黒龍さんと光と闇の話
ガッツリスピリチュアルな話ですが、それは出てくるものが龍神だからであって、この話の本質はもっと別のところにあります。
ただ龍神、今回は黒龍さんを介したので、そういう感じなのかな?と思いまして、スピリチュアルだと称しました。
信じるか信じないかは人それぞれだと思うので、フィクションかノンフィクションかはそれぞれ読み手にお任せします。
閑話休題
ことの起こりは、よく気づきを得る風呂場での話。
真っ黒なモヤモヤに覆われた物体のイメージが浮かんだんですね。
以前から、守護龍としていたりいなかったりしてくれている龍神さんが「黒龍、ヒーリングして」ということだったので、モヤを払うヒーリングをしたんです。
その時は、黒光する黒龍さんに戻り、そのまま消えてしまったのですが、龍神がモヤをまとっているというイメージがなくて、なぜだろう?と思っていたんですね。
龍神さんから受け取ったメッセージでは、日本を守っているんだけど、黒龍というのは黒、つまり闇とか邪龍とされ、負のエネルギーを受けやすい。今、日本は大きく揺れている時で、そういう時は人々の不安も大きくなるのでより負のエネルギーを引き受けてしまい、普段なら祓えるが今回は思ったよりも色々引き受けてしまっていたということ。
黒龍という色やイメージで厭わないところを選んで、そのモヤを祓いに来たということ。
後日、黒龍さんがまた来た感じがしたので、メッセージをもらいました。
黒龍というのは邪龍にされやすく、どうしても黄龍や他の龍と比べ忌み嫌われやすい。それは聖に対しての邪、つまり光に対しての闇なのであり、そういう役目であるだけなのだ。光に生きるものもいれば、闇に生きるものもいる。そういう役目である。
今、光に目覚めるものもいるが、この世界の癖なのか「二項対立」が抜けない。光と闇はそもそも対立するようなものではないが、なかなかそこがわからない。
自分と違う意見を受け入れて、その存在をゆるして、そこで真の愛になれるのに。
認め合えない状態ではまだ真の目覚めではない。
例え、目の前の相手のことを自分は受け入れたのに、相手が拒絶したからと言って「やっぱり受け入れられない」と手のひらを返すことは必要ない。
放ったものは自分の見えないところで花開いているかもしれない。
あなたが、相手を受け入れた時、全く別のところで誰かがあなたと同じような考えを受け入れているかもしれない。いや、そういうものだ。
だから、あなたは諦めなくていい。目の前の相手ばかりにエネルギーを注ぐ必要もない。どこかの誰かのために巡り巡ってあなたに返ってくる時のために、目の前の相手をただ受け入れるのだ。それが一方通行であっても。居心地が悪いのなら、距離を取ればいい。
光と闇、どちらも正否は関係ない。二項対立していることに問題がある。
どちらを正しく、どちらを間違いにした時点で対立のエネルギーは生まれる。
真の状態は「俯瞰」愛の目で「俯瞰」すること。
全てはゆるされている。何を選ぼうと、何を考えようと。
人間の価値観というものは狭い。
愛の視点で見れば、神や天使も、邪龍も、鬼や悪魔も全てそういう役割の愛の存在なのだ。善悪は価値観でしかないことがわかる。
大切なことは、二項対立しているうちは目覚めきっていないということ。比較すること裁くこと変えようとする、または、自分とは違う考えが間違っていると糾弾しているうちはまだ目覚めの途中だ。
二項対立している限り調和は望めない。
全てはゆるされている。だから、なにを選んでもゆるされている。
真の愛に目覚めるには、そこに意識を向けなくては。
対立のエネルギーを持っているうちは、どんな考え方であっても、それは同じエネルギーレベルである状態だ。
受け入れられない意見もあるだろう。だからと言って、それを対立の要因にする必要はない。
それは、それ。自分とは違う意見を持つ者なのだなとするだけだ。それが受け入れるということ。
受け入れることは難しくない。ただあるがままを、そういうものなのかと頷けばいいだけ。
それで対立のエネルギーが生まれなくなるのなら容易いことだろう。
光がある、そして闇がある。黄龍がいる、黒龍がいる。自分がいる、自分とは違う意見の他人がいる。ただそれだけのことだ。
そこに善悪は何もない。
もし、それでも「ゆるせない」「受け入れられない」と思うのなら、そういう自分をゆるし、受け入れればいい。最初は「誰かを」ではなく「自分を」から始めればいい。
そうして、その範囲を広げていくのだ。愛を広げていくように。自分から波紋が広がるように。
あるがままを受け入れることから愛が広がり始めるのだ。