会社勤め(酒造会社)していた時のこと
こんにちは、府中の酒屋「しめのうち」の大室 元(おおむろ はじめ)です。以前のnoteで酒造会社の月桂冠に勤めていたことを書きました。この機会に、その当時のことをまとめておこうと思います。
なぜ月桂冠に入社?
「就職先がなんで月桂冠なの?」と聞かれますと、京都にご縁があったから、ということでしょうか。家業が酒の小売業ですので、もともと酒と小売に関わりたいと思っていましたが、その延長上で食品、流通、物流業界にも興味がありました。が、それだけでは京都と繋がりません。
実は、大学時代に所属していた部活がご縁だった、と感じています。私は大学時代に弓道部に所属していました。その当時、毎年京都で全国選抜大会があったのですが、その時に京都の立命館大学弓道部と交歓戦(練習試合)を毎年行っていて、京都の人たちと親しくなったのも理由かもしれません。とても仲良く交流させてもらい、京都という土地に親近感を抱きました。私は部では主務(マネジメント責任者)を2年務めたのですが、組織内の運営だけでなく他校との交流も多く、マネジメントの有益な体験となりました。
就職活動は東京で行っていましたが、就職協定が廃止された初年度で進め方に苦労しました。月桂冠ではなんとか最終面接まで残り、京都本社へ初めて行くときのこと。まさか新幹線まで使って京都へ行って、落ちることはないだろうと臨んだ最終面接。控えの会議室に10名~20名の学生が・・・。あれ、営業の募集人数って5~7人くらいじゃなかった?まだ落ちる可能性があるんだ?と急に寒気がしたことを覚えています。それでも、月桂冠という会社の社員の皆さんとは水が合ったのでしょう、リラックスして役員面接も終わり、入社のご縁を頂きました。
1998年当時の月桂冠は
さてご存知の通り、月桂冠株式会社は京都市伏見区の会社。380余年の歴史ある、就職当時は清酒販売数日本一の会社でした。そのあとに白鶴、大関、松竹梅・・・と続いていました。社員は700名以上だったでしょうか。ピーク時は900名くらいだったそうです。昭和から平成へかけて清酒業界の需要変動、時代のうねりも大きいものを感じます。
伏見は兵庫県の灘、広島県の西条とともに「日本の三大銘醸地」と言われる清酒製造業の集積地。伏見城の城下町として、多くの酒蔵がひしめき合う歴史ある水の都です。
福岡の地にて
入社後、数週間の研修を経て、最初の勤務地は福岡県博多の営業支店になりました。福岡県、とくに筑豊・北九州地区のエリアを担当しましたが、他の先輩の手伝いで佐賀、大分にも応援に行くこともありました。主な仕事は卸店、小売店、飲食店へのルートセールス。福岡県、長崎県は歴史的に月桂冠のブランドがとても強い市場で、県産酒よりも売れていました。戦後は米が不足しており、酒は配給制をとっていたため、酒問屋も県卸という公共性の高い問屋さんが酒を卸していました。「灘・伏見の酒」、俗にいうナショナルブランド(NB)と呼ばれる酒は高品質で信頼されており、ブランド力が強い時代でもありました。また現在のような特定名称酒という分類が無かったため、普通酒の価格競争力があった。「どうせ似たようなお酒なら、安くて高品質のお酒がほしい」という価値観もあったのだと思います。その流れで紙パックにおける大容量パック競争が勃発したのは、市場競争の流れの中では必然だったのでしょう。この話は、また別の機会に。
ずっと関東平野で暮らしていた私にとって、福岡はとても魅力的な街でした。なんといっても海と山が近い。空港の免税店での販売や、門司港近くのホテルでの仕事など、楽しさを感じていました。
焼酎が身近に感じたのも九州ならではの事です。20年前ではまだ東京で乙類焼酎は注目されていませんでしたので、多種多様な焼酎にびっくりしました。
京都本社での仕事(情報システム部)
2年間、営業職として福岡支店で過ごしましたが、入社3年目に京都本社の情報システム部に異動になりました。そこでは基幹システムの保守運用、主に経理、物流、販売情報のシステム運用を担当しました。初めてプログラミングを勉強したのもこの時期。レガシー言語であるCOBOLを必死に勉強しました(今ではすっかり忘れましたが)。2000年問題なんてありましたね。ITの基礎知識を学べたのは振り返ると、とても貴重な機会でした。他の食品メーカーが集まる情報システム研究会に参加したことも知見を広げる機会となりました。
京都本社での仕事(営業推進部)
その後、入社6年目に営業推進部に異動。主に商品の詰め口計画(ボトリング計画)と、全国の販売計画をまとめる仕事を担当しました。
酒造会社にとって、生産計画というと2種類の意味があります。「醸造計画」と「詰め口計画」。醸造計画とは酒そのものを造る計画のことです。日本酒は造るのも大変ですが、造るための計画を立てるところから大変です。原料である米の仕入れから始まりますが、米の作付けされる前から購入数を農協や生産者と交渉しなければいけません。どれくらいこの酒質の酒を造るのか、そのためにこの品種の米はいくら必要なのか、を1年以上前から計画していくわけです。これは醸造部や資材課の仕事。
