30代後半で初めて海外へ行く②(Day1福岡→ハノイ→ニューデリー)
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Day1
福岡空港→ハノイ→ニューデリー
5時前に起床。ネットカフェで昔からよく使っている、ブラウザで起動する目覚まし時計をセットして寝ていたものの、そのタブがアクティブ状態でなければアラームが鳴らないという仕様を忘れていたためブラウザ目覚ましは起動せず。詰めが甘い。しかしスマホでもアラームをかけていたので全く問題ない。だが、こういう緊張感ある朝はだいたい起きられるのでそもそも心配をしていない。5時30分頃出立。
地下鉄で福岡空港駅に到着。ただ到着してから、国際線ターミナルがここではないことに気づく。下調べが甘いのを露呈する。ただ福岡空港では駅降りてすぐのところからシャトルバスが国際線ターミナルまで走っているため、それに乗れば問題ない。他の旅客たちとともにシャトルバスに乗る。このシャトルバスは一瞬公道を走ると後は空港内の専用道路を走るようになっている。広々した滑走路を見渡せる席でシャトルバスに乗っているのは気持ちよい。10分ほどでターミナル到着。工事中でガチャガチャしている入り口を通り出国ロビーへ。
さて、空港に着いたのはよいのであるが、何せ海外に出たことがないため、正直CIQの手続きなどはよくわかっていないし、経験していないためにどんなフローで出国するのかのイメージが湧いていない。日本を出るということに少しワクワクしていると、プロ野球の有名なスラング「横浜を出る喜び」というフレーズが頭をよぎる。ここはホークスのホームタウンで大分工業高校のある大分県の隣県である。全くの余談でしかない。
とりあえずトイレにピットインしウォシュレットとのしばらくの別れを噛み締め、飲みきれなかったペットボトルの中身を廃棄しチェックインカウンターへ。一番の鬼門の荷物の重量だが、LCCは厳しいと聞くのでオーバーしたら手荷物預けるしかないな、と思っていたら案の定少しオーバーしていたがまぁOKと通してくれた。ありがたい。ちなみにオンラインチェックインをしていたが、いまいちチェックインと搭乗券の関係が分かっていない、というかこれに関してはいまだに国内線でも迷うところである。
そんなところで手荷物検査へ。6時55分手荷物検査開始とのことで7時前にはとんでもない行列になっていたが、5分も経つと行列もうまく捌けてそんなに待つこともなく検査へ。ただ金属探知機が反応してしまうミス。おそらくサンダルが原因だが、ボディチェックを終えたら通してくれた。その後の手続きが一番理解できていないところだったものの、出国手続きがパスポートを機会にかざして10秒くらいで終わったのが意外だった。そんなもんなのね、という感想。そりゃそうだ。入国とは話が違う。
手荷物検査場の先は国内線とはまた雰囲気の違う空間が広がっている。広々としていて明るい。必要なものを買って、ワーキングスペースでここまでの出来事と感想を綴る。
自分は写真を撮るのがあまり得意でない、というか写真を撮る習慣があまりない。その代わりに今回の旅は文章で記録を残そうと思ってちょこちょここういった文章を書こうと決めている。そのためにラップトップも持ってきている。まもなく搭乗のためいったんここで休止。
搭乗前にふと頭によぎったのは「地に足を付けて生きる」「地に縛られて生きる」ということ。このことを意識したのは高校に入ってしばらく経った頃だった。
生まれてから7歳までは熊本の人口10万人規模の市に住んでいたものの、小学校2年生から人口3000人の村に移り住んだ。そこはいわゆる中山間地域にある典型的な過疎の村であり、地縁というものが残る村ではあるものの、引っ越した先はバブル期に計画された、山を削って宅地を造成する事業でできた約30戸の分譲地でできた集落であった。いわゆる新住民と呼ばれているものに近く、その地に何代も住んでいるような人がいるわけではなく、村外や村内から造成された土地を買って移り住んできた、ある種ヨソモノの集まりのような集落であったため、地域としての一体感がそんなにあるわけではなく、むしろ子ども同士とその親のつながりのようなものがゆるやかに結び付いているような地域だった。
そのため、そこに住むことで地に縛られているという感覚はあまり無かったのであるが、中学2年になり、2歳離れた兄が熊本市内の高校に通うことになると少し意識が変わってきた。
