普通の女子高生だった私。実は龍神様の子孫で、現代に現れた藤原秀郷たちと一緒に歴史を守るために戦っています。
第一章 前編
その日も、普段通りの一日が終わるはずだった。
宇都宮を煌々と照らす太陽の元、朝は布団に戻りたい気持ちに抗いながらなんとか登校した。そして先程まで随分と長々とした授業を受けていた。それを超えて、ようやく訪れた放課後。教室に閉じ込められていた活気はチャイムと共に溢れ出し、廊下は次第に賑やかさで満たされていく。
人波を抜けて、私は自分の下駄箱に手をかけた。
中に入っているのは、まだ足に馴染んでいないローファーだ。先月の入学前に、どうせ成長するんだから大きめのサイズを買った方がいいというアドバイスを親から受けてこれを選んだけれど、つま先にある隙間は一向に埋まりそうにない。
制服だって同じだ。親はどれだけ私が大きくなると考えているんだろうか。
外に出ると分厚い雲が空を覆っている。雨が降るなんて予報はなかったような気がするが、どうやらまっすぐ家に帰った方がよさそうだ。スクールバッグの中に折り畳み傘は、今日に限って入っていない。
この高校周辺は人通りも多く栄えている。けれど、少し離れると途端に民家だけになって、畑の数の方が多くなってしまう。周囲に寄り道するような場所もなく、道端で話し込むような友達も今はいない。複数人のグループで帰っている人たちは、帰り路だって賑やかなんだろうか。
でもその答えが出るのはきっと来年になってしまう。だって私のクラスに、同じ方向に帰ることができる人はいなかったから。
「……ゥゥ」
「えっ?」
そんなぼんやりと考え事をしていた頭に響いてきた謎の音。それは、私の意識を強引に現実へと引き戻した。
いや、どちらかというと、今のは音と言うよりも、うめき声や鳴き声のような種類の声と表現した方が正しいのかもしれない。数メートル先の茂みの中から聞こえてきたそれは、野良犬や野良猫の鳴き声とは明らかに違う。
一度深呼吸をする。
野生の動物との遭遇という緊張感から鼓動は早まっているが、固まっていた体には、酸素で少し自由が帰ってきた。
ゆっくりと後ずさりしながら、茂みの様子を伺う。物音で刺激しないよう、慎重に。
茂みがまた動き出す。ガサガサと這い出てきたのは、黒く平たい何かだった。
四足歩行で口があり、形状だけで言うならカエルだとかトカゲだとか、そういう種類の生き物のように見える。
黒いそれは周りを見渡すように首を動かすと、やがて私のいる方向で停止した。距離はあるが、目はバッチリ合っている。気がする。
「グガァァァアァアアアッッ!」
「な、何この声?!」
体の奥まで響いてきそうな低音の叫び声が、耳を突き抜けて周囲に響く。
あの鳴き声が何なのか、どういう意味を持っているのか、そんなことは全く分からない。
それでも私の心が、防衛本能が、全力の大声で訴えている。
「逃げなきゃ……っ」
直感に従って駆け出す前に、あの黒い何かはこちらに向かって動き出していた。
口を開いて迫ってくる、速度はまだ遅い。
だが同じような生き物が、様々な場所からさらに集まってきている。きっとさっきの大きな鳴き声に反応したんだろう。
集った彼らは、重なって、混ざり合って、大きくなっている。目線を送るたびに巨大化していくのは、決して見間違いではない。スライムや粘土ならともかく、生き物が行っているとは到底思えない理解不能な現象が私の背後で進行しているらしい。
大きくなればなるほど、一歩も広がり、速度が上がる。
足だってもう限界に近い。
運動靴ならともかく、今の足元はサイズすら合っていないローファーだ。体力はただ走るよりも大きく奪われる。
言葉でも表現できないような雄叫びを上げながら、執拗に追いかけてくる黒い何か。もはや怪物と言ってもいい大きさだ。開いた口は、いつの間にか私くらいなら楽に飲み込むことがサイズにまで成長している。
