2020年月記・水無月
六月一日。会社へ行き、帰宅後は原稿の日々。食事を作る余裕が消え、完全に出来合いの弁当になる。太る。
ネットで調べ物をしていて見かけたとある大作娯楽小説を購入する。ハードボイルドの流れを汲む冒険小説だ。
読み始めて気になったのが、主人公の人物像――というか、ハードボイルドにありがちな主人公像――だ。
彼らの大部分は三十代中盤から四十代後半の男性である。アクション映えと大人の分別と色恋沙汰を同時に盛り込めるからだろう。そして、ルポライターやカメラマンや元警官・自衛官といった非常にソリッドな肩書きを持っている。もちろん、その肩書きに恥じない知能と雄弁さと身体能力を備えてもいる。ボッコボコにぶん殴られても凹まないし、何かの事件にどっぷり浸かっていても、それで経済状況が逼迫したり生活に困窮したりはしない。車は馬鹿デカい排気量の4WDで、靴やカメラやジャケットにはちょっとしたこだわりを持っている。地方が舞台の作品でない限り、住まいは渋谷新宿から五駅前後離れた都内のマイナー駅である。食事のシーンは多いけれど、何故か腹いっぱい食べることはなく、大概は食欲が失せて食べ残す。他者に対して年齢不相応な達観を抱いていて、語る音楽はジャズ。飲むのはウイスキーである。
この主人公像と設定。バブリーと言おうか、「四十年前の学生が憧れる大人像」と言おうか、「オッサンの理想のオッサン」と言おうか……
正直なところ、読んでいて「また君か」となってしまう。
一つ二つ外してくるか、もしくは「探偵はBARにいる」のように、あえて逆張りしてくるパターンもあるけれど、大方この範疇の人物だ。
なんでこうなってしまうのか?
そもそもが冒険小説は娯楽小説なのだから、読者はあまり斬新さは求めていない。とっつき易さと、気楽に安心して楽しめることが大事なのだ。つまり、僕たちの書く官能小説のように、ある程度の「売れるテンプレ」が存在しているのだろう。そしてこれは憶測だけれど、ハードボイルドや冒険小説というジャンルは、新しい読者を意識しなくても既存の読者層だけで売り上げが確保出来てしまうのではなかろうか。
つまり、下手に新機軸を模索してしまうと、既得権益を失うことになりかねないのだろう。浮きが確定している以上、欲をかかずに安全牌を切ってさればいいのだ。
けれど、「冒険小説が『冒険』しないでいいの!?」とも思う。
もちろん、変り種の主人公がいないわけではないけれど、それはやはり「一風変わった」で括られる作品でしかない。ハードボイルドの主流にはなっていない。亜流のさらに傍系だ。
鮫島警部や黒木豹介にキャラを変えろとは言わない。だけどもう少し幅の広い作品を出版してくれないものだろうか。
自分で書くしかないか。
冒険小説への愚痴りついでになるが、その昔とある警察小説の作中に、ラジオからセックスピストルズの曲が流れるシーンがあった。轟音の演奏と共にシド・ヴィシャスのシャウトが聴こえる……というような描写がされていたのだが、ピストルズはギター一本でとても簡素な演奏だし、そもそもシドはベーシストなのでコーラスしかしない。恐らく、過激な音楽=ピストルズ=シド・ヴィシャス程度の認識で作品に登場させてしまったのだろう。きっと、編集者は編集者で「さすが先生! 若い文化にも造詣が深くてらっしゃる!」のような反応しかしなかったのではなかろうか。僕はその小説を読みながら「オッサンが見当違いの背伸びをしちゃったんだなあ」と一掬の涙をこぼした。
今にして思えば、あれは多分、若者文化を取り入れた冒険小説・ハードボイルドを書いて大成功した大沢在昌と馳星周の影響なのだろう。「俺だって書けるんだぜ」と、オッサン作家(もちろん何人もの)に火が点いてしまったのだ。
