【長編小説】闇袋 第3章
第3章
1
椎名が向かった先は、二週間前に訪れた喫茶〈スワン〉だった。
「ここばっかりで悪いが――」椎名が言い訳がましく言ったが、奈乃は聞いていなかった。まったく動かなくなってしまったあの二人の光景をなんども思い返していた。
「やっぱり連絡しないと!」奈乃は椎名につかまれていた腕をふりほどいて言った。
「どこへ?」
「えーっと、この場合は救急車? そうよ! まず救急車よ!」と携帯を取りだした奈乃の手を椎名が押さえた。
「まあ、ちょっと落ち着けって――。ほら、聞こえるだろ? あれは救急車だよ」
聞いてみると、確かに救急サイレンの音が聞こえていた。それも一台じゃなかった。パトカーのサイレンも聞こえる。それも何台も――。すごい騒動になっているようだった。
「ま、とにかく入って・・・・」と椎名にうながされるまま、奈乃は店に入っていった。
店内には男が一人、カウンターに坐って、新聞を広げていた。近所からつっかけで来たようなラフな格好で、二人が入ってきても、新聞からすこしも目を上げなかった。カウンターの中にいたママが、タバコを消しながら「いらっしゃいませ」と気だるそうに声をかけてくる。
テレビでは、どこかで見たことのある女優が、海外の旅番組をやっていた。
椎名は以前と同じイスに奈乃を坐らせてから、コーヒーを注文した。奈乃に注文を聞いても反応がなかったので、勝手にレモンティを注文した。
椎名はタバコを取り出して、左手の親指の爪にフィルターをとんとんと叩きつけていた。
「で、そのマスターたちに、何かあったのか?」
奈乃は椎名を見る。それから眉を寄せて、首をひねった。
「なにかあったのかまではわからないの。私もそこまで見ることができなかったから――。でも、あの男たちに殴られて倒れていたマスターと、もう一人の占い師の人に、あの男が包丁をもって近づいていったのまでは見たの。それからどうなったのか・・・・」
椎名は眉をひそめた。あの男の血だらけの服を思い出したからだ。
――いったいあいつらは何者なんだ? 白昼堂々と、血だらけの服で包丁をふり回すなんて、とても正気の沙汰とは思えない。
「何してるの?」と奈乃。
「ん? なにが?」
「そのタバコをとんとんしてるの」
「あ、これ?」と椎名はタバコをかざした。「タバコの葉を詰まるようにしてんだよ」
「詰まる? どうして?」
「美味しくなるからさ」
「へえ~」
「ま、ホントのところはわからないけどね」と椎名は笑いながら、またタバコを左手の親指にとんとんと叩きつけていた。
「じゃ、これまでのいきさつを説明してくれないかな」
奈乃は椎名を見て、また首をひねった。
「私も、一体なにが起こっているのか、さっぱりわからないの」
本当に、自分でもこの騒動がどこから始まっているのかわからない。
あの女が私を尋ねてきたところからか? でも、その時にはすでに、あの女は私のことを知っていたのだ。
だったら、この話はいったいどこからはじまっているんだろう。
「キミは、あの男たちのことを知ってたの?」
「知らない。今日はじめて見た」
「とつぜん訊ねてきたってこと?」
奈乃は首をふった。
「今日の午後一時過ぎぐらいに、女の人が来店してきたの」
「ちょっと待った」椎名はまだ火を点けてないタバコをもった手で、奈乃の話を制した。「そもそも、キミはあの店に勤めてんの?」
そう訊かれて、奈乃は警戒して椎名を見た。
「だから誤解だって。俺はキミのストーカーでもないし、恋愛感情でキミを探してたわけでもない。それは後からちゃんと説明するから、いまはそのー、キミの話を聞かせ欲しいだけなんだ」
確かに、いまのこの男からは邪念が感じられない。下心をもった男なら、邪念の袋が、それこそ吐き気をもよおすぐらいに漂っているものだ。それに、あのとき見えた闇袋もまったく見当たらない。いったいあの時の闇袋はどこへいってしまったのだろう・・・・。
「わかったわ。――で、なんだっけ?」
「だから、まず、キミは、あの店に勤めてんの?」
「そうよ。勤務は土日だけだけど・・・・」
「土日だけ?」
椎名はしばらく呆然と奈乃を見つめた後、ソファの背にもたれてため息をついた。
「そうだったんだ。じゃ、見つからないはずだ。――あれ、占いの店だよね」
「そう」
「そこで?」
「占いをしてるの」
「キミが?」
「そうよ」
「なるほど・・・・」
椎名はそこでようやくタバコに火を点けて、煙を横に向けて吐き出した。
「占いをしてるんだ――」と言ったまま黙り込む。
奈乃はその部分をあまり突っ込まれたくなかったので、
「でも、まさか、あなたが助けてくれるとは思わなかった」と身体をすこし前にだして、椎名の顔を下から見上げるようにして笑った。
「私を探してたの?」
椎名が奈乃をみて笑う。
「突然あんな逃げ方されちゃ、誰だって気になるだろ」
「そう?」
「そうさ」
椎名はあらためて奈乃の姿をじっくりと見てみた。
「でも、こうして見ると、ほんと、別人だよなー。この格好で見かけても、たぶんわかんなかったよ」
「じゃ、よくわかったわね。あんなに離れてたのに」
「悔しそうだな」椎名はうれしそうに笑って、タバコの灰を灰皿へ落とした。「だって、あの場所で、それに、そんな目立つ格好で、いきなり回れ右したんだから、疑ってみたくもなるだろ。で、イカれた男にぶつかって、俺を見た瞬間に『ヤバイ!』って文字が頭の上に浮かんでたのが見えたんだよ」
「そーお?」奈乃は目だけを動かして、自分の頭の上を見た。「そんなの出てた?」
「ああ、でてた。笑っちゃうぐらいデッカいのがね」
「私もまだまだ修行が足りないわね」
「なんの修行だよ」と椎名が笑う。
「もちろん、ポーカーフェイスのよ。占い師は感情をあまりださない方が、それっぽく見えるでしょ。そういう修行よ」
「なるほどね」
椎名はまだ半分ぐらい残っていたタバコを、ていねいに灰皿にもみ消した。
その灰皿をテーブルの隅に置き、おしぼりで両手の指の一本一本を爪の先まできれいに拭い、最後にそのおしぼりでテーブルを拭いた。それも右から左へと一方向に決めているらしく、定規で測ったように順々に拭いていく。
奈乃はそんな椎名の行動をぼんやりと眺めていた。
椎名は満足したようにテーブルをひととおり眺めてから、奈乃を見た。
「ところで、時間もないから本題なんだけど――」
奈乃はソファーに坐りなおして、椎名にきちんと顔を向けた。
「まず最初に――」
椎名はテーブルに肘をつき、両手を顔の前でもみ合わせていた。
「キミは、そのー、もしかして、あのときに、俺になにかしたのか?」
「なにかしたって、なんの話?」奈乃は眉を寄せて首をかしげた。「意味がよくわかんないんだけど・・・・」
「俺もよくわかんないんだけど、ほら、二週間前に、ここで、俺がトイレから出てきて、ここに坐ったら、いきなりひどい映像が頭の中に浮かんだんだ。キミはそれを、俺に見せるようなことをしたのかってこと」
「見せたって、私が?」
「そう。違ってたら、ゴメン。謝るよ。そこがよくわかんないとこなんだけど、俺はあの時、自分の息子をベッドから抱き上げてから、それを床へ投げ落とすような映像が、いきなり頭の中に浮かんだんだ」
奈乃は黙って肯きながら、彼の話を聞いていた。実際あんなふうに心の中で闇袋が割れてしまったときに、本人はどういう風に見えているのかとても興味があった。
「それが、とても信じられない光景だったんだよ」
椎名は顔をしかめながら首をふった。
「俺が、息子を投げ捨てるなんて・・・・。あれだったら、まだ生後一、二ヶ月だよ? とても信じられない。でも、あの映像にでてきた部屋も、ベッドも、白いベビーベッドも、全部俺の部屋の光景なんだよ。そこがほんとによくわからない」
椎名はタバコを一本取り出したが、思い直したのか、それを箱に戻し、ソファーの背にもたれかかった。
「で、キミだ」と人差し指と中指をくっつけて、奈乃を指した。
「キミはあの時、まさに俺と同じ映像を見てたみたいに、俺を非難したよね。『なんてことするのよーっ!』って。確かに、そう叫びたくなるような光景だったよ」
椎名はそこで身体を起こして、奈乃に顔を近づけた。
「――どうして?」
「え? どうしてって言われても・・・・」
「キミが、俺に、あれを見せたってこと?」
「え? ちょっと待って。まず、そこが間違ってる」
「そうじゃないのか?」
「あれはあなたの記憶よ」
「は? 俺の? 嘘だろ」椎名が笑って顔の前で手をふった。「それはないって」
「嘘じゃない。ちゃんとあなたの中にあったものよ」
「俺の中にあった?」
しまった! と奈乃は思った。これでは『私は人の心の中が見える』と告白しているようなものではないか!
「俺の中に、息子を投げ捨てるような記憶があったと?」
「そう」
椎名は首をひねった。
「どうもよくわからないなー。――もしかして、キミは、他人の心の中にある記憶が見えるってこと?」
二人のテーブルにコーヒーとレモンティが運ばれてきた。それらのカップが置かれていく様子を、ふたりとも黙って眺めていた。
他人の記憶が見える能力で、息子への虐待を私が知っているとわかったら、この男はどうするのだろう。
やはり私を消そうとするのだろうか――。
「で、どうなの? キミは他人の記憶が見えるの?」と椎名は声を低くしてもう一度言った。「正直に答えてほしい」
彼の言い方は優しかったが、納得いかない返事だったら承知しない、という強さが込められていた。
奈乃はティーカップにレモンをいれてから、おしぼりで手を拭いながら椎名を見た。
「わかった」と奈乃。はじめて他人に話すことなので、少し緊張していた。
「他人の記憶は、見える場合と、見えない場合があるの」と奈乃は言ってみた。正確ではないが、他人の記憶が見えるとわかったときの男の反応がわからなかったからだ。
椎名がコーヒーを呑みながら、眉間にしわを寄せている。でも、なにも言わなかった。黙ってコーヒーカップに口をつけて何かを考えている。
「じゃ、あの時、俺の心の中にもなにか見えたのか?」
「見えた」
奈乃は椎名から目を離さずに、はっきりと言った。
「それは感じることもできるのか?」
「ええ」と正面から椎名を見たまましっかりと応えた。
「何を感じたの?」
「赤ちゃんの苦痛を――」
椎名は顔をしかめた。そしてカップを置き、ソファーに背をもたせてから深いため息をつく。それから両手で顔を被い、また深呼吸した。それから奈乃を見る。
「誓って言うが、あれは絶対俺じゃない」
「あなたの中にあった記憶が、あなたのじゃないと?」
「それがどこにあったかは知らないが、あれは俺の記憶じゃない」
「どうしてわかるの?」
「俺の記憶じゃないからさ」
「断言できるの?」
「断言できる」
「あなたの赤ちゃんは元気なの?」
「いや――。去年、その、まだ小さかったのに、なんていうか、・・・・逝ってしまったんだ」
椎名は苦しげに答えた。
「でも、俺じゃない。俺はなにもしてない。なにもしてやれなかったことに、深く後悔してたぐらいなんだ。信じて欲しい」
「どうして亡くなったの?」
椎名は奈乃を見た。ちょっと言いにくそうだった。
「――乳幼児突発性症候群って知ってる?」
奈乃は首をふった。
「聞いたことはあるけど・・・・」
「それまで元気だった赤ちゃんが、なんの予兆や病歴のないまま、眠っている間に突然死してしまうってやつなんだけど、それで息子は逝ってしまったんだ」と椎名は顔をしかめて苦しそうに言った。
すべてが悪材料だ。そんな理由の分からない突然死なんて、自分がわが子を虐待していたことを、みずから露呈しているような気がした。
「わかった。ちょっと待って」
奈乃は目を閉じて、椎名に〝さぐり〟をいれてみた。
「いま、見てるのか?」
「黙ってて」
見たところ、きれいな袋ばかりだ。先ほどはそれも見えなかったが、いまは湧きでるように透明な袋が数多く漂っていた。
でも、やはりあのとき見えた闇袋は見当たらない。記憶ではまだふたつ残っているはずだが、それが跡形もなく消え去っていた。時間が経つと消えてなくなるなんてありえない。それも二週間足らずで――。
奈乃は首をひねった。
「どうかしたのか?」
「前に見えた袋が、いまは見えないの」
「袋? なんだよ、それ」
「記憶の袋よ。私はそれを人の心から取り出して、見ることができるの」
椎名は黙り込んで、奈乃のことばを頭の中で整理しているようだった。
「誰でもか?」
「そうね。誰でも」
「じゃ、前も俺の、――その記憶の袋を見たのか?」
「ええ」
奈乃は記憶の袋のことをひととおり椎名に説明した。
そんなことを他人に話すのも初めてだった。そんな力をこっそり使っていることにどんな反感をもたれるのか想像もつかなかったが、彼女はすべてを話した。
袋というのはどういうものなのかということと、まれに人の中には黒い色をした袋が存在することまで。そして、その黒い袋をたくさん持っていた中学時代の校長が自殺してしまったことも話した。
だから、それを持っていたあなたを助けたかったのだと。それがこんな結果になってしまってごめんなさい、と彼女は素直に謝った。
椎名はなにも言わずに、しばらく考え込んでいた。
カウンターにいた男は、すでにいなくなっていた。
ママはタバコを吸いながら、テレビのニュースをぼんやりと見ていた。
今回の渋谷の事件も報道されるのだろうか、と奈乃はぼんやりと考えていた。
「なんか、変な気分だな」椎名が奈乃を見て、にが笑いした。「キミは俺を助けようとしてくれたんだね?」
「結果的にそうはならなかったけど――」
「でも、ありがとう。礼を言うよ。――俺の中にその黒い袋が存在したことは本当なんだね」
「ええ。それは確かよ。それも三つ」
「三つも?」
「そうなの。その中のひとつを取り出そうとして、壊れてしまったの」
「それが見えたのか・・・・」
「そう。あんなにもはっきりとね」
黒い袋のことを〈闇袋〉と呼ぶことまでは黙っていた。自分が得体のしれない深い闇の袋をもっていたなんて、それも三つもなんて、まったくいい気はしないだろう。
それにしても、あとの闇袋はどこへいってしまったんだろう・・・・。
椎名は力をこめて、両手の指で額をなんどもこすっていた。
「俺は夢遊病者なんだろうか・・・・。自分で意識してなくても、その記憶の袋って残るのかな」
奈乃はゆっくりと首をふった。
「私にはそこまでわからない。ただわかっていることは、以前はあなたの中に黒い袋が存在し、いまはそれが消えてしまったってことだけなの」
「記憶って、そんな風に消えるものなのか?」
「普通は消えないと思う。あんな記憶であればなおさらね」
「だろうな。俺も、あの記憶以外に、暗い記憶なんていっさい思い浮かばないんだ。あの破裂した記憶だけ。それだけなんだ。おかしくないか?」
奈乃はここでも首を傾げるしかなかった。
「まだ私もわからないことだらけなの」
「そうなんだ。ところで、きみはいくつなの?」
「十七」
椎名が額をこする手を止めて奈乃をみた。
「まだ高校生?」
「そう。二年」
「それは見えなかったなー」
「そう? いくつに見えてた?」
奈乃はニコニコしながら訊いた。
「いいとこ二十二だなー。よく言われない?」
「そうね。だいたい、いつもそれぐらいに言われる」
「だろうなー」
「でも、制服を着てると、ちゃんとそれなりに見えるのよ」
「それなりに、ね」
椎名が笑った。またおしぼりで両手をぬぐう。
「あと、名前もウソ。ほんとは北川奈乃っていうの」
「それは信用してなかったけどね」椎名が軽く笑った。「告白すると、俺もひとつウソをついてたんだ」
「なに?」
「モデルにならないかって話」
「え? あれ、ウソだったの?」
「ウソじゃないけど、そんな仕事、俺はひとつも持ってない」
「なーんだ。ま、別にいいけど」
「カメラマンなのは本当だけど、雑誌のありきたりな写真しか撮ってないんだ」
「スクランブル交差点とか?」
「そうそう。あんな、ありきたりなもんばかりさ」
椎名がまた笑った。そして今度はテーブルをぬぐう。
コップの水滴がテーブルに残っていても気になるみたいだった。
奈乃は冷めてしまった紅茶に、砂糖を入れてかき混ぜていた。そして、かき混ぜ終わったスプーンをティーカップソーサーの上にのせると、椎名はそのスプーンをじっと見つめていた。正確には、スプーンについている紅茶のしずくが、ソーサーを汚した部分を見つめていた。
奈乃は構わず、紅茶をひとくち口に含んだ。
「あー、本当に心配――」
「マスターたちが?」
「そう」
「でも、まさか刺したりはしてないだろう」
そこで奈乃は椎名の傷を見た。
「あなたも警察行かなきゃ! 立派な傷害罪よ!」
「いや、俺はいい。遠慮しとくよ。たいしたことないから・・・・」と椎名は笑って首をふった。
「でも・・・・」
「いや、いいんだ」と椎名。それは少しも譲れないみたいだった。
「それより、さっきの――、今日の午後、来店してきた女の話を聞かせてよ」
「そうだけど、でも・・・・」
「いや、いいから、まずはその話を――」
奈乃はかたくなに拒む椎名に釈然としないながらも話をはじめた。
「私の占いは、人の記憶が見える力を利用して占うから、いつも私のブースに人が入ってきた時に、まず最初にその人の記憶の袋をのぞくんだけど、その女にはそれができなかったの」
「記憶の袋をのぞくことが?」
「そう。ブロックされるの。それはどうやってするのかわかんないんだけど、そんな人はじめてよ。のぞいてもなにもないとか、記憶の袋の中がからっぽというのは何度かあったけど、最初からまったくのぞけないなんてはじめてだったの。それで私が驚いてたら、なんか、私を小バカにしたように、『見えないの?』って嘲ってきたの」
「その女も同じ力をもってたんだ」
「それももっと強力な力をね。その後で、私に黒い袋を投げつけてきたの」
「黒い記憶の袋を?」
「そう。ほんと、ビックリしたわ。そんなことができるなんて思ってもみなかったもの」
「それってどんな感じ。あたると痛いとか?」
「ううん。あたっても何にも感じないんだけど、とつぜん頭の中で、他人のひどい記憶が再現される感じかなー」
椎名は顔をしかめた。
「それはあまり嬉しくない体験だな。自分が経験しているみたいに感じるの?」
「そうね。それに近いわね。リアルタイムに体験しているんじゃなくて、そういう記憶を思いだしている感じかな」
「それを何個も投げつけてくるんだ」
「そうなの」
「それはひどい・・・・」
「でしょう? でも、そのときは同じ占い師仲間の人が気づいてくれて、私を逃がしてくれたの。それで逃げている時に、偶然、あなたに見つかったのよ」
「なるほど。それでこんな格好で街を歩いてたってわけか」
「もう逃げにくいったらなかったわ」奈乃は服をヒラヒラさせながら笑った。「今日はこの格好でもう逃げてばっかり」
「そりゃすまない」椎名も笑っていた。「大半が俺から逃げてたもんなー」
「そうそう。もう殺されるかと思ってた」
「俺にか?」
「そうよ。誰にも知られてない秘密を知った私を消すのかと」
「まさか・・・・。それに俺の秘密じゃないし――」
「今はもうわかったけど、ほんとに必死だったのよ」
「速かったもんなー。逃げるの」
奈乃はレモンティを一気に飲み干して、新しい紅茶をカップに注ぎ、今度はなにもいれずに、紅茶だけを口にふくんだ。
「で、あの男たちが来たのは?」
「その前に、私が店に戻ってみたら、私を助けてくれた占い仲間の人が――、ヒカリさんっていうんだけど、その人がいなくなってたの。あの女と一緒に出ていったって」
「拘束されたの?」
奈乃は不可解というように弱々しく首をふった。
「それが、どうも、自分から女についていったみたいなの。たぶん、あんな力をもった女だから、なにか私の知らない力で操ったのよ」
「催眠術みたいな?」