立ち止まったら、飲まれる。
すぐ後ろに迫る恐怖に、足は言うことを聞かなくなってきた。
頭では理解できていても、脳が命令を出してくれない。
鼓動だけは、私を置いて動き続けている。
赤く光る眼が、底の見えない口が、もう目の前に迫っている。
もう、私は……。
「助けて……っ」
「よく逃げたな。後は任せとけ」
無音の世界に響いた人の声。
そして高速で飛行する何かが、私の顔の横を通過する。
空を切る音。
それが放たれた矢だと分かったのは、怪物の眼にそれが突き刺さった後だった。
今までよりも壮絶な声を上げて怪物は激しくのたうち回る。
「これで終わりだ!」
激しい動きをものともせず、怪物の眉間に二本目の矢が突き刺さった。
もう怪物は動かない。巨大な体躯は少しずつ崩れていって、数秒もしないうちに完全に消え去ってしまった。
まるで何も起こっていなかったかのように、世界は静けさを取り戻していく。
悪夢のような出来事だった。それでも、足に残る疲れと、全身にまとった冷や汗、そして地面に落ちている矢が、あの怪物の存在が現実のものだったと主張してくれている。
改めて見ても随分と大きな矢だ。手に持つと余計にそれが伝わってくる。
「あのデカブツから逃げ切るとは、お前中々やるじゃないか。それ、返してくれるか?」
「えっ? あ、はい……どうぞ。助けてくれてありがとうございます」
「まあな。助けを呼ぶ声が聞こえたらそりゃあ来るさ」
平然とそう言い切るこの人の見た目は、さっきの怪物と同じくらい衝撃的だった。
今までに見たことがないくらいきれいな和服、頭には烏帽子、そして手には身長よりも大きな弓。この人を構成する全てのパーツの美しさに、思わず息を飲む。
「どうかしたか? そんな信じられないようなものを見るような目で見られても困るんだがな」
「ああ、いえ。その、きれいだなって思って。その、和服が!」
男の人、なんだろうか。中性的で、透き通った声だ。
「ん、まあこの時代だとそうかもな……」
「時代?」
「いや、そんなことよりも、だ。あんた、何者だ?」
自己紹介をしろ、ということだろうか。
威圧感を前にした私は、とりあえず息を整え、向き合う。
「私は古月マナです。向こうの高校に通ってる高校一年生で」
「あぁ違う違う! 俺が聞きたいのはそういうことじゃないんだよ。俺が聞きたいのは、どうしてあれから逃げてこられたのかって部分だ。俺とも普通に話せてるしな」
「どういうことですか?」
逃げてきたのは、頑張ったからだし、目の前にいるんだから会話は当然できる。
この人は何を言っているんだろう。
「特異な血筋か……? おい、あんたマナって言ったか。これから家帰るんだろ? 送っていく。どっち方面だ?」
「え、いや大丈夫です。子供じゃないんですし、一人で帰れますから」
勝手に納得していて、私の疑問にはどうやら答えてくれないらしい。
この人に助けてもらったことには確かに感謝している。それでも、この人に言われるがまま家まで送ってもらうというのは流石におかしな話だ。初対面だし。
彼は呆れたようにため息をついた。
「俺だって何もないようなら一人で帰す。ただ、またあんなやつらに襲われるかもしれないだろ。それでもいいってんなら、どうぞ勝手に帰ればいいさ」
「それは、良くないけど」
「だろうな。安心しろ、俺は普通の人間には見えないから勝手に着いていくさ。逃げてきた道が帰路か?」
「待って! その前にあなたは何者なんですか。さっきから良く分からないこと言ってるし、怪物を矢で倒しちゃうし。せめてそこをはっきりさせてください!」
ただでさえ恰好が和服なんだ。怪しいことに変わりはない。
「ふむ。確かに素性の分からない人間は傍には置けないか。じゃあ詳しく話してやりたいが、あいにく簡単に理解できる話ってわけでもない。それは後で伝えるさ。とにかく今分かっておけばいいのは、異常な事態が起こってるってこと、マナはこれからも危険な目に合うかもしれないってことか? あぁそれと、俺が藤原秀郷ってことだな」