熊本市内から約40km離れたところに住んでいた自分にとって、熊本市というのは都会であり遠い存在だった。家族で熊本市内に行くようなことは年に1回あるか無いか程度だったし、中学に入ってからは熊本市内で開かれる陸上の大会にマイクロバスで連れていかれて走らされる、遠くてしんどい思いをする場所という体感でしかなく、自分のメンタルマップでは遠い無縁な場所というイメージだった。しかし、いざ兄が毎日熊本市内の高校に通うようになると、毎朝天気予報で流れてくる熊本市内を俯瞰で撮影した映像を見るたびに、こんな遠い離れた場所に身近な人間が毎日通っているという事実がより不思議なものに感じられて、この"村"にいる自分と毎日"村"を出て都会へと通っている兄という対比を強く感じ、あぁ自分は"村"という場所で日々生きているのだなということを実感させられた気がする。
ただ、2年後には自分も熊本市内の高校へ通うようになり、いざ通ってみると遠い地域だと思っていた熊本市という場所はそんなに手の届かないほど遠い場所じゃないんだなという感覚になってきた。今思うと津和野から益田や山口に出るくらいの距離であり大したことないなと思ってしまうが、少年時代の自分の感覚はそれとは異なっていたのである。ただ、熊本市が遠い存在ではなくなったとしても、自分のメンタルマップで内と外に分けるとすると熊本市は変わらずに「外」でしかなく、自分の住んでいた村と隣町くらいまでが「内」であった。
高校に通ってはいるものの感覚としては出稼ぎ的な意識に近く、毎日熊本市内に出るのはある種義務感で出ていくものであり、帰りの普通列車が、氷川に架かる橋を渡ると同時に、あぁ自分のテリトリーに戻ってきたな、という感覚があった。正直その感覚は今もあまり変わらない。今となっては熊本出身だということを自分で言いはするが、熊本"市"にはホームタウンという感覚がない。その証拠に熊本地震で熊本城が崩れてもあまり何も感じなかった。熊本城は自分にとっての郷土のシンボルではないのである。ダンバー数という言葉を思い出してしまうが、自分の目の届く範囲にしか自分のアイデンティティは広がってはいかないのだろうと思う。
高校1年の時に感じた熊本市の”近さ”というものも、高校2年になるとまた変容していく。きっかけはまた兄である。兄が東京の大学に進学して実家からいなくなってしまうと、またもや毎朝テレビに映る東京の情報たち、特に我が家ではめざましテレビのシェアが大きかった気がするが、それに接すると、あぁこの前まで同じ村の同じ家で過ごしていた人がこのテレビに映っている大都会(今度こそ都会と言って良かろう)にいるんだな、と思うと、自分は熊本県という地に縛られて生きているんだな、ということを実感させられた。
そうなると「熊本県に住んでいる自分」という、村に住んでいる自分とは異なるアイデンティティが設定できるようになっていった。自分のアイデンティティの外縁は、外の世界が意外と近く地続きであることを知る度に少しづつ広がっていくんだろうなと思う。
そして2年後に自分も東京の大学へと進学することになってしまうと、村であるということのリアリティはなかなか他人に伝わらないためにより広い熊本出身というアイデンティティの側面が切り出され、私という存在に「肥後もっこす感」や「九州男児感」がまとわりつくようになるのである。
とそんなことを考えていくと「自分が日本人である」というアイデンティティが自分には希薄なことの理由が分かってくる。海外が身近な存在でなかったという点が大きいように思う。若いころに海外に出ていく機会があれば、その中で自分のアイデンティティとして日本人、という側面が周囲の環境によって浮き彫りにされていっただろうし、また周囲に海外にルーツを持つ人たちがいれば、日本人であることを考えたのかもしれないが、そういう機会を持てなかったために「日本人」というアイデンティティを意識させられることが全くなかったのではないかという仮説が成り立つ。
そうであるからこそ「美しい国」だとか「日本人の美徳」だとか「日本のここがすごい!」みたいな煽動力のあるフレーズが自分には空虚な響きしか感じられないのかもしれない。となると、海外に出ることは日本人であることについて何らかの意識を持つきっかけになるのかもしれない、そう思うと少し恐ろしい気もしてくる。
地に縛られて生きることがどのような意識なのか、出国し日本という地を離れる前に、自分の感覚や感情を研ぎ澄ませておくことは悪いことではないかもしれない。
と出国前の時点で旅行と関係ない文章が長くなってしまったので、続きは次回。この調子だと帰国までにあと何回記事を書くことになるのだろうか…
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