30代後半で初めて海外へ行く⑥(Day2:ニューデリー)
※前回の記事はこちら
さてクトゥブ・ミナールを発って次の目的地はロータスである。
ロータスとは新興宗教?の施設とのことでインド駐在3年目の友人もまだ来たことがないという。後で聞いたが友人はインドを訪ねて来てくれる日本からの友人ごとに、この人はあんまり怪しいとこには行かせられないな、とか、こいつはどこ連れてっても大丈夫だな、と判断していたようで、私はもちろん後者である。好奇心旺盛な私はどこ連れてっても大丈夫だろうし、自分1人じゃいく機会が持てないところに連れ立っていくキッカケとも考えていてくれたようである。非常に光栄である。
さて、我々世代からするとロータスと言えばLotus1-2-3というExcel出現前の表計算ソフトの名前を思い出してしまうのである。
厳密には1周り上の世代だろうというツッコミは受け付けたくない。
ロータスは英語で蓮(ハス)であり、蓮の花と仏教とは切っても切れない関係であることは周知の事実であろうが、仏教をはじめとするさまざまな宗教が生まれたインドだからこそ他の宗教も蓮の花との関連性があるのだろうということは予想がつく。
ともかく、ロータス寺院、後で調べると日本語ではバハイ信教と訳される新興宗教の施設とのこと。19世紀に創始された新興宗教である。日本の新興宗教というと仏教から派生してできたものが多いイメージであろうが、インド発祥の新興宗教とはどういったものなのだろうか、興味が湧かないわけがない。
車で移動し少しゴミゴミした通りを抜けて入り口脇で下車。入り口から中に入るととにかく敷地が広い。津和野の殿町・本町くらいは余裕で収まるくらいの広大な敷地が芝生で覆われており、真ん中にロータスの名前のとおり蓮の花を模した巨大な建築物が聳え立っている。何じゃあれはという感じである。
中を進んでいくと日本人2人組が物珍しいようで話しかけられたり写真を撮られたりする。外国人と写真を撮る、というのが1つのステータスのようでインドあるあるらしい。
ちなみにインド滞在中に僕が聞かれたのはJapanese?かKorean?でありChinese?とは1回も聞かれなかった。東アジアの微妙な顔の造形の違いは何となく把握されているのかもしれない。かつて韓国俳優っぽさに定評のあった僕としてはさもありなんというところか。
入り口を100mほど進むと通路は十字路にぶち当たる。左手の200mほど先にロータスが立っている。左に折れて進んでいく。すれ違う人はほとんどがインド人と思しき人々で、外国人観光客はほとんどいない。ずんずん進んでいくと手前50mくらいのところで正面から入る通路には柵が建てられ、右から迂回するように順路として誘導される。そのままついていくと階段を登り建物に近づく。ただそこで靴を脱ぐように言われる。袋を渡され言われるがまま靴を入れる。そのまま半地下になっている日陰を歩いていくと、建物のガラスにバハイ信教のドグマのようなものが英語で貼ってある。
よくよく読んでみると、全ての宗教の神様は一緒で、メッセンジャーが違うだけである、と書いてある。ユダヤ教とキリスト教には受け入れられるだろうけどムスリムの方たちが読むと怒るやろ、というような内容が書いてある。またヒンドゥーや日本神道やアニミズムに近い多神教的な人たちは宗教扱いされていないような気もするし、仏教に関してはどういう扱いになっているのだろうという疑問を持つ。仏教が宗教でないという分類もあるにはあるが、それでいいのだろうか。
そのまま進んでいくと先の階段の手前で人が滞留して待たされている。
近くまで行くも、なぜ待たされているのかもよくわからない。我々は今どんなストリームに身を任せてしまっているのだろうという疑問を友人と共有していると、5分くらいたって行列が200人くらいに増えたところでようやく先へ進むことができる。
階段を上がって通路を歩くと肝心のロータス本体が目の前に現れる。
ロータスの1階部分はガラス張りで中は公会堂のように広い作りになっており、前方にステージがありそれを囲むように長椅子が設置されているコンサートホールのような作りである。それを左手に実ながらロータスを反時計回りに歩いていくと、50人ずつくらいに各入り口に振り分けられて整列するように命じられる。するとスタッフが1人前に出てきて話し始める。まさに新興宗教のイニシエーションの始まりといったところである。そんなことはない。