「……藤原秀郷って」
「見えないとかは実際に人とすれ違えば分かるだろ。ほら早く行くぞ」
藤原秀郷と言ったら歴史上の人物だ。
そう名乗った彼は、こちらの意見も聞かずに歩き始めてしまった。しかもしっかりと私の家の方向に。私としても怪物の残り香があるかもしれない場所に一人残されるのも嫌なので、重たい足を動かして渋々付いていく。
これだけ目立つ格好をしていて、顔立ちも良いとなると歩いているだけで目立って仕方がないと思っていたが、実際はそんな心配も杞憂に終わることになった。どうやら、本当に他の人には見えていないようだ。
そんな私の驚く顔を見て、秀郷さんは得意げに笑う。
そして長い長い学校からの帰宅が、ようやく終わる。
秀郷さんは家の前まで来たことを把握したのか、屋根の上に飛び移ってどこかに走り去ってしまった。その軽やかな動きに加え、小さかったり動いていたりする的を的確に撃ちぬく弓矢の技術は、やっぱり人間業とは考えられない。
そういえば、帰り道では歩いている最中には一言も話しかけてこなかった。もしかしたらあれは、私の言葉がそのまま独り言になってしまうのを防ぐためだったんだろうか。
「なんて、考えすぎかな」
自室で制服から部屋着に着替えて、窓から襲われた地点を見つめる。不思議なもので。あれだけ大きかった怪物が這っていたのにも関わらず、木や電柱がなぎ倒された痕跡はない。
「どうした? あそこに忘れ物でもしてきたか?」
「いえ、そういうことじゃないんです」
窓の外、真横から聞こえてきた声に、思わず反応してしまった。というか、この声はさっきまで一緒にいた人の声だ。
「てっ、ええ?! 秀郷さ——むぎっ」
「うるさい。静かにしとけ。変な娘だって親に思われたくないならな」
口を手で塞がれた。それに、顔が近い。私よりも長いまつ毛が頬に触れそうだ。
「さっき分かっただろうが、俺の事が視認できるマナが異常なんだ。そこ、ちゃんと覚えとけ」
「ッ、はぁ。分かりました、分かりましたよ! ……それで、いつからそこにいたんですか。ここ、二階なんですけど」
「いつだって話なら、マナが部屋に来る前だな。どうやってって話なら、屋根からだ。あぁ、着替えは見てないから安心しろ」
「……着替えてたのは知ってるんですね」
「はあ? 見た目が変わってんだからそれくらい誰だって分かるだろ」
言い返す言葉がないが、はぐらかされているような気もする。
気持ちを別の方向に向けた方がよさそうだ。
「とにかく入って下さい。見えないんなら何も言われないだろうし、外に立たせてるのも悪いので」
「おう、悪いな。そうだ、一応言っておくが、俺にこの世界の汚れは付かないらしいぞ」
窓から入って、秀郷さんは床に置いてあるローテーブルの前に腰を下ろした。確かに歩いた部分には足跡すら付いていない。
私の物が溢れる世界に、和服の男性というこのアンバランス具合。客観的に見ると少し面白いのかもしれない。
「それで、ええと、なんのご用でしょうか」
「さっき話せなかったことについてマナに伝えておかなきゃならないと思ってな。それと、俺からもマナに聞きたいことがある」
「聞かれても答えられるか分かんないですよ……? 今だって分かんないことだらけだし」
「安心しろ。俺だって正直事態について全部把握してるわけじゃないからな」
「……今また不安が増えました」
「そんなこと言うな。じゃあまずは、改めて俺の素性についてだな」
まっすぐに、視線が重なる。
「名前は伝えた通り藤原秀郷。今で言う平安時代に生きていた武士だ。それで、なんでそんな奴がここにいるのかっていうと、原因はあの怪物にある。あれを倒すために、俺は龍神様の力で時代を超えてここに来た。きっと他の人に見えないのはそういう理由なんだろうな。あぁ。現代についての知識はそれなりだ」