高齢者の運転免許返納へ・我家のケース
「クルマが無いと生活ができない。社会がいけないんだ」という老人の言い分だけが悲しく響く。本当に解決策は無いのかと、父の返納をめぐった考えや言葉の一通りをメモとしてnoteに。免許を諦めさせたいと願う他の家族のヒントになれば。
僕らが考える限り高齢者が運転免許を手放せない理由はいくつかあるのだけど、一番は「自分の生活を変えたくない」という思いが根底にある。父の意見でも直接的には言わなかったけれども、この点に周りが気付くと彼の反論には全て説明が付く様に見えた。
家族は高齢者講習が返納のキッカケになると思った罠
高齢者講習が必要となる年齢を迎えた父の免許更新。傷だらけのクルマを見ながら、姉と僕は諦めさせたいという気持ちしかなかった。しかし、本人は違った。
病院の入退院のタイミングで免許センターへ毎回電話をする。「どうにか更新が出来ないか」という気持ちで高齢者講習の予約を取ろうとする。(実際は予約を取るものの、緊急入院などでキャンセルという事を繰り返した。)そこまで免許へ執着する気持ちは当時家族には分からなかった。
もしかすると、加齢によって出来ることが減っていく事への恐怖みたいなのも、父の心理の裏側にはあったのかもしれない。完全に現実の自分を見れていない裏返しでもあるのだけれど。
そんなに言うならば。と、高齢者講習を受けた上で機関から断られることで諦めてもらおう。と家族は考え、講習について調べることにした。
高齢者講習では簡単な認知症テストを行う。まず講習時のテストでは医師の診断はない。ここで芳しくない結果が出たときにだけ、更新には医療機関での診断書を求められる。
続いて実技講習。これは試験会場のコース内で教習車などを運転させる。「慣れていないクルマだから」とポールにガンガンぶつけて走る姿も見られるが、これでも講習はパスできる。
結果的に運動能力は診断されない。むしろ脳梗塞の後遺症で半身麻痺だった人が問題なく通った例も見られる。そして、認知症の疑いが見られたとしても、診断書を添付すれば更新が可能。そもそも講習時のテストだけで免許更新を辞めさせる効力は無い。注意を促すだけ。
だから「高齢者講習で落ちれば更新を諦めるだろう」と思って「受けてこい」なんて言ったら最期、国のお墨付きをもらったつもりで自信を持ち堂々と運転しかねない。もし周りで更新を辞めさせたいと思っている家族が居たら、高齢者講習は受けさせないこと。この点は注意すべき。
結果的に我が家の場合は、免許更新最期のタイミングで入院が重なったことが更新を諦める決定打となった。これが無かったらもっと苦労したかもしれない。
それまで父の気持ちに寄り添うことで、諦めてもらおうと行った詳細は下記にまとめておく。それぞれのケースで異なることも多いだろうけれど、もしかすると誰かのヒントになるアドバイスが少し出来るかもしれない。
なぜ免許を諦めたくないのか
父はクルマが無いと生活が不便になると言った。でも父の生活を冷静に見てみると、仕事もせずに隠居生活。クルマで向かう先は買い物の内容によって変える近所のスーパー数件へと、家から数キロ離れた母の病院への見舞いに使うだけ。まして、母の見舞いは父の肺癌が分かってから1〜2度しか行っていない。その1〜2度も家族の運転。使用用途が決まってるだけなので、それの解決策を提案して、安心してもらうのが一番だと思った。
ただ、なぜ免許に執着するのかは別の問題もある気がした。
まだ自立出来るという自負。社会のお荷物になりたくない。
社会の一員であること。それが免許を持ち、そして街の中をひとりで運転をすることなのかもしれない。それが自立している自分。
長年勤めた会社での定年を迎えて社会との関わりが気薄になる中で、承認欲求として「クルマを自由に運転している」という行為が、「免許を手放さない」という行動に、どこか心理的に繋がる部分があるのではないだろうか?と思うことがあった。
家に届くモノと言えば、免許の更新、車検のお知らせ、新車購入の販促、自動車保険の連絡やセールス。免許を持ち自動車を持つことで、そうした事全てが高齢者の承認欲求を満たしていた一面があるのかもしれない。