我々のグループは最後尾で30人ほどだったが我々以外は全員インド人である。スタッフが初めにお前らヒンディー語か英語かどっちかは分かるんか?と全員に向けて尋ねている。が全員に向けて話しているようで視線は我々の方を見ている。お前ら英語分かるんか?と聞かれているのでとりあえずおkとジェスチャーで伝えるとスタッフが話を始める。
がよく聞き取れない。meditationとかinformation centerとかいう単語が聞こえてくるもしっくりこない。後で友人に確認すると、どうやらこれもインドあるあるらしいが、ヒンディー語の会話の中に英単語を挟み込んで喋るということを現地の人たちはよくやるらしく、その形式で話をしていたとのこと。日本でいうトゥギャザーしようよ的な、ルー語表現のようなもののようだ。道理でわからなかったのかと納得する。何となく、瞑想の時間だけど興味ない奴は出てっていいぞ、ただ帰りの左手にインフォメーションセンターあるから興味あればそこへ寄ってけ、みたいな趣旨だけ理解する。
そしていよいよロータス内部に入っていったが、8割くらいの人たちはそのまま長椅子の隙間を抜けて左手の出口へと流れていった。我々も瞑想する気にはならないのでそのまま建物を抜けるが出口前で小冊子を渡される。おそらくこの宗教の教えが書いてあるのだろう。記念に持って帰ることにする。外に出たのちは灼熱の石の床の上を歩きながら出口で靴に履き替え、ロータスの建物を離れることに。
広々とした通路を行きと同じく戻るとやがて十字路に差し掛かる。ここで右に曲がれば出口だがそのまま前進すると地下にある噂のインフォメーションセンターへとつながっている。友人はそのまま出口へ行きそうだったが、せっかくだから入ってみようと提案しインフォメーションセンターへ。宗教のインフォメーションセンターとはあまり聞きなれない言葉であるが、とりあえず入ってみる。創始者の生誕みたいなところから始まり、その宗教の歴史が大きなパネルと説明版で紹介されている。説明を見てもよくわからないが、とりあえず宗教としての規模が大きいことはわかる。
順路に従って進んでいくと、全世界にあるこの宗教の施設の大きな写真が飾られている。ロータス、蓮の花の形をしたものが世界各国に建造されているようだ。どの写真も画角等が凝っており、宗教のPRのために映える写真を使っているのだろうなと思ってしまう。しかし展示を見ていても日本は出てこない。日本には寺院は無いようである。たしかにこんな施設はなかなか作ろうにも作れないだろうなとは思う。その後このロータスの建築途中の写真が出てくる。鳶職みたいな人たちが木造で作っている様子が映っていて、これ木造なんかい、と突っ込んでしまう。木造建築としては法隆寺レベルの大きさである。スケール感が違いすぎる。そもそも首都であるデリー市内にこれだけの広大な敷地を確保できるのは財力なのか土地法制が日本と違うからか分からないが、宗教に関する規模の大きさは日本では考えられない。
すごいなぁと思いながら進むと、やがて、この宗教が現在世界中で子どもや女性の地位向上に取り組んでいます的な展示が出てくる。現世での社会貢献というものが新興宗教が世間をグルービングしていくには必要なのだろうなと思わされる。
ここで展示は終わりでエントランスへと戻ってくる。エントランスには全ての言語のパンフレットが揃っていますと言われていたが、確かに見てみるとガラスケースの中に数十冊のパンフレットが所狭しと並んでいる。これは日本語もあるのでは…と思って覗くと日本語版を発見。ただ全パンフレットの中で装丁が一番しょぼい。日本人に人気ないのね、ということでパンフをもらってもよかったがそこの人と話をするとめんどくさそうなのでパンフはもらわずに退散。宗教のインフォメーションセンターと聞いて、とは言いつつ勧誘的な何かがあるのかな、と思っていたけど勧誘は何もなくまさにインフォメーションセンターだった。
入り口を出るとかなりゴミゴミしていて道端に屋台や店が所狭しと並んでおり、出てすぐのところで何かよくわからないものを売ろうとしてくるおじさんたちを適当にあしらいつつ、1,2分で合流したドライバーさん運転の車で次の目的地へ。セレブな移動のできる旅である。
