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盆踊りシーズン到来:「津和野踊り」とは何なのか
今日は8月13日。お盆に入り人の動きも活発になる時期である。
津和野町内でも夜ジョギングをしているとあちこちの家でバーベキューが行われているところに出会う。空きっ腹で夜道を駆け抜ける人間の肺に沁みわたる、肉の焼ける香りに触れると、世が世なら清少納言も「夏は肉。」と書いたのではないかと思わされる、ある種夏の風物詩である。
さて他の地域に漏れず津和野にも盆踊りが存在する。津和野、厳密には津和野町内のうち津和野地区では「津和野踊り」という盆踊りが存在する。どんな踊りかはとりあえずはこちらの動画の津和野踊りの部分(10:59~)を見てもらうのが一番端的だと思う。
なお全くの余談であるが、11:02から出てくる津和野踊りの衣装を着て道路の真ん中に立っているのは私である。こんなオフィシャルな動画のモデルにさせられたのは全くの偶然と気まぐれの産物である。
それはともかく、この盆踊りは400年以上の歴史がある伝統芸能とまで呼ばれているが、それがどういうことなのか、ざっくりと説明していきたい。
その前にそもそも盆踊りとはどういったものであろうか。鎌倉時代に広まった念仏踊りと盂蘭盆会とが結び付いて発展したものだという説が広く知られており、何となく昔から踊られている日本の踊り、というイメージが一般的かもしれない。江戸時代には盆踊りが時に熱狂的なものであったという記録は全国に残っているところであり、性的な意味でも祝祭であったことはよく知られている。これについては下川耿史「盆踊り 乱交の民俗学」(2011)などにも詳しい。
盆踊りはいわばハレとケの結節点の一種で、社会の内と外との交流により人間的エネルギーを回復するという祭りの機能が盆踊りにも見られる、というイメージだろうか。祭りについての良い文献が手元にないので言及はこれくらいにしておく。
他方、例えば東京で盆踊りによく使われる東京音頭がレコード会社から販売されたのは1933年(昭和8年)のことである。地方に盆踊りがあるのに東京にはないことを憂えた丸の内の飲食店が企画したのが始まりとされている。
詳細は、刑部芳則「東京音頭の創出と影響:音頭のメディア効果」商学研究31号(2015)128頁を参照。リンク先に本文あり。
明治以降に生まれた盆踊りも数多くあり、都市部ではその傾向が多くみられるようである。都市ではコミュニティが作られにくいため、盆踊りを通じて地域の一体化を目指すことが良く行われている。盆踊りを含めた地域の祭りが地域コミュニティ再生の重要な要素だとする研究等も多数あり、盆踊りが廃れた地域で盆踊りを復活させようという動きもよく聞くところである。試しに「盆踊り 復活」でニュース検索するとコロナ禍や東日本大震災で中断していたものも含め多くの記事がヒットする。
また近年ではマレーシアで10万人規模の盆踊りが開催されており、日本文化の1つとして広がっているところである。2022年にマレーシア政府がイスラム教に影響を与えうるとしてムスリムの参加を控えるよう声明を出したことで話題になったのも記憶に新しい。
さて、津和野踊りに話を戻すと、津和野踊りも盆踊りと分類できるもので、1617年に始まったとされている。
(なお、ここからの津和野踊りへの言及については、山岡浩二「伝来四〇〇年を迎えた津和野の宝『津和野踊(おどり)』」季刊文化財142号(2018)17頁から引用する部分が多い。)
この1617年が起源という説については、同年に亀井氏が鳥取の鹿野(現在の鳥取市鹿野町)から津和野藩へ入封しており、その際に亀井氏が踊りを持ち込んだという伝承が根拠となっている。もっとも同年に津和野踊りが行われていたことを直接示す資料は存在していない。
ただ、少なくとも江戸時代の末に津和野踊りが踊られていたことを示す資料としては、津和野藩最後の藩主・亀井玆監に仕えた栗本格斎(1845-1926)の描いた津和野百景図の第九十九図「盆踊り」がある。またウェブ上では見つからなかったが、同じ栗本が描いた森地区の盆踊りの絵図も存在している。