「よくはわからないけど、そんなものでね。でなきゃ、ついていくわけないもの」
「そりゃ、そうだよな」
「で、私が店に戻ってしばらくすると、そのヒカリさんの携帯から連絡がきて、それで出てみたら、あの女だったの」
「ほう――。それで?」
「それで、一方的に、いまから迎えに行くからって言って、あの男たちが来たのよ」
「ふたりで?」
「そう、ふたりで」
「なるほど――」
椎名はテーブルに目を落としたまま、しばらく考え込んでいた。
テレビでは天気予報をやっていた。明日は一日中雨のようだ。
「そう言えば――」と奈乃は、テレビから椎名に目を戻しながら言った。「マスターが、あの男たちに、私をどこへ連れて行くのかって聞いたときに、『無想の家だ』って言ってた」
「無想の家?」
「そう」
「・・・・聞いたことないなぁ」
椎名は自分の頬をつまみながら、しばらく考え込んでいた。
「雑誌の仕事で、新興宗教なんかの取材に立ち会ったことはあるんだけどなぁ」
「やっぱり何らかの宗教だと思うんだけど。私があの女の電話を受けた時に、その後ろで人のうなり声みたいなのが聞こえてたから」
「なんか、あんな男たちがいっぱい集まってるって思ったら、ちょっと恐怖だなー」
椎名は想像しただけでも気が重かった。あんな狂信的な男が集団でいたらとても敵わないだろう。
いったいどんな集団なんだろうか・・・・。
「とにかく、ヒカリさんを――」
そのとき携帯が鳴った。月夜のヒカリからだった。
びっくりして椎名を見る。
椎名が携帯に目を落とす。
奈乃が椎名を見ながら携帯を開いた。
「はい、もしもし・・・・」
「アンタ、どこにいるの!」
やはりあの女だった。最初から怒っていた。割れたガラスが突き刺さっているような声だった。
「どこって・・・・」
「いったいどうなってるの? あの男、重傷よ!」
「え?」
奈乃が聞き返した。
「あの男って誰?」
「アンタを店へ迎えにいった男よ。右肩を脱臼してるって・・・・。どういうこと?」と怒鳴る。
「だって、アイツ、マスターをいきなり殴ったのよ!」
「え?」
その報告は受けてないみたいだった。女がしばらく絶句した。
「アイツがだれを殴ったって?」
「私の店のマスターよ! それにもうひとりも殴り倒したのよ! 女性なのに!」
女が隣の誰かに確かめている。おそらく、下水男だろう。
『アイツ、誰かを殴ったの?』と訊く女の声が聞こえた。
相手の男は答えているが、なにを言っているのかまではわからなかった。
『で、どうなったの? お前は見てなかったの?』
『・・・・』
『もう! そんな確認もせずに帰ってきたの!』
『・・・・』
『使っかえないわね――』
「アンタは――」と、急に女の声がはっきりと聞こえた。「アイツが、そのー、マスターを、どうしたのか見たの?」
「アイツ、いきなりマスターを殴って、それを止めようとした女性の占い師も殴って――。もうメチャクチャよ! その後は見れなかったけど、あとで店から出てきた男の青色のシャツが血だらけだったのよ! 信じられる?」
「もうっ!」
女が携帯を叩き壊すような勢いで怒っていた。
「私も殺されそうになったんだから・・・・」
奈乃が文句を言った。
「それはごめんなさい。本気で謝るわ。アンタを、そんな目にあわせるなんて計算外よ。アイツに仕込んだ闇袋が、ちょっと過激すぎたのね」
奈乃は、しばらく黙り込んで、女が言ったことばの意味を考えていた。
闇袋を仕込む?
過激?
彼女はそこまで考えたところで息を呑んだ。
「あなた、闇袋を、人に仕込むことができるの?」
今度は女が口をつぐんだ。
「それは他人の闇袋でも?」と奈乃が訊いても、女はなにも答えない。
奈乃は頭の中を整理しようと、下唇をつまんで懸命に考えていた。
「・・・・つまり、アナタが、あの男に、なにか過激な闇袋を仕込んだせいで、あの男は異常なぐらい、過激な行動にでてしまったと・・・・。そういうこと?」
女は答えない。
「もしもし? ちゃんと答えてよ!」
奈乃がそう訊くと、携帯が切れた。
奈乃は携帯が切れてしまっても、しばらくそのまま動かなかった。
椎名は携帯が切れているのがわかっていたが、黙って奈乃を見守っていた。
そこでまた携帯が鳴った。
また月夜のヒカリの携帯からだった。
「肝心なことを忘れてたわ」女が事務的にいった。「あなたの大好きなヒカリさんを迎えに来てよ。自分では帰れないみたいだから――」
「ヒカリさんは大丈夫なの? 元気なの?」
「ええ、元気よ。いまは電話にでられないでしょうけど・・・・」
女が落ち着きを取りもどして、笑みを含みながらいった。
「携帯にでられないの?」
「今はでたくないだろうねえ、たぶん」
「どういうこと?」
「自分の目で確かめてみれば――」
女は急に高い声で笑った。元気なコウモリみたいな、しゃくにさわる声だった。
「もうお迎えは出せないわ。自力で来なさい」と女は『無想の家』の住所を言った。
等々力だった。
奈乃は行ったこともなかった。
椎名をみると、彼も首を傾げていた。
「いい? 三十分よ。そこがどこだか知らないけど、それだけしか待てないわ。――アイツ、闇が多すぎるのよ!」
そういって女は携帯を切った。
「なんて言ってた?」
椎名が身を乗り出して聞いてきた。
「等々力まで、三十分で来いって」
椎名は壁にかかっていた掛け時計を見た。
四時三十二分を差していた。
「等々力だとそう遠くはないから、タクシーで充分間に合うな」
椎名は落ち着いた声で言った。
「すぐに行こう!」
そういって奈乃に立ち上がるように促した。
2
渋谷から等々力までタクシーで二十分程度だったが、『無想の家』の場所がなかなかわからなかった。ふたりは住所の近くでタクシーを降り、歩いてその建物を探すことにした。
閑静な住宅街で、日曜日のまだ午後五時前だというのに、通りには人影がまったく見当たらず、くっついてしまいそうなぐらい住宅が密集しているのに、どこからもなにも、テレビの音さえも聞こえてこなかった。
名前だけでは等々力が世田谷区のどのあたりにあるのかもわからなかったが、いま住んでいる街ととてもよく似ている、と奈乃は感じていた。それが街の古さなのか、家の密集具合なのか、最盛期を過ぎて疲れてしまった感じなのかはわからなかったが、街の空気みたいなものが、いま住んでいる練馬区ととても似ていると思いながら『無想の家』を探していた。
女が告げた住所は、細い路地を入ったところにある二階建ての古い住宅だった。
コンクリートブロック製の塀に取りつけられたポストに『無想の家』とプリントされたワープロ文字の紙が張ってあった。四隅がセロファンテープで留められただけの、お粗末な看板だ。しかも、その一箇所がはがれて砂がついてしまっていて、くっつかなくなっていた。その紙も長い間放置されていたみたいで、ワカメみたいにシワがよっていた。
奈乃は椎名を見た。
椎名が無言でうなずく。
「なにか異常を感じたら、すぐに飛び込んでいくよ」と椎名が真顔で言った。
それを見て、奈乃もしっかりとうなずく。
奈乃が鉄製の背の低い門扉を開くと、ヒンジがギィーーーッと怪鳥の啼き声みたいな音をたてた。
不安な顔をして、また椎名を見た。
椎名は深く肯く。
敷地に入ってすぐ右側に、あの〈マーシャの光〉の前で見た紺色の車が止まっていた。紺色の塗装にツヤがなくなっていて、ボンネットが白っぽく退色していた。
――この車は見覚えがある。
そう、いすゞのジェミニだ。以前、父親が乗っていたクルマだ。父親のは白だったのですぐには気づかなかったが、確かに同じ形をしている。もうずいぶんと前の話だから、相当古いクルマなのだろう。
当然ながら、だれも乗っていない。
玄関はアルミサッシ製の古い引き戸で、砂嵐模様ガラスの左隅が割れて欠けていたが、そのまま放置されていた。
鍵はかかっていなかった。チャイムが見当たらなかったので、そのまま引き戸を開いてみると、入ってすぐ正面に木製のガラス戸があり、それが全開になっていて、三人の男女が坐っているのが見えた。
一番左側には、四十代ぐらいの小太りの女性がいた。きちんと正座をして、身体を前後にゆっくりと揺らしていた。眠っているように見えたが、目はぱっちりと開いていた。
真ん中にいる男性は、後ろから見た体つきは肩幅が広くて壮健そうな五十代に見えたが、見事な白髪だったので、六十は楽に過ぎているだろうか。
彼は向こう側をむいて、小学生みたいに体育坐りの恰好で、身体を小さく丸めるようにして坐っていた。
そのまま見ていると、安定が悪かったのか、その格好のまま、うしろにゴロンと転がってきた。子供の頃を思い出して遊んでいるのかと思ったら、男がその格好のまま泣いていたので奈乃はびっくりした。顔をくしゃくしゃにして、本当に子供みたいに人目をはばからずに泣いている。声こそ出さなかったが、顔は号泣しているみたいだった。
そして最後の右側にいる女性は、前に突っ伏したまま、下から身体を突き上げられているように、時々身体をビクンビクンとさせていた。年は若そうだが、その格好だと年齢はわからなかった。
「ごめんください」と声をかけてみたが、誰もふり向きもしなかったし、女も姿を表さなかった。
奈乃は十足ぐらいクツが整然と並べられた玄関に、自分もきちんとクツを並べるように脱いで部屋に上がってみた。
木の床が、侵入者に向けて警告を発するように、ギギギッときしんだ音を立てる。それとも侵入者を知らせる防犯の役目をする音か――。
入ってすぐ右側に階段があったが、奈乃はそちらへは向かわずに、正面の部屋に入ってみた。
それでも部屋にいる誰もふり向きもしないし、関心もないようだ。全員が自分の世界に没頭しているようだった。
ガラス戸で隠れて見えなかったが、部屋の左隅にあとふたりいた。ひとりは放心状態で天井を見つめ、もうひとりは横になって寝ていた。本気で眠っているようだった。この部屋にヒカリさんはいなかった。
部屋の左側には腰の高さまでの窓があり、正面はまたガラス戸で仕切られていたが、その奥はたぶん台所だろう。そして、右側にはふすまがあり、そこは押入れだろうか――。
台所側のガラス戸の上に、入口の看板と同じようなワープロ文字でプリントされた紙が張ってあった。
文字のギザギザがわかるぐらいに大きく拡大されていて、それが複数の紙にプリントアウトされ、それぞれの紙がセロファンテープで雑につなげられていた。
〈無想の家〉
そっと記憶をだどりなさい
あなたの記憶をたどりなさい
そして想いをはせなさい
そこに闇の記憶があったなら
それを外へだしなさい
闇袋にして吐きだしなさい
そうすれば
身体は浄化され
" 無 " となり
あなたは救われるであろう
右側の若い女が、突っ伏した状態のまま、泣いていた。むせび泣くような感じだ。
「・・・・みんな、ひどいよ・・・・」
泣きながら若い女がいった。そこで顔を上げて宙を睨む。
「・・・・ナオちゃんまで・・・・。ひどい・・・・」とまた泣く。「痛ッ! ――止めて!」
そう叫びながら身体を丸めて再び突っ伏していた。
「痛い! 痛いよ、ママ――」と白髪の男が哀願するように、ふすまを睨みながら叫んだ。
「なんでこんなことするの? 嫌いなの? ボクのこと、嫌いなの? ねえ、そうなの? どうして? ねえ、どうして! ――痛い! 止めて、ママっ! もう、やめてよっ! 止めてったら! ママーっ!」
白髪男が泣きながら最後に強くそう叫んだ時に、なにかが口から飛び出てきた。それは正面のふすまにあたって畳の上に落ち、ゼリーみたいにぷよぷよと揺れ動いていた。ピンポン球ぐらいの大きさだったが、それは紛れもない、あの醜い闇袋だった。
奈乃は闇袋を自力で外へだすことができることに驚いていた。
男は何ごともなかったかのように、それこそ、いま自分が叫んでいたこともなかったみたいに、とても静かになった。畳の上に正座をして、斜め前の、闇袋が落ちている場所とは別の畳の上をじっと見つめている。
入ってきたときには気づかなかったが、驚いたことに、この部屋にはそういった闇袋がいくつか転がっていた。
数えてみると八個あった。大きさは様々だが、どれもこれも奈乃がとてものぞき見る気がしない、あのなんとも表現のしにくい黒い色をした闇袋だった。
階段からだれかが降りてくる音がした。木のきしみ具合を確かめてでもいるように、一段一段ゆっくりと降りてくる。
奈乃がいま入ってきたガラス戸の方を見ていると、あの女が現れた。心なしか、とても疲れているように見える。服は占いハウスで見たときと同じ黒づくめの服だったが、ツバの広い帽子は被っていなかった。
「いらっしゃい」女がいった。「意外に早かったのね」
その背後で、あの下水男が玄関の鍵を閉めていた。
「なんかすごく疲れてるみたいだけど・・・・」と奈乃。
「そう?」女がそうに言って、汗が浮いている額に手の甲をあてた。「ま、いろいろあるから」
「ヒカリさんはどこ?」
「そう焦らないで」
女は応えるのが面倒くさそうにいった。そして、さきほど白髪の男が吐きだした闇袋を見つけると、そこに近づいていき、そばにいた男を見た。
「また出たのね」
「そこにありましたか」白髪の男はよく通る声で言った。
「なにか出てくれたような気がしてたんですが・・・・」と手でヒザをさすりながら照れくさそうに笑う。
「あるわ。立派な闇袋がここに――」
女もうれしそうだった。そしてその場にしゃがみこみ、その闇袋を手にとってじっくりと眺めた。
「キレイだわ」女がしみじみと言った。「そう思わない?」
奈乃は顔をしかめて首をふった。
そんな闇袋をきれいと思ったことなんて、いままで一度もなかったし、おそらくこれからもないだろう。彼女にとって、それはおぞましいもの以外、なにものでもないのだ。
「この方も、見えるのでございますか?」
白髪の男が奈乃を見ながら言った。
「そうなの。まだヒヨっ子だけどねー」と女が応える。
手のひらにのせた闇袋を揺らすと、ぷよぷよと揺れる――。
「さようでございますか」
白髪の男は奈乃をみてしっかりと頭を下げた。詩吟の師匠のような、礼儀正しいお辞儀だった。
あわてて奈乃も頭を下げる。
女は手のひらにのせた闇袋をしばらくじっと見つめた後、不意に口をすぼめて吸い込んだ。
「えっ」と奈乃は思わず声を上げた。
女は一度も噛むことはなく、綿菓子でも食べたみたいに口の中からすぐになくなり、しばらく顔をしかめたままじっとしていた。
白髪の男は、そんな女を心配そうに見上げている。その表情にはさきほどの詩吟の師匠のようなりんとしたものはなくなり、いまはただの怯えた気の弱い少年のような顔になっていた。
女が目を開いて、ひとつため息をついた。
「いつものお母さまね」
「ええ・・・・」白髪の男が低音の声で短くそう応えると、バツが悪そうに下を向いた。
女は、まるで泣いて帰ってきた息子をいたわるように、父親ほどの年齢差がある男の肩にそっと手を置いた。
「良かったわね。これで今日は三個目よ」
女がやさしく言った。
「――でも、ちょっと待って」
女は男に上を向かせて、その目をじっとのぞき込んだ。そのまましばらくじっとしていると、女がニッコリとほほ笑んだ。
「もう大丈夫! いまのところ、あなたの闇袋は見えなくなったわ。これでもうしばらくは大丈夫よ。ほんとによくがんばったわね」と嬉しそうにそう宣言した。
そして、男の肩をやさしく叩いてから立ち上った。
白髪の男はそんな女に向かって、深々と頭を下げていた。
「おかげさまで、ほんとに身体が軽くなった気がします」
「でしょう? また闇袋を感じたら、いつでも来てくださいね」
「はい、ありがとうございます。必ずそうさせて頂きます」
白髪の男は最後にもう一度女に深く頭を下げ、奈乃にもていねいに頭を下げてから出ていった。下水男がすぐに鍵を閉める。
女はそんな光景をぼんやりと眺めていた。
「なにしてるの?」
奈乃が女に訊ねた。非難がましい口調になっているのが、自分でもわかった。
「なにって? あなたならわかるでしょう」
「やってる行為はわかるけど・・・・」
「目的がわからない?」
「そうね・・・・」と奈乃。その間に、女は突っ伏していた若い女の横へいった。そこには三つの闇袋が転がっていた。
「あなたはずいぶんと出せたのねー」
女はやさしく声をかけた。そしてその闇袋をひとつ拾い上げると、口をすこし尖らせながらスウッと音を立てて吸い込んだ。
闇袋が見えない人にとっては、手のひらにそっと息を吹きかけているようにしか見えないだろうが、奈乃にとっては、あのおぞましい闇袋を次々と吸い込んでいく脅威の光景だった。自傷行為と同じなのでは、とさえ思った。
こんなにも他人の闇袋を自分の体内に取り込んでしまって、ほんとうに大丈夫なのだろうか・・・・。
ひとつ目の闇袋を吸い込んでから、女はしばらく顔をしかめていた。そして突っ伏している女の肩にやさしく手を置く。
「・・・・あなた、大変だったのね」と女が顔をしかめたままいった。
そこで、それまでずっと突っ伏していた女が顔を上げた。涙も枯れて、赤くふやけた顔で女を見る。意外に若かった。まだ二十歳前半といったところか。
女がその若い女を見ながら、また別の闇袋を吸い込む。
今度は前のよりもきつく顔をしかめた。そのまま三十秒ぐらいの時間が過ぎる。
女は顔をしかめたままで、それをじっと見つめる女も黙ったままだ。
奈乃もなにも言わずに、その光景を見守っていた。じっさいに見えているわけではなかったが、彼女もいま女が体験している闇袋の苦悩を、一緒に体験しているような気分になっていた。
女が目を開ける。そして若い女の頬に手をおいて、ゆっくりと首をふった。でも、なにも言わなかった。なにもかもわかっている、という表情をしていた。
若い女が再び泣きはじめていたが、今度は嬉しそうだった。満面の笑みを浮かべて女の手をにぎる。女は若い女の手をにぎったまま、最後の闇袋を吸い込んだ。
それは比較的軽い闇袋だったようだ。女がすぐに目をあけて、若い女の目をのぞきこみ、しばらくじっと見つめてから言った。
「あなたにはまだ闇袋があとふたつ残っているわ。がんばってね!」
若い女はまだふたつあるといわれても、清々しい顔をしてなんども肯いていた。
「大丈夫なの?」
奈乃は本気で心配していた。
「どういう意味?」
「あなたの身体よ。そんなことして――」
「まいってしまわないかってこと?」
「そう――。とてもじゃないけど、私には考えられない」
「でも、すでにまいってしまった人たちが、ここにいるのよ。それを自分がまいってしまうからって、なにもしないでいられる?」
「でも――」
「みんな、忘れたい記憶が忘れられなくて苦しんでるのよ。そのままだとたちの悪い悪露までだして――。それを外にだすことで少しでも楽になるんだったら、協力してあげたいじゃない」
「だからって、なにもあなたが吸い込まなくても・・・・」
「私が処理しないと、またそのまま本人に戻ってしまうからよ」
奈乃はなにも応えることができなかった。同意するにも、反論するにも、彼女にはまだあまりにも知らないことが多すぎたからだ。
しかし、あの校長もこれを行っていたら、自殺しなくて済んだのだろうか、と考えると、奈乃は黙って女を見返すことしかできないでいた。
「私はここで、私にできることをしているだけよ。――なのに、お前ときたら・・・・」
「え? なに? 私が何かしたの?」
「した、なんてもんじゃないわ!」
女が憎々しげにいった。いままでとは表情がまるっきり違っていた。
「お前が、すべてを台無しにしてくれたのよ。これまでの苦労が水の泡だわ!」
「ちょっと待って。ちゃんと説明してよ。何のことか、さっぱりわからないんだけど」
「わかってるよ。それを説明をするために、お前を呼んだんだから・・・・」
そういうと、女は奈乃に向かって、不意に闇袋を投げてきた。
●
「痛っ!」
――ガチャンッ!
