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【長編小説】切子の森 第2章

 第2章

  1

 僕が十七歳になったその夏も、やはり〈人形の森〉の芝生広場には人影がなかった。まるい広場に沿って並べられた六脚のベンチにも、誰も坐っていなかった。
 七月はじめの梅雨のあい間のとてもよく晴れた日で、僕は八年前に切子がいたベンチに坐って彼女を待っていた。まだ昨日の雨が乾ききっていない芝生が、朝日に照らされた海面みたいにキラキラと輝いていた。
 相変わらず彼女がこのベンチに坐って、黙々とケヤキを見上げている行為を継続していることは知っていた。毎日かどうかまではわからなかったけれど、僕は何日でもここで彼女を待つ覚悟だった。機は熟したのだ。
 ふしぎにも、芝生広場の中心にある大きなケヤキには、七月だというのに葉が一枚もついていなかった。大空いっぱいに広がった枝はそのままだったので、マントを盗まれた死神みたいに、かつての威厳までもがすっかり抜け落ちてしまったような感じだった。
 目を閉じてみると、切子がこの場所に求めているものがわかるような気がした。
 街の中心にあっても、ここだけポッカリと穴が空いてしまっているような静寂、子どもの柔らかい手で肌をなでられているように感じる心地よい木洩れ日の温もり、森のさまざまな匂いを含んでいる涼風、そして大海原に浮かんでいるようなどこよりもゆったりとした時の流れ――。

 どれほど時間が経ったのかわからなかったけれど、しばらくして誰かがベンチに近づいてくるのがわかった。その気配は僕の目の前で止まり――日影になった手が、消毒液を塗ったみたいにひんやりとした――、それからしばらく動かなくなった。
 深呼吸すると咳きこんでしまいそうな強い芝生の匂いと、公園のまわりを走る自動車のエンジン音のこもった音以外、なにも感じなくなった。風すらもそのときは止んでいて、まわりの木々も息を殺してこの光景をじっと見守っているような気がした。
 僕は気配に気づかれないように、頭をたれた姿勢のまましばらく待った。そして慎重に、ゆっくりと時間をかけてうす目をあけてみた。
 うつむき加減だったために、顔を動かさずに目だけで気配をみるのは骨の折れることだったけれど、それでもピカピカに磨きこまれた黒いスクールシューズと、きちんと二つに折られた真っ白のソックスだけは見えた。
 情報としては充分だ。
 それだけでわかるぐらい、そのスクールシューズは特徴のある形をしていた。
 先がとんがっていて全体がカヌーみたいに細く、かかとは芝生に埋もれてしまうぐらい低い。ほとんどの高校では校則違反になるような形だったけれど、その形にはそれぞれもっともらしい解釈がつけられていた。

 とんがった先は、〈俗世からの拒絶〉。
 カヌーみたいに細いのは、〈ぜい肉は悪〉。
 かかとが低いのは、〈母なる大地へのいつくしみ〉。

 『聖マリー女学園』。
 切子が選んだミッション系の女子高だ。
 このあたりでは校則が厳しいことが有名で、制服の乱れを二度注意されるとすぐに二週間の停学処分にされる、そんなつまらない丶丶丶丶丶学校なのに、親の評判はとてもよかった。そこの生徒じゃない親の評判も上々だった。
 他校の女子生徒からは〈クツ下の折り方まで規制する無菌の培養学校〉としてバカにされていたけれど、男子生徒にはよくモテた。だからいい、という男子も多くて、大抵の男子生徒は、〈クツ下の折り方まで指導