DMの封筒を嬉しそうに開けるのを見たことがある。サラリーマン故の退職した末に社会との接点がそうしたモノだけという事実もある。
出来ることが減ると、社会から必要とされていない感覚は強まるのだろう。これは推測でしかないけれど、そうした事に怯えれば「出来る事が減るカウント」はとても怖いものになるのかもしれない。
クルマは万能の機械と思っている
父の向かう近所のスーパーは全て、僕が通っていた小学校よりも近い。6歳の子どもがランドセル背負って体育着のバック抱えて通える距離。アップダウンも無いに等しい土地。その道を歩くのがキツイ現実が、クルマが手放せなくなる理由でもあるだろう。
自動運転も現時点ではメディアが夢に描くほど万能とはいかない。自動ブレーキの搭載車両でも追突事故0では無いことがそれを示している。世界的に先端と言われるメルセデス、テスラ、BMW、アウディ。仕事柄、最新技術を搭載したクルマを、時に運転席で体験させてもらっている。一般には出回りにくい関係者向けの資料も見せて頂いている上での意見です。
「歩くのが辛いから」それが免許を手放さない理由のひとつというのは、老人達の本音だろうと思う。身体が動かないから、機械に頼ることが賢いと思っているフシもある。
小学生が歩く距離さえ歩く事が出来なくなってしまった高齢者に的確な操作が出来るとは思えず、その時点でクルマを降りることが正しいはずなのに。田舎では「ゆっくり走るから大丈夫」と言わんばかりの、50km/h道路を20km/hで走るクルマにも遭遇する。
「身体が動かないから、何か自分に適したサービスはないだろうか?」と考え、そうして人は賢くなっていく。無理なく快適な生活がその先にあるかもしれないのに、目の前のクルマに万能を求めようとしている。自動車は夢の義足でもなければ、車椅子でもないのに。
お金が無いから他の選択肢が選べないという嘘
クルマが使えなければタクシーを使えば良い。シニアカーを買えば良い。それらの提案に対して「お金は誰が払うんだ」と言う人がいる。けれど、よくよく話してみれば実際の値段を知らないことが多い。
クルマを維持することで、税金やガソリン代、保険代や車検費用などどれくらい掛かっているのか正確に理解出来てない人も多い。
タクシーを使うとしたら「年間どれだけ(回数・距離)使うのか。」「どの頻度で使用するのか。」もっと踏み込めば「自宅から病院までいくらなのか」それを知らずに「金が無い」と言う人がいる。
お金に怯える人は、お金に向き合っていない事が多い。
カジュアルな電動車椅子的な存在である「シニアカー」がどこで売っていて値段がいくらなのか知らない人も多い。シニアカーはレンタルで介護保険が適応される場合もある。すると1割負担。
自動車に変わる手段を考えること。そしてその手段を使うことで、どの様な生活が送れるのか。一度決めたらずっとということではなく、定期的に考え直すのも正しい。
物流が発達した今、自分で買い物に出ずとも生活に必要な買い物もいろいろと手段はある。食事だってたまには出前でも良い。その選択肢が父の中には無かった。通販はジャパネットと明太子とカニくらい。アマゾンの存在さえ知らない。
住む場所を変える選択肢が無い
自分のライフスタイルに合った新たに住む場所を選ぼうとする気力がない。気力体力もそうだけれども、探す気がない。
極端な話では、今生活にかかっているコストと同じコスト内であれば、どこに住んでも良いのが日本。今の場所に済むことを条件として上げることで、自由度が減っている事にも気づいてもよいかもしれない。
持ち家なら今の場所を販売するか、賃貸にするか、お金に変える方法はいくらでもある。欲しい・住みたいと思う人へ届ける手段だってあるはず。
ただ、住む場所を急に変えるとボケる。とは良く聞く話。(実際に自分はどうなのかは分からないけれど。)ただ、今の場所に住むことを前提とした話しか出来ないのであれば、社会に文句を言うのではなく、自分が変わることも必要だと認識すべき。この点は若者こそ経験しながら適応している部分でもある様に思う。