次はフマユーン廟へと向かう。
フマユーンという響きは高校世界史の香りを思い出させてくれるが、フマユーンとはムガル帝国の2代目皇帝である。このあたりのインド史を復習・整理しておけばもう少し旅の解像度は上がったかもしれないと思いつつ、インド史の勉強はわりと果てしない部分があるので、下手に触れなかったのもあながち間違いとは言えないのかもしれない。
インド人は35ルピーで60円ちょい、外国人は550ルピーで1000円くらいである。観光地価格という言葉を思い出すが、他国の通貨でいわれるといまいちピンとこない。このようなことがしばらく続くと私は為替レートを計算することをやめた。暑さでどうでもよくなってきたことも一つの要因であるが、入場料でケチケチする人間にはなりたくないという気分になってしまう。入場料を支払い、と言っても全て友人が立て替えているのであるが、いざ中へ。
さてフマユーン廟はいくつかの建物がありそのどれもが高い壁で区切られており、墓というよりは城や要塞のようなつくりをしていた。 入ってみるも、人はかなりまばらである。平日で、観光オフシーズンで、この猛暑ということで人が少ないのではないかということだった。
しばらく通路を歩くと右手に塔が見えてきたためそこへと向かう。右に曲がり少し階段を上って壁の間にある出入口を通ると、目の前の下り階段のところをインドの若者が塞いでいる。サングラスをかけて決めポーズをしながら写真を撮っている。どうもインドの若い人たちはこういった写真を撮るのが相当好きらしい。いろんなスポットに行くごとにキメ顔で写真を撮る若者を大量に見かける。日本のインフルエンサーがかわいく見えてくるレベルである。
この塔は青色っぽい装飾で、赤系の装飾の美しさを理解しづらい色覚特性持ちの自分としてはパッと見で華やかに見える、好きなカラーリングである。説明文を読むと誰かの墓所らしい。が墓所は高さ1mほどの高さに床があるため普通には登れない。墓を回ると警備の人とよくわからないジイさんが1mほどの高さのところに座ってダべっている。仕事中だと思うがこの暑さならサボってもしょうがないかと思う。そもそも座っている=サボる=悪、という前提自体が成り立っていないような気がする。ちなみに上の写真をよく見るとその2人が映っている。
そんな談笑中の2人を横目に後ろまで回ると階段を発見、無事墓所の中へ入る。
中に入ると少し涼しく、あぁ良かったと思っていたらさっきまで入り口付近でダべってた爺さんがほうきで掃き掃除しながら近づいてくる。やっぱ仕事中だったのかよとか思っていると日本人か?とか聞いてくる。そうだと答えると一言二言日本語で話しかけてくる。ここに限らず、インド各地で一言二言なら日本語の単語を言えるという人は多い。それだけ日本人が観光に来ている、あるいは来ていたということなのだろう。
そうこうしていると爺さんはいろいろ説明をし始める。この真ん中の墓が誰々の墓で横が子どもの墓で、とか、この文様はこうだ、とか、この隙間から写真撮るといい写真撮れるぞ、とか言ってくる。
はいはい、と思って聞き終わると友人がチップを渡し、それを受け取ると爺さんは消えていった。このような風景はこの後のインド滞在中に何度も出くわすことになる。
清掃している人たちも何となくチップをもらって何となくの小遣いを得て生活していて、きっちりとした契約関係とは異なる次元でのあいまいさやゆるさのようなものが社会を形作っているのだろうなと思う。日本ではあまり見かけないやり取りではあるが、猛暑の中だとむしろきっちりルールを守って生きる方がよっぽどどうかしているのではないかという考えになってくる。そんな考えは滞在中に何度も頭をよぎったし、そんな空間に少しでも染まることにこの旅の意味があるような気がした。
この誰ぞの墓を後にする。入り口で写真を撮ってた若者たちはまだそこにいる。写真への情熱はすごいものがある。
再び元の通路に戻り直進する。門をもう1個くぐると、四方を壁に囲まれ、通路の脇にはガジュマルのような木が等間隔に植えてあるエリアを通る。洗練された雰囲気が漂うが、右前方を見ると地面から突き出たホースから水が漏れて通路脇の地面を這うように水が流れている。スプリンクラーにしては雑すぎるが水漏れにしては誰も修繕する気配もないし、左前方には水がまかれていない。水が貴重ではあるのだろうが、貴重であることを個々人の意識レベルでは捉えていないような印象を持つ。思いがけず水を得ることが出来た樹木は喜んでいることであろう。そんな通路の真ん中には階段数段分下れるへこんだエリアがある。本来池なのか?と思うもよくわからない。
