府中の酒屋、自己紹介・経歴紹介
こんにちは、大室元(おおむろはじめ)です。ようやく、noteの初ページを書くことができました。店の歴史をざっくりと書いたものになりましたが、そういえば私の自己紹介、経歴紹介がまだでしたので、こちらもざっくりと書きたいと思います。
酒商しめのうちの後継
家業である「しめのうち」は創業170余年続く、東京都府中市の酒販店です。武蔵国総社「大國魂神社」の境内にて開業したため、”しめ縄の内側”のお店と言うことでしめのうちという屋号を当時の宮司さんに名付けて頂きました。
私で大室家11代目。江戸時代より家系図が残っているのは貴重だな、と思います。酒の販売を始めたのは大室家6代目の「甘文(あまぶん)」(甘酒売りの文治郎)から。甘酒や白酒を行商していたそうです。
神社の境内で蕎麦や酒のお店を始めたのは7代目市五郎。こちらが店舗として開業した始まりになります。もともと府中は武蔵国の国府(今でいう県庁)があった町。江戸時代の府中は徳川幕府の天領で甲州街道府中宿、という宿場町でした。現在では国の天然記念物に指定されている「馬場大門のケヤキ並木」には馬の市が賑やかに立っていたそうです。
生まれ育った環境、そして就職
私が生まれたのは昭和51年。府中生まれ、府中育ちです。生まれたときから酒屋という家庭環境でしたので、自分も大人になったら酒屋を継ぐのだろうな、と漠然と考えていました。逆に言うと自分の将来の夢というものが無かった。自分の人生には決められたレールが敷かれている、と思い込んでいた節があります。海外に飛び出すぞ、といった野望を抱くこともなく。それなりに平和な生活を送ることが出来たことは、今思うと感謝ばかりです。
大学まで、地元である多摩地区内にて進学。狭いエリアで生活が完結していましたが、世界に誇る大都市東京、という土地柄を考えたらラッキーな話です。いざ就職活動をするという時期になった時、とても悩みました。このまま外の世界を知らずに家業に入っても、狭い世間しか知らないでやっていけるだろうか?そもそもこれからの時代、酒の小売店が生き残れるのだろうか?と感じていました。時代は酒のディスカウント店が大流行し始めた頃。また酒類小売免許の人口基準、距離基準が緩和される過渡期であり、スーパーやコンビニに酒類小売免許が次々に下りるようになり、まちの酒屋は無くなってしまうのではないか、という時期でした。いまではありえないですよね、スーパーやコンビニに酒売り場が無い、なんて。
世の中の流れを知ること、酒類業界のことを知ること、酒そのものを知ることが今の自分に必要なのではないかと考え、就職活動をした結果、京都の酒造会社「月桂冠」に採用されたという流れです。就職協定が無くなった直後の1997年は山一證券の破綻、消費税5%に引き上げ、アジア通貨危機など景気が急激に減退する要因があり、就職活動自体が非常に困難になったはしり、就職氷河期のはじまりの時期でした。
酒造会社「月桂冠」
さてご存知の方も多いと思います、月桂冠株式会社は京都市伏見区の酒造会社です。370年の歴史ある、就職当時は清酒販売数日本一の会社でした。そのあとに白鶴、大関、松竹梅、、、と灘・伏見の会社が続いていました。
月桂冠では営業職として福岡支店に2年、名古屋支店に1年勤務。そして京都の本社では情報システム部、営業推進部に合計10年在籍しました。思い返すと懐かしい・・・。
京都で担当した仕事はまず、情報システム部では基幹システムの保守運用。主に経理、物流、販売情報のシステム運用を担当しました。初めてプログラミングを勉強したのもこの時期。COBOL言語でした。今ではすっかり忘れてしまいましたが。
入社6年目くらいだったか、営業推進部に異動。主に商品の詰め口計画(ボトリング計画)と、全国支店の販売計画をまとめる仕事、それと酒造塾という得意先向けの日本酒製造研修を担当しました。月桂冠でのことについては、また別のnoteで改めて書きましょうか。
京都での暮らしが、今日の私に多大な影響を及ぼしたと思います。おかげさまで、いち部署にいながら営業、製造、管理部門のすべての部門の人と折衝する貴重な機会と苦情、相談を受ける仕事をすることができました。その時期に「全体最適」「サプライチェーンマネジメント」といった考え方を骨身に沁みて学んだのだと思います。
京都とのご縁