鈍い音と共に、女が叫んだ。その衝撃で、洗っていたガラスコップが落ちて、下にあった皿が割れたのが見えた。
「ルールを守らせろって言っただろっ!」
背後で男が怒鳴っていた。
また鈍い音と共に、女の視線がゆれる。
「前にも言っただろうが! 人間にはルールが必要なんだって! それがなければ動物と同じだって! なんど言ったらわかるんだ!」
ふり返ろうとした女を、また鈍い音がして、今度は女が倒れた。それぐらい強く殴られたようだ。
洗剤の泡が、床に飛び散っていた。
その背後で、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。それも、オムツが濡れた程度の泣き方じゃない。もっと強い、切迫した調子だった。
「でも、いまのあの子にルールだなんて・・・・」
女が立ち上がろうとする。
「だからダメなんだろっ!」と男が上から叫ぶ。「アイツはなにか? 動物か? 畜生か?」
立ち上がろうとしていた女を蹴る男の足が見えた。女がまた倒れる。
「アイツは何なんだ? 言ってみろっ!」
「・・・・に、人間よ」と女が苦しそうに答える。
「だろ? だったら、今からアイツにルールを教え込まないでどうすんだ? ええ? お前がちゃんと教えないから、アイツはいつまで経っても変わんないんだろ? 違うか?」と男がなじる。
女の視線がグラグラと揺れた。
――髪をつかまれているのか?
「・・・・これ、からは、ちゃん、と、する、から、とに、かく、あの、子を・・・・」と言った女の顔を、正面から大きな手でつかんだ。
「もう止めてーっ!」と女が叫ぶ。
「いや、おまえはまだ何にもわかっちゃいないっ!」そう叫んで、こんどは壁に向かって女を投げつける。
ふたたび女が倒れた。その顔を男が踏みつける。
「ぐぐぐ・・・・」と女がうめく。
「頭でモノを考えない奴は、とっとと失せろ!」
男は力を入れて女を踏んでいるようで、その声にも力がこもっていた。
「いいか! もう二度とルールを乱すなよ! それもここのルールだ! わかったなっ!」
「・・・・はい」
女は顔を踏まれたまま応えた。
「もう乱しません。だから許して。お願いだから・・・・」
それで男は満足したようだ。足を離して別の部屋へいった。
赤ん坊はまったく泣きやむ様子がなく、強く泣きつづけていた。
「・・・・いまの何?」と奈乃は、眉をひそめながら抗議した。
だが、女はそれには応えずに、また奈乃に向かって別の闇袋を投げつけてくる。
●
パーンッと、眼の前の食器がはじかれる。
テーブルから落ちたボンゴレスパゲティがベビーベッドに当たり、麺がベッドの桟にからまりながら落ちていく。
スパゲティの熱い汁がかかったのか、赤ん坊が、それこそ火がついたように泣きだした。
「なにするの!」と女が叫んでベビーベッドに駆け寄ろうとしたとき、背後から強い力で羽交い絞めにされた。
「だれに向かって口をきいてんだ? はあん?」
女は声もでない。ぐぐぐっという苦しげな声だけがする。
少し目を開けるが、天井しか見えない。プラスチック製のカバーがついた電球のあかりが、いまはひどく冷淡な視線に感じる。
男は本気で首を絞めているようだ。少しずつ女の気が遠くなっていくのが奈乃にもわかった。
赤ん坊の泣き声が小さくなっていくのだ。
耳元で感じていた男の荒い息も、ずっと遠くの方で聞こえるような気がする。
真っ暗な視界に、細かい虫みたいな光が飛び交う。
もう、女のうめき声も聞こえない。
もう、もう・・・・。
そのときになってようやく開放され、女は床に両手をついてしばらくむせ返っていた。よだれが床に落ちるのも構わずに、女はひどく咳き込みながら、必死で息をしていた。
とつぜん、女の身体が横に飛んで、食器棚に当たった。
男が女の横腹を蹴ったようだ。
苦痛のあまり女がうめく。
「いっつも大げさなんだよ!」といってまた腹を蹴る。そして髪をつかんで立たせようとしたが、女が立てないので、がくんがくんと頭を振る。
「もう、ふざけたこと言うんじゃねーぞ! わかったかっ!」
男が女の耳元でがなりたてた。
女の返事がないので、男はもう一度言った。
「わかったかっ!」
「・・・・はい。もう、いいません」
男が女を突き放す。そして乱暴にドアを閉めて、出ていった。
女はそのまま横になった。
目の前にはベビーベッドの脚部が見える。床にはボンゴレスパゲティが散らばっている。まだ、湯気がでていた。
頭上では、赤ん坊の強い泣き声だけが、ずっと聞こえていた。
「・・・・もう、やめて・・・・」
奈乃が、思わずその場にすわり込んだ。
それには構わずに、女はそんな奈乃に向かって、つぎの闇袋を投げてきた。
●
棚の上に置かれたデジタル時計を見る。
――2:32。
暗い。夜中の二時三十二分か?
窓が開いているのか、レースのカーテンが風で揺れている。
台所が、びっくりするぐらい、ひどい状況になっていた。
椅子の脚部が食器棚のガラスを突き破っていて、下に落ちることなく、どこかに引っかかっていた。ハンバーグと付け合せのブロッコリーが床にひっくり返り、殺人現場の血痕のように、デミグラスソースが周囲に飛び散っていた。ガラスコップも何個割れているかわからない。フォークも、ほうれん草のサラダも、フローリングの床に散乱し、大きな電子レンジまで床に落ちていた。
荒れたキッチンの横にあるドアを見る。ありふれた木材のドアだが、トイレには見えない。
隣室か?
セリフのない短編映画でも見ているように記憶が進んでいくが、なにかがいままでとは違う、と奈乃は感じていた。
なに?
なにが違うの?
このキッチンはさっき見たのと同じだ。どれだけ散らかっていても、それはわかる。女が投げてきた闇袋が、すべて同じ場所なのもわかる。
でも、いままでとはなにかが違っていた。
なんだろう?
――そうだ!
赤ちゃんだ!
今回は赤ちゃんの泣き声がしないのだ。いつも女の記憶の中で泣いていた赤ちゃんの泣き声が、今回は聞こえない。
不気味なほどの静寂が、この記憶を支配していた。
壁にかけられた鏡の前まで行き、女が鏡をのぞき込む。
目は青く腫れあがり、右目はほとんど見えないようだ。腫れた唇の先端が切れて血が出ている。
女が恐るおそるその傷口に触れる。
――あの女だ! と奈乃は思った。
顔が腫れてひどい状態になっていたが、これはまぎれもない、いま目の前にいる黒づくめの女の顔だった。
女が床に散乱したガラスの破片に気をつけながら歩いていき、キッチンの横にあるドアの前までいって立ち止まった。
ノブを見る。
そのノブをつかもうとするが、手を止める。
しばらくそのまま動かない。
開けるのかどうしようか迷っているようだ。
不意に移動して、女は流し台に向かった。そこで流し台の下の扉をひらき、包丁を手に取った。
先の尖った文化包丁だ。
息をするのも忘れて、奈乃はその光景をじっと見入っている。
女は尖った包丁の先端に指をあてた。
切れ味を確かめているのか?
それとも刺された痛みを確認しているのか?
それとも肉の貫通具合を?
女はその包丁を右手にもち、ふたたびドアの前までいった。
ドアの向こうになにがあるのかわからないが、ひっそりと静まり返っている。
ことりとも音がしない。
女が包丁を見る。
そして握り手をぎゅっとにぎりしめる。指先が白くなるまで、きつくにぎる。そして、ゆるめる。
――しめる。
――ゆるめる。
それを何度かくり返した後、ゆっくりとドアを開けた。
電気もついてない暗い室内で、男がベッドの縁に腰掛けて、そこの窓から見える夜景を眺めていた。
街を見下ろす感じの、きれいな夜景だった。
夜中の二時を過ぎていても、たくさんの小さな灯りが、クリスマスツリーのように瞬いていた。
女が入ってきても、男はふり向きもせずに、夜景を見続けていた。
ゆっくりと呼吸をしているのが肩の動きでわかる。
女の視線はそんな男の肩から背中を降りていき、真ん中あたりで止まる。
背中の左、右、そして左・・・・。
心臓の位置を確かめているのだろうか、と奈乃は思った。
「世の中、ほんとうに騒音ばかりだよな。――そう思わないか?」
男が夜景を眺めながら、静かにいった。
女は応えない。
黙って歩いていき、男のうしろにそっと立つ。そして男の首筋を見下ろした。
男はなにも意識していないだろうに、その首筋がひくひくと動いている。
「きみは東京にでてきて何年だ?」
それでも女は応えない。
「・・・・俺はもうすぐ十三年だ。あっという間だな」
女が包丁に目を落とす。そして強く握りなおす。
「この夜景が気に入って、ここに決めたのに、最近、ぜんぜん見てなかったよな」
男が笑っていた。
「きみは、この夜景を眺めながら、ふたりでワインを飲むのを楽しみにしていたのに、結局、まだ一度も実現できてなかったよな。――ゴメンな。俺が忙しくしてたから・・・・」
女も窓から見える夜景に目を向ける。
視線が、左から右へとゆっくり移動して、夜景を眺めていく。
一度オレンジ色した光のところで視線が止まる。つぎにその横にあったグリーンの光、そして赤、と動いた後、またゆっくりと夜景を眺めていく。
そこで女が深呼吸をする。
時間をおいてもう一度する。
それをくり返すうちに、女の目から急に涙があふれてくるのがわかる。
ゴットンと音がする。
フローリングの床に包丁を落としたのか?
女は顔を隠すこともなく、そのまま号泣していた。
腹の底からしぼり出すような泣き声が聞こえている。
男がゆっくりとふり向く。
そこで、奈乃が凍りついた。
――椎名だ!
あの椎名武生だ!
