ゲンロンSF創作講座6期③/第7回梗概をキャラから時評風に読む!俺的16選
こんにちは。SF創作講座、6期聴講生のあいけ(@aike888g)です。聴講ゆえ何かを書く義務は一切ないとはいえ、気付けば3ヶ月に1回ペースでしか感想を書かない奴と化していました。『文藝』かよ。
今回も、梗概を読んでみて素直に「これは実作を読みたいぞ」と思えたものを中心に取り上げています。「SF創作講座の人向け」というよりは全人類に向けて書いていますので、どなたもお気軽にお読みください。
以下、時評エッセイもどきの謎文章です。SFギミックの話、物語構造の話、テーマの話なんかは審査員や他の受講生の方やダールグレンラジオが扱ってくださるので、「キャラクター」という切り口から読んでみました。当初の想定よりは多くの作品に触れることができましたが、今回言及できなかった方はすみません。
ちなみに9月10日のダールグレンラジオ(牧野楠葉さん出演回)でも「ギミックとストーリーだけでなく登場人物の作り込みが重要」という話がされています。そこでは書き手3名による創作論の一環として言及されていましたが、このnoteでは「非SFマニアの読者」としてきわめて素朴に梗概を読むことを意識しました。
↓今回の課題はこれ
※1 文中、「キャラクター」という概念をわりと雑に用いているのをご了承ください。
※2 「時評風に」と言うとだいたいリアルタイムな時代精神、社会的なマターなどと絡めて論じるのが常ですが、そうした話は今後収録が行われるという噂の某ラジオにて展開できたらと思っております。
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10月はわりに時間があったので、Twitterや映像作品や本やシラスをいろいろ見て過ごした。するとなにやら情報のオーバードーズ状態に陥り、逆にいろいろなことがどうでもよくなってしまった。現代と早く縁を切りたい。情報の濁流とは無関係に日がな一日、アムールヤマネコとかを見ていたい。なんといっても世にある大抵の情報は自分に関係がないし、大抵のコンテンツは自分に刺さらないのだから。
そう。そこが問題だ。批評的・歴史的に重要だと言われている作品、あるいは尊敬する人がおすすめしていた作品を鑑賞しても、ちっとも心が動かないというケースがままある。毎度いちいちショックを受ける。もっとも物語構造の分析などはやればできるのだろうが、好きになれないコンテンツの分析をするのは単に苦痛なので、やらない。
そもそも「面白い」って何だろうか。言葉が雑駁すぎるのではないか。
ここで思い出すのは、ニコ生とシラスで生放送「コミックガタリー」を毎週配信し、創作論およびマンガ批評の現代的な更新を図っているマンガ家・大井昌和先生の言葉。曰く「面白いっていうのは『伝わる』ということ」。当たり前といえば当たり前に聞こえるだろうが、つまり「面白くない」というのも「伝わっていない」と言い換えたほうがクリアになる。
(参考:大井昌和のコミックガタリー シラス版!「漫画工学「面白い漫画になるためのコマの割り方」」)
では「伝わる」とは何か。
ここでまた大井先生の「ストーリーとはキャラクターの動いた足跡である」という理論を踏まえると(あくまで踏まえているだけなので以下の部分は勝手かつ大雑把な"あいけ理論"なのだが)、まず多くのフィクションに当てはまる「伝わる」の定義は「A:キャラクターを経由して何らかの感情が喚起されること」だろう。
また特にハード寄りのSFやファンタジーの場合は「B:世界観や設定によって(知的)好奇心が刺激されること」というのもあるように思う。なお「A」と「B」は完全に切り分けられるものではなく相互に深く関連している、とは断っておく。
(参考:大井昌和のコミックガタリー シラス版!「マンガ工学Ⅰ「ストーリーと選択肢」〜次の展開を「選ぶ」〜」)
