この素晴らしい世界の中で
僕には、どうやら常識というものがないらしい。
人の話を無視すること。
複数の女性を好きになること。
人の容姿をけなすこと。
面白いと思ったことを考える前に試してしまうこと。
お金のことを考えられないこと。
羅列するとシンプルだけどここ以外にももっとあると思うけど、ここ1ヶ月で気づいたことだけでもこれくらいあった。ブサイクといって、怒られたり、お金がなくて飯が食えなかったり、同時に色んな人を好きになって、呆れられたり、
多分、多くの人が生きていく中で、学び、身につけてきた常識、もっというと当たり前の前提みたいなのが欠落している。本当にわからない。
人の話をちゃんときくこと
1人の異性と誠実に向き合うこと
人の容姿をむやみにけなさないこと
面白いと思ってもやる前に問題がないか確認すること
痛いことはやりたくないということ
お金をうまくやりくりすること
だいたいこういう感じで、変換されていく。
ほとんどの人が生きていく過程の中で学んでいくステップをなぜかうまく踏むことができなかったように思う。 もっと正確に言うなら、学んだけど、自分のことのように思えなかった。 どんなことをしても、周りが許してくれたり、なんとか助けてくれたりした。
でも、やっぱり現実を生きていく中で、そればかりでいかないことは多い。こういう常識や、みんなが持つ前提が欠落していると本当に社会で生きていくということが難しい。もしかしたら、甘えてるだけと思う人もいるかもしれないし、実際にそうかもしれない。でも僕自身、あまりにもこの常識というものが自分のことのようにどうしても思えなかった。あまりにも僕の感覚と離れているからだ。
僕は、すべての物事の前提を排除して、その物や人を捉えるという癖がある。
一方で、多くの人は、前提を少しずつ積み上げて前に進んでいくという癖があるなと思う。僕にはどうしてもどうしてもそれができない。その結果、わりと生きづらい時間を過ごしてきたように思う。
周りの人がなぜそう考えて、そう行動したのかがわからないから、コミュニケーションでもいつも疑問が残ってしまう。いっぱい話して、いっぱい理解しなければ、スムーズに会話を進めることができなかったりもする。
僕は、言葉を鵜呑みにする。みんなが使うおべっかや建前みたいなものさえも判別がつかずに受け入れてしまう。謙遜してしゃべった人も大げさに喋った人も僕にとっては喋った事実だけが脳に記録されてしまう。「大丈夫だから心配しないで」と言われたらそのまま心配しないで大丈夫だと思ってしまう(だいたい大丈夫じゃない)
この人はこういう人だろうという前提として、脳のデータが書き換えられることはないんだ。なぜなら人は変わっていく生き物だと思ってるから。
姿形だけじゃなく、僕らは価値観や考えを進化させることで生きている。
こんなにも新しい挑戦や発見を積み上げられる生物を今の所みたことがない。
だから、僕は敬意を表して、だれも何も決めつけることはしたくないという風に思ってしまう。
だから、毎回ゼロからその人のデータを積み上げないといけないので大変だ。
だから、社会の一般常識みたいなふわふわしたものをうまく捉えることができない。だって、社会は人のかたまりだから。
常識や前提を増やしてしまうと美しい人や世界や物事が濁ってしまって、その美しさが半減してしまうのが怖いんだ。
でも一方で、みんなが共通してるものを共通していないからこそ、周りの人に苦労をかけたり、傷つけたりしていることもあると思う。
特にここ2年間のぼくの生き方は多くの人の力をお借りしないと生きれなかった。いつもギリギリな時に手を差し伸べてくれる誰かがどこかにいた。
ずっと難しかったし、今もわからない。もっと自分のやり方で生きようとしたら、多分もっと多くの人に迷惑をかけたり、傷つけたりすることがある。でも、それを抑えて社会の中で生きようとしたら、苦しくなって、息ができなくなる。
わかってることは、この世界の中にある人が作り出した美しいものにもっと触れていたいと思う。23ねんっぽちの人生だけど、本当に多くの人と価値観に出会ってきたと思う。その中で人が作り出した時間や空間や物や作品には本当に心を動かされてきた。美しい地球の上という自然と人間という醜い生き物が作りだした人工的なものはいつも絶えず破壊と再生を繰り返して、調和を保とうと努力してきたように思う。
そんなものにもっと触れていきたい。そしてそれを自分の手で表現して多くの人に届けていきたいと思う。少し休みながら、おそらく社会と足並みを揃えられずに、でも、僕が届けることで、喜ぶ人がいることを信じて、やってみようと思う。
この素晴らしい世界の中で。
赤丸くんの話も少しずつ再開していきます。