これまで見てきた冷酷なDV男は、あの椎名だったのだ。
奈乃は椎名武生を思い返してみたが、とてもそんなことをする男とは思えなかった。まだそれほど知っているわけではなかったが、背が高くても威圧感を感じさせない、やさしそうな男なのだ。
でも、あの青シャツの男を簡単に殴り倒した男だ。
ひと皮剥けば、そういうものなのかもしれない、とすぐに思い直した。DV男が、いかにもDV男面しているわけがない。
だから怖いのだ。
奈乃は人の底知れぬ恐怖を感じていた。
「知ってるわね?」
女がしずかに言った。顔が怒っていた。
「ええ」とだけ奈乃は応えた。
「お前はあの男の闇袋を見たでしょう? っていうか、あの男の中で、闇袋を破いたでしょう。それがすべてを台なしにしたのよ。お前の気まぐれなお遊びのせいで、それも稚拙な技術のせいで、すべて台なし。ほんと、もうっ! やり直しなんてできないのに、これからどうしたらいいのかわかんないわっ!」
奈乃は反論しようとしたが、なにも言えなかった。あの男を助けようとしたの、なんてとても言えなかったのだ。
知らなかったこととはいえ、私はあの鬼畜なDV男を助けようとしたのだ。そのことも彼女にとってはショックだった。
「わたしはね、アイツと離婚したの。今年の初めにね。で、ちょっと精神的にもおかしくなってたから、自分を取り戻すために身体を休めて、それで最近になってようやくこっちへ戻ってきたの」
女はそこで話を止めた。そして突っ伏していた女のところまでいき、そこに新たに転がっている闇袋を手に取った。それをしばらく手のひらに転がしてから奈乃を見る。
「私、あの男を止めようとしているのよ」
「止める?」
「そう――。あいつ・・・・」
女の表情が急に怒りに変わった。それは単なる憎しみを越えたレベルの表情だった。
「見たでしょ? あいつが泣き叫ぶ息子を、床に投げ落としたの。あいつはそういう男なのよ!」と、手にもった闇袋を握りつぶす。
ぱふんっと小さな音をたてて闇袋がつぶれて、黒いけむり状のものがまわりに広がったが、それはすぐに消えてなくなった。
「それだけじゃないわ。あいつはもう何人も人を殺しているのよ。それも若い女性ばっかり――」
「人を殺してる?」
奈乃は眉をひそめて女を見た。
「ウソ・・・・」
「嘘じゃないわ」
女が首をふる。
「・・・・そんなの、信じられない」
「そうよね。私も、最初はとても信じられなかったもの」
「それで、どうして捕まらないの?」
「まったく証拠を残さないからよ。警察からマークもされてないし、誰にも知られてないの。それに、これも信じられないんだけど、あいつが殺人を犯したときの闇袋も見えないの」
「犯行時の記憶を隠してるってこと?」
「隠すとか、思い出さないようにするっていうことじゃなくて、まったく見えないの。本気で忘れてるのね。それがふとした時に思い出して、犯行を重ねる。だからその殺人を犯すことに自覚はあるんだけど、普段は記憶にないから、まったくきれいな状態でいるのよ。信じられないでしょ?」
「二重人格みたいなもの?」
女は、すこし考えてから、首をふった。
「それとは、ちょっと違うわね。殺人は、自分の意志でおこなってるみたいだから」
「でも、それでなぜ、あの男の犯行だとわかったの?」
「息子を亡くしたときに、アイツを問い詰めたの。アナタじゃないのかって。アナタが何かをしたんじゃないのかって。闇袋は見えなかったけど、原因不明のアザが絶えなかったし、いつもどこかしら具合が悪かったから、ずっと疑ってたの。私にあんなことをする奴だからね。だからいつもよりもずっと強く問い詰めたら、アイツ、私に馬乗りになって、本気で首を絞めてきたの。もう人が変わったみたいで、私ももうダメかもって覚悟した時に、とつぜん、アイツの中から、殺人に関する闇袋があふれるようにこぼれ出てきたの」
奈乃は話を聞いただけで顔をしかめた。そんなものを見せられたら、とてもわたしは耐えられないだろう、そう思った。
「そのあとに起こったのが、最後に見せた闇袋よ」
「あの台所が無茶苦茶になってたやつ?」
「そう。もうほんとに、あの時は死ぬのを覚悟したわ」
女が自嘲気味に笑った。
「不思議に、あいつが殺人を犯している時の闇袋って、映像じゃないの。写真なの。あいつがカメラマンだからかもしれないけど、写真で、まさに女性が死ぬ瞬間だけを記憶しているの。それこそ同じ人の、同じような写真ばかりを何枚も、何枚も――。
あの世とこの世の境目にいる、まさにその瞬間を撮るって感じなの。気味悪いでしょう? その瞬間しか、まったく興味がないみたいなの。そんな写真があふれるように出てきたから、さすがの私も、しばらく立ち直れなかったわ。
でも、あいつはそのことも覚えてないみたいで、それで私は家をでたの。
――で、私もようやく立ち直って、どうにかあの男に立ち向かえるぐらいの力が戻ってきたから、アイツに送った離婚届と一緒に同封した手紙の中に、そっと闇袋を仕込んだの」
「それが、あの闇袋?」
「そう。あいつの犯行を想定して、私が創りあげた闇袋を三つ、手紙の中に仕込んでおいたの。それは知ってるでしょ?」
「え? ちょっと待って。あの闇袋ってあなたがつくったの?」
「そうよ」
当たり前でしょ、みたいに平然と女が応えた。
「まあヒヨッコのあなたじゃまだ無理だろうけど――」
「じゃ、あの赤ちゃんをわざと床に落とした闇袋は嘘だってこと?」
「厳密にいえばね。でも、アイツがやったのは一度や二度じゃないはずなのに、そんなことをひとつも憶えてないのよ。信じられないでしょ? だったらつくるしかないじゃない。アイツに、あのひどい記憶を思い出させるためにも――。その記憶によって良心の呵責を感じさせるためにも――」
「・・・・そうだったんだ」
奈乃は女の話がほとんど頭に入らなくなっていた。
闇袋を自分で作ることができるということに、とても驚いていた。そんなことができるなんて、いままで考えたこともなかったのだ。
まだまだ経験不足なのを、奈乃は実感していた。
「とにかく、私が仕込んだ闇袋は、時間が経つと心のなかに自然に溶けていくはずだったの。そうやって体内で自然に溶けた場合は、アイツ自身の記憶になるんだけど、不自然に破れた場合は、他人の記憶だと認識されてしまうの。お前が途中で破いてしまったから、アイツはあの記憶を自分の記憶だとは思わなかったのよ」
「ちょっと待って――。あの闇袋を破いてしまったのが私だって、どうしてわかったの?」
女が奈乃を見て笑った。
「アイツの中に、ちゃんとお前の間抜けヅラが残ってたんだよ」
奈乃は弱く笑い返すだけで、それ以上は聞くことができなかった。
「ほんとにごめんなさい」
「いまさら遅いけどね」
女が長いため息をついた。
「あの三つの闇袋が、アイツの中で自然にハジけていたらと思うと、本当に残念――」
「自然にハジけていたら、どうなっていたの?」
「まともな人間だったら自殺するわね」
女はさらりと言った。
「自殺?」
「考えてもごらんなさい。あんなことを、それも三つも自分の記憶として思い出すのよ。普通にいられるわけないじゃない。
ま、さすがにアイツは自殺まではないと思うけど、せめてこれからの犯行を止められることを期待していたわ。それまでまったく自覚のなかったものが、自分の記憶だとわかったときに、良心の呵責にさいなまれて・・・・。私はそれを期待していたの。せめてそれぐらいの人の心が、アイツに残っていることをね――」
そのとき誰かが玄関の前でうろうろしているのが見えた。
椎名だ、と奈乃にはすぐにわかった。
女が驚いて、下水男を見た。男が首を傾げながら玄関へと向かう。
「椎名よ」
奈乃は小さな声で、下水男に言った。
「あれは椎名よ!」と女にも言う。
女はすぐには理解できなかったようだ。
しばらくして顔をしかめて女が奈乃に訊ねた。
「いったい、どういうことなの?」
「あの男は、あなたが寄こした男たちから、私を助けてくれたの。それで彼と話をしている時に、あなたからの携帯が鳴って・・・・」
「それで一緒にここまできたの?」
女は信じられないといった顔をして、顔をしかめた。怯えているようにも見える。
「なんてこと!」
椎名は玄関に鍵がかけられていることを知ると、チャイムかなにかを探すように影が動いていた。そして玄関に顔を近づけて内部の様子をうかがう。
「来なさい!」
女は怖い顔をして奈乃を呼んだ。
「ちょっと二階へ行って静かにしていなさい。いい? 動いちゃダメよ。この家はよく軋むんだから。いい? わかった?」
奈乃はうなずいてから、二階へと向かった。
「ヒカリさんは二階?」
「彼女はもう帰ったわ」
そっけなく女がいった。
「いいから早く!」
奈乃は二階へ上がりながら、携帯を確認してみた。着信はどこからもなかった。念のため、携帯をマナーモードにしておいた。
二階には、上がったところに半帖ほどの木の床があり、そこのふすまを開けると、六帖の和室がふた部屋あった。部屋を仕切るふすまは取り払われていて、奧の壁に立てかけられていた。
家具はなにもなく、がらんとしていた。まるで、これから引っ越してくるのか、それとも、たったいま引っ越していったばかりのような、よそよそしい空気が漂っていた。
そのとき、階下では、玄関の鍵が外されて、引き戸が開く音が聞こえた。
奈乃は木の床のところで立ち止まったまま、階下に聞き耳をたてた。
低い声で誰かと誰かが話しているようだ。だが、なにを話しているのかまではわからなかった。奈乃が想像していたような、言い争うとか、暴れるといった物音はなにもしなかった。
それにしても、この部屋は、息をするのにも苦しいぐらい香水の匂いがたち込めている。
あの女はそんなに香水をつけてたっけ? と奈乃は首をひねっていた。部屋にある窓はすべて全開だったが、それでも匂いは強いままだったし、当分消えそうにもない強さだった。
ん? と奈乃。
圧倒的な香水の匂いの奥に、ほんの微かだが、汚物の臭いを感じる。
よく注意しなければわからないが、確かに臭う。それも年季が入った複雑な臭いじゃない。人間の排泄物の臭いだ。奈乃は畳の上をよく見てみた。
全体的に黄色く日焼けしているが、ある限定された場所が汚れているようには見えない。みんな均一に、同じ程度に黄ばんでいた。
ということは――、と考えながら奈乃は、女には動かないようにとキツく注意されていたが、畳の部屋にそっと脚を踏みいれてみる。
――畳の上に全体重をかけても、床が軋むということはなかった。
そうして、つづきになった隣の部屋に入ろうとしたとき、部屋と部屋の間の敷居の部分が、黒く濡れているのに気づいた。なにかで拭いたような形跡も見られる。
奈乃は床が軋む音に注意しながら、ゆっくりとしゃがみこんだ。そして、その黒く汚れた部分に顔を近づけて、よく観察してみる。
――確かに、ここに人の排泄物の臭いを感じる。だが、それは、それほど強くなかった。この臭いが部屋中に充満するとは考えにくい。
奈乃は細心の注意をはらいながら部屋の反対側の窓まで行き、外をのぞいてみた。玄関の反対側だ。下には、この家と同じように古びた隣家と、草が伸び放題になった小さな庭と、なにも干してない洗濯物の干し場があるだけだった。臭いを発しそうなものはなにもない。
それにしても階下が静かだ。物音ひとつしない。誰もいないみたいにひっそりとしている。
――いや、待って! と奈乃は、耳を突き出すようにして、階下をさぐってみた。
かすかだが、誰かが階段を上ってくるのを感じる。それも普通に上がってくるのではなく、二階のようすを探るように一歩一歩ゆっくりと上がってくる。まるで、私に気づかれないように細心の注意をはらっているみたいに・・・・。
奈乃は焦って部屋を見回してみたが、隠れる場所なんてない。いや、押入れだ。そこしかない。しかし、そんな場所に隠れたって、すぐに見つかってしまうのは目に見えていた。
彼女は再び窓から下を見てみたが、飛び降りるのには不可能な高さだった。直接地面に飛び降りたら、足をくじいてしまって、そこから一歩も動けなくなってしまうだろう。
かといって、途中に足を掛けることができそうな適当な高さの塀もなければ、自転車置場のような低い屋根もない。奈乃はもう一度部屋を見回してみた。やはり隠れる場所は押入れしかない。
奈乃は急いで押入れの前まで行き、そこでまた階下の様子をうかがう。
――やはり誰かが二階に上がってくる。
椎名か?
女か?
椎名なら、私は殺されるのだろうか、と彼女は思った。そして、私もあの男の、この世とあの世の境目を見る静止画像の闇袋コレクションのひとつに成り果ててしまうのだ!
そんなの嫌よっ! と奈乃は声を大にして叫びたかった。
そんなこと、絶対させないっ!
ふすまをそっと開けてみると、むっと鼻をつく臭いが奈乃を襲った。なにかがここに収納されていたのだろうか。でも、いまはそんなことを考えている余裕はない。
幸いなことに、ふすまの下の段は空っぽだった。
彼女は迷うことなく、息を止めて押入れに入り込み、ふすまを指一本分のすき間を開けるようにして閉めた。
部屋の一部にしろ、それでなんとか外が見える。それに押入れの内部も真っ暗にならずにすんだ。
――でも、誰だろう。
女か?
椎名か?
女ならこんな場所に隠れてもすぐにバレてしまうが、椎名なら、少しは時間が稼げるだろう。
それでどうする?
時間を稼いで、どうする?
死ぬのが数秒遅れるだけってことだけなの?
なにか武器になるものを探さなくっちゃ!
奈乃は暗い押入れの中を、見回してみた。
よく見ると、反対側には大きなふとん袋があるようだ。
ゴツゴツしているので、ふとんがパンパンに詰まっているわけではないようだ。そこになにか武器になるようなものでも入っていないか、と奈乃は期待した。というか、期待できるのはそこしかなかった。
だが、いまはとてもじゃないが、それに触れることはできない。絶対にビニールのパリパリという音がしてしまうだろう。でもファスナーなら、なんとか音をさせずに開けることができるかもしれない。
奈乃はふとん袋のビニール部分に触れないように気をつけながら、ファスナーを少しずつ開けていった。そして、ようやく十五センチほど開いたのと、誰かが二階に上がりきったのと同時だった。あの半帖ほどの木の板を踏む音が聞こえる。
そのままその人物は二階の様子をうかがっているようだった。
奈乃はファスナーをもっていた手を止め、身体を移動させてふすまのすき間から部屋の様子を探ってみた。
だが、当然ながら、そこからはなにも見えない。戸を開け放した窓と、窓の下の床にある三十センチ幅の木の板と、黄ばんだ畳が少ししか見えない。
侵入者がぎいいぃっと音をたてる。
部屋と部屋との間の、あの黒く汚れた敷居を踏んだようだ。
もうすぐ近くにいるっ!
目をふさぎたくなるような恐怖だったが、奈乃は息を殺して、ふすまの隙間から見える部屋を、じっと目を凝らして見つめていた。
誰なの?
椎名なの?
女なの?
なにかしゃべって!
お願いだから――。
そのとき、奈乃の右足の先になにかが触れた。
奈乃がそれに驚くヒマもなく、不意に、頭の中で強烈なイメージが現れる――。
●
「でーぶー、でーぶー」と暗闇の中で男の子の声が聞こえる。
「こいつ、泣いてんじゃね?」
「おい! 顔あげろよー」
なおも暗闇は続く。きつく目を閉じているようだ。
「顔蹴りすんぞっ!」
その声に、とつぜん視界が明るくなった。
素早く首をふる。
視界のすぐ下に地面が見える。
それに遠くの方に校舎も――。
小学校のグランドで、首まで土中に埋められているのか?
「やっぱ、こいつ、泣いてんじゃん!」
「俺、オシッコかけてやる」といって、ひとりの男の子が、ズボンを下ろしながら前に進みでる。
「ヤメてよーっ! ヤメてよーっ!」
その声に、周りの男の子たちが笑った。
「ヤメてよーっ! ヤメてよーっ!」と声を裏返して真似る。
「やっちゃえーっ! やっちゃえーっ!」と別の声。
目の前のチンチンを出した男の子は、一生懸命きばっている。
でも、いざとなったら出にくいようだ。
「ヤメてよーっ! ヤメてよーっ! お願いだからーっ! ナンでもするからーっ!」と声。
「じゃ、ションベンかぶれよ!」
「イヤよ。それ以外ならナンでもするからーっ!」
そういっているときに、ようやく小便がでてきた。
最初はチョロチョロっと。やがてそれは量を増して、普通に小便をかけられた。
また、視界が暗くなる。真っ暗な闇の中で、周囲の男の子たちの、本当に楽しそうな笑い声だけが聞こえる――。
奈乃は驚いてふとん袋を見た。
開けたファスナーの中は暗闇になっていて、なにも見えない。
ふとん袋の下をよく見てみると、さまざまなサイズの闇袋が転がっていた。
奈乃は息を止めてその闇袋を見つめていた。数は二十個以上ある。一度にそれだけの闇袋を見たのはあの校長以来だ。
奈乃はその中で、パンパンに膨らんでいまにも割れそうな闇袋に指先で触れてみた。
すると、それは軽く触れただけで、ぱふんっと割れた。
●
とつぜんなにかが壊れる衝撃音。
「テメーっ! っざけんじゃねーぞ、オラーッ!」
よく日焼けしたヒゲ面の男が、顔のすぐ近くで怒鳴っている。
「テメー、デブのオカマのくせに、うちのボスが気にいらねーってのかっ!」
男が髪をつかんで顔をふると、視界がぐわんぐわんと揺れる。
「気に入らないわよー」と声は泣いていた。
「私だって、こんな私だって、プライドってもんがあるのよー」
ボグッと鈍い音。その音で、声の主がひっくり返る。
毛足の長いトルコ絨毯がすぐ近くに見える。
また二度ほど、鈍い音がするたびに、苦しそうなうめき声を上げ・・・・
突然、ふすまが開かれた。
目の前にジーンズが見える。
奈乃は、とっさにそれがなにを意味するのかわからなかった。
すぐにジーンズがしゃがみこむ。
――椎名だ!
そのときになって奈乃は状況をようやく理解した。
椎名なのだ。二階へ上がってきたのは椎名だったのだ。これで私は殺されるのだろうか・・・・。
「――大丈夫か?」
椎名が言った。とても心配しているような顔をしている。
「心配したよー。ここにいたんだ。誰かに閉じ込められたのか?」
奈乃は、はじめてみるような顔をして、椎名をみつめていた。
「それにしても、なんだ? このひどい臭いは――」
椎名がすぐに鼻をふさいだ。そして奈乃がしゃがんでいる床を見る。
「わ、私じゃないわよ!」
あわてて奈乃が股間を押えながら否定する。
そのときふとん袋を見た。でも、暗くてよくわからない。
椎名は奈乃の手を取って外に出し、押入れの反対側をあけて、ふとん袋を外にだした。ゴロンゴロンといくつかの闇袋が一緒に転がって外に出てくるのが奈乃には見えた。
椎名が開きかけていたファスナーを全開にすると、そこには体育坐りした月夜のヒカリの遺体が収められていた。
奈乃は声もでない。
さっき闇袋を見たときから嫌な予感はしていたが、こうして現実をみせられると、その圧倒的なパワーに悲しむこともできないでいた。
ヒカリは顔をうしろへのけ反らすようにして、白目を剥き、口をあけて息絶えていた。服は着たままだ。首が異常に長く伸びている。しかも細くなっている。白い肌が自慢の顔が、びっくりするぐらい黒紫色に変色していた。
椎名は強い力で奈乃の腕をひっぱり、有無も言わさずに階段を降りていった。
階下には、体内から闇袋を出そうとしている人たちと、部屋のまん中にはあの下水男が呆然と立っているだけで、女の姿はどこにもなかった。
「あの人は?」
奈乃はクツをはきながら、椎名に聞いた。
「誰だって?」と椎名。彼はもう靴をはき終えていた。
「黒い服の女よ」
あなたの元奥さんよ、と言いたかったが、さすがにそれは黙っていた。なにか言ってはいけないような気がした。
「黒い服の女?」と椎名がざっと部屋を見回す。「アイツがカギを開けた時には、この連中しかいなかったよ」
「・・・・そう」
奈乃は釈然としないまま、椎名に手を引かれるようにして外にでた。
椎名はそのまま目黒通りにでてタクシーを拾い、奈乃を先に乗せてから自分も乗り込み、運転手に住所を告げた。
――祐天寺?