本当に充実した老後は、フットワークの軽さに比例するんじゃないかな?って思う部分があって、その時のフィールドによって楽しい選択を行うということ。それが出来ればとても幸せになれると思う。
運動能力が低下したドライバーによる運転ミス
運動能力が衰えた高齢者の運転ミスはどう起きるのか。主にペダルの踏み間違えに関しては、身体が思うように動かないからこその操作ミス。アクセルに置いた足が、咄嗟にブレーキペダルの位置まで上げられず、左へ踏み変えたつもりで(ブレーキペダルの横に足が当たるだけで)あらためてアクセルを踏み込んでしまう悲劇。多くの場合、ブレーキペダルの方が位置が高いから。
認知症の可能性もなく意識もはっきりしたままで、眼の前に広がる光景は正常であればドライバーにとっても悲劇。対物事故であっても、その恐怖は拭い去れない。誰も幸せにならないのだから。対人であった場合は想像さえしたくない。
「自分は大丈夫」「事故をした人は下手くそなんだ」とニュースを見て父は言った。自分の運動能力の無さを認めようとしない。要介護4という決定的な事実を突きつけられても、「あの診断の時は調子が悪かったから」と言う。あくまで自分の衰えを認めない。
アクセルを踏めば180km/hまで従順に加速する。機械は操作に正しく反応する。自力で動けない人でも、ペダルを押し込むだけでクルマは動く。まずは、この事の重大さと引き換えに得るリスクを理解してもらう。
そして、操作ミスは年齢問わず誰にでも起きる。操作をミスしても、咄嗟に気づいてリカバリすることで事故を未然に防いでいる。これを皆が無意識にしている操作だ。
高齢者はこの判断が遅い。もしくは出来ない。これにより軽微な事故は増えている。つまり「運転でミスが無い」と言い張る人ほど、万が一への備えが足りない。アクセルとブレーキを踏み間違えた時、制動が掛からない初期時点で踏み変える事が出来ない。人はミスを必ず起こす。問題は早期にリカバリ出来ない運動能力の衰えだ。
老人は生活を変えたくない。
父の行動を見ると、驚くほどにカレンダー通りの生活をしていることに気づく。買い物も行くと決めたら行かないと気がすまない。だから雨の日でも買い物には行かねばならぬという思考が、クルマを手放せない理由にも繋がることに気づいた。
「天気が良いから散歩に出かけようか」「雨の日だから家で過ごそうか」が出来ない人。勤め人だった父はまんまとこのスタイルに。かといって空いてる時間は何をするでもなく、時間通りに食事をして睡眠を取るだけ。
父は料理が定年後の趣味となっていたけれど、今は思うように身体が動かない様だ。肺癌の進行から息切れが激しい。だからこそ、自分の身体の調子と対話して欲しいと思うのだけども。予定を変更してもいいじゃないか。生き急ぐ必要はないのだから。
事故に合うリスクを想像していない。
以前、僕が信号待ちの時に後ろから突っ込まれた事がある。信号待ちで気を抜いていたこともあるけれど、逃げ場も無くてクルマは廃車。僕自身も半年以上病院へも通うことになった。
今回入院は無かったけれど、高齢者である父が同じ事故に合ったなら、後遺症とまでは行かないものの、痛みが続いたり、痛みをかばうカタチで生活に支障が出る可能性も否定できない。まして入院となったならば、筋肉が弱り歩けなくなることもあるだろう。先の入院生活で筋肉や骨に異常は無いものの、ただ2週間寝てるだけで正常には歩けなくなった。
運転が上手い下手に関わらず、事故に巻き込まれたら逃げようが無い。万が一被害者になった場合のリスクを一緒に考える。若い頃より傷や怪我の治りが悪いのは自分が一番知っているはずなのだから。
視野が狭まったり、反射能力と運動能力が落ちた今、若い頃は回避することが出来るかもしれない事故もまともに受けてしまう可能性は高まっている。その点も見逃してはならない。
「あなたが大切にしている生活を送れなくなる可能性があるリスク」。常に何が起きるかわからない道路へクルマで出ないように諭すべきなんだ。
自分の加齢を認めよう
老いが悪いわけではない。もちろん出来ないことも増えるけれど、その上で自分の生活をどう適応させて行くのか。加齢とはそれを楽しむべきものだと思う。