六月九日。担当者からメール。「第二章までですでに規定枚数の半分まで行ってる」とのこと。かなり大幅に削る必要があるだろう。辛い。
六月十日。この日は有給をとって一日中原稿と格闘していた。しかし僕の部屋の室温は三十三度。ここのところの急激な温度上昇に未だ身体が慣れていない。辛い。睡眠時も扇風機を回しているのでかろうじて睡眠がしっかり摂れているのが救いか。
途中で気晴らしにネットを巡回していたところ、翌週に参加する予定だったサバゲが中止になっていた。辛い。
……などと思っていたら、別のフィールドで開催されるゲームに皆で参加することになった。森林フィールドらしいので衣装が悩みどころである。
六月十二日。上映中の「囚われた国家」を観に行く。なにがきっかけかは知らないけれど割とコンスタントに撮られている印象があるディストピアSF。
エンタメ作品かと思いきや、ミソとなる敵のエイリアンやSFガジェット群が、しっかりと画面に映されない。真っ暗な中のシルエットだったり、ブラウン管モニタ越しの映像だったりと、意図的に詳細な絵面を排除しているのだ。「クワイエット・プレイス」のエイリアンのパターンである。(あちらは最終的に思いっきり映像に出てきたけど)
「そろそろはっきり映るかな?」という欲求があるので、自然と映画に引き込まれてしまう……のはいいのだけれど、結局はっと眼を奪われるような凝った映像は最後まで映されることはなかった。拍子抜けである。しかし、途中で気付いたのだけれど、この作品はSFの形を借りた風刺映画でもある(と思う)。なので、そういったエンタメ的なキャッチーさはあえて排除したのだろう。
しかしながら「並んで水辺に立つロボット」の宣伝スチールをあれだけ沢山展開しておきながら、肝心のロボが映画本編では……というのはちょっと反則な気がする。
シネコンを出ると豪雨。家に帰ったときには上から下までずぶ濡れだった。辛い。
六月十三日。半日かけてテクストを削る作業。86キロあったところを59キロまで減量した。無駄なセンテンスが多かったということだろうか。辛い。
そろそろいい季節なのでランニングを始めることにする。
人間の体内の脂肪は二十~三十分ほど走るとカロリーとして消費されるらしい。ということは、三十分以上走ればそれがダイレクトに脂肪燃焼に繋がるわけだ。そこで、DAPにだいたい三十分――往路復路で各四曲ずつになるように――に相当する曲を入れる。要するに、聴いた曲数が折り返しのタイミングの目安になるというわけだ。
六月十五日。帰宅すると封筒が一通届いていた。開けてみると、NEMOPHILAというバンドのアー写である。なんで僕に送られてきた?
たしかに僕は以前にオフィ通でNEMOPHILAのCDを購入したことがある。そのときに購入特典としてアー写が付属することが告知されていたのだけれど、いざCDが到着すると特典は入っていなかった。改めて公式サイトを開いたところ「特典は終了しました」とのこと。そのときは確か土日を挟んでいたので、特典がはけてしまってもサイトの更新が出来なかったのだろう――と予想した。残念だけれど、仕方が無いことだ。
もしかするとそのときの特典がいま届いたのだろうか。
そう思って公式サイトを見ると、まさにその通りだった。たぶん文句を言って騒いだ人がいたんだろーなー……
ただ、そこまで誠意を見せてもらっては応援せざるを得ない。そう思ってライブ予定を調べたらしっかりソールドしている。営業努力というのはこういうところに繋がるのだ。
六月十六日。担当者から連絡。ひとまず減量は成功。少し安心する。