この男のマンションじゃないの?
奈乃の中で、けたたましく警報が鳴った。
危険よ!
殺人鬼に言われるままに連れて行かれるなんて自殺行為よ!
それに、よりによって殺人鬼のアジトだなんて、相手の思うツボじゃない!
「嫌よ!」
奈乃は自分でも思っている以上に大きな声で言った。
「もううちに帰りたい!」
椎名が驚いて奈乃を見る。
「すぐに送って行くよ。俺のマンションから祐天寺の駅まで歩いて三分もかからないからさー」
椎名がさとすように声を抑えて言った。
「それに、その格好じゃ、電車にも乗れないだろ? せめて服だけでも、着替えた方がいいんじゃないか? 別れた女房ので悪いけど、服はまったく処分してないんだ。好きなの着てけばいいよ。すっごい高級なカシミアのセーターだってあるし、もうなにを持ってってもいいからさー」
別れた女房?
それはあの女のこと?
「言ってなかったっけ? 俺、バツイチなんだ」と椎名は黙り込んだ奈乃を見て、屈託のない笑顔を見せる。
奈乃は複雑な思いでいた。
あの女は今でも椎名に対して深い疑念と憎しみを抱えて生きているのに、この男はどうだ?
まったく、なにも気にしていない。
もうかつての女房は死んだとでも思っているのだろうか。
それとも、本当にその記憶もなくなってしまったのだろうか・・・・。
奈乃は椎名に軽く〝さぐり〟をいれてみたが、やはりこの男の心の中はきれいなままだった。
「どう? なにか問題でも?」
奈乃は肯定も否定もせずに、外の風景に目をやった。
それにしても、と奈乃は思う。
あの女はどこへ行ってしまったのだろう。
てっきり、階下で椎名と対峙していると思っていたのに、直前になって逃げたのか?
なぜ?
この椎名を恐れたのか?
そもそもあの椎名のDVの記憶は本物なのだろうか、と奈乃はいまになって疑いだしていた。
椎名を見る。
椎名は見られたことに気づき、笑みを返してくる。
「なに?」
「いえ、なんにも・・・・」と奈乃は無理に笑顔をつくりながら首をふった。
こんな男が、あんな事を?
やはり、信じられない。
あのDVの闇袋は、{あの女が捏造して私に見せたのでは}(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)、と奈乃は考えていた。
あの椎名が赤ちゃんを床に投げ落とした闇袋のように、誰かの記憶を細工して、さも自分の記憶のように私に見せたのでは――。
でも、そんなことを私にする理由なんてあるのだろうか? と奈乃は考えてみた。
考えられることは、別れてもなお愛しい椎名から私を遠ざけたい、とか・・・・。
そう。アイツは、他人の闇袋が大好きな女なのだ。それに熱中し過ぎてしまって息子を放置死させ、それを椎名にひどく責められて離縁されたが、今でも彼のことが大好きで復縁を強く望んでいる。だから、そんな椎名に近づいてきた私を永遠に遠ざけたい、とか・・・・。
――わからない。
でも、あの女は裏口から逃げたのだ。それは事実だ。闇袋で私に見せた〈冷酷なDV男〉がいるのにもかかわらず、私を逃げ場のない二階へおしやって、自分だけとっとと逃げてしまったのだ。そんなヤツの言うことが信用できるのか?
そこで奈乃は、ふとん袋に入れられたヒカリさんの無残な姿を思い出していた。
色白でいることが自慢のひとつだったのに、よりによって顔があんなに黒紫色に変色してしまって・・・・。
それに、あんなに首が伸びてしまって・・・・。
ほんとに苦しかっただろう。
でも、どうして?
どうしてヒカリさんはあんなことになってしまったのだろう・・・・。
「あのままじゃ可哀そう」
奈乃は外の景色に目を向けたまま椎名に訴えた。
「なに? どうかしたの?」
奈乃は椎名に顔を向けた
「ヒカリさん、あのままじゃ可愛そうよ」
「ヒカリさんって、さっきの・・・・」
「そう」
「確かに。――でも、あんなことをする奴らだ。あれ以上、あの場所にいたら、キミの身だって危険だったよ。俺だってどうなっていたかわからない。もうこれ以上、このことに関わらない方がいい」
「でも、あのままじゃ、あんまりよ。せめて警察に連絡しなくちゃ」
「警察?」と椎名が驚いて奈乃をみた。それを本気で言ってるのを理解したのか「――わかった。そうだね。連絡しなきゃ」と素直に応じた。
それでも椎名はそれから、すこし黙り込んだ。そして奈乃に顔を向けた。
「悪いけど、俺、携帯持ってないんだ。ちょっとキミの貸してくれるかな」
奈乃は自分の携帯を椎名に渡した。それで椎名はすぐに警察に連絡した。
奈乃がもっていたメモを見ながら『無想の家』の住所を教え、そこに遺体があることを告げ、最後に自分の名前と住所と連絡先を教え、この携帯は知人のモノであることも報告していた。
「そうそう、今日渋谷で、なにか大きな事件がなかったか訊いてみて――」と奈乃があわてて言った。
椎名が奈乃を見てうなずき、今日、渋谷で大きな事件があったかどうかを警察に確認していた。
電話の相手が誰かに確認しているのか、しばらくの間、椎名は黙って待っている。
奈乃も椎名をみつめて、マスター木崎やセラノ芳野が無事でいてくれることを祈るような思いでじっと待っていた。
しばらくして、椎名があいづちをうち、それから礼を言って、携帯を切った。
「渋谷で大きな事件は、まだ一件もないらしいよ」椎名は言った。「ちなみに新宿では、暴力団の抗争で、民間人がひとりケガしたらしいけどね」
「・・・・新宿?」
あの女は、青シャツ男が重傷だったって言ってなかったっけ?
重傷程度では大きな事件じゃないのか?
それとも、あの女はそれもウソを言っていたの?
もう何もわからない!
なにも信用できない!
奈乃は本気であの女に腹を立てていた。
いずれにしろ、この時間に『渋谷では大きな事件はない』のだとしたら、マスター木崎もセラノ芳野も大丈夫だったのだろう。怪我はしているにしろ、事件になるような大怪我ではなかったのだ。奈乃はそのことに心底ホッとしていた。
奈乃は椎名から携帯を返してもらってから、念のため、マスター木崎に連絡してみたが、留守番電話に変わるだけで、マスターとは連絡取れなかった。セラノ芳野の携帯番号は知らないので、連絡を取りようがなかった。
まあ、いい。とにかく無事の知らせに奈乃はひとまず安心して、外に流れる風景に目をやっていた。
3
椎名のマンションは駒沢通り沿いにあった。七階建ての古いマンションだ。
建物の中心に、四角い大きな煙突状のものが屋上までつづいていて、それがエレベーターと階段だった。その柱を境に左右に同じ数の扉が並んでいるという、シンメトリーな形をしたマンションだった。
交通量の多い駒沢通りに面しているせいか、外壁がうす汚れた灰色をしていた。省エネのためか、廊下の蛍光灯がひとつ置きに抜き取ってあったので、入る前から気が滅入ってしまうようなマンションだった。
なんだか刑務所みたい、と奈乃は思った。刑務所そのものではなく、刑務所と外界を隔てているむやみに高い塀、それと同じ空気を醸しだしている。
「ここの五階なんだ」
椎名は奈乃が前を歩くように案内しながら、エレベーターホールへと向かう。
エレベーターは一基だった。扉に長方形の窓がふたつある、よくあるタイプだ。
エレベーターは一階に止まっていたので、ふたりはすぐに乗り込み、椎名が五階のボタンを押した。
「ここは古いけど、これでも全部部屋が埋まってるんだ。――ま、駅が近いからね」
椎名が言い訳がましく言った。
「ここに住んで長いの?」
「六年かな。結婚するときに、ここに住み始めたんだ」
「そう」
奈乃はうなずきながら、椎名があの女に言っていたことを思い出していた。
『きみは、この夜景を眺めながら、ふたりでワインを飲むのを楽しみにしていたのに、結局、まだ一度も実現できてなかったよな。――ゴメンな。俺が忙しくしてたから・・・・』
椎名の部屋が、あの闇袋で見たのと同じだったらすぐに部屋を出よう、と奈乃は心に決めていた。
だが、今となっては、あの女は、私に向かってニセの、本当の椎名ではなく、あの女が創作した闇袋を投げてきたのでは? という思いの方が確信に近くなっている。そういう細工をしたからこそ、あの女は逃げたのだ。
そう――。あの女は逃げたのだ!
どんな場面にしろ、どんな状況にしろ、自分だけ逃げだしたのだ。そんな自分の保身だけしか考えないヤツのことなんか、信用しろという方が無理だろう。
「ごめんね、ちょっと散らかってるけど・・・・」
椎名はそう言い訳をしながら、重そうな鉄製ドアのロックを外して奈乃を先に入れた。
「あなたを疑うわけじゃないけど・・・・」と奈乃は椎名をみて言った。「ドアのロックはしないでね」
「もちろんさ。なんなら、このドアを開けといてもいいぐらいだよ」
「そこまではいいけど――」
奈乃が笑うと、椎名も笑いながら部屋の中に入るように促した。
見たところ、椎名が言うほど、部屋は散らかってはいなかった。
半帖ほどの玄関には、出しっぱなしの靴は一足もなかったし、スリッパもシンプルな形をした木製のスリッパラックに、ちゃんと四組収まっていた。
その横にインドのおみやげのような木彫りの象の置物があった。
そんな置物にホコリがかぶっていないなんて、奈乃には驚きだった。こういうものは、最初は気に入って置いても、後は放ったらかしになってしまって、月に一度か二度掃除するのが関の山だと思っていたからだ。
椎名がラックからスリッパを出して並べてくれる。
奈乃が礼をいって上がると、携帯のバイブが震えているのに気づいた。
「あの、ちょっとトイレへ・・・・」と奈乃が言うと、入ってすぐ右側のドアを椎名が指し示した。
礼をいって、トイレに入る。
相手はヒカリの携帯からだった。
奈乃は鼻の奥がツンとしたようにしばらく目をつぶり、そして携帯に出た。
「あなた、いまどこ?」
あの女だ!
奈乃は答えなかった。妙に腹が立っていた。なにに腹が立っているのかわからなかったが、目の前にいたら間違いなく罵倒していただろう。
「あなたこそ、どうして逃げたのよ」奈乃は押し殺した声で女を非難した。「もう! 本当に、なんにも信じられない!」
「ごめんなさい。本気で謝るわ。私はまだアイツに会うわけにはいかないのよ。わかって――。それより、あなたのお友だち、二階で見つけた?」
「もちろんよ。それで逃げたんでしょ!」
「違うわ。誤解しないで。あれは自殺なのよ」
「ウソ! ヒカリさんは、そんな弱い人じゃないわ」
「今回はいきなりで、私も信じられなかったもの」
奈乃はあのふとん袋のまわりに落ちていた数多くの闇袋を思い出していた。ヒカリさんはあれを吐き出すのと同時に過去のさまざまな忌わしい記憶を鮮明に思い出してしまい、それをひとつずつならなんとか耐えることができてきたものが、一度にすべてを再体験してしまうと、とても耐えられなかったということなのだろうか――。
「とにかく、アイツ、どうしたの?」
「アイツ?」
「そう、アイツよ! 椎名よ!」
「ああ。――いま、家にいるわ」
「家? あの無想の家に、まだいるの?」
「ううん。彼のマンションよ。祐天寺の――」
「ああ、帰ったのね。――で、あなたは?」
「私も一緒よ」
奈乃は明るく言い放った。私にニセの闇袋を見せたことへの仕返し気分だった。
女がしばらく黙り込む。
「・・・・気は確かなの?」ようやく女が言った。「私があれだけ闇袋を見せても、まだ信じられないのね。その鈍感さは警察を超えてるわ!」と女がなじる。
「いま椎名は目の前にいるの?」
「私はいまトイレにいるから、彼がどこにいるのかわからないけど・・・・」
「そう。じゃ、すぐに逃げなさい! 悪いことは言わない。あなた、本当に殺されるわよ!」
女のきつい言い方を聞いて、奈乃の気持ちが再びゆれる。
「今からすぐにそっちに向かうから、逃げられないなら、なるべく時間を稼ぎなさい! いい? わかったわねっ!」
奈乃の返事を待つことなく、それで携帯が切れた。切れる瞬間、女が「もうっ!」と奈乃をなじるのが聞こえた。本当に怒っているのだ。
ウソじゃなかったの?
あの闇袋は本当だったの?
あの闇袋はすべて、本当の椎名の姿だったの?
じゃ、あの世とこの世の境目にいる女の顔っていうのも、本当だって言うの?
そんなの嘘よ――。
奈乃は急に恐怖が襲ってきた。
そこで携帯の通信履歴を確かめてみる。
――ない!
さきほど椎名が警察に連絡していたはずの通信履歴がないのだ。そのかわりにかけた番号が一一七になっていた。
奈乃は目の前が真っ暗になるような気がした。
椎名のあの無害そうな笑顔も、やさしい心づかいも、もろく崩れ去っていく。
すべてはあの女がいったとおりの、まったくの虚像だったのだ。
やはり、あいつはあの世とこの世の境目を見る女の死に顔が大好きな、気の狂れた男だったのだ。
そうだ! 今、私が警察に連絡をすればいいのだ、と思って、奈乃が1、1まで押したところで手が止まった。
ほんとに連絡していいの?
なんて言うの?
DV男に監禁されてますから、助けてください、か?
椎名が本当に、私に服を貸すだけのつもりだったら?
そしてあの女もここに現れなかったら?
とにかく、いま私は無傷なのだ。
どうやって椎名のDVを証明すればいいの?
でも、襲われたら、もう連絡は一切できなくなるのよ!
そのまま私はあの男に、あの世とこの世の境目にいる私の死に顔を見せるはめになるのよ!
いいの?
それでいいの?
チャンスはいましかないのよ!
――コン、コン・・・・。
椎名がひかえめにノックしてきた。
奈乃は小さく悲鳴をあげる。
「大丈夫?」
椎名が心配そうに声をかけてきた。
「あ、ごめんなさい。いますぐに出ますから・・・・」
奈乃がトイレの水を流した。そして外に出る。
椎名をみると、ことばどおり、とても心配そうな顔をしている。
「いや、別に急がせているわけじゃないんだけど、本当に大丈夫かなと思って・・・・」
「ええ。大丈夫です――」
それだけ言うのがやっとだった。
「なんか具合悪そうだけど・・・・」
「え? そんなことない。大丈夫、大丈夫」
しっかりするのよ、奈乃!
「そう? じゃ、いま紅茶をいれるから――」
「あ、私、もう帰らないと・・・・」
「わかってるって。とにかく中に入って」と笑う。
奈乃は椎名にうながされるままに、部屋の奥へと入っていった。もう地獄への道を歩んでいるような気分だった。
玄関からつづく廊下を抜けると、そこがリビングとキッチンだった。
あの、恐ろしいまでに散らかったキッチン。電子レンジまで下に落ちていたのだ。奈乃は闇袋でみた場所ではないことを願って、リビングに入った。
「じゃ、好きなとこに坐ってて――」
椎名はそういい残して、キッチンに向かった。
リビングも恐ろしいぐらいに片付いている。中心にはひとり暮らしにはちょっと大きいサイズのダイニングテーブルがあり、そこに四人分の椅子がインテリアショップみたいにきちんとテーブルにくっつけるようにして並べてあった。
ダイニングテーブルのセンターには、飾り気のない長方形の白い箱が置かれていた。
「ごめんねー。それライトビュアーなんだ。写真を確認するやつ。邪魔だったら下に置いといて」
「いえ、このままで――」
左側につづき部屋があり、そこにはふたり掛けの白い革のソファーと、その向かいに一人掛けのソファー、その間にガラスのローテーブル、そこにステンレス製の丸い灰皿が計ったように中心に置かれ、テーブル横のマガジンラックに入っている雑誌も、きっちりとそろえて置かれていた。
まるで生活感がまったく感じられない住宅展示場みたいだった。
「じゃ、そっちのソファーに坐ってて」
奈乃は言われたとおりに、その二人がけの白いソファーに坐った。そして、心の中で首を傾げる。この部屋だったのだろうか・・・・。
インテリアがすっかり入れ替わっているせいで、あの闇袋でみた部屋が、この部屋かどうかが断言できないでいた。
もともと闇袋はそれほど鮮明な映像ではないし、あまりにもDV男の印象が強すぎて、部屋自体ろくに憶えてないというのも正直なところだ。
しかし、このレースのカーテンがかかっていた窓はそのままのような気がするが、そこから外の景色を見たわけではないので、やはりよくわからなかった。
あの女がみにくく腫れあがった顔をのぞいた鏡があった場所には、アクリル製のフォトフレームがかかっていた。
そこには、椎名が撮ったのか、きらめく池を背景に、公園のベンチに坐る母親とベビーカーが写った、印象的なモノクロ写真が飾られていた。
キッチンの向こう側に、ドアが見える。
あれが、あの女が椎名を殺す覚悟をして開けたドアだっただろうか。
――わからない。
一人がけのソファーのうしろ側にもドアがあるが、これは木目模様の引き戸だから、ここではないのは確かだ。でも、そもそもあの赤ちゃんを投げ落とした場所はどこなのだろう。
奈乃は目を閉じて深呼吸をした。
落ち着くのよ。
いま焦ったってどうにもならない。
とにかくあの女を信じて、時間を稼ぐのよ。
椎名は紅茶を運んで来る前に、ガラスのローテーブルを拭き、灰皿を片付けた。
「ごめん。ミルクティしかできないけど、いいかな」
と椎名が訊く。
「はい。いえ、もう、何でも――」奈乃は目の前で手をふった。「すぐに帰りますから」
「まだ六時前だよ。明日学校?」
「ええ。そうなんです。まだ宿題やってなくってー」
いいぞ、奈乃!
