テロリストとジェノサイド
笠井潔『テロルの現象学 観念論批判序説』(1984)
(方法としての現象学について)
今年は連合赤軍事件が起きて50年目ということもあり、事件に光を当てた書籍もいくらか新刊で刊行されているのを目にします。ただ、この事件の総括としての金字塔はやはり、標記だと受け止めてきました。
しかし、この作品はその事件そのものに言及しているのみならず、様々な文学作品をテクストに、テロルという観念的暴力が喚起し続ける「観念的なるもの」の発生現場に遡行して、その発生史的必然性を解読しています。笠井氏自身は、それまでは左翼セクトの活動家だったこともあり、この著書を執筆した動機には、マルクス主義的な党派観念を自分の中で始末することでもありました。しかし、既に刊行から40年以上が経過していますが、ここで取り上げられた問題は、現在でもアクチュアルなテーマとして色褪せずに受け止めることができると思います。
先般発売された『情況 冬号』には笠井潔氏のインタビュー記事「連合赤軍事件への思想的回答と展望 『観念的倒錯の病理』の切開」も掲載され、この著書のモチーフを述べられていました(最近はYouTubeにもそのダイジェスト動画がアップされています)。
笠井氏は、この著書の刊行と同時期に推理小説『バイバイ、エンジェル』も刊行され、それを筆頭に「矢吹駆シリーズ」として現在も連作を執筆していますが、そこでは現象学を背景とした「本質直観推理」という手法を主人公が駆使してプロットが展開しています。
そうした笠井氏の現象学理解と、私はここで扱われた「方法としての現象学」ということが、その理論展開にはとても有効だと受け止めてきましたので、あくまでもこの作品のさわりにすぎませんが、前述の記事を基にその意味を次の通り纏めてみました。
表題とされた「現象学」とは、フッサールとヘーゲルによる2つの「現象学」をモチーフとして標記を展開したからに他なりません。
フッサールの著書では遺作である『ヨーロッパの諸学の危機と超越的現象学』が背景にあるのですが、フッサールの後期思想への歩みにおいて重要な意味をもっているのが、「自然的態度」と「自然主義的態度」の区別です。
フッサールは『イデーン』第2巻において、還元によって超えられるべきだったのは「自然的態度」ではなく、それとは区別される「自然主義的態度」だったと主張しましたが、これにより自然主義的世界観に対する批判的検討をおこなったのが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でした。笠井氏はこの点を踏まえ、例えばヨーロッパの数学や数学的科学の起源は生活世界にあるというここでの記述から、先験的なものとしての数学を捉えるのではなく、土地の測量を始め生活世界の中から数学的な世界像が発生してくることを述べています。
倒錯的観念がこうした生活世界の具体的な人間の有り様からどのように生じてくるのかを記述するというここでの方法を踏襲し、標記はフッサールの発生的現象学としてのモチーフに影響されて執筆されています。
重要な点は、倒錯的観念とは、ある人間の疎外感や不遇感やルサンチマンを背景として発生してくるという点です。本を読んで観念が頭の中に刷り込まれるという訳ではありません。そこから標記の骨子となる共同観念/自己観念/党派観念という観念の系列を発生史的に跡付けていくというモチーフが生まれたようです。
また、もう1つはヘーゲルの『精神現象学』からの影響です。
笠井氏は連合赤軍事件で突き付けられ、1970年代の中頃から「ヘーゲル=マルクス主義の自他抑圧的な観念的暴力性をいかに解体できるか」という課題が浮上してきたとのことですが、この粛清から絶滅収容所に至る腐敗した暴力を蔓延させたヘーゲル=マルクス主義の「悪」は、倫理主義的倒錯にあるとしています。
ヘーゲル弁証法の「契機」とういう概念が、ヘーゲル=マルクス主義の弁証法になると、倫理的には一般に否定される殺人や拷問などの暴力行為が、歴史的真理や倫理が実現される人類史の最終目的に不可欠な「否定的契機」として容認され肯定されることになると説いています。こうした弁証法的倫理が命ずることを成し得ないのは思想的な脆弱性にすぎないとみなされてしまいます。
こうした自身に対する批判をも「否定的契機」として弁証法的に統合し、体系の自己展開の力に変えてしまう点でこれは無敵の理性です。その為、これを外部から批判してもそれは「否定的契機」として取り込まれて全体化されてしまう為に意味はなく、この弁証法的体系が内側から自己崩壊するように仕向ける方法を標記では採用しています。
その点、同時期に流行っていたフランスのデリダが主導した脱構築哲学との近似も見られますが、デリダが最初に脱構築したのは、フッサール現象学を直感主義や現前主義というように、誤読に基づいて展開した点に、笠井氏が同意していないことは納得できる見解だと思います。
特に興味深いのは、こうした弁証法が採用した二項対立的な思考を解体する方法として、現象学が最も有効な方法であることがよく理解できることです。
弁証法では、対立する二項を捉えるメタレベルが不可欠ですが、メタレベルに立つこととは、この対立関係に対し権力の位置を占めることになります。フッサール現象学では、意識の内と外にメタレベルは存在しないところに力点がある為、弁証法が宿している権力性をいかに解体していくのかという方法論において、二項対立そのものを無化し解体するということしかないとしたここでの提起は、日本でもポストモダニズムが隆盛だった1980年代中期に、多くの誤読に基づき批判に晒されたフッサール現象学を復権し、その有効性に着目した点においても注目すべき作品でした。
また、この著書の主題は、笠井氏が打ち出した「集合観念」という理論にあるのですが、現前で展開されている戦争を前にして、ウクライナ市民を突き動かしている「大衆蜂起」ともいうべき抵抗の姿勢から、この「集合観念」を想起せざるを得ません。この点は、アクチュアルな状況を踏まえ、また改めて整理したいと思います。