そして私見では、SFに慣れている人ほど「B」の比重が高いように思われる。僕はSF初級者なので、通常、「A」が前提としてうまく機能していないと、余程のものでない限り(『DUNE』とか)、なかなか「B」を楽しめるところまでいかない。
(もっともSF創作講座における想定読者はきっと「SFに慣れている人」だし、審査員の皆さまに至っては「SF慣れ」がカンストしたような面々なので、上記の僕の意見がこの講座およびSF界隈においてどれほど役立つのかは分からない……とまた注記しておく。)
ひとまず結論。僕=一般読者にとって重要なのは「キャラクター」である。
……と、ここで受講生の方からは次のような反論が来るかもしれない。「1200字程度の梗概の中にキャラクターのあれこれなんて書き込んでいるヒマはない、寝言は寝て言え」と。おっしゃる通り。
ただ、逐一「○○はこういうキャラクターで~」みたいなことが書かれていなくても、設定や文章の端々からキャラが読み取れたり、あるいは我々自身の脳内データベースから「このシチュエーションってことは多分こういうキャラクターなんだろうな」と、その像を自動的に引き出せる場合もある。
たとえば瀧本無知『デッドライン・ゴールドラッシュ』(以下、作家名はいずれも敬称略)。
これが良い。ここから読み取れるのは「フロンティアスピリット的な野心はあるのだが、基本的には浅慮であり、中途半端な常識人の冴えない男」という主人公像だ。ダークな世界観の中にあって、ダンディズムというよりは少年性が強調されている。
もちろん他にも、冒頭の一文の掴み・ゲーム的体験としての「死」を扱うという設定・エンディングの展開等々この梗概の魅力は尽きないが、自分がそれらを「面白い」と感じた根底には間違いなく「これは少年マンガのように読めそうだ」という高揚感があった。そしてその高揚感はキャラクターの設定に起因している(ちなみに『ジャンプ』本誌よりは『ジャンプ+』に読切で載っていそうな感じがする)。
また「冴えない主人公」という意味では、長谷川京『妖怪と認められなかった妖怪たち』も出色の梗概である。「京都の大学の人間学部に通う硯子は、彼氏と別れ家族から仕送りも断絶され、宿無し一文無しになった大学二回の夏、吉田にある家賃二千円(年間)のオンボロ寮に転がり込む」。この一文があるだけで「なんとなく向こう見ずでダメな感じっぽいぞ」と伝わってくる。森見登美彦の一連の作を知っていれば、舞台設定も相まってさらに期待感が煽られる。こちらは『ジャンプ+』というより、夏休みにやっているジュブナイル系アニメ映画の感じがある。
なお上記2作ともに、冒頭から「設定・世界観の開示」⇒「主人公のキャラクターが分かる記述」という順番で構築がされていることに留意されたい。もちろん最初の一文からいきなり主人公の話になっても成立はするだろうが、考えてあるSF的設定・世界観が面白い場合、「冒頭で読者をしっかり掴む」という発想からすると必然的にこの順番になるように思う。
さて先ほど「冴えない主人公」という表現を用いたが、これはどちらかというと「物質的/精神的欠落を抱えてスタートする主人公」と言い換えたほうが適切かもしれない。人がフィクションに求めるのが「キャラクターの変化」だとしたら、はじめから欠落を持っていたほうが、成長や変化を描くことで物語の円環を閉じやすい。
そのラインに見事に入るのが岸田大『父に、生まれて』、古川桃流『教師あり学習と業績改善計画の実態』の2作だろう。前者は世界観がSF的なのではなく、『時をかける少女』よろしく主人公が特殊能力を発現するタイプなので、冒頭の一文でキャラクターを描いてしまうのは順番としても効果的である。後者は『寄生獣』『ヴェノム』のようなバディ物。キャラという観点で見ると、物語の進行に伴うアリスとの関係性の変化がもっと読んでみたいと感じた。