「そう。そりゃいけないなー。ま、俺なんて、高校の宿題なんて、やったことないけどね」
そういって椎名はまたキッチンに戻っていった。
殺人鬼と一緒にしないでっ! と思ったが、じっさい不思議だった。
いままた改めて椎名に〝さぐり〟を入れてみたが、やはり彼の心の壁はスッキリしていて、ガラスのようにツルツルしていた。あの校長のような黒い壁なんてどこにも見あたらない。その心の状態だけを見ると、彼は幼児のようにピュアな心の持ち主だと判断するしかない。
この男はそれほど心の闇を隠す能力に長けているのだろうか。それとも、それを意識することもなく、自然に身についてしまっているのだろうか――。
だとしたら脅威だ。そんな男が持っている闇なんて、もう想像することも不可能な深さだ。あまりにも深くて、あまりにも哀しくて、あまりにも荒涼とした漆黒の闇――。
そんなとてつもない闇なんて、絶対関わりたくない!
そう思うと、奈乃の恐怖はよけいに増していった。
椎名はすぐに戻ってきて、ガラスのローテーブルに、飾り気のないシンプルな白い磁器のカップとソーサーをそれぞれの前に置き、小さな磁器のミルクカップとガラスコップに立てたシュガースティック、そしてゆうに四人分の紅茶が入っているガラスポットをローテーブルのセンターに置いてから、向かいの一人がけののソファに坐った。
そのままじっとしている椎名を不思議そうに見ていると、椎名が奈乃に向かってゆっくりと首をふった。
「まだ、もうちょっと時間が必要なんだ」
椎名が自分の紅茶カップの位置を調節していた。
奈乃のも気になったのか、椎名はわざわざ立ち上がって、奈乃の紅茶カップの位置も調節していた。そして、ティーポットの上に手を置いて、しばらくじっとしている。小首を傾げて、茶葉が開ききる音を聞いているみたいな顔をしていた。
少し待って満足すると、椎名はティーポットを持ち、奈乃のカップと自分のカップに紅茶を注いだ。
こぼさないように、慎重に注いでいたが、それでも少しこぼれた。それをすぐにふきんで拭いていた。そうしてから、紅茶のカップを、奈乃の前の決められた位置に置く。
奈乃は礼をいって、ミルクを注いだ。そしてシュガースティックも一本いれる。そして匂いを嗅いでから、ひと口飲む真似をしてからすぐにカップをソーサーに戻した。
殺人鬼がだすものなんて、絶対に口にするもんか! と心に決めていた。
「いい香りですねー!」と奈乃。
じっさいには喫茶店の紅茶との差がわからなかったが、椎名は予想以上によろこんでいた。
「一時期、紅茶にも凝ってたんだ。グラム二万円ってのも飲んだことあるよ」
「二万円!」奈乃はワザと大きな声をだして驚いた。「で、どうだったんですか?」
「そりゃ、やっぱりね。薫りはすごい深さを感じたけど、やっぱり普通に飲むには、これぐらいがちょうどいいよね」
「そうなんだー」
あの女が来るまでに、あとどれぐらいの時間がかかるんだろう、と奈乃は考えていた。等々力からここまでは二十分だったから、やはり彼女もそれぐらいはかかってしまうとすると、あと十五分ぐらいか・・・・。
椎名がカップをソーサーに戻す時に、また位置を調節していた。
「昔からなんですか?」
「ん? なにが?」と椎名が奈乃を見る。
「その――、いろいろと、ちゃんとしていないと気がすまないって感じ」
「昔はそうでもなかったんだけど、高校ぐらいからだな、気になりだしたのは――」
「そう。――部屋もきれいですもんねー」と奈乃は感心しながら部屋を見回す。それは本心だった。
「ま、ひとりだからね」
「えー。ひとりだと、かえってヒドくならないかなー」
「そういう人も確かにいるよね。――紅茶は? 遠慮しないで飲んでよ」
「あ、ごめんなさい。わたし猫舌なんで――」
「そう? そりゃ残念だ」
残念?
わたしが飲んで気を失ってしまわないから?
疑えばきりがないが、いまの奈乃には、椎名がそういっているように思えてならなかった。
奈乃は、また紅茶を勧められる危険を感じて席を立った。
「ちょっと部屋を見せてもらっていいですか?」
「あ、そうそう、服を選ばなくっちゃね」
そういって椎名も立った。そしてキッチンがある方のドアではなく、彼が坐っていた後ろの引き戸へ向かう。
奈乃も黙って椎名の後ろについていった。
その引き戸には見覚えがない。
そこは和室で、六帖ぐらいの広さがあった。
他の部屋とは違って、この部屋だけはひどく散らかっていた。洋服ダンスはズレて置かれたままだったし、女性雑誌とか本とかも積み上げていたのが崩れたまま放置されていた。
そこに、化粧品も、捨てるようにバラまかれていた。
じっさい椎名は投げ捨てたのだろう。口が開いて中身が外に流れ出ている化粧品も一本や二本じゃなかった。
椎名が奈乃に部屋を見せたあとに、肩をすくめた。
「さすがに、出て行った女房のものまでは、片付ける気にはなれないんだ。悪いけど、ここは女房のものばかりだから、自分で好きな服を選んでくれる?」
「え? イイんですか?」
「俺は一向に構わないよ」
「じゃ、すみませんが、遠慮なく――」と奈乃はその部屋に入り、引き戸を閉めた。
これで少しは時間が稼げることに心底ホッとしていた。
この部屋の窓は小さく、模様が入ったガラスだったので外は見えなかったが、おそらくマンションの廊下側だろう。少なくとも闇袋で見た夜景が見える窓ではなかった。
いや、とにかく今は電話だ。
奈乃はあわてて母親の携帯に連絡してみたが、出なかった。
日曜日の夕方の六時前。騒がしいスーパーにいて気づかないのか?
かといって父親は論外だ。こんな不確かな状況でも、いろいろと質問攻めにしてくるのが目に見えている。
『そもそも、なんでお前はそこに居るんだ?』
奈乃はきつく首をふった。でも、ほかに助けを求めることができる友だちもいないし、だからって、やっぱり警察へ連絡するには、あまりにも根拠が薄いような気がする。
監禁されています! と訴えても、椎名にとぼけられたら?
奈乃はいろいろと考えながら、なるべく動きやすい服を選んで、なんとか着替えだけはを済ませた。
そして、なんでもいいからなにか凶器になるものを探す。
そこで引き戸がノックされた。
「どう? サイズ合った?」
「はい、ちょうどいいかも、です。いま出ます」
奈乃は床に落ちていた赤のボールペンを拾って、ジーンズのうしろポケットに入れた。そして引き戸を開けて出てきた奈乃を、椎名が下から上まで感心して眺めている。
「思ったとおり、ぴったりだね。――でも、そんなので良かったの?」
奈乃が選んだ服は、細身のジーンズと、白い長袖Tシャツと、Vネックの紺のセーターだった。
「ええ。もうこれで充分です。それと、この紙袋もいいですか?」と奈乃はサリーを入れた紙袋を椎名に見せた。
「もちろん。そんなのでイイの?」
「もう充分です。――あ、あと他の部屋も見せてもらってもいいですか? こんな生活をしている人の部屋って見たことないから・・・・」
時間稼ぎ、時間稼ぎ――。
あのソファに戻ったら、睡眠薬入りか、最悪毒が入っている紅茶を飲まなくちゃならないと思うと、奈乃も必死だった。
「それは構わないけど、普通だよ?」
「そんなことないですよ。いまだって、とっても楽しませてもらってますから・・・・」
「そう?」
椎名が奈乃を顔をのぞきこんだ。
「とてもそうは見えないけど?」
「見えない? そうかなー。これでもとっても楽しんでるんだけどなー」
「でも、もう部屋は、そうないよ。あと、キッチンの向こう側にひとつあって、それは寝室なんだ。それでもいいかな?」
「ええ。充分興味あります!」
「そう言われると、なんだか照れるなー」
椎名はそう言って笑いながら、その寝室に向かって歩き出した。
奈乃も黙ってついていく。
そこの部屋なら、あの闇袋で見た部屋かどうかがわかるはずだ。それだけは奈乃も自信があった。あの街を見下ろす感じの夜景は、いまでもはっきりと覚えている。
椎名がドアを開けた。
そして自分はドアの取っ手を持ったまま横へのき、奈乃の背中を軽く押すようにして先に部屋へいれる。
確かに寝室だった。それに、闇袋の中で椎名が坐っていたベッドも、そのシーツも、そしてその位置も、あの闇袋の記憶そのままだった。
もう陽がすっかり暮れているので、ドアを押えている椎名が窓に映っているのが見える。そして、そこから見える街並みは、まだずいぶんと灯りは少なかったが、あの闇袋でみた情景そのままだった。
「おい――」
うしろで椎名が低い声で言った。
いままで聞いたことのない声だ。
「そのボールペンはなんだ?」
ボールペン?
奈乃は、ジーンズのポケットに入りきらない赤いボールペンの先を思い浮かべて、舌打ちしたい気分だった。
「え?」と奈乃はふり向いた。
もちろん何をいってるのかサッパリわからない、という顔をつくっていたが、椎名には通じなかったようだ。
顔が怒りの形相に変わっている。
もう別人だった。
なにを言っても止められない狂気を痛いほど感じる。
いきなり奈乃は、椎名の大きな右手で殴られてベッドに倒れこんだ。
頬骨が信じられないぐらいジンジンする。
耳もキーンと高い音が鳴っている。
そこで想像を絶する強い力で無理やりあお向けにさせられた。
奈乃は声を上げようとしたが、もうすでに首を絞められていて、グググッという絞られた声しかでない。
あの女に見せられた闇袋と同じだ。
椎名は奈乃の首を絞めたまま、その首を上下に揺らして、より深く手が首に食い込むようにする。そうしていると、女の顔が徐々に鬱血していくのがわかる。
だが、どうもベッドの上ではまずいようだ。
思ったように力が入らない。
このままではこの世とあの世の境目を見る目がじつにわかりにくい!
それではまったく意味がないではないかっ!
椎名は女の首をつかんだまま、ベッドの下へ引きずり落とした。
――よしっ! いいぞっ!
これでもう心置きなく女の首を締め上げることができる。
そして、死ぬ前に一瞬だけ最愛の人に会うことができるという、その目を見るのだ!
本当に会えるのかどうかを!
本当に最愛の人が現れるのかどうかを!
その現れた瞬間に見える至福の目を、オレは見たいのだ!
本当に会えるんだったらいま死んでもいい!
これまではまだ一度もそんな目を見ることはできなかったが、今度は見えるかもしれない!
この女がそれを見せてくれるかもしれない!
それはもう目の前にある!
奈乃はベッドから身体を引きずり落とされたときに、ジーンズの後ろポケットに入れたボールペンが折れるのを感じた。それまでは驚きと悔しさと苦しさでなにも考えることができなかったが、その音を聞いてボールペンを思い出したのだ。
奈乃は、どれだけ抵抗してもビクともしない男の腕をあきらめ、ジーンズのうしろポケットに手をやった。
男が身体の上に乗っているので、尻と床が密着してしまっていたが、なんとかボールペンに触れるところまで手が入った。
そのとき、男の口からバサバサバサーっと、何枚もの写真が奈乃に降りかかってきた。あの女が教えてくれた、これまでの犠牲者の写真だ。
みると、椎名はとてもうれしそうな顔をしている。精一杯力をいれて真っ赤な顔をしているが、そのまま笑っているのだ。
奈乃は遠のきそうになる意識の中でボールペンをつかみ、それを椎名の顔を目がけて突きつけた。
そんなに力が入らなかったが、
「んがっ!」と椎名が叫びながら顔を押さえて、身体を後ろに反らせた。
奈乃はそのスキに椎名の身体をおしのけて四つんばいになり、必死になって呼吸を繰り返していた。スーハースーハーと、この部屋にある空気をすべて吸いきってしまうような勢いで、彼女はなんども呼吸をくり返していた。
でも、この場にいては危険なことはわかっているので、四つんばいのまま這うようにして出口を目指す。
「きっさまーっ!」
うしろで椎名が叫ぶ。
見ると、折れたボールペンが、椎名の左目に突き刺さっていた。
傷の深さまではわからなかったが、すでに押さえた手が真っ赤だった。その押さえた手のヒジから血がしたたり落ちている。
椎名は立ち上がってはいるが、酔っ払いのように動きがぎこちなかった。
急に片目になってしまったことで、まだ、ものをうまく捕らえることができないのだろうか。それとも左目を失ってしまったことに気が動転してしまって、うまく肉体と思考がかみ合わないのだろうか・・・・。
奈乃はさけび声をあげて立ち上がり、急いで玄関に向かった。
いつの間にしたのか、なんとドアには鍵が掛かっていた。おまけにチェーンロックもだ。
「痛ってーっ! チックショー! ぜったい逃がさないからなー!」
玄関にいる奈乃をみて、椎名が廊下の左右の壁に身体をぶつけながら、向かってくる。
奈乃は叫びながらあわてて錠を外し、すぐにチェーンロックを外そうとするが、手が震えてうまくいかない。
「外れてよー、もうっ!」と奈乃は叫びながらチェーンロックをなんども叩いていた。
椎名が強い力で奈乃の腕をつかむ。
奈乃が大声で叫ぶが、さらに強い力で部屋の中へと連れ戻されてしまう。
椎名はもう目を押さえてもいなかった。血が流れ出るままに放置している。頭に血が上ってしまって、それどころではないのだろう。
「ウルせーっ!」と椎名は奈乃を罵倒した。「ここで叫んでも、誰も来ねーよ! この階にも下にも上にも、誰も住んじゃいねーんだ。わかったか!」
そこで椎名は奈乃のジーンズの後ろポケットをまさぐり、折れたボールペンの片割れを見つけた。
それを残った右目の高さまであげてジッと見る。
「コイツのせいで、計画が滅茶苦茶だ!」と、そのボールペンの片割れを思い切り床に叩きつける。そして奈乃を見た。
「お前はいままでになく、じっくりと――」
ガンッ!
誰かがドアを開けようとしたのを、チェーンロックがはばむ。
ガンッ!
ガンッ!
