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天津司舞(山梨県甲府市小瀬町・下鍛冶屋町)
訪問日 2024(令和6)年4月7日(日)
勧請鎮座の儀は年久しきことにて相知り申さず候え共、古来よりの申伝えには此地未だ開けず草沼にありしころに天津神十二軀天降りまして舞遊をなし給ひしところ俄かに二神は天上に上り一神は西油川村古井戸に没し給う。(中略)後の世に移りて残る九軀の天津神を神像に作成し小瀬村産土神諏訪大神の社殿に勧請鎮座なせるものなりしが、(後略)
此社内に天津司と云る古偶人あり。社記にその權興を知らず。然れど古昔は諏訪明神の神前に飾り置しか、下鍛治屋村へ遷座の時より、司祝の宅中に藏め置けり。最初十二軀ありしが中世に至りて、二軀は天に上り一軀は西油川村の釜池に汲りぬと云ひ傳ふ。今存れるは九軀なり。
かつて周りの山々の水を全て集め、甲府盆地は湖のように水を湛えていた。やがて、湖水は神仏により富士川へ流し落とされ、水の引いた土地で人々が暮らし始めたという。
甲府盆地の伝説である。
その湖水で舞遊んでいた神々の様子を「天津司舞(てんづしのまい)」は表しているという。
コロナウイルスの感染対策で長らく休止や縮小をしていたが、今年は一般にも公開し通常に戻し斎行すると情報を得た。
ちょうどサクラの花も咲きそろいそうな絶好のタイミングである。
今回を逃してはならない。
2024年4月7日、念願叶って、小瀬へ。
天津司舞のあゆみ
小瀬地区の「天津司神社」から9体の神を模った人形が「御成道(おなりみち)」を通って小瀬の氏神である「鈴宮(すずのみや)諏訪神社」へ御幸し、設られた「御船囲(おふねがこい)」の中で舞回り、また「御成道」を戻っていくというのが祭礼の大雑把な内容である。
田楽と近いスタイルを持ち、さらに舞うのは人形という日本国内では唯一と言われる貴重な芸能である。
始まった時期は明らかではないが、現在では失われた『社記』に1190年代ころに9体の人形を勧請した諏訪神社を鈴宮神社に遷したという記録があったことから、この時期には何らかの形で祭礼が行われていたと推定されている。
また、天津司神社の創建が1522年ころ、このとき人形が天津司神社に保管されるようになったと推定されるため、御幸して舞う祭りとなったのはこのころからであると言われている。
江戸時代の記録には、祭礼は旧暦7月19日に行われたと残されている。
この祭礼日になった理由は記されていない。
小瀬村に古くから住む17軒の家のみがこの祭礼を伝承してきた。
この17軒は小瀬開拓にまつわる家々ではなかったかと推測されている。
天津司舞は小瀬の始まりのストーリーである可能性もある。
明治時代に神仏判然令や当時の県知事による民間信仰や行事への圧力に伴う大きな中絶期があり、さらに水害で祭具が流されるなど、祭礼の伝承にはたびたび危機があった。
再開されたのは明治31年11月3日(天長節であちこちのイベントのどさくさに紛れる日を選んだらしい)、しかし17軒のうちの数軒はすでに村を離れ、祭礼に際し協力関係にあった近隣の村との関係も変化、舞の記憶も薄らいでいた。
明治34年に人形の胴部分を新調したようではあるが、その後昭和初期まで祭りを行ったのかどうかの記録すらない期間が続いた。
昭和11年、文部省からの研究者の調査が入り、天津司舞の貴重さが世に知られることになる。
翌年4月、農繁期前の季節に祭礼は復活。
しかしそれも長く続かず、太平洋戦争のあおりを受けて昭和15年〜29年まで再び中絶する。
再開した天津司舞にまた新たな変化がやってきた。
それは1986年、かいじ国体開催による小瀬スポーツ公園の整備であった。
田んぼのあぜ道を曲がりくねっていた御成道は、公園整備計画の中にある。
公園外へのルート変更も検討されたが、元の御成道に近いルートで公園内に御成道が新たに設けられることになった。
祭礼次第
この日、「祭りは11:00から」との情報をキャッチ。
少し早めに天津司神社へ。
準備の様子が気になる。
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ちょうど桜が満開。花も祝う。
よいお日和、おめでとうございます。
(2024年4月7日)
社殿の横に木箱が積んである。
すでに「おからくり」は終えているようである。
かつて祭礼を執行していた17軒は自宅に注連を張り、7日間の精進潔斎を行い、当日の日の出ころに人形つまりは御神体を組み上げていた。(現在はどうなのだろうか)
拝殿の奥には、顔を赤い布で覆われた神々が時をお待ちであった。
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(2024年4月7日)
神々のお迎えは御幸先の鈴宮諏訪神社からやってくる。
15分ほど歩いた先の鈴宮諏訪社へ、向かう。
神官お迎え
鈴宮諏訪社は諏訪社が後から合祀されている。
本殿は相殿で、2神が祀られている。
こちらの境内にはキッチンカーや手作り屋台が並び、子供たちが駆けまわる。
