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生温かくて、婉容な、4次元女子の幻影-REBECCA

こないだ「REBECCA NOSTALGIC NEW WORLD TOUR 2024」を観に行ってきたんですね。場所は昭和女子大学人見記念講堂。

三軒茶屋にある女子大の施設です。大学の施設のくせに、クラシックコンサートだけじゃなくて、テレビの音楽番組の収録や商業ライブの会場としてもガチ活用されるロックな、けど由緒ある講堂なのです。

とはいえ、女子大。

普段なら絶対に足を踏み入れてはいけない女子大。
そんな禁断の世界(おじさん)の中に入れるとあって、ライブに行くたびに無益に、無駄に、ささやかにドキドキしていたもんです。

今回はREBECCAということで、REBECCAっぽい妙齢の男女な観客が大集合なわけですが、大学構内には昭和女子大生たちチラホラ残っておりました。秋の訪れを感じる赤焼けの空の下、友人たちとベンチでなにやら談笑するその佇まいを見るにつけ、やはり無益に、無駄に、ささやかにドキドキしながら講堂までの道を歩く。

さてREBECCA。
大ヒットした「フレンズ」を含むアルバム「REBECCA IV 〜Maybe Tomorrow〜」が1985年。その後、立て続けに「MONOTONE BOY」「RASPBERRY DREAM」「One More Kiss」などヒットソングを出して、1989年、解散。

僕はその頃、小学校4~6年生でした。
ワケあってリアルタイムで聴いてました。

当時の僕は貧乏少年ながら中学受験沼にはまっていて、電車で20分ほどの北浦和駅にある学習塾で授業をうけつつ、帰宅前には必ず駅前のレンタルCD屋さんに立ち寄って、異世界にトリップしてました。なんだか、未知の音楽に溢れるその空間は、物心ついてから居場所"感”を探していた僕にとっては憩いの場所だったような気がします。

学校で軽いいじめを受けていたのもあったかも。いや、でも、そんなに思い悩んでいなくって、だって、11歳そこらの男の子が、世界のリアルを高解像度に掴めるわけないじゃないですか。だから、つらいこともあるし、たのしいこともある、そのときどきで自分の感情も上書きされていく、その繰り返しを生きていただけだと思うので、それほど深刻な話でもないはずです。

ただ、なんとなく、学校にも家にも塾にも居場所がないという感覚だけはつきまとっていたような気がします。

貧乏だった親は、当時のバブル経済に乗ってそこそこ所得が増えたときに、「いい学校に入っていい会社に就職」という昭和のテンプレ価値観に我が子を乗っけるべく余剰所得、あるいは通常所得を切り詰めて我が子たちの教育費に投資してくれていたんですが、かたや11歳そこらの男の子。将来や未来感が見えるはずもなく、ただ幸運にも、授業の理解力は高かったので、受験勉強という競争社会でもそれなりに生き残り続けておりました。それが優越感とか達成感を感じるほどの社会性はなく、たんたんとでも少し違和感を抱えながらも毎日を過ごしていく感じ。

ちょっとだけ、「自分が、自分の考えの及ばないところで、特定の”どこか”に向かおうとしている」。そういうメタレベルでのアレルギー反応がうっすらと続いていて中学受験が差し迫る12歳の頃には、塾の授業も夜9時までつづき、それでも授業終わりにレンタルCDショップに1時間は居座って、試聴コーナーでおすすめの曲を聴き入り、ここではない世界にどっぷり浸って現実社会とのバランスをとっていたのでしょう。

そんな「何も知らないけどどこかに行きたい男の子」の僕に提示してくれたREBECCAのみたこのない世界観。

その世界とは、もちろん「女の子」という世界。だって、思春期直前の男の子にとって、女の子って、実は男の子とあまり変わらないじゃないですか。もちろん、教育的指導や道徳的説法における(当時なら儒教的、男尊女卑的な「かよわい女性」としての)女の子像を知識として学ぶけれど、それは目の前にいるクラスメートを「女の子」として認知するほどのリアリティはなかったように思います。

