父の何かを消す作業

父宛に喪中葉書が来た。それを見て父の友人達に、父の死んだ報告をしなければと思った。
父のパソコンには年賀状ソフトが入ってる。その宛名リストを見ながら、親戚を除いた人たちを新規にリストアップした。

このリストは親戚以外の人たちなので、全ては父の友人となる。中には聞いたことのある名前もあるけれど、全く知らない人もいた。父はどんな交友関係をどんな人たちと育んだのだろう。
リストは19名。とても少なく感じたけれど、自分も死んだら一体何人に伝える先があるのだろう。

父が亡くなったこと、葬儀や納骨も済んだこと、生前の感謝を伝える文面を作成して投函した。
この作業がとても虚しかった。

この葉書を受け取った人は年賀状のリストから父を外すのだろう。ケータイの住所録からも父を消すのだろう。メールの宛先からも消してしまうのだろう。
この葉書が届くまでと、届いてからとでその人の中の父の存在は変わる。

葉書を受け取ったことで父の存在は消えてしまう。もちろん記憶や思い出は残るのだけど、もう未来は無いことを示す。

父の生きている形跡をひとつひとつ消している気分だ。

カードの解約届の連絡も、銀行の口座の停止も、ケータイの解約も、家の電話の解約も、テレビの解約も、父の営みを消している作業に感じる。

父は既に居ないのだけど、放っておいても良いんじゃ無いかな。って思う事がある。
そんなに社会の隅々にあるリストから名前を消す事が必要なのだろうか。

もちろん必要なんだ。それは分かっているけれども、どこかネガティブな作業であるから生産性を見出せない。

父は関係した方々の記憶の中にそれぞれの思い出として残っている。思い出さなくても消えることはないんだと思う。
なのに、僕はひたすら父の生きた中を消して回っている。一体何を消しているのか。

人の死は近い人ほど感情とは遠い仕事を強いられるモノなのかもしれない。

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