他には、真中當『百万回の生死』も良い。「あったかもしれない自分の人生の別ルート」については誰しも人生の節目ごとに考えることがあるかと思うので、普遍的に感情移入(の錯覚)を生じさせるような内面造形に成功している。大庭繭『彼方の親友』は地の文で生の内面がそのまま綴られる。SFのギミックに乗っていくのではなく、そこに疎外感を感じるタイプの文学的な主人公像。継名うつみ『Back to work, Girls!』と水住臨『砕言』は、主人公が何に悩んでいるのかが明確に描かれており魅力的。やや変則的な馬屋豊『マエストロ~まだ見ぬ巨匠たち~』では、過去に喪失体験を持つ若林浩一郎がその位置にあたるだろう。
また、設定が面白いことによってキャラクターの自動補完が発生する作品も見られた。「自動補完とか言い出したらもうキャラクターとかじゃなくてお前の脳内の問題なのでは?」という説もあるが今は措く。岸本健之朗『ハッカー、クマを釣る』は、『ジャンプ』本誌に新人が載せるタイプの読切にラストのSF的展開が追加されているようで良かった。勇ましい少女の絵が浮かぶ(無人化という設定も意外と身近なシミュレーションとして関心を持った)。猿場つかさ『翠曜日の夜、午後八時に』は女子たちがチームを組む話。例の『リコリス・リコイル』をごく最近観たばかりだったので、千束!たきな!という気持ちになった。
逆に、キャラクターがもう一枚噛めばもっとグッと来るに違いない、と思った梗概もいくつかある。荒唐無稽なアイデアが光る庚乃アラヤ『外なる者のラブソング』は、ロックミュージックという概念が元よりひとつの歴史性を背負った思想でもある以上、浦沢直樹『20世紀少年』のようにキャラクターの言動と音楽を共鳴させることでカタルシスを演出できるのではないか(妙に壮大になりすぎるかもしれないが)。岡本みかげ『おいしい肉が食べたい』は「わがままな大統領夫人のことを、長年付き合う研究チームはどう思っているのか」という部分が気になった。たとえば職務的な使命のみならず人間的な憧憬あるいは恋慕の情が……というようなよくあるパターンにしてみるのは陳腐だろうか。ただ、キャラクターの関係性というのは「よくあるやつ」で良いとも思う。
さてラストだ。そもそも今回提示されたのは「自分の人生をSFにしてください」という世にも恐ろしいテーマだった。つまり、ともすれば内輪に閉じてしまうという瑕疵を恐れずに言ってしまえば、作者自身もまたキャラクターなのだ。文学の勘所とはつまり「錯覚の起こし方」にあるのだと看破したさやわか『文学の読み方』が示唆するように、私小説~太宰治以来、日本文学とはそもそも「作者」の審級を取り込んだパフォーマティブなものではなかったか。
その意味では、「この人がこれを書くなら断然読みたい」という気持ちにさせられたのは柿村イサナ『宇宙の中心でIを叫んだワタシ』、イシバシトモヤ『テクノロジーとその本来のところとする所へかえる』の2作である。また作者の実存の表明=アピール文の良さという観点では、方梨もがな『灰燼よ、龍に』は胸に迫るものがあるし、髙座創『夜明けの形式』は梗概という概念を突き破っていてインパクトがある。
以上つらつらと書き連ねてきたが、現状、実作にまでは毎回あまり追いつけていないのが遺憾の極み。ただ今回に関してはぜひとも(言及できなかった作品も含めて)実作を読んでみたい梗概が多かったので、聴講生らしく無責任に楽しみにしながら寒い冬を過ごしたい。
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以上です。ありがとうございます。
ところで最近じつは僕も短編小説を書きました。SFではなく日常オカルト系で、入稿等が無事に終われば文学フリマ東京で販売する予定です(むしろまだ終わってないのかよ!というツッコミは甘んじて受け入れます)。詳細は後日ツイートで告知します。
で、それもまあキャラ物です。キャラクターとは何なのか?というのは今後も考えていきたく、その一環として書いたところもあるので、文学フリマに参加される方はぜひチェックしていただけると大変嬉しく思います。ちなみに小説の仮タイトルは『マリトッツォの鎮魂』です。先に言っておこう、くだらない小説だぞ!