校生のときはじめてコンビニでバイトをしたが、残った大量のおにぎりや弁当、サンドイッチを燃えるゴミとして無造作にゴミ袋に詰め込んで廃棄する作業に直面し、衝撃を受けた覚えがある。食べ物というのは日常的にゴミとして捨てられているのだ。流通においてはそれを見越した量が生産されている。茶碗に残った米粒一つの前に、まずそちらに目を向けるべきではないだろうか。
飲食店においては、そもそも量を選べないことが多い。人間はみな体の大きさが違うのだから、本来ならその人にあった食事量はみなバラバラなはずである。なのに「残してはいけない」というのは乱暴である。むしろ、少食な人は残すことを前提として、それでも画一的に作業を行えるようにそういうオペレーションを組んでいるのだから、残す客の側に罪はない。量を適宜減らせる仕組みを用意していない、店側の責任である。
総じて、食べる側にすべて責任をなすりつけたり本質からはずれた理由付けをしたりする点で「残さず食べなさい」という言葉は欺瞞に満ちている。だから、きらいなのである。
最後に留保しておくと、私は「残さず食べなくていい」と言っているのではない。残さず食べることはいいことだ。農家の人や牛や豚に思いをめぐらすことも結構だ。しかし、その指導や理由付けが本質からずれているし、もっと大事な問題から目を逸らすようなことになっているのではないか、ということである。