マディソン群の橋
ロバート・ジェームズ・ウォラー『マディソン郡の橋』(1992)
標記は、映像作品と連動したメディアミックス効果で、刊行当時はベストセラーになった1冊でした。しかし、題材が「不倫」であったことから、映像作品含めて批判も多かった小説であったことも記憶しています。しかし、私はこの作品を肯定的に受け止めており、「永遠の4日間」というキャッチフレーズに超越性を感じた読者も多かった為、その意味について触れたいと思います。
この作品の構成が、既に他界したアイオアの農場で暮らしたフランチェスカ・ジョンソンの遺書(日記)により展開している事から「死者の語りによる恋愛物語」であるというユニークな特徴があります。その際、一時のロマンスの相手であった世界を放浪し続けたノマド的キャラであるロバート・キンケイドの本質を捉えることが、作者自身の取材と執筆における最大の難関だと冒頭に記している事から、このロバートの持つロマン性が、フランチェスカの人生をどのように動かしていったかというが、小説としての主題ではないかと、私は受け取りました。更に着目したもう一つは「死者の語り」とう構成をとっている意味です。
終戦直後にイタリアから結婚を契機にアメリカに渡ったフランチェスカは、アメリカの生活にそれなりの夢を描いていました。当初は教師の生活を通じ、文化的な生活も送っていましたが、子供が生まれてからは専業主婦として、夫の酪農を支えていく平凡な幸せに甘んじていました。その点、舞台となるアイオアは、トウモロコシ畑を美しく描いたウイリアム・パトリック・キンセラ『シューレス・ジョー』(映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作)などとは違い、寧ろシャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ・アイオワ』で描かれた様な閉鎖的で抑圧的な土地柄という捉えかたをしていることは特徴的です。
その風景の中で、フランチェスカにとっては普段は気に留めないただの橋であるローズマン橋は、ロバートにとっては、写真の被写体としてのロマン性の対象として象徴的に現れます。表題にはそうした意味が込められていると私は受け取りました。
そんな彼との出逢いは、それまでの家庭生活で押し殺していたフランチェスカが2人でローズマン橋に赴く以降、写真の仕事を熱く語るロバートに対し、夫であるリチャードとの結婚が自らの感受性を押し殺したものである事との自己了解を照らすと、ロバートの存在は、その男性的な魅力のみならず、自らのロマン性を引き出してくれる対象者であると捉えることができるでしょう。そこには、恋愛を通じて感じる、フランチェスカにとっての「ほんとう」ということがせり出した、超越的な4日間の経験だったと受け取ることができるかもしれません。それは放浪を続けてきたロバートにとっても、同じように感じた運命的な出逢いとして物語は描いています。
しかし、前述の通り、この土地の風土は2人の関係を「不倫」としてしか受け取れず、1965年を舞台としていても、長髪のロバートを単なる「ヒッピー」と捉えてしまう閉鎖社会が背景に設定されています。2人の行く末に決断を迫られるのはフランチェスカですが、ロバートとの新しい生活に賭ける代償は「地域の中で妻(母親)に去られた家族」として、冷たい視線を浴び続けなければならない残された家族への「責任」として、どうしても避けられない事であり、この4日間の経験は、その為に死ぬまでひた隠しにしてきた2人がお互いに感じていた真実であったのだと思います。「死者の語り」という構成をとっている意味はその為ですが、遺書から残された長女と長男がこの話を初めて知り、自らの現在の生活を受け止め直すという結末が、本来は墓まで持っていくべきこの経験を、母親として、また、女性としてのフランチェスカが死者となってあえて伝えたかったこの作品のもう一つの意味だと受け取ることもできるでしょう。
また、冒頭に触れた通り、この作品を映像化したクリント・イーストウッドの同名作品は、フランチェスカの視点を強調し、その映像表現は原作を超えるような完成度を観た秀作でした。
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