そもそも原稿には「担当者に提出する分」と「書き進めている分」が存在していて、後者に関してはもう最終章を残すのみとなっている。もちろん、前者次第で後者はどんどん姿を変えざるを得ないのだけれど、充分に書き進めてあるというだけで心に余裕が生まれる。もっとも、一番辛いのは著者校正なんだけれど……
この日、久しぶりに夜中のランニングをした。
一定のペースでちゃんと走ったのは半年ぶりだったのだけれど、驚くほどに筋力が落ちている。ぐるりと走って戻って来たときには腰から下がガクガクになっていた。それも三十分どころか、わずか十五分程度のランニングで、である。(ちょうど四曲聴き終えたところで家の前に戻って来たのだ)
確実に向こう三日間が筋肉痛でエラいことになるだろう。
そして土曜はサバゲだ。辛い。
ついでになるけれど、DAPに入れた曲の中に「君の知らない物語」があった。星明りの夜道を走り出す僕の耳に、イヤホンからあの曲のあの歌詞が流れてくる――叫びたいようなカタルシスに襲われた。いい加減僕も厨二病である。
六月十八日。買って放ったらかしにしていた山崎はるかのアルバムを聴く。もっとチャラい音楽性かと思ったけれど、かなりストレートなアニソン的パワーポップである。属性的には平野綾の1stアルバムに近いと思う。オッサンの身体にはときどきこういうものが必要になるの。
六月二十日。朝五時起床。六時過ぎに家を出て、本厚木に向けて出立する。駅で友人と合流し、厚木のさらに奥地にあるサバゲ会場へ向かう。
かなりの傾斜地に作られたフィールドだと言う事前情報はあったものの、実際に着いてみると想像以上に峻険なフィールドだった。ほぼ山道なのだ。おまけにところどころには小さな沢まである。サバゲフィールドと言うよりも、ただの山林なのだ。
実際、いざゲームが始まると「撃ち合い要素」よりも「藪こぎ」や「ヒルクライム」と言った要素のほうが強かった。生え散らかした雑草は我々の背丈ほどもある。視界が見えぬままアンブッシュしていると、これはサバゲと言うよりもゲリラ戦のシミュレートなのではないかとすら思えてくる。
だいたいにおいてサバゲフィールドには蟲が多い。日中しか人がおらず、その連中もほぼ決まった場所をうろうろするだけだからだと思う。ただ、このフィールドの蟲の量はケタ外れだった。毛虫からゾウムシからクモからアブからオタマジャクシまで、呆れるほどの小型生物の数である。挙句の果てに同行者はヒルに吸い付かれる始末だ。
体力と、あとは藪をブチ抜けるパワーのある銃さえあればかなり楽しめるフィールドだと思う。晩秋辺りの植生が減り始める時期がベストなのではなかろうか。
六月二十一日。半日かけて原稿の手直し。人によって色々あるけれど、僕は担当者の言う通りに修正するようにしている。実際、そうしたほうが結果的に娯楽要素のバランスが良くなるからだ。とは言え、そうすることで自分の想定していた流れとの齟齬が生じることもある。原稿の修正にはそう言ったドキドキ感が常について回る。
この頃、ネットを徘徊していて「今日は本屋で○千円も買物をしました!」という発言に出くわした。その発言を裏付けるかのようにずらりと並んだ文庫本の写真まで添付されている。しかし、よくよくその投稿に眼を通せば、「本屋で買物」というのは「ブックオフでたくさん古本を買った」という意味だった。
ブックオフは本屋ではない。
ブックオフの存在は物書きにとってはジレンマだ。
自分の本が二束三文で取引される場所なのだから。
しかし、だからと言ってブックオフを否定することは出来ない。
「他の古本屋はどうなるの?」という話になるからだ。物書きだって古本屋は利用する。稀覯本を探して古本屋巡りだってするし、懇意にしている古本屋がある物書きだっている。物書きが経営している古本屋だってあるくらいだ。ブックオフは本屋ではない。