また、京都にいたときの会社の先輩に誘われて、たまたま入会した「京都ローターアクトクラブ」という社会奉仕団体も多くの学びと出会いがありました。福岡に居たときに悔いが残ったことが1つありました。それは「福岡に住んでいる友人をつくる」事でした。同僚、取引先や同業他社の知人はできても、それは地元の知人友人とは言えない。せっかくその土地に住むのだから、その土地の人と交流したい、という思いがありました。その願いが叶ったのは、とてもラッキーだったと思います。ローターアクトクラブに在籍したのは5年くらいでしたが、かなり濃厚でした。仕事で京都に来たはずなのに、余暇の相当な時間を社会奉仕活動に費やした気がします。そして運が良かったことに、会員にとても恵まれました。独身寮に住んでいた私にとって、第二の家族のような集まりでした。また、さすが地元京都市民の団体ですね、伝統産業や芸能、行政、至る所にネットワークが張り巡らされているメンバーたちと共に活動することで、京都という土地をより深く体験することが出来たのは無形の宝となっています。その経験は京都を離れた今でもつながっています。
故大倉敬一相談役のこと
月桂冠の故大倉敬一相談役(私の会社在籍当時は会長)とのエピソードがありました。ローターアクトクラブを提唱している京都ロータリークラブという職業奉仕団体がありますが、クラブの長を務めるなど重鎮だった、大倉会長。日本酒造組合中央会の会長を務め終わった後の時期だったでしょうか。ローターアクトクラブに入会したことを会長・社長室に報告しに行きました。日本酒業界の大ボスみたいな方に直接話をすることなど今までなく、私も25歳くらいでしたので、非常に緊張したことを覚えています。京都ホテルオークラで行われている例会場にお越し頂いたり、若手社員の一員として会長に御供して京都の歌舞練場や花街(芸舞妓さんがいるお店)に随行したこともありました。この時の経験が、いま懇意にして頂いている奈良の花街、元林院さんとのお付き合いの素地になっているのかもしれません。
東京に帰ってきて
東京に戻り、家業に就いてから試行錯誤が始まりました。試して失敗して反省して・・・の繰り返し。事業を展開する方向性も決まらず、まだまだ未熟でした。ネット通販の取り組み、日本酒コミュニティ運営、日本酒教育事業の取り組み、各種イベントの実施、飲食店の開業、オリジナル商品開発・・・手探りを続ける中で、経験を積むことが出来ました。
現在は店頭小売ではなく、業務用と個人向けの販売所として営業しています。現状は「続いている」けれど酒屋としての、かつての元気は残念ながら乏しいです。しかし過去の歴史を振り返る中で、実は当社も順風満帆だた訳でもなく、時代に翻弄されつつ、適応し現在まで存続してきたのだということが最近ようやく実感してきました。ご先祖様、ありがとう。
隣接している物件で「なおらいスタンド宮」という”日本酒と府中野菜の美味しい立ち飲み屋”を平成28年(2016年)8月にオープンしました。今回のページのトップにある写真は、こちらの宮にて開催した「まちゼミ」のヒトコマ。「はじめての日本酒講座」を開催したときのものです。4タイプの日本酒飲み比べを行いました。このようなイベントも不定期で開催しています。
現在の挑戦の話は、また別のnoteで書きたいと思います。
青年会議所酒類部会へ参加
府中に戻ってきて入った青年団体が青年会議所(JC)です。日本各地にあり「明るい豊かなまちづくり」を目指す20歳から40歳までの青年奉仕団体で、私は「(公社)むさし府中青年会議所」という地元の団体に入会しました。奉仕・修練・友情というスローガンのもと活動している若者の団体でアメリカで始まった運動です。日本では70年以上の歴史があり、全国に700ちかくの会議所があります。
そんな全国の青年会議所メンバーが集まる業種別部会「日本青年会議所 酒類部会」というものがあります。この団体は酒類製造業・卸売業・小売業の製配販三層が集い対等に接することが出来る、日本でも珍しい業界団体です。名だたる酒類関係企業の経営者の先輩がいらっしゃり、同世代の同志がいます。気さくにお付き合いして頂けるのはとても勉強になります。
府中の各種団体へ参加
人との繋がり、という意味では、地域団体のことも少し触れたいと思います。地元府中に帰ってきたことで、各種団体に所属することになったり、お役を頂くこともあります。
酒販組合、社交飲食業組合、観光協会、商工会議所など、経済団体の会員であったり、役員であったりします。幼稚園のPTA会長も務めさせて頂きました。子供の教育を考える機会や保護者の方々との交流の機会を持つことが出来ました。その他、先ほどの青年会議所、地域を守る消防団、大國魂神社の氏子青年崇敬会、神社の例大祭を盛り上げる囃子保存会に所属。地域を支えるお手伝いをしています。
また(一社)まちづくり府中というまちづくり会社の理事も務めており、府中市の中心市街地活性化を促進するための取り組みを、多くの方たちと共に、取り組んでいるところです。
自己紹介、といいながらあまり自分のことを語っていないようですが、出会った人たち、会社、所属する団体の説明をすることで、私の一端をご理解いただけたらと思います。それでは、また次のnoteで。