そこにきて、REBECCAの、NOKKOの歌詞の世界。そこには私が会ったことも見たこともない「女の子」がちゃんといて、彼女らがどこかのリアルな世界を躍動している、その姿に11歳の男の子は衝撃を受けたのです。なんじゃこりゃー!テレビの音楽番組でアイドル(当時なら松田聖子とか)が歌っている「女の子」と全然違うじゃんかーって。

友達が「他人よりも遠い」(『フレンズ』より)なんて、考えたこともないし、8月の気だるさを「夏のめまい」(『真夏の雨』より)なんて表現するすべを知らなかったし。「月曜日が嫌い」で「初めて恋に落ちた日」に「想い出ひとつも持たずに家を飛び出して戻らな」(以上『MOON』より)い勇敢さを女の子が持ち合わせているなんで想像も出来ないですよ。

「なんか女の子って大変そうだけど、楽しそう!」

その感情を得たのは、まだ、マスターベーションを覚える前だったと記憶しています。

なんだろう。自分の知らない世界だけど確実に存在するであろう「にんげん」がメロディや歌詞を通じて体感できるのが音楽の素晴らしさの一つで、奇しくも幼少期にそのスコープを持っていた自分の感性には振り返って感謝しかないんですが、とにかく当時、塾帰りにトリップできる音楽の世界に夢中だったんですね。言語化できないいまの自分の不安や違和感を、言語じゃないところで解消してくれる世界に。

そんな世界の一つとしてREBECCAの描く女の子の世界観にハマっていくわけです。

都市の喧噪・エネルギーに引き込まれながらも、そこに入り込むほどに深まる孤独感とか、即物的バブル社会や複雑化する人間関係の不条理と健気にでも力強く向き合っていくアイデンティティ探しの問題とか、そういう「生温かくも婉容な女子像」みたいのは、個人的にはその後に出会った岡崎京子の漫画で強化されていくのですが、実際の所、REBECCAと岡崎京子って活躍したのがほぼ同時期だったんですね。やっぱり当時、一定の支持を得ていたカルチャーだったのでしょう。

ところで私は「男の子」だったので、もちろんそうした女子の心情やカルチャーに共感も理解もできるはずもなく、ただただ4次元の存在でしかなかったのですが、だからこそ少年には刺激的な存在として僕の脳内に一定の割合で存在し続けて、その後の女性観に影響を与えたことは確実なように思います。
それって、いまなら2次元に傾倒しすぎて3次元の女子を直視できない、みたいなことでしょうかね。歌詞や曲の中にしか存在いないREBECCAという4次元世界の女の子に夢中になりすぎて、目の前の女の子を実態を感じられなくなっていった、そういう「副作用」があったように思います、それは極端か。いや、本当にそうだったも。


当時、あるいはそこから大学生くらいになるまで、REBECCA的女子は僕の目の前には現れなかったように思います。いや、本当はクラスの隣の席の子がそういう女の子だったのかも知れないけれど結果としてリアルの世界で僕が憧れていた「女の子」と出会えずに、ぬるっと大人になっていってしまった。それが不幸なのか、幸運なのかはさておき。

そんなREBECCAの「NOSTALGICでNEWな」ライブを2時間たっぷり堪能。周囲を見渡せば、きっと、僕が小学校当時に「生暖かく、婉容に」バブル時代の混沌の中を生き抜いてきたのであろう妙齢の「女の子」がいて、60代になっても力強さを保つNOKKOの歌声に歓声を上げ、体を揺らし、時に(いや頻繁に)座って休憩しています。

いろいろあるけど、REBECCAのヒットから40年。2024年まで生き残って女子大のホールでライブを存分に楽しめる女の子たちはカッコいい生き方なんじゃないかと、と切に思います。

新曲もいい感じです。




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