「新古書店としてブックオフが気に食わない」という理由だとすれば、それは薄弱だ。一月前に出た本を「ほぼ定価」くらいの値段で売っている古本屋など山ほどある。ブックオフは本屋ではない。
ならなぜブックオフだけがジレンマの対象たりえるのか。
上述した「ブックオフを本屋だと思っているユーザ」の話に戻る。
イマドキの普通の人は、「ブックオフ=本屋」という認識を持ってしまっているのだ。上述した人物以外にも僕は実際にそう口にした人を見たことがある。そんな認識が存在するからこそ、「本屋さん(ブックオフのこと)でいっぱい買物しました。土日は読書三昧です!」のような書き込みがされ、なおかつその書き込みに対して、ブックオフでの買物と分かっていながら「さすが読書家ですね」「羨ましいです」などというレスが着くこととなる。ブックオフは本屋ではない。
「○○先生の本、ブックオフで買いました!」と言われてショックだった――という物書きの哀しい述懐を誰でも一度は眼にしたことがあるだろう。「狭い世界のアイデンティティー」の第二巻で浅野いにおが漫画家モドキみたいな男に言われていたあれだ。あれこそが「ブックオフ=本屋」族なのだ。そして「ブックオフ=本屋」族は続々増殖中である。ブックオフは本屋ではない。
彼らはブックオフを「ちょっとお得な本屋さん」さんとして認識しているから、「○○先生の本を大人買いしちゃう自分」「本を安く買う賢い読書家の自分」「本が売れない時代に出版業界に関与している文化的な自分」という満足感すら抱いてブックオフを利用する。ブックオフの利用には「探したけど見つからないから」「定価で買うほどの価値が見出せないから」「だから仕方なく古本屋で買った」という後ろめたさがないのだ。ブックオフは本屋ではない。
だから物書きはブックオフが癪に障るのだ。苛立たしいジレンマを覚えるのだ。
「ブックオフ=本屋」という認識に関してブックオフだけを責めることは出来ない――と僕は思っている。「ブックオフ=本屋」という認識に疑問を持たぬ人々のほうがおかしいのだ。(もちろん、この認識を流布せしめたのが当のブックオフである可能性も考慮した上で、だ)
もちろんブックオフの利用は悪いことではない。僕だって買物をする。立ち読みだってする。ただ、買ったり立ち読みしたりする本は、それでも作者が困らないくらい売れている作品だけにしてほしい。不当にプレミアが付いているような本とかね。
ブックオフは本屋ではない。
六月二十七日。「ガンバの冒険」の展示会を観に池袋まで出る。実に四ヶ月ぶりの池袋だ。会場のマルイはそこそこの人出。今年初めにパトレイバー展を観に来たときは下のフロアまで続くほどの行列が出来ていたのだけれど、ガンバ展は哀しいほどガラガラ。
ときどき耳にする「あの頃のあの名作を今の時代にやれば絶対にヒットするのになんでやらないの?」という意見。あの意見に対する一つの返答だ。
ガラガラだったおかげで、場内で流れている映像をドセンで観ることが出来た。最終回をまるまる一本観てしまった。声優の芝居もキャラの動かし方もキャメラも、今のアニメとはまるで違う文法で作られている。非常に興味深い。
事前情報では物販がほぼ売り切れ状態とのことだったが、ちょっと欲しかったノロイのTシャツも買えたし、挿画の薮内正幸の冊子(ご本人の記念館でしか売られていないもの)も購入出来た。
展示物に関しては複製が多かったのが残念だけれど、それでもあの時代の出崎作品の異様な圧が伝わってきた。もう2スパンでいいので展示物を増やせなかったものか。男鹿和雄の背景がもっと観たい!