詰め口計画、需要予測
私が担当したのは詰め口計画という計画で、これは半製品とみなされる、タンクに入っているお酒を瓶など容器に詰めて(ボトリングと言います)、製品化するための計画です。
月桂冠は毎日、何千箱もの物量が出荷されます。当時はお酒のアイテム数が季節限定品や販路限定品など細かいものも含めると数百アイテムあったような。容量も100ミリリットルカップから18リットルの大容器までさまざま。酒質も普通酒、吟醸酒、にごり酒、料理酒、リキュールなどさまざまです。
例年の販売実績や、今年の販売計画、来月のスーパーで採用されている特売情報を取りまとめ、需要予測し、今週必要な詰口計画に落とし込みます。製品部の計画担当者と綿密に打ち合わせを行い、在庫を余剰無く、欠品無く造り続けるのが命題のパズルのような仕事でした。
当時の販売数量ははっきり覚えていませんがおよそ30万石弱でしたか。1石=180リットル、一升瓶100本に相当します。30万石だと5万4千キロリットルくらいの生産量。大きい数字です。
酒類に賞味期限は無いが・・・
日本酒には賞味期限が無く、表示義務としては「製造年月」があるだけです。なぜなら、酒類はアルコール度数が高い為、腐らないからです。ですので1年前、2年前の酒でも飲んで体に害があるわけではありません。
(そもそも、日本酒は出来立てのものをすぐに瓶詰めする製品の割合は低く、ほとんどが貯酒タンクに半年から1年ほど寝かして酒の味を落ち着かせる行程が入ります。熟成古酒というジャンルのお酒は3年、5年、10年以上寝かしているお酒もザラにあります。)
しかしスーパー、コンビニとの取引先が増えるにつれて、製造年月の古いもの(といっても2か月、3ヶ月経過のもの)を荷受けしない、という会社が出てきました。これは、前月日付の社内商品在庫を、翌月早々に無くさないといけない、という事です。
日付のフレッシュローテーションを考慮しつつ、製造ラインの稼働能力を考慮しつつ(一升瓶、200ミリリットルカップ、180ミリリットル瓶など、瓶形や酒質によって詰め口できる製造ラインが異なる)、スタッフの人数の制約も考慮しつつ、詰め口できる酒質に注意しつつ(にごり酒や香りの強いリキュールを詰め口すると、ラインの洗浄に1日かかる)、営業からの急な要望に対応しつつ・・・。
「急激な需要変動があって、商品が無くなりそうだ!対応するため詰め口計画を変更してほしい、そうしないとコンビニから欠品ペナルティを受け商品が棚から外される~!」といった悲鳴にも似た要望がたまにありました。
それだけではありません。商品の企画段階で発注する資材(ラベル、瓶、キャップ、箱、飾りなど)があります。できるだけ無駄な資材を発注しないようにするには、販売計画がしっかりしないといけない。しかし予想以上に売れることもある。ではどれくらい余裕を持ったらよいか?といった検討を商品企画課、資材課と取り組んでいました。また、中元歳暮の贈答シーズンにはセット商品が販売されます。セット品はペタンコな紙の状態で納品されたものを箱に組み立てて、お酒を入れて飾りつけ完成品になります。それが10~20アイテムあると、「この商品が明日欠品するから大至急作って!!」とお願いしても、お酒も資材も人も急には用意できない。そんな事態にならないように(何度もなりましたが・・・)余裕をもって作るが、余裕をもって作りすぎると今度は在庫が余り売れ残る、、、という綱渡りのような緊張感を贈答シーズンには毎日味わいました。
更にさらに、倉庫スペースの問題もあります。社内の倉庫に収まる在庫量ならお金はかかりませんが、最需要期には外部の倉庫を借りて商品を在庫します。外部倉庫費用はなるべくなら少ない方がよいので、倉庫を管理する物流部から適正在庫で収まるよう、要望が入ります。「わかる、わかるんだけれど、製品部の都合もあってこれだけ週の前半に作らないと、後半で人手が回らないんですよ!」というようなやり取りが生じます。
こうなると、「そもそも商品数が多いのが悪いんだ!アイテム数を減らしてくれ!」という発想が出てきますが、「日本酒が売れない時代に、1本でも多く売ろうと頑張っているのだから、おいそれと商品を終売できるわけないだろう!」という正反対の正論が出てくるわけです。これを解決するには小ロットでフレキシブルな詰口が可能な生産ラインを新たに作る、という考え方もありますが、「このご時世に、設備投資が簡単にできると思うなよ!」というまたまた正反対の正論が出てきます。
そういった意見を一つ一つ丁寧に聞いて、理解して、現状の自社が所有する能力と制約を最大限に生かして、出来ること、出来ないことを切り分けて現実化する、というパズルのような作業を繰り返す日々でした。
結局のところ、各部署は部門最適を目指します。会社の全体像が見えないし、担当業務の目標設定に無いならば、気にする必要が無いから当然のことです。「それでは会社全体のコストダウンはできないのです!」と言えるのは会社の全体像が見えている部署が言うしかない。
