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狛狗のあしあと
2024年8月10日 18:26
心を許すことと全身全霊を他人に委ねることは違う。友人であっても親ではない。家族であっても夫婦はあくまでも他人だ。受け入れてくれたからすべてをさらけだして、相手に依存してはいけない。過干渉の結果、どうなったかというと自分の処理を自分でできない大人になり、問題解決が非常に困難で、結果、社会や周囲と摩擦が起き生きるのが苦しい。生きている意味がわからない。なぜ自己を貶めてしまうのか。ころんだ子を
2024年3月22日 09:05
自分に都合が悪い人がどうにかなれと常々願う者がいた。必死なのはわかるが都合の悪い相手が居なくなれと願うことは「魂の殺人」であり、殺人者と同じような感覚を疑似体験している。 その後、その方が最後に連絡をよこしたときは、ご祈祷に金を払うからなどと言うほどになり、あまりにもなので話を聞いてみた。本人にとっては重大問題で疲弊しているのだが、整理して要約すれば両親の介護が大変になったという話だった。
2024年2月28日 07:03
針金くらいでもいいから一本筋が通るようにスッと姿勢を改める。その「スッ」のトレーニングが教えられてきたことなのだ。神様とかスピスピして「やったつもり」発言でできることなんかないんだわ。自分でやらなきゃ経験にならないのよ。経験が自分を成長させるんだから。
2024年2月28日 06:55
依存心は程度や限度の問題。それがわからずエスカレートして注意や止めろと言われてるのに話を聞かず、ブロック、削除。現実から逃げて逃げてまた今年、同じ時期に乳飲み子騒動。「乳飲み子をやめなさい」というと何故か全力で拒否をする。大人になりたくない、この一心なのか。
2024年2月25日 20:41
苦しんでいる自分は助けられて当然だ困っている自分は助けられて当然だ泣いている自分は助けられて当然だ「してもらって当たり前」だと思っている当人は、他人からそれを指摘されても意味がわからないしまったく検討がつかず困惑する、もしくは反発をする。なにせ「当たり前」のことなのだから、わかるはずもないだろう。「当たり前」がどういうことなのかというと、「水道の蛇口を捻れば水がでる」くらい当たり前のこ
2024年2月25日 19:32
学生時代、フランスに研修旅行に行ったときに大きなショックを受けた。地下鉄で子供がスリ(泥棒)をしたり、町には物乞いがいるのだ。向こうでは日常の光景のようだけれど私はこれが大変なショックだった。人のものを平然と奪う行動をすること。少年たちは当たり前のように観光客に近づき、鞄に手を伸ばして奪おうとする。悪びれることもなく。地下鉄にのっている周囲の大人もそんなことは日常茶飯事なのか、自分の身を守り