また津和野出身の文豪、森鷗外(1862-1922)が、鷗外自身の性体験を記したとされる小説「ヰタ・セクスアリス」にて、少年時代実際に見た津和野踊りについて描写している。
僕の国は盆踊の盛な国であった。旧暦の盂蘭盆が近づいて来ると、今年は踊が禁ぜられるそうだという噂があった。しかし県庁で他所産の知事さんが、僕の国のものに逆うのは好くないというので、黙許するという事になった。
内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、踊の囃子をするのが内へ聞える。
踊を見に往っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。そこで草履を穿いて駈け出した。
これまでも度々見に往ったことがある。もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼というものを掛けている。西洋でする Carneval は一月で、季節は違うが、人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を被ることはないようである。
大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。
400年の歴史がある、と言う場合の数字の正確性はともかく、少なくとも江戸時代に行われていたものと同じ形式で今も踊られていることは間違いないと言ってよいであろう。これだけの歴史のある踊りが現存しているということは、津和野にいると鷺舞神事等もあり何となく当たり前のことのように感じてしまうが、100年単位で続いている伝統行事があり、それが資料によって確認できるというものがこんな中山間地域で残っているということは珍しいことだろうと思うし、全国どの地域にもあまねく存在する事象だとは思えない。これも歴史と文化の蓄積があり、何より当時記録に残した人たちの営為があってこそなせるものであり、津和野という土地の持つアーカイブの強さというものを感じてしまう。
さて、津和野踊りに関しても、他の古くから伝わる盆踊りと同じく、念仏踊りの一種であるとされている。津和野踊りの大きな特徴としては、①衣装、②踊りの動きとテンポ、③歌詞の内容が挙げられる。詳細は先に紹介した論文の著者であり津和野踊り保存会会長である山岡さんのインタビューをご覧いただくのが一番よいだろう。
津和野踊りの紹介に関しては、先に紹介した季刊文化財の論文にほぼ全て書いてあると言っても過言ではないので、学問的に詳しく知りたい方はそちらを参照していただくとして、津和野で生活している人間として書ける、津和野踊りに関する話をいくつかできればと思う。
津和野踊りはその踊りの動きの中に、空中で物をつかんで投げる「つかみ投げ」、拝むように手をすり合わせる「拝み手」、踏み出した足を一度引っ込めてもう一度出すという「無駄足」など、室町時代にまで遡る古い動作が多く、約1分ほどで一周する振り付けであるが、非常に覚えるのが難しいとされている。
個人的な体験談として、私はダンスは比較的得意な方であり、以前夏に旅行した際に近くで盆踊りをやっていたのを見て、飛び込みで踊って振り付けを覚えられるか?というチャレンジをやったことがあるが、4,5分もすればだいたいの動きは掴めて何となく踊ることができた。
しかし、6年前に津和野に来て初めて8月10日の「柳まいり」で飛び込みで津和野踊りを踊ってみたが、30分ほど踊ってもイマイチ動きがつかめなかった。特に難しく感じたのが前進と後退の動きの歩数とタイミング、そして体をグルっと回転させる際の向きと足の動きである。何度繰り返し踊ってもよく理解できず、確かにこれは難しいと実感させられた。何となく外野から見ているとゆっくりしていて、ダンス特有の次の動きについていけない、という感覚とは無縁な印象もあるが、実際に踊ってみると、今自分はどこの何の動きをしているのか?なぜ皆内側を向いているのに自分は外側を向いているのであろうか?などという思いを必ずしてしまう。