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(2024年4月7日)
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下がり藤の紋は鈴宮さま、我らが諏訪社の紋は立梶であった。
(2024年4月7日)
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かつては紅白幕だったらしいがいつからか九曜紋を用いるようになった。
直径は約8m、「幕の中をのぞいてはいけない」とされている。
(2024年4月7日)
神事が済むと宮司らが行列を組み、人形たちを迎えに天津司神社に向かう。
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「御成道」とは全く違うルートで天津司神社に向かう。
(2024年4月7日)
神事
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(2024年4月7日)
天津司神社についたお迎えの行列は神事を行う。
祝詞奏上をし、人形たちは1体ずつ社殿を出て、鈴宮諏訪社へ出発する。
御幸
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(2024年4月7日)
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(2024年4月7日)
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ヴァンフォーレ甲府vs清水エスパルスでいつもより混み合っているらしい。
観戦前に公園散策中のサポーターのみなさん、思わぬ行列にびっくり。
(2024年4月7日)
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(2024年4月7日)
お舞奉納
鈴宮諏訪社拝殿前で整列したあと、人形たちは「御船囲」の中へ入る。|
「御船囲」の中は決してのぞいてはならないとされている。
のぞいた者は目が潰れるとか、木の上からのぞこうとした者は引きずりおろされたとか、幕間からのぞく者は竹棒で目をつついたとか、結構過激なようである。
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なにがどこに、誰がどこへ付くか、御船囲の中の配置は決まっている。
(2024年4月7日)
御船内東邊に西向きに南より北に順次人形を并べ十七戸の人々丸く座を作り拍手をうち儀式を始む。笛のかゝり三人、太鼓二人、他は人形にかゝる。囃子と共に一の編木東南の角より出で、東北の角西北の角西南の角東南の角と一廻御船を廻りてさらに…(後略)
過去の記録は御船囲を最大6体ほどが舞う様子が記録されているが、現在では2体までである。
舞のレパートリーもかつてはもっと多かったことも推測されている。
どの時代も御鹿嶋様は単独で待っている様である。
舞の方向は反時計回り。
ゆっくりと3周回り、その後テンポの速い動きの大きい「御狂(おくるい)」となって3周舞う。
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全て舞は反時計回りで舞うことが決まっている。
(2024年4月7日)
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笛太鼓もテンポ早く、人形を上下させたり横にしたり激しく動かす。
(2024年4月7日)
御鹿嶋様の舞の最中には、刀(木で作られた小さな模造刀)が、ランダムに9本投げられる。
拝観者たちはこれをこぞって拾う。
江戸時代の記録には「歯木(ようじ)」と記録されていて、かつては楊枝だったのではとも考えられている。
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持ち帰って厄除けにするのだそうな。
(2024年4月7日)
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おっと、のぞいてはいけないのであった。
(2024年4月7日)
還御
舞い終えると、人形たちは「御成道」をたどって天津司神社に戻っていく。
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今日は暑かった。
(2024年4月7日
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(2024年4月7日)
神事を行いお納めとなると、社殿内では「オクズシ」が始まる。
つまり、人形の解体・収納である。
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何を入れるか書いてあるのが見えた。
(2024年4月7日)
「オクズシ」は非公開であるらしい。
ここには画像は載せないが、どの人形も着物の下はほぼ同じ構造になっている。