「開けなさい、武生!」
椎名が驚いてドアを見る。
「今すぐ開けるのよ、武生! 聞こえないの!」
「・・・・ママ?」椎名があえぐように言った。「・・・・ママなの?」
「そうよ、ママよ!」きめつけるようにあの女が言った。
「いい子だから、すぐにここを開けなさい!」
「いやだ! ママ。来ないでよ!」
椎名はそう叫ぶと、頭を抱えてしゃがみこんだ。
もちろん奈乃をつかんだ腕は放している。
もう、腕をつかんでいたことも、そこに奈乃がいることも、自分が片目を失ってしまったことですら忘れているようだった。
奈乃は椎名に気づかれないように後ずさりしながら玄関まで行き、椎名を見たまま立ち上がった。
「あなた、大丈夫?」と女が小声で聞く。
「ええ。――いまチェーンを外すから、一度ドアを閉めて」と奈乃は言った。
「わかったわ。落ち着いてね」
「ママ。どうして来たの? もう、来ないって言ったじゃない」
椎名が頭を抱えたまま、子供のように怯えている。
奈乃は、今度はうまく一回でチェーンを外してドアを開けた。
椎名は奈乃の姿をまったく見ていなかった。そこに現れるであろう母親の姿を予想して、怯えた表情のまま玄関をじっと見つめていた。
そこであの女が顔を出す。
椎名はしばらくその顔を見つめていた。
片目だし、ママだと信じていたし、で彼が正確な判断をするのにしばらく時間が掛かっているようだ。
「お久しぶりね」
あの女が言った。ちょっとほほ笑んでいた。
「――あなたは逃げて」
うしろをふり返らずに、奈乃に言った。
「・・・・恵美子?」
「そうよ。十ヶ月ぶりかしら?」
「恵美子なのか?」
女は部屋に入り、ドアを閉めた。そして、ゆっくりと錠をかける音がする。
奈乃がドアを強く叩いた。
「ちょっと! あなた、大丈夫なの?」と奈乃が叫んだ。
「もう大丈夫よ。これは私たちの問題だから・・・・」とドアの向こう側で女が言った。「あなたはもう帰りなさい」
奈乃はだれもいない廊下にひとり取り残された。
もうすっかり日が暮れてしまっている。
『これは私たちの問題だから・・・・』といった女のセリフが頭の中でなんども聞こえていた。
奈乃は母親の携帯にもう一度連絡してみた。
今度は二回のコールで出た。
奈乃は、少し遅くなったけど、いまから帰ることを母親に告げた。
4
北川奈乃はマンションの外に出てみたが、駅の方向がさっぱりわからなかったので、通りがかったおばさんに駅までの道順をたずねてみた。
「祐天寺駅?」とおばさんはちょっと驚いた声で言った。小学生ぐらいの背丈しかなかった。後ろ手に買い物袋が詰まった袋型のカートを引いていた。
「あ、祐天寺駅ね。――でも、あなたは、どうやってここまで来たの?」
おばさんはもっともなことを言った。
「ここまでは、あのー、タクシーで・・・・」
「あら、そう」と今度は奈乃の服装をみる。気軽にタクシーに乗る身分には見えないけど、とでも思っているのだろうか。
奈乃はサリーを着ていなくて本当に良かったと思った。そこでサリーを持っていないことに気づいたが、今さら取りに帰ることもできないし、とにかく、仕事はしばらく休ませてもらおう、と漠然と考えていた。
「人に送ってもらったんです」
「あら、そうなの」
おばさんはそれで納得したようだった。おばさんが二歩前にでてきて奈乃を見上げた。
「祐天寺駅でいいの?」
「はい。あ、できれば交番も」
「交番? あなた、交番でまた道訊くの?」
「いえ、そういうわけじゃ・・・・」
奈乃はあいまいに応えた。
「まあ、いいわ。交番はね、祐天寺駅にあるの」
「あ、そうなんですか」
「よかったわね、同じ方向で」
おばさんは、あの信号を左に曲がってまっすぐ行くと、そこが祐天寺駅だと教えてくれた。
「五分かからないと思うわ」とおばさん。もう笑顔になっていた。
奈乃は礼を言って、全速力で駅へと向かった。
◇
おばさんが言ったとおり、交番は祐天寺駅のガード下にあった。
〈目黒警察署祐天寺駅前交番〉と表示されていた。奈乃はもう〈警察署〉という文字を見ただけでも嬉しかった。
息を切らせながら交番へ駆け込むと、その勢いに驚いた若い警察官が身を引いて奈乃を見ていた。交番には彼一人だった。
「・・・・ど、どうかされましたか?」とちょっと時間をおいてから声をかけてくる。
「あの――、ちょっと――、待って――、ください」と奈乃はもどかしい思いで息を整えていた。
「あの――、事件かどうかは――、わからないんですけど――」
「はい?」若い警官は奈乃に向かって耳をつき出してきた。
「あ、いまは――、どうなっているのか――、わからないんですけど――、ちょっと知り合いの夫婦がモメてて――、ちょっとヤバいかもしれないと思って――」
「ヤバい? 夫婦喧嘩ですか?」
「はい――。すみません――」
ようやく落ち着いてきた声で奈乃は謝った。
「いえ、構わないですよ。現場はどちらですか?」
「すぐそこのマンションなんですけど――」
「マンション名は?」
「えっとー、すぐそこなんで、いま私が案内します」
「わかりました」と若い警察官はその場で敬礼をした。とても姿勢がよく、小さい頃からずっとまじめだったのだろうというのが容易に想像できる敬礼だった。
以前、〈マーシャの光〉へ占いに来た主婦が、自分の亭主に対して、『真夏の休日でも白い靴下をはくような超マジメ男』という不満をもらしていた人がいたが、いま目の前にいる警察官がまさしくそんな感じだった。
彼は小走りで交番の外に出て、横に止めてあった自転車を引いてきた。靴下を見ると、紺色だった。奈乃はちょっとガッカリした。
若い警察官を連れて椎名のマンションまで戻ってくると、すぐにエレベーターで五階まで上がった。もう周囲は本格的に夜になっていた。
若い警察官が椎名の部屋のインターホンを押すと、中でチャイムが鳴っている音がする。これで女が明るい顔をして出てくれば安心して家に帰れる、と奈乃は思っていた。
だが、なにも反応がない。なにかけたたましい勢いで、笛が鳴っているような音が聞こえるが、それがこの部屋の中からなのかはわからなかった。
若い警察官がもう一度インターホンを押した。
そして、しばらく待ってから奈乃を見る。
「出てきませんねぇ。どこかへ出かけたっていうことは?」
奈乃は首をかしげた。
そう言えば、椎名は私に目を刺されて、ひどい怪我したのだ。あの状態だったら、片目は潰れてしまっているかもしれない、と思った。
「もしかすると、病院へ行ったのかもしれません」
「病院?」
若い警察官はまゆをしかめた。
「誰かケガをしているんですか?」
「ええ」
私は傷害罪になってしまうのかな、と奈乃は漠然と考えていた。でも、首を絞められて殺されそうになったのだ。あれは殺人未遂じゃないのか?
「それはいけませんねぇ」と若い警察官はちょっと深刻な顔つきになって、鉄製のドアをさっきよりも強くノックした。
「もしもし? あのー――、もしもし?」
「椎名さんです」
「椎名さん? いらっしゃいませんか? 椎名さーん?」
それでも反応がないと、若い警察官は、隣の部屋のインターホンを押した。だが、両隣とも留守だった。このフロアーには住人はいない、というのもまんざら嘘ではないのかもしれない、と奈乃は思っていた。
若い警察官は無線でどこかに連絡し、このマンションの管理人の所在を聞いていた。
幸いにも、管理人はこのマンションの一階にいるということだったので、若い警察官はすぐに管理人を呼びにいき、小走りに戻ってきた。うしろに初老の管理人を連れている。
その初老の管理人は、一度さっと奈乃を見ただけでなにも言わず――彼も若い警察官の切迫した感じにちょっと緊張しているようだった――、すぐに鍵の束から椎名の部屋の鍵を探す。
「ええっと、椎名さんだよね。五〇五っと。――これだ、これこれ」
初老の管理人は、その鍵で椎名の部屋の鍵を外す前に、コブシでドアを強く叩いた。
「椎名さーん、開けますよー」
予想を超えた、ちょっと大きな声だった。
「いえね。こうしないと後でうるさい人がいるんですよー」と若い警察官に向かって、言い訳がましくいった。「前もね、誰もいないと思っていきなり開けたら、その最中で――」
初老の管理人は若い警察官を見て下品に笑っていたが、奈乃に気づくとすぐに真顔になり、またドアを叩いた。
「椎名さーん、開けますよー。いいですかー」
反応がない。管理人は若い警察官を見て、「いいみたいです」といって鍵を開けた。
ドアを開けると、あのけたたましい笛の音がさらに大きくなった。明らかに部屋の内部で鳴っている。リビングも廊下も灯りはついていなかった。洞窟のように暗い中で、笛のけたたましい音だけが聞こえていた。
玄関には椎名の靴と、あの女の黒いパンプスがあった。
「ふたりは中にいるみたいです」と奈乃は小さな声で言った。
それを聞くと、初老の管理人が「椎名さーん」と部屋の中に向かって呼びかけた。「いませんかー。椎名さーん。・・・・あれって、ヤカンだよね」
「ヤカン?」と若い警察官。
「そう。あのお湯が沸くと音のでるやつ」
「あー、そうですね。――あのー、電気は?」
管理人は若い警察官にそう言われて、入口から入ってすぐの壁のところにあった電気のスイッチをいれた。
パッと灯りがつく。すると、廊下に転々と血が落ちているのが見えた。血だまりになっているところもある。
若い警察官と初老の管理人が同じように首を突き出すようにして、その血を凝視している。電球色の電灯のせいで、それが本当に血なのかどうかがわかりにくいようだった。
ふたりが顔を見合わせた。そして、また廊下の血痕を見る。
勇敢にも、あるいは当然といえば当然だが、一番最初に部屋にはいっていったのは、若い警察官だった。
驚いたことに、こういう状況でも、玄関でていねいに靴を脱いだ。そういう習性なのだろう。いつの間にか、手に警棒をにぎっている。そして、暗い廊下の先をニラみながら、一番最初にあったドアの様子をうかがう。
「そこはトイレです」
初老の管理人がうしろから声をかけた。
若い警察官がトイレをノックする。
――返事はない。ノブを回してドアを開けて中を確認する。
誰もいないようだ。
若い警察官が廊下を進んで、最初の血だまりのところでしゃがみこみ、よく確認していた。
「やっぱり、血ですねー」
その瞬間、部屋の奥から椎名が飛び出てこないかと、奈乃はずっとハラハラしていた。折れたボールペンを手に持って、つぶれた目をクワっと見開いた椎名が飛び出てこないかと・・・・。
若い警察官は先に進んだ。
「あのー」と奈乃は遠慮がちに切りだしてみた。「応援を頼んだ方がいいんじゃないでしょうか?」
だが、若い警察官はふり向きもせずに、左手をうしろに突き出して奈乃の発言を制止した。
「正面はダイニングキッチンです」
初老の管理人は言った。どこかワクワクしているように聞こえた。
「電気のスイッチは、入ってすぐ右側ですよ」
若い警察官は、ふり向きもせずに、管理人のアドバイスになんども肯いていた。そして靴下を血で汚さないように気をつけながら、ダイニングキッチンの電気をつける。
「あちゃー」と言う若い警察官の声が聞こえた。そのまま奥へ入っていくと、急に笛の音が止んだ。
若い警察官が足早に外へ出てきて、「ちょっと連絡します」と緊張した顔で二人に言った。そのまま廊下から見える夜の街を見下ろしながら、すぐに無線で連絡を取り、現場の細かい状況を説明していた。
奈乃はそのすきに黙って部屋の中に入っていった。血痕を踏んでしまっても嫌なので、クツは履いたままだった。初老の男は、奈乃のことを椎名の身内と思っているのか、なにも声をかけてはこなかった。
湿気を多くふくんだ熱い空気が、部屋中にたち込めている。
ガス台には笛吹きケトルがかかっていた。もう笛を吹くまでの勢いはないが、まだ怒っているようにシュンシュンと音を立てている。
あの女はキッチンで倒れていた。椎名はその女におおいかぶさるようにして、息絶えていた。
奈乃は、女の横に闇袋が転がっているのをみつけた。まだ新しいからか、張りがあって硬そうに見えた。
それを手にとってみる。テニスボールぐらいの大きさだった。すぐにそれを割ってみる。
思ったとおり、あの女の最後の記憶がつまった闇袋だった。
●
ガチャンッ、と鍵が閉まる音。
ドンドンドン、ドンドンドンと、私がドアを叩く。
「ちょっと! あなた、大丈夫なの?」と私。
「もう大丈夫よ。これは私たちの問題だから・・・・」
女はやさしい声で言った。
「あなたはもう帰りなさい」
静かになった。
女が椎名を見つめている。
椎名も片方の眼で、ヒザ立ちの格好のまま、呆然と女を見つめている。
「・・・・恵美子、だよね?」椎名が確認するように言った。「戻ってきたのか?」
「まあね」女が言った。いつにも増して、つやつやした声だった。「元気だった?」
「ああ。・・・・大阪じゃなかったのか?」
「やっぱり長年住み慣れた、こっちの方が住みやすいわ」
「そうか。――もう働いてるのか?」
「そう。なんとかね」
「できることならなんでも協力するから、言ってくれよ」
「ええ。そのときにはお願いするわ」
「まあ、入れよ」
椎名は立ち上がって、女を招きいれた。
「あら? インド象がそのままじゃない」
女が、あの、ちっともほこりが積もっていない象の置物を見ながらうれしそうに言った。
「まあな。痛テテッ」
椎名が潰れた方の眼を押えながら「クソッ!」と悪態をついた。そして血がついた手の平を、しばらくじっと見つめている。
「なんか、もう懐かしいなー」女が言った。そう言いながら廊下を見下ろすと、転々と男の血が落ちていたが、女はストッキングをはいた脚でそれを踏みつけても気にしないで歩いていく。
「インテリアは変えたのね」とダイニングの入口に立って、そこから部屋を見渡しながら言う。
「まあな」男がすこし照れたように笑う。「まあ、坐れよ」とダイニングテーブルの椅子を勧めてから、椎名はテーブルの上にあったライトビュアーを強い力で払いのけた。
それは隣室の白い革のソファに当たって跳ね返り、壁に当たって無残に壊れた。中にあった蛍光灯も粉々に砕け散っていた。
「いま、コーヒーを淹れるよ」
「濃いやつをね」
「わかってるって――」と椎名は笑ったように見えたが、泣いているようにも見えた。
いきなり片目になって視点が定まらないのか、笛吹きケトルに水を入れようとして流し台にぶつけたり、うまく水が入らなかったりしながらも、なんとか湯を沸かそうとしている。そのたびに悪態をついていた。
女はそんな椎名の後姿をじっと眺めていた。
「今度会えたら聞いてみようと思ってたんだが――」椎名が言った。
ガスの火を点けようとかがみこみ、火が点いたことを確認すると、ふり返って女の方に顔を向けた。左目からの出血が少なくなっているようだった。
「キミは、俺の心が見えたのか?」
女が椎名から目をそらして、つづき部屋の方を見る。そして奈乃が飲まなかった紅茶を見る。その向かいに置いてあるティーカップも見る。そして白いソファを見た後、そのくぼんだ部分をじっと見ていた。
「見えたんだろ!」椎名がきつい言い方で、もう一度言った。「ヒデェ野郎だ!」と吐き捨てるように言う。
怒ったように、女がサッとふり向いて椎名を見る。
でも、なにも言わなかった。
椎名がガスレンジにもたれかかりながら、腕を組んで笑っていたからだ。
「変わんねーな、キミは。――再婚したのか」
「まさか」
「だろーな」
「だろーなって何よ」女も笑っているようだった。「申し込みは多いんだけどね」
「だろーな」
椎名が笑って、組んでいた腕を外し、コーヒーを淹れる準備をする。
「でも、あなたは、ほんとにカメラのことしか興味なかったわよね」
椎名はそれには応えずに、コーヒーサーバーをだして、そこに紙フィルターをセットする。そして、冷凍庫からコーヒー豆を取り出した。
「レンズの傷とか、シャッターの音とか、撮ったフィルムを選別するライトビュアーとか・・・・。ほんと、頭の中はそればっかり」
「悪かったとは思ってるよ。あれから俺もずいぶんと反省したんだ。こう見えてもね」
椎名はコーヒー豆を直接袋からコーヒーミルに入れようとするが、その大半がこぼれていた。それでも構わず、豆をミルに全部ぶちまけてから、その袋を床に放り投げた。
女は黙ってその光景を眺めている。
「あなたが反省しはじめたのは、一月に送った私の手紙を見てからでしょう」
女がそう言うと、椎名が動きを止めて、女を見た。
「そんなことまでわかるのか」
椎名が驚くように言った。
女はなにも応えないと、椎名がコーヒーミルに目を落し、入りすぎたコーヒー豆をほじくりだして量を調節していた。バラバラと、豆が床にこぼれていく。
「確かに、私は人の心が見えるわ」
椎名がミルの中をのぞき込んでいる。
「もちろん、あなたの心もね」
椎名が女を見たが、なにも言わなかった。ミルのハンドルを回してコーヒーを挽きはじめる。
怪我をしていない右目をしょぼしょぼさせていた。
「心配しないで。あなたの殺人行為は、ぜんぜん見えてなかったから」
椎名が手を止める。でも、顔はミルを見たままだった。また動く――。
「あなたの心の中はいっつも写真のことばかり。なにがあってもカメラ、カメラ、カメラ。吉生が生まれてもカメラ、カメラ、カメラ。すこしでも私のことを、それに吉生のことを、家族のことを、考えてくれたことがあったの?」
ゴリゴリゴリと、椎名がコーヒー豆を挽く。もう目をしょぼしょぼもさせていなかった。残った方の目で、ミルを睨みつけるようにして豆を挽いていた。
「好きな人の心の中に、自分たちの姿がまったくないなんて、残酷だと思わない?」
ミルが豆を挽く音がしなくなったが、椎名はまだハンドルを回し続けていた。
「あなたの心には、産まれたばかりのわが子の姿もなかったのよ? 信じられる? それってどういうこと? 家族ってなに?」
まだ椎名はハンドルを回している。気がふれたハムスターのようだった。
「まあ、いいわ。そんなこと、もう、どうでも。――あなた、吉生に暴行してたよね」
椎名の手が止まる。
「いや、でも、あれは・・・・」
「あれは、なに?」
「え? あれは俺の記憶なのか?」
「そうよ。まぎれもなく、あなたの記憶よ。吉生を死に追いやったのはあなたよ!」
女は立ち上がって、椎名を睨みつけていた。
あきらかに椎名は動揺している。
「あなたは自分の記憶を隠すことができるのよ。隠すっていうか、忘れるっていうか・・・・。知ってた?」
「いや・・・・」
椎名は首をふった。
「なんのことだ?」
「やっぱり、わかってないのね」
女は椎名の前まで歩いていった。そして椎名の両手をもつ。
「いい? 深呼吸して。――そう。ゆっくりとね。もう一度――。はい。じゃ、いい? 目をつぶって」
椎名がまともな方の目をつぶる。潰れた方の目ぶたはヒクヒクと動いている。
女はそんな椎名の頭を押えて、顔を近づけていった。
くちづけをしているようだ。
でも、女は目を閉じない。血の涙が流れている椎名の左目を、すぐ近くで見ている。
その目がギュッと閉じられて、椎名が何かに耐えているのがわかる。
――闇袋だ、と奈乃は思った。
いま女は、椎名に闇袋をいれているのだ。女が創作したものかもしれないが、椎名の記憶にはない、椎名の記憶を――。
女が椎名から離れた。
でも、椎名は目を開けなかった。眉間にしわを寄せて、すこし呻いている。
女はそんな椎名の様子をじっと見ていた。
――これをやりたかったのね、と奈乃は考えていた。
息子の死の原因をつくったはずの男にその自覚がないなんて、そんなの絶対許せない! 記憶がなくて、良心の呵責すらない椎名に、せめて人の心を呼び醒まさせたい!