どうせ小金を持ってるジジババしか観に行かないのだから、内容を多くして有料にしても良かったのではなかろうか。ただ、あの「圧」を大量に浴びせられたらどうなるのか……とも思う。
それにしても、いまの小学生はこれから三十年後に「鬼滅の刃」展を観に行った時に同じ感想を抱くのだろうか。
夕方になり、ロサ会館のすぐそばにある「新珍味」へ向かう。台湾独立運動の日本支部(!?)のような場所だった中華料理店である。同行者はゲーム業界のアニキ達(有名人なので名は伏せる)。メシを食いながらの話題は島田洋七から松本嵩春、そしてANNに至るまで嗚咽を禁じえないほどのサブカル。僕はサブカル者ではないので知ったかぶりを交えつつ相槌を打つことしか出来なかった。そもそも「アガルタ」が書き下ろしを入れて完結していたことなど誰が知っているというのか。アガルタが話題に出れば当然「破壊魔定光」の話題になる。一巻ずつ読んでても内容が分からない漫画って途中で買うのを止めちゃうんだよなあ……
肝心の中華料理は、日本向けにローカライズされた感じの比較的親しみ易い味わい。焼肉屋で食する半レア品とはまるで異なる、がっつり火の入った大ぶりのレバー。でっかいネギがゴロゴロ入ったチャーハン。ニンニクのがっつり入った豆苗炒め。そのあたりは昔なつかしの中華食堂……とはちょっと違うジャンク感があった。
六~八百円くらいのメニューが並ぶなかで、なぜか酢豚だけが千六百円もした。注文して届いたブツは、割と当たり前な味付けである。なぜ抜群に値段が張るのか、誰にも分からなかった。(豚肉が塊肉の揚げ物だったので、その辺りのコストと技術料なのだろうかという曖昧な結論に至りはした)
六月二十八日。前日の同行者から頂戴したメンチカツを揚げる。「格之進」というハンバーグ屋の商品で、TVで紹介されたために二ヶ月待ちらしい。「メンチカツが半分浸るくらいの量の油で揚げるように」と指示されているのだけれど、素人にその量は難しい。結局、ぎりぎり沈みきらないくらいの量で揚げて実食。揚げている段階でかなりタマネギ含有量の多いメンチカツだとは察していたのだけれど、いざ食べてみると、不思議とタマネギの主張は薄い。複数の合挽き肉が混じり合った食感に完全に調和しているのだ。さらには挽肉だけでなく薄切りのローストビーフのような肉まで入っている。メンチカツの概念をちょっと超越しちゃってる感じ。
六月三十日。本来だったら今月はエヴァの新作だったのになあ……などと嘆じつつ六月は終わった。観たいような、観たくないような。
今月読んだ小説や漫画で面白かったもの。必ずしも新刊ではないです。
「剥かせて!竜ケ崎さん」……第一巻の発売当初は出オチかな~などと思っていたけれど、読者が求めているものをきちんと描いているのが凄い。このまま息が続くまで主人公カップルのイチャコラ話を続けて欲しいものだ。この手の「異種族との恋愛モノ」の元祖とも呼べるとある漫画作品では、もはや主人公が影も形も消えうせていてサブキャラ同士のエロ話しか描かれていない。あんな風にネタが尽きて迷走しないことを切に祈る。
「ハルメタルドールズ」……メタル界隈を描いた漫画というと、十年ほど前に映画にまでなったあの有名作品が思い浮かぶ。あの作品は完全に無知ゆえの悪意を下地にメタルを戯画化していたけれど、この作品はどうなるだろうか。「メタル=デス声」という認識には異を唱えたいものの、いまの若手のメタルバンドはほぼグロウルとスクリームのスタイルばかりなので何も言えねえ。オジーやインギーのパロディも入っているので、今後のメタル描写にもっと幅が出ればいいなあと思う。主人公の使うフライングVは67年製を元にピックアップを交換したものだろうか。そもそもギブスンVはマホガニー材なのであまりソリッドに鳴らないからメタルには向いてないと聞いたことがあるのだけれど……
「TSUGUMI」……とある同業者から勧められて今さらながら読んでみた。じんわりと響く名作だ。純文学と言うほど押し付けがましくなく、かと言って娯楽小説と呼べるほどのサービスはない。ほどほどに内省的であり、ほどほどにキャッチーなのだ。この、一歩踏み込まない感じが、どうにも青春小説である。遣る瀬無い。「僕だったらもっとここをこうしてこんな風に仕上げるのに!」という制作欲求がむんむんとわき上がってくる。この小説と思春期に出会っていたら、僕はどう感じただろう?
一部敬称略とさせて頂きました。ご了承下さい。