そんなところを歩いていくと正面により立派な門が見えてくる。その奥に見える見るからに豪華な建物がフマユーン廟である。
友人からはタージマハルのミニチュア版みたいなものだ、と言われていたが、たしかに写真で見たことのあるタージマハルと同じような造形で、ムガル帝国時代の文化はこのようなものなのだろう、と理解する。門をくぐると前提には時期によっては水が張られているであろう細長い池があり、その奥に豪華絢爛な建物が立っている。近づくと目の前に急な階段が現れる。
高さ数mのそれをえっちらおっちら上ると1辺100mくらいはありそうな正方形に広がった広間の真ん中に廟、要するにお墓を祀る建物が立っている。八角形に幾何学的に配置された建物の内の部屋部屋と戸があるもパッと見では中への入り方が分からない。ただ中で動く人影が見えるのでどこかからか入れるのだろう。
時計回りに左手から建物をぐるりと回ると270度回ったところで入り口が出てくる。毎回ここだけ開けているのか気まぐれなのか、よくわからない。ともかく中に入るとやはり少し涼しい。真ん中には大きな棺が1つ置いてあるが、その周りも何も囲っていないため普通に触ろうとすれば触れるし、乗ろうとすれば乗れる。
何となくの畏敬の念があって棺をベタベタ触るのはよくないことだという感覚がある我々はそれを見るだけだったが、その何となくの感覚がこの異国の地の人々や異なる宗教の人々でも共通しているという前提がなければこのような剥き出しの状態で棺を置こうとは思わないような気がした。
仮に棺にベタベタ触ったり、上に乗って踊ることが死者への最大のはなむけになる、と考える宗教があるとすれば平気で乗りかねないくらいである。その辺りの無防備さは日本とはかなり違うなぁという印象を持った。しかもその棺の上には数十mある等の天井から鎖が下げられているほか、塔の内部にはハトがたくさん止まっていてふんの跡も見られる。石棺にふんが落ちるというようなこともあまり気にしないのかもしれない。
というかそもそも、こんな立派な廟を死後に立ててくれと願った皇帝は、まさか死亡してから400年以上たった後に東の小さな島国から、棺の上に乗ったり糞したりして大丈夫なのかな…などと余計なことを考えるようないっぱしの旅人が自分の亡骸の前まで来るなどと想像していたのだろうか。
昨年訪れた大阪の百舌鳥古墳の周囲に巡らされた柵と、入んなよby宮内庁の看板と、横堀と化している溝の奥にある森の茂みに囲われた前方後円墳と比較すると、そのあたりの死後の感覚は、仏教や神道をベースにして来た日本人の畏敬感覚とは少し異なるような気がした。
廟の中も八方向に歩けるようになっており、それぞれの方角に小部屋があり、北東、北西、南西、南東の4部屋にはそれぞれ石棺が置いてある。家族かお付きの人かの墓なのであろう。東西南北の小部屋はおそらく出入口である。そういった八方向を意識した廟の内部に広がる空間には、当時の文化の持っていた独特の美意識をまざまざと見せつけられる思いがした。そもそもの拠って立つ死生観の違いがこういった点に現れるのであろう。
建物の外に出ると風の強さを感じる。気温は恐らく40度を越えているが、乾燥している上に風があるとそんなにうっとうしさを感じない。前日のハノイで感じたベトつきの方がひどく感じる。観光客も数十人といったところか、普段は相当混雑するとのことで、人がいない時期にゆっくりとみることができたのは幸運だったかもしれない。また一段高いところから周りを見渡すと、高さは低いが同じような塔が敷地内にいくつかあることが分かる。
こういった墓所のある敷地内にたくさんの文化財が収まっている。都市部のゴミゴミした空間と違い開放感にあふれる空間は、市民にとっての公園という感覚に近いのかもしれない。宗教施設、世界遺産と思うとハードルが上がってしまうが、こういった宗教的な建物がデリーの人々にとっては近い存在なんだろうなと思う。
そうこうして同じ道を引き返してフマユーン廟を後にする。
続きは次回。ようやくランチタイム。