そう女は思ったのだろう。
いま、椎名は闇袋を見ている。
いままで自分がしてきた所業を、一度に見せられている。
いま、椎名はなにを考え、なにを感じているのだろうか。
奈乃にはまったくわからなかったが、おそらくそんな椎名を黙って見ている女もわからなかっただろう。
でも、椎名に見せて、彼に自分の所業を自覚させること、それが一番大切なことなんだと奈乃も理解していた。
椎名がゆっくりと目を開ける。傷ついた方の目も開いていたので、赤黒い内部が見えていた。
「俺が吉生を・・・・」と椎名が呻くように言った。「ウソだろ? 俺が吉生を?」
「あなたよ。あなたが吉生を何度も何度も・・・・」
そこまで言ったところで、椎名が女の首を絞めてきた。
女は抵抗しない。声もださない。椎名に押し倒されるようにして、キッチンの床に倒れこんだ。
「俺が吉生を? 俺が吉生を?」
おおいかぶさってきた椎名が腕を上下させている。それに合わせて、女が床に後頭部をぶつけている音がする。
女はなにも抵抗をしない。取り乱している椎名をじっと見ている。まるでその血の涙を流した椎名の姿を、悔悟の念と悔しさに歯軋りする椎名の姿を、深く記憶に焼きつけておこうとしているかのように・・・・。
少しずつ椎名の顔が変わってきた。奈乃が襲われる前にみた、あの鬼の形相だ。
「きさまが、きさまが――」と椎名が言う。
声に悔しさが込められていて、しだいに叫び声になっていった。
「きさまがー!、きさまがー!」
女が強く首を絞められているのが、男の声が遠くなっていくのでわかる。
お湯が沸いたのか、背後でケトルがけたたましい勢いで鳴っている。
「があっ!」と椎名が叫び、女の首から手を離して身体を起こした。
みると、椎名の左脇腹にナイフが刺さっている。
椎名はよく見えないのか、首を回して脇腹を確認している。
女が起き上がってそのナイフをつかみ、引き抜こうとすると、椎名がまた叫んだ。
それでも力を込めて引き抜こうとしたが、そのとき椎名が女を殴りつけた。
女が床に強く頭をぶつける。
すぐにまた椎名は女の首を絞めてきた。
「きさまがー!、きさまがー!」
もう女の反応はなかった。椎名を見てもいなかった。きつく目をつぶっている真っ暗な闇がつづくだけだった。
しだいに椎名の怒鳴る声も、笛吹きケトルのけたたましい音も、川の向こう岸で鳴っているようになってきた。
やがてそれも聞こえなくなっていく。
でも、椎名が最後まで「きさまがー!、きさまがー!」と叫んでいたのだけはわかった。
奈乃はやりきれない気分になっていた。
奈乃は仰向けになって倒れている女に目を向けた。
あのきれいだった顔が、うっ血して薄い赤紫色になっている。その表情からは、椎名への怒りが治まったのか、それともまだまだ足りないのかまではわからなかった。ただの力が抜けてしまった表情にしか見えない。
椎名のまわりには、自ら殺した女たちの写真が散乱していたが、その中には、この女が死ぬ寸前の顔は一枚もなかった。すべてが別の女性の顔だった。奈乃はそれだけでもなんだか救われたような気がした。
その時、椎名が目を開けて奈乃を見ているのに気づいた。潰れた左目も開いていて、こちらをじっと見ているような気がする。
そのまま嬉しそうに、ニヤリと笑った。
奈乃は息をするのも忘れて椎名を凝視していた。動くなんてあり得ないオモチャを見たような顔をしていた。
椎名は床に手を付いて、ゆっくりと立ち上がろうとしている。
奈乃は首をふった。あまりにも信じられない光景に声も出なかった。ただ口を押えて、ずっと首をふっていた。
「ダメじゃないですか! 勝手にはいっちゃ!」あの若い警察官が戻ってきて、奈乃に注意した。「でも、あとで詳しい話をお聞きしますので、ちょっと外で待ってて下さいね。――え? どうかしましたか?」
奈乃は、顔をのぞき込んできた若い警察官をまったく見ていなかった。もう今にも立ち上がろうとしている椎名から、一瞬も目が離せなかったのだ。
若い警察官が気配に気づいてふり向く。そして、すでに立ち上がってしまった背の高い椎名を見上げる。そこで彼は、椎名の潰れた赤い目に圧倒されたように、しばらく呆然としていた。
だが、すぐに現実に戻って、警察官としてケガをしている椎名を気遣うことばでもかけようと思ったのだろう。彼がいたわるように右手を差し出したとき、椎名はいきなり若い警察官のこめかみを殴りつけた。
若い警察官は、事態を理解する前に、テーブルに顔面を強打してから台所の床に転がり、それからまったく動かなくなった。
「戻ってきたんだな」椎名が若い警察官には目もくれずに、奈乃を見たまま言った。「うれしいよ」
奈乃は声もでなかった。こうなっても首を振るだけが精一杯だった。
それを見て椎名がにっこりと笑う。
「また、最初からはじめるか?」
「――はじめるって」それまで声もでなかった奈乃が、ようやく言った。「はじめるって、なにを?」
「パーティーさ。まだ途中だったろ?」と椎名は部屋を見まわした。一瞬笑顔がなくなったが、またすぐに笑顔をつくって奈乃を見る。そしてゆっくりと近づいてくる。
「ちょっと待って!」奈乃はあわてて椎名を制した。そして「――あ、あなた、彼女まで殺したの?」と倒れている女を指差しながら叫んだ。
そう言われて初めて思いだしたように、椎名はゆっくりとふり返って倒れている女を見下ろす。
そのとき、奈乃は逃げだした。
背後で「だっ!」と叫ぶ男の声が聞こえたが、もう後ろはふり返らなかった。
玄関のドアを押えながら中をのぞき込んでいた初老の管理人が、走ってくる奈乃をみてあわててドアを全開にした。そして奈乃が外に走り出ると、管理人が素早くドアを閉めてくれた。
事態がまったくわかっていなかっただろうが、なにか危険なものが部屋から出てこようとしているのはわかったみたいだった。
彼は奈乃に「早く逃げて!」と声をかけると、ドアの取っ手にしがみつくようにしてドアを押えていた。
「すみません! すみません!」
奈乃は管理人になんども礼を言いながら走った。あの男の狂気を知っているだけに、もう必死だった。
まだどこからもサイレンの音は聞こえない。それはそうだろう。あの若い警察官が連絡してからまだ三分と経っていないのだ。
奈乃がエレベーターホールまで行きつく前に、ガンッと後ろで大きな音がした。ふり向いてみると、管理人が全体重をかけてドアを押さえている。
またガンッと音がした。
そして三回目で管理人が飛ばされて、ドアが全開になると、すぐに椎名が出てきた。
「もう逃がさねーぞ!」と椎名。
まるでこれから本当に盛大なパーティが開催されるような笑顔だった。
奈乃はようやくエレベーターホールまでたどり着いた。
だが、階数の表示は一階になっていた。
エレベーターのボタンを何度も叩く。
そうすると、いま無理やり起こされた巨人みたいに、ゆっくりと動き出すモーターの音が聞こえる。
すでに椎名は奈乃に向かって走ってきていた。
まるで左目が潰れていることを忘れているみたいに全力疾走だった。
奈乃がエレベーターの表示を見る。まだ二階を指している。とても間に合わない。
奈乃はすぐに後ろの階段に向かった。そして二段三段と階段を飛ばして踊り場までたどり着いた時、その時になって初めて階段を昇ってしまったことに気づいた。
「なんで上なのよーっ!」と奈乃はもどかしく太ももを叩きながら叫んだ。泣きたい気分だった。
でも、もう戻ってる場合じゃない。このまま昇るしかない。
六階まで上がったところで左右の廊下を見渡してみる。
――誰もいない。人が住んでいる気配もない。
このマンションには本当にあの男だけしか住んでないのか? と思わせるほど、どこにも生活感がなかった。
廊下の突き当たりに鉄製のドアが見える。あそこが非常階段なのか? でも、そこへ向かったところで、ドアに鍵が掛かっていることを想像すると、とても進めなかった。奈乃は迷った末に、また階段を上がった。
七階に上がってみても、他の階とまったく同じだった。造りも、気配も、そこに漂っている暗灰色の粉っぽい空気も――。
このマンションではどこもかもどんよりとしている。もう何年も空気が動いてないじゃないかと思えるぐらいだった。
階下から、荒い息を吐く椎名が上がってくるのが聞こえる。
忌々しいことに、エレベーターはいま五階に着いたようだ。表示が五階で止まっている。奈乃はまた階段を上がった。
このマンションには八階はなく、階段を上がったところに鉄製のドアがあった。
奈乃は息が止まるかと思った。すぐに引き返そうかと思ったが、椎名が迫ってきているのが聞こえる。
荒い息と「ちくしょう! ちくしょう!」とくり返し叫ぶ声が、不気味に響いている。とても引き返せる状態じゃない。
奈乃は階段を昇りきったところで祈るような思いで鉄製のドアを開けようとした。
――ガンッ!
鍵がかかっている。
ガンッ! ガンッ! バンッ! バンッ!
奈乃がもどかしげにドアを叩く。当然ながら、それではドアは開かない。
奈乃は階段を見下ろした。まだ椎名の姿はまったく見えないが、声だけは聞こえてくる。
「ハア、ハア――。待ってろよ! ハア、ハア――。ちくしょう! ハア、ハア――」
奈乃は鉄製のドアに背中をつけたまま、その場に坐りこんだ。
なにも武器になるものなんか持ってないし、あんな男と素手で戦うなんてとても勝ち目がない。私もあの女みたいに、ニヤニヤ笑うあの男に首を絞められて・・・・。
奈乃は首をふった。そんなこととても考えられなかった。
ふとみると、目の前にドアの錠が見えた。それを回してみる。するとなんの抵抗もなくすぐに回った。
ドアのノブを回してみる。
――開いた!
奈乃はあわてて外にでた。
すると、やはりそこはこのマンションの屋上だった。見渡したところ、他にドアもない。周囲を胸の高さまである鉄製のフェンスに取り囲まれているだけだ。
どうしよう! どうしよう! どうしよう!
奈乃は必死に考えてみた。でも、なにも思い浮かばなかった。
こんなことならあのまま電車に乗って帰っていればよかったのだ。
そうすると、いま頃はいつもの食卓に坐って、温かいスープを――できるなら大好きなトマトと野菜のスープを、飲んでいるところなんじゃないか、と思う。
でも、いまはそんなことを考えている場合じゃない。
それこそ温かいスープが一生飲めなくなるではないか!
また温かいスープが飲みたいのなら考えるのよ!
奈乃っ!
ガーンッ! と手荒くドアを開けて椎名が現れた。
屋上の真ん中あたりに立つ奈乃を見つけると、椎名はまた嬉しそうに笑った。
「ハア、ハア――。ここで――、ハア、ハア――。パーティーか? ハア、ハア――。手間取らせやがってー――、ハア、ハア――」
椎名はしばらくドアの脇の壁にもたれて息を整えていた。
「ハア、ハア――。ちょっと――、ハア、ハア――。待ってろよ。ハア、ハア――。いま――、ハア、ハア――。行くからな――。ハア、ハア――」
奈乃はフェンスに駆け寄って下を見下ろしてみた。
車の往来は激しいが、まだパトカーはどこにも見えない。夜の街に目を向けてもそれは同じだった。回転する赤色灯はどこにも見えない。
椎名が奈乃を見たまま、壁に手をつきながらゆっくりと歩きだした。
鋼鉄製の靴を履いているみたいに、とても脚が重そうに見えた。一歩、二歩と、椎名は脚の具合を確認するように歩く。力が入らないのか、脚が左右にがくがくと揺れていた。
そんな状態だから、目の前の二段しかない階段を降りる決心もなかなかつかないようだった。
脇腹からの出血がひどい。あの女が刺したナイフはまだ刺さったままだった。
「ハア、ハア――、いま――、ハア、ハア――」
椎名が奈乃を見たまま、階段を一段降りた。
「行くから――、ハア、ハア――、待ってろよ――、ハア、ハア、ハア、ハア――」
椎名がもう一段階段を降りたところで膝をついた。
そして、ついに耐え切れなくなってその場に座り込む。顔をしかめて、腰を押えながら奈乃を見る。
「ハア、ハア、ハア、ハア――。ちくしょう! ハア、ハア――、こんな時に――、ハア、ハア――、なんで――、ハア、ハア――、思うように――、ハア、ハア――、動かないんだ――、ハア、ハア――、ちくしょうっ! ハア、ハア――」
そしてついに本格的にその場に坐りこみ、正座をするような格好で、そのまま肩で大きく息をしている。
「ハア、ハア、ハア――、・・・・・・ハア、・・・・・・ハア、・・・・・・ハア――」
もう椎名はなにも言わない。
呼吸をするのが精一杯みたいで、奈乃を見てはいるが、苦しそうに顔をゆがめているだけだった。
しだいに、その荒い呼吸の間隔が開いてきた。
三秒に一回、五秒に一回、十秒に一回、と呼吸の間隔が開いていく。そして最後に大きく息を吸ったかと思うと、それからもう呼吸をしなくなった。
パトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえる。
こうして屋上で聞いていると、街中で鳴っているように聞こえてきて、どの方向から向かってくるのかわからなかった。
椎名はもう動かない。股を開きぎみの正座で、うな垂れた首がすこし右側に傾いている。
私を欺こうとして息を止めているにしては永すぎる。だが、当然ながら、奈乃は椎名に近づこうとはせず、椎名から目を離さないように注意しながら、出口のドアへと向かった。
そのとき、椎名の口からなにかが落ちてきた。
それは屋上のコンクリートに当たって少し跳ねてから奈乃の足元の方へ転がってきた。
透明なガラス玉のようだ。サイズはビー玉ぐらいで、それが闇袋だとすると、これまで見たこともない種類のものだった。
うな垂れている椎名と見比べてみる。
椎名に動きはない。
これは彼の闇袋なのだろうか・・・・。
奈乃はしゃがみこんで、その闇袋をじっくりと見てみた。
――きれいだ。透明度がとても高い。
見ようによっては、深海で採れた不純物がまったくない氷のかたまりのように見える。
奈乃はもう一度椎名を見た。
彼とは三メートルぐらいの距離だ。
しばらく迷い、結局奈乃は、その椎名の最後の闇袋を手にとってみた。
不思議な事に、椎名の闇袋を持ってみても、なんら反応がなかった。いきなり奈乃の中で椎名の記憶がはじまることもなく、ほんとうにただのガラス玉のようだった。
冷たいし、ツルツルしているし、そう簡単に潰れそうにもない。
――本当に闇袋なのかな? と奈乃は夜空に透かしてみた。
いままでいろんな闇袋を見てきたが、こんなものはじめてだ。これが闇袋だとしたら、あの冷酷な椎名から出てきたとはとても思えないぐらいきれいなものだった。
両手でそっと包み込んでみる。
そのまましばらくじっとしていると、少しずつ、氷が解けていくような感覚があった。
奈乃は目を閉じてじっとしている。
誰かがその光景を見ていたならば、遠くでかすかに聞こえる潮騒に、じっと耳を澄ましているように見えるだろう。
そんな表情をしていた。
それからしばらくすると、椎名の闇袋がはじまった――。
●
「タッくん、ほら、ちゃんと食べないと――」
女の人が、椎名の頬からとったご飯つぶを自分の口にいれながら笑っていた。
椎名の母親か? おそらくそうだろう。とてもきれいな人だった。
すると、すぐに場面が切り替わった。
「泣いてちゃわかんないでしょ? ほら、ちゃんと説明して。男の子でしょ?」とハンカチで椎名の涙をぬぐう母親。
また切り替わる。
「はい、タッくん、落ち着いて。はい、ゆっくり、ゆっくり――」
椎名が乗っている自転車のハンドルをつかんで、ゆっくりと誘導していく母親――。
そこでまた切り替わる――。
奈乃はそこで目を開き、ゆっくりと手を開いてみた。
見たところ椎名の闇袋はなにも変わっていないように見えた。
彼女は椎名に近づいていって、力なく丸まった彼の手の中にその玉をそっと入れてあげた。
椎名はじっとしている。
少しも動かない。
奈乃はそのまま階段を降りていった。
五階のエレベータ前には、野次馬が七人ぐらい集まっていた。どこから出てきたのかわからなかったが、このマンションにもちゃんと住人はいたのだ。
椎名の部屋の廊下側には、もう立ち入り禁止の黄色いテープが貼られていた。
遠くの方でまたパトカーのサイレンが聞こえている。
奈乃はマンションの外に出てから携帯を取りだして、もう一度母親に連絡をいれた。
5
マスター木崎もセラノ芳野も、殺されたわけではなかった。
どうもあの青シャツの男は、床に流れでたセラノ芳野の血を、自分のTシャツに塗りたくっただけのようだった。
そういった残酷な演出を楽しんでいたのだろう。
マスター木崎は腹部強打、セラノ芳野は顔面陥没という重傷を負ってはいたが、二日後には『マーシャの光』も営業を再開していた。
セラノ芳野が復帰したのは一ヵ月後だった。
「また、いつでも来てよ」
マスター木崎が明るく言った。
「ほんとよ。わたしもね、ずっとね、ずっと待ってるからね」とセラノ芳野。
顔面がすこし歪んでいるせいで、ちょっとしゃべりにくそうだった。
「まあ、占いはいくつになってもできるから――」と八十は優に越えてそうだが、年齢不詳のミカドさまが言った。今日は出勤日のようだ。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
奈乃はていねいに頭を下げた。
「また遊びにきます」
「ああ、待ってるよ」とマスター木崎。
「いつでもね」とセラノ芳野。
「私の出勤日にね」とミカドさま。
そうして入口のドアを閉めた。
もう十二月も半ば過ぎになっていた。街はクリスマスシーズン真っ盛りだ。
奈乃は渋谷駅に向かって歩きながら、あの女のこと、椎名のこと、そして月夜のヒカリのことを考えていた。
あれからもう二ヶ月も経ってしまっている。
私の気まぐれな〝さぐり〟のせいで失われた命――。だからあれ以来〝さぐり〟は一度もしていない。いまだけではなく、もう一生〝さぐり〟なんてやらない、と彼女は心に決めていた。
もちろんスクランブル交差点に椎名の姿はない。いつもと変わらない喧騒に満ちた場所だ。
奈乃はネイビー色したピーコートのポケットに手をつっ込んだまま、その交差点を渡っていった。
〈 了 〉