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透明なまま可視化されるグロテスクについて/『JOB』

ニューヨーク滞在中にマチネーで『JOB』を観に行きました。

いわゆるブロードウェイの劇場群は、ブロードウェイと名のつくストリート沿いというわけではなくて(実際、この道は南北に長い)、主要な大劇場はタイムズスクエアの中心地に点在しているんだけど今回の『JOB』は、へイスシアターという中規模ながらまさに中心地にある劇場で上映されていて、まさにメジャー中のメジャー。

ただこの作品は、当初はSOHOの小さなプレイハウスから始まって、コアな観客や批評家の人気や支持を集め、徐々に劇場のスケールを大きくして最後にはブロードウェイまで登りつめたという注目の作品。その成り上がり感が嫌いじゃない。いや、そういう作品こそ何かの琴線に触れそう。

滞在先のホテルからシアターまでタイムズスクエアを挟んで徒歩五分。あいかわらずところどころで饐えた腐敗臭が鼻につく。道すがらには、路上に座り、ブツブツと窮状を訴えている中南米系の母子。雑踏をすり抜けながらがラジカセ背負っておどり歩く半裸のおばあさん。痩せ細った黒人は、ゴミ箱を漁っている。

そんな異質な人たちの横を通り過ぎるたびに、緊張が走る。恐怖とかじゃなくて、そういう異質にどう対峙するか、自分の中で突きつけられる。無視するか、同情の目線をかけるか、具体的にチップを渡すか…。とかもんもんとしつつ、結局は毎回通り過ぎる。
こんなことが日常だったら、いちいち反応していられないだろう。実際、周囲の目線を観察してみれば、ホント、だれも彼ら彼女らを見ていない。

すべては、透明な存在。
ものすごい異臭も、路上の社会的弱者たちも、いっさい存在しないものとして街を、日常を歩く人たち。

さて『JOB』は、マックス・ウルフ・フリードリッヒという新進気鋭の作家による心理サスペンスというかスリラーで二人芝居。
主人公は、ジェーンという大手IT企業で働く女性で、彼女は職場でメンタルを病んで休職中。職場復職を目指してセラピストの許可を得るためにロイドという老齢のセラピストを訪れるところから舞台は始まります。

そんで、いきなりジェーンがロイドに拳銃を突きつけているシーンから始まるんですが、最初は(メンタル病んでるだけあってか)挙動のおかしいジェーンとそれを冷静に受けとめるロイドという関係、ちょっとポップに笑える展開もあったりする。

そこから、ジェーンの職業(IT)に関する社会問題や、ヒッピーでベビーブーマー世代のロイドと若者との世代間衝突に議論が進み、観客は二人の会話を通じて、(ありがちと言えばありがちな)社会の分断をテンポ良く聞かされるわけです。

このあたりまでは、二人の演技力ある掛け合いのなかですんなり聞いていられる。でも、そろそろ「世の中の不平不満をただ聞かされてもなー」って飽き始める直前にストーリーが「破・急」に向かってスピードアップ。

ジェーンが若干パニック気味になり、セラピストルームの入り口を塞ぎ、再び銃を手にするようになったあたりで、ジェーンの「コンテンツモデレーター」という仕事のグロテスクさが明らかになっていく。

彼女の仕事は、ネット上の「不適切な」動画を削除し続けるというもので、それは紛争地域で撮影された虐殺映像だったり、みるもおぞましい男女のあるいは動物と人間の変態プレイだったり、そういう動画をボタン一つで消去していくというもの。

そんな彼女のヘビーな仕事内容と、そんなのに向き合ってたらそりゃ、病むわなっていう同情の雰囲気が漂い始めるところで、ストーリーは驚きの展開を迎え……。という話です。80分間、終始二人が掛け合いしっぱなしのまま劇的にストーリーはある決定的なラストに向かう。
いや、すごかった。
テーマ的に、最後はすごく胸くそ悪い気分で劇場を後にする羽目になるのですが、それも演劇の醍醐味。いい体験させてもらいました。


ここでいう「不適切」な、性的いや変態的な行為行動をする人々について、そういう所業は太古の時代からあって、ただ、インターネットはそれを世の中に表明する機会を与えてしまい、さらには、そうした変態同士をグロテスクな共感で繋げてしまう世界をつくってしまったわけだけど、それらの世界線の外にいる人、つまり僕は、その「悪」や「不快」とどう対峙するのか。対峙し続けられるのか、悩ましくなってしまった。

いままで存在していたけど、なかったことになっていた「透明な存在」。華やかで洗練された街を人々が闊歩する中で、社会的弱者の存在や充満する饐えた匂いをいっさいがっさい見向きもしないで、透明で無味無臭なものとして、人は歩き、働き、友人と語らい、仕事に勤しむ。

『JOB』で描くのは、そういう社会的弱者の透明性をさらに超越する異常者、変態の世界。これまでは人々の見えないところで営まれてきた残虐・変態的行為行動は、どんどんインターネットで明るみにされている。そしてインターネットは日常で、つまり人々は出会い頭にそうした「悪」「不快」な現実にあうことになる。

社会的弱者の透明性は、ある意味、「社会的弱者でない立場=マジョリティー」との地続き中での分断ではあって、「多様性の受容」という詭弁で、社会的強者は社会的弱者を「排除はしないけど無視する」という絶妙なポジションをとるようになる。
では、すべての人間の内面にある(かもしれない)変態性とか残虐性はどうか?「異常と正常」「悪と正義」「不快と快楽」の分断に対して、「排除はしないけど無視する」ってことだけでよいのか?
否定も肯定もされず、透明な存在として無視され、無かったことにされ、でも、日常の目の前にしっかりと存在し続けることになってしまうのか……。
劇場から出て、再び腐敗臭あふれるタイムズスクエアを歩きながら、ぼんやり考えていました。

ところで、ブロードウェイ作品のいいところは、上演されている作品の多くがその脚本や演出ノートを有料で公開していることです。
英語力に難がある私にとっては、とてもありがたい。『JOB』の脚本も以下のサイトで手に入ります。上演後買って読んで、より理解が深まりました。


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