銀座を歩きながら想像の世界を歩いていた
週末の銀座は賑わっている。高価なブランドの紙袋を提げて颯爽と歩く人、歩行者天国をバックにモデルのようにポートレイトを撮る人、何かの集いで来ている年配のグループ、手をつないで歩くカップル、ベビーカーを押す夫婦。
100年後、今この銀座を歩いている人のほとんどがもうこの世にいないのだと思うと、不思議な心地がする。毎日、人がどこかで生まれたり、死んだりしながら、この世の構成員が徐々に入れ替わっていくから社会は成り立っているけれど、もし100年おきに総入れ替えする世界だったら、社会はとんでもないことになるなぁと想像しながら、温かい日差しに包まれて、銀座の街を歩いた。
この前、朝テレビの電源を入れると、Eテレのがんこちゃんが流れていた。がんこちゃんは、私が幼稚園の頃から変わらない。弟のがんぺーちゃんはできないことがあっても投げ出さずに健気に頑張っていた。がめさんは、私が初めて見たころから20年以上経っているけど、相変わらず元気そうだった。
誰も亡くなることのない世界だ。新しいメンバーが増えることはあっても、永遠に欠けることはない。それはユートピアのようであり、年を取らず、成長する喜びを知れない、ディストピアでもあるかもしれない。
時に、いつもみんなが元気に生き続けられるがんこちゃんの世界がうらやましくなるけれど、私は不可逆性の有限の時を生きたい。死が存在するこの現実世界で生きていこうじゃないか。
でも、夫と西暦2100年まで生きてみたいな。そのとき107歳だ。まったく不可能な数字ではないはず。本当は西暦3000年を迎えて、「3000年からもよろしくね」と言って、夫と手をつないで、二人一緒にぽっくり逝きたいのだけど、あと900年はトッケビでないと成しえないな。
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