無理に若い時と同じ生活を送ろうとすることは、見方によってはとても不幸だ。年相応の楽しみ方が出来ていない。高齢者が人権を奪われるわけではない、その歳なりの生き方を楽しもうという話。
今、自分がどの年代であっても「高齢者とは、いずれ行く道」と本当にそう思う。
だからこそ誰かに憧れるのではなく、自分の生き方を見つけて欲しい。
その「生き方」が、誰かを殺したり他人の人生を台無しにしたい生き方であるなら僕は何もできない。けれど、社会の中で楽しく過ごしたいのであれば、出来ることがあるかもしれない。
高齢者には現実を見つめてほしい
加齢は必ずしもネガティブなことではない。これから歳を重ねる世代が憧れる生き方をして欲しい。クルマの運転なんて、むしろ免許やハンドルにしがみ付こうとする姿も、他の様々なサービスを使いこなせていない姿もカッコ悪い。
自動車は歩くのが辛くなったあなたの義足でもなければ、車椅子でもない。歩くのが辛くなったならば、まずクルマの運転を諦めてほしい。運動能力が劣った人が乗るべきものではありません。
物流も安定した今、自ら買い物に行く機会は少なくなっている。そして「高齢者が欲しがるモノに緊急性が高いものが少ない」ことが多々見られます。今あなたが欲しいと思っているもの、今必要ですか?
「配送料無料ばかりで配達員に悪い気がする」と聞く事があった。あなたは今まで社会で何を見てきたのか。それは「配送料込」の言葉遊び。無料ボランティアで仕事を受けている訳ではない。給料が支払われないのはむしろ配送会社の経営者の問題。この判断が出来ないレベルで「社会が悪い」と語るべきではない。
高齢者と呼ばれる年代に近づくことへ
年齢によって出来ない事が増えるのは事実。40代となった今でも、10代に比べて視力が落ちている。ただこれは受け止めるべき現実だ。
ただ嘆くばかりではない。高齢者のみが使えるサービスも多い様だし、そうしたモノを活用して誰もが人生を楽しむべきなのだ。
高齢者にとってお金は必要だけれども、お金にしがみ付くことは何も解決させない。むしろお金によって問題を解決させてしまうと、判断を遅らせることで手遅れになることもある。
大切にしたいのは財力ではなく、自分の身体を客観的に見つめること。まずは運動能力などが身体の機能と共に衰えるなかで、「どの様に生きるのか」を常に考える方が充実した時間を過ごせると僕は考えている。
そして、クルマが無いと暮らせない場所で社会へ文句言いながら暮らす事が望みなら...、それは残念ながら僕には理解できない。
仕事が変わる、定年を迎える、家族が減るなど、様々なポイントで自分や家族に適した住む場所を選択することは大切と思う。もしかしたら友人知人が増えて、まだ見ぬ充実した人生を送れるかもしれない。いつの日も、新しい扉を開くことに怯えてはいけない。
何かを止める(辞める)という判断はとても難しい。むしろクルマの運転を諦めることは、その便利さを知っている身としては手足をもがれるに等しいかもしれない。でも、それを手放した結果見えてくる世界があると信じている。
無いものを「無くした」と嘆き続けるよりも、新しい何かを見つけワクワクする気持ちをいつでも持っていたいと思う。
クルマが大好きで、運転が大好きで、免許を取得してからはほぼクルマを所有している。大手メーカーの広告に携わり、個人のショップの仕事にも携わり、どこへ行くにも1,000kmくらいの距離なら日帰りで自らハンドルを握る。だからこそ、自分が手放す時は潔くいきたい。
その後の父の生活
週に2回。僕と姉が実家に足を運ぶ。用事がある時だけ呼んでもらうのではなく、定期的に向かう。それによって用事が頼みやすいこともある様子。緊急性の高いものは、連絡すれば姉が仕事帰りに買っていく。実家に近い姉がいてくれて助かった面でもある。
実家まで片道1時間〜くらい。僕の通う負担はルーティンになるほどに大きく膨れていくのが分かる。体力よりも心の負荷がでかい。仕事にも支障は出ている。
父は相変わらずクルマを手放そうとしない。ただ、運転はせず生活に支障は無い様子だ。
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