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私の本棚
うちの両親は、子の買いそろえた本を、平気で捨てたり勝手に人にあげたりすることがある人だった。
今ならいろんな人から同情される事案であろう。それでも彼らには彼らなりの理由があったのだと思う。私は、家に帰ったらゴロゴロ寝転がって本ばかり読んでいる軽度の活字中毒者だった。両親は多分「余計な趣味に時間を使わなければ、その分勉強の時間を増やせる」と単純に信じていただけで、基本的に善良で真面目な人達だったのだ。だから今更それは咎めまい。
しかし、そのせいで私は、気に入っている本ほど、本棚には入れずにどこかに隠すという癖がついてしまった。
洋服ダンスの奥。ベッドと壁の隙間。常に持ち運ぶ鞄の中。思春期の少年でもないのに、どうして私はこんなことに知恵を絞らねばならなかったのか。高校入学を機に下宿生活を始めたのだが、このときまず何よりも嬉しかったのが、本を何も気にせず棚に並べておける自由を得られたことだった。
そういう心配が要らなくなった今でも、私は本を本棚に置くときは、ブックカバーを被せて中身が解らないようにしてから並べないと気分が落ち着かない。おかげで私の本棚は、ある意味では非常に統一感がある見た目になっている。近くに本屋さんが数軒しかないので、同じブックカバーの本が並ぶためである。
「本棚を見れば、その本棚の持ち主の、人となりがわかる」というようなことは、随分前から言われているように思う。
実際そういう側面もあるのだろう。
けれど、私のような捻くれ坊主は、そこから解るのは「その持ち主が、どういう人となりだと見られたいと思っているか」でしかないんじゃないの、などと考えたりもしてしまう。
少なくとも「私の人となり」は本棚よりも、扉のついた棚の奥や、箪笥の奥や、鞄の中や、パソコンの中にある。
最近は電子書籍も普及して、そういう意味では随分読書も気楽になった。
パソコンの中は、私しか見ないと信じられるから。
それでも、やはり、紙の本のまま持っておきたい一冊というものはあって、それは、もうそんなに頻繁に読むわけではないけれど、それでも鞄の中に常にある。
もし、私が、誰かに包丁を突きつけられながら「手元に残したい一冊を選んで、他はすべて捨てろ。そうしないと殺すぞ」と迫られたら。
早く誰かこいつを捕まえてくれねぇかなと時間稼ぎはしながらも、断腸の思いで、鞄の中の一冊を選ぶだろう。
芥川龍之介の「侏儒の言葉・西方の人」という新潮文庫。
どれほど時が経っても色褪せない真実が詰まった一冊である。
これだけは、ずっと持っておきたい。
好きな本を壁一面の本棚にぎっしり並べている、そんな部屋を見ると、心の底から憧れながら、私には無理だと感じてしまう。
何せ「本屋に住めたら幸せだろうな」などと一時期本気で考えたことがある人間だ。大量の本に埋もれていられるのは本当に羨ましい。
けれどそれでも、きっと自分では、そんな本棚は作れない。
そういう人間がいたっていいじゃない。
例えばそれは、いろんな本があってもいいように。
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