木製の胴部に手がついていて、2〜3人で操作する仕組みとなっている。
舞の人形
9軀の人形はいずれも神の化身として扱われる。
手に持ったお道具や姿によって呼び分けられている。
かつては祭礼の執行者である17軒の者しか扱うことができなかった。
人形は御神体であるため、祭礼以外に使用すること、たとえ子供であっても女性が触れることは禁忌であった。また舞の稽古で使用することによる劣化も危惧された。
令和に入り、人形はレプリカが製作され、稽古だけでなく地域学習や後継者の育成などの活動にも使われるようになった。
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2軀あり、ささらを持っている。小さな音だが実際に鳴らすこともしている。
それぞれ「一の御編木様」「二の御編木様」と呼ばれる
(2024年4月7日)
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2軀あり、それぞれ太鼓を持っている。
「一の御太鼓様」「二の御太鼓様」と呼ばれる
(2024年4月7日)
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鼓を持っている。よくみると鼓を打つ動作をしている。
(2024年4月7日)
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笛を持っている
かぶっている笠には花が2本差してある。
ひとつは蕾でこれは菊花であるという。
(2024年4月7日)
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烏帽子をかぶり、錦のはちまきをしている。両手に剣を持つ。
とっても男前。
諏訪神社の祭になぜ御鹿嶋様なのかはよくわかっていないのだそうな。
強くてカッコいい武神=御鹿嶋様の登場かもしれない。
諏訪明神も武神なのだけどな。
(2024年4月7日)
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瓔珞をかぶり、刺繍のある豪華な赤の着物を着る。
扇子と鈴を持つ。
(2024年4月7日)
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角が2本ある。手に払子を持っている。
(2024年4月7日)
これら人形の持ち物が田楽的であり、さらに御鹿島様が幕内から投げる9本の刀も「刀玉」という演目に似ているという。
これほど特異であるが、近隣に人形を使ったこのような祭礼が見られず、どのように小瀬に伝わってきたのか現在ではわかっていない。
諏訪社の旧社地
昔は玉田村諏訪明神の神前に飾り置きしが後鈴の宮と合祀、下鍛冶屋へ遷座の時より神官宅中の神倉にこれを安置す、(後略)
社記に此社は古時本村の玉田寺(ぎょくでんじ)の域内に在りしか武田五郎信光朝臣の時、神殿を下鍛冶屋村の雀宮へ遷して居館を営み、今居館(いまいのたち)と称ふ。
諏訪神社は武田氏の館を作るために1190年ころに鈴宮社へ遷され、その間人形は神官宅に保管されて、1552年頃に天津司神社造営となったようである
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旧社地と言われている一帯は住宅地と畑になっている。
集められた石造物の中には諏訪社をうかがわせるものはみいだせなかった。
(2023年5月)
「西油川の釜池」
濁川沿いの西油川という地区に諏訪神社を見つけた。
新しい注連が張られている。
同日に例祭だったのかもしれない。
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(2024年4月7日)
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(2024年4月7日)
すぐ隣の敷地には注連を張った生垣と中には水たまり。
よく見るとブロックで囲われた中にはなにやら建物があったような配置が見える。
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(2024年4月7日)
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エアコン室外機の前になにか四角い痕跡、その手前には2つの円形の痕跡。
…もしかしてこちらが諏訪社だったのでは…と疑惑。
だとしたらなにがここでおきたのだろうか。
(2024年4月7日)
「西油川の釜池」は「古井戸」とも表現されている。
もしかしてここが神さまの没した場所なのだろうか。
それをうかがわせるものはなく、この生垣の真新しい注連と祭礼との関係はもう少し調べる必要がありそうだ。
主な参考文献
パンフレット「重要無形文化財 天津司の舞」天津司の舞保存会編 昭和51年
パンフレット「天津司舞900年の想いと共に」山梨県立博物館 令和4年
甲斐志料集成1『甲斐叢記』
甲斐志料集成8 御祭礼及縁日
ほか