そんな津和野踊りについては、津和野踊り保存会が毎年練習会を実施している。今年も7月29日から行われ、残すは14日15日の午後の時間帯のみである。盆踊り大会に行こうと思う人はこの練習会に参加することを強くお勧めしたい。輪に入って踊るだけではわからない体の動きについて根拠も含めた解説を踏まえて踊ると理解度が全く異なる。私も初めて練習会に参加したところ、あれだけ難しいと感じた踊りがすんなりと身に付いた。実際に動いてみるとわかりやすいが、踊り全体が体の動きに逆らわないようにできている。かつて末續慎吾で有名となったいわゆるナンバの動きを取り入れた振り付けで、イメージとしては太極拳にも近く、一度体が覚えると自然と動けるようになり、比較的容易に覚えられるはずだ。
練習あるのみ https://t.co/FtQG22u7ni pic.twitter.com/rZRGt8JMN3
— 津和野町観光協会 (@tsuwanok) July 29, 2024
他方、盆踊りの良いところは、誰でも構わず好きに輪に入って踊れる点にあると思っている。そうだからこそマレーシアでも10万人規模で踊られるし、郡上踊りが全国から人々を引き付けるのもパッと入って自分も気軽に参加者になれるという安心感があるからだろう。祝祭の雰囲気が人を高揚させ、自然と輪に入って踊ってしまう、それが祭りの本来の機能であろう。
そういった点では振り付けが難しいということは参加者のハードルを上げる要素になりうる。このような話をしていると、津和野踊りは難しいから、いざ輪に入って踊れなかったら笑われるかも、それなら見ているだけでいいや、という気持ちになる人もいると思う。
しかし、津和野踊り保存会をはじめとした津和野踊りを踊る人たちは全くそんなことを考えてはいない。伝統文化を残すためにはコアにいて継承を担う人たち、そこから同心円状に広がる関係者、その外にいるアウトサイダーという多様な人々の参加と包摂が必要不可欠だと思う。誰も見る人のいない、加わる人のいない踊りには将来がないだろう。
正式な振り付けや衣装の敷居は高いものの、他の盆踊りと同じく誰でも好きな格好で踊ってよい、という二面性が津和野踊りの特徴と言える。
何より多くの人で踊ることの楽しさというものは、共同身体性という言葉にもあるように、みんなで同じ動きをすること自体から湧き出るワクワク感のようなものに由来していると思う。
夏の夜、蒸し暑い中、太鼓と三味線と唄がエンドレスに鳴り響く中、無心で体を動かす。時には羽の生えた名もなき虫が顔に当たり、蚊に刺されたり、草履に小石が挟まったり、周囲のギャラリーが手に持っている屋台で買ってきた揚げ物の香りがフワッとしてきたり…そういった五感を通じて得た全事象が頭の中でごちゃまぜになり少し感覚が麻痺してくる。現地で実際に参加しないと得られないそんな体験の積み重ねが人生を豊かにしていくはずである。
以前私が津和野町内在住のベテランの方と話をしていると、若いころは本当に踊るのが楽しみで、当時は病院に勤めて夜の当番もやっていたけど、踊りがある日は早めに仕事切り上げてそのままの格好で踊りに行っていた、本当に楽しかった、と目を輝かせて話してくれた。数十年前の若い人たちにとって津和野踊りを踊ることは、現代の都市部に住む人たちがクラブで踊り明かすのと同じような娯楽であったのだろうということが想像できた。
その点、実際に津和野踊りは盆踊りではあるものの、お祝いの席でも頻繁に舞われていたようで、先祖を慰霊する目的だけの踊りではないようだ。
私が聞く限りだと、今町内に住む40代後半の方の結婚式を太皷谷稲成神社で行った際に津和野踊りを踊ったのが最後らしく、おそらく2000年代に入ってからのことであろう。地域で冠婚葬祭を担うという意識が薄れ担い手もなくなった今後、津和野踊りが婚礼の場で舞われることがあるのだろうか。それも今後次第である。
そんな津和野踊りの盆踊り大会は8月15日の夜に、殿町通りを封鎖して行われる。併せてつわの太鼓や石見神楽の公演もあり、地元商店会等による屋台も出る予定である。
踊りに来るもよし、カメラを持って撮るのもよしであるが、撮影しに来る方も少しだけ輪に入ってみると被写体になる踊りがどんなものかの理解度が上がってより良い写真が撮れるのはないだろうかと、写真素人としては思ってしまうところである。
津和野踊り特設サイトはこちらから(おそらく今後改修予定)