会社全体の理想像を描いたうえで変動要因を全て押さえつつ、最適な解を追求する、という職場で学んだことはとても大きいと思います。
私の計画した数字いかんで、全国数百人の営業スタッフが得意先に謝りに行かなければいけない事態になったり、数百人の製造スタッフが資材メーカーや物流会社に謝りながら商品を緊急生産するような事態になりうる緊張感のある仕事でした。おかげさまで、いち部署にいながら営業、製造、管理部門のすべての部門の人と交流し相談を受ける貴重な機会と、クレームやお叱りを受ける機会を持つことができました。
担当した最初の1年は全然信頼を得ることができず、成果を出せず、仕事をするのが苦痛で仕方ない日々でした。2年経ち、3年経ち、少しずつ他部署の方たちから信頼を得られるようになり、仕事も円滑に回るようになりました。
この時期に「全体最適」「サプライチェーンマネジメント」といった考え方を骨身に沁みて学んだのだと思います。私の人生の目標である「中庸」は、この体験が基になっているのではないか、と思います。
もしかしたら、現在は需要予測ソフトを使ったり、色々とスマートに仕事をしているのかもしれません。私たちのやっていた泥臭い仕事のやり方は、いずれ見直されるべきものだと思いますが、当時のストレスフルな仕事経験は振り返ってみると自分の能力向上に繋がっていたのかな、と思います。
正直なことを言いますと、私も20代の頃は「仕事がデキるスマートな若手社員」像に憧れていました。学生向けの入社案内パンフの先輩紹介などに掲載されたいなぁ、と思っていた時期もありました。しかし、私が担当していた仕事はお世辞にも華やかな仕事ではなく、むしろ泥臭い、とても学生が憧れるような仕事ではありませんでした。ですが私自身がこの仕事にのめり込んでいく内に、いつしかそんな事も忘れていました。その代わりに、何物にも代えがたい「泥臭い仕事を厭わない」というタフさが身に付いたのではないか、と感じています。
酒造塾の担当
月桂冠で担当した仕事で興味深かったものの1つに「酒造塾」があります。これは全国の顧客(主に卸、小売業)をお招きして1泊2日の酒造体験をしてもらう、という年に1度のイベントでした。当時、月桂冠の内蔵と呼ばれる小規模の手作りできる酒蔵には但馬杜氏である小林敏明杜氏がいらっしゃいました。全国新酒鑑評会で金賞を何度も受賞した実力ある杜氏の指導の下、酒造りを学ぶことができる貴重な機会でしたが、その塾の事務局を数年担当しました。私も参加者に交じって一緒に酒造体験した年もあり、楽しく酒造工程を学んでもらうことの一助を担いました。
やはり自分で手がけた酒というものは愛着がわくもので、月桂冠のファンになってもらって販売に力を入れてもらう、というこの取り組み。全国の酒蔵でも同じような取り組みをされているかと思います。
もちろん月桂冠の醸造施設としては、大手蔵とよばれる大規模な醸造工場のほうがメインです。酒造会社の中では大きなプラントだったと思います。今考えてみますと、大きなタンクで酒を仕込むのは、とても難しいことだなと思います。酒造りとは菌が造るもの。発酵の話ですから、そもそも何が起きるかわからないものです。だからできるだけ小さなタンクで仕込みたいと考えるでしょう。しかしコストや効率を考えるとそうもいかない。安定したクオリティのものを大量に仕込むことのリスクや難易度を考えると、果敢に挑戦していたのだな、と今ならわかります。
最後の地、愛知、三重
そんなこんなで京都勤めも10年ほど経過し、異動の時期を迎えました。次の異動先は愛知県名古屋市。久しぶりの営業職でした。担当は名古屋の百貨店、業務用卸と三重県全域のエリア営業。名古屋の支店から得意先がある最南端の熊野市まで、片道200キロメートルくらいあります。広いですね、三重県。そのころはまだ紀勢自動車道が尾鷲まで繋がっておらず、熊野尾鷲道路もなかったため、海岸沿いの国道をひたすら走っていました。
農業、漁業、林業が盛んな県であり、工業地帯もあり、伊勢神宮を中心とした日本神道の中心地でもある。1年間という短い期間でしたが、食と酒、神道に関する私の興味が広がる機会となりました。これは現在にもつながります。
そして退職
月桂冠を退職したのは平成23年(2011年)3月。ちょうど後任者への引継ぎで三重県津市の得意先を回っている3月11日の午後2時46分、東日本大震災が発生しました。三重県でも大きくゆっくりとした揺れが感じられたのを強く覚えています。営業支店に戻ってからテレビで見た映像はあまりに衝撃的で、現実味が無く、理解できるまで時間がかかりました。
自分の人生もちょうど激変するタイミングであったため、自分や家族のことで精いっぱいだったこともあり、その当時の記憶があまりありません。東京に戻ってからも計画停電の話があったり、子供がまだ小さかったりと、生活が落ち着くまで時間がかかりました。
思い起こすと、書き足したいことがありそうですが、まずはここまで。
また思い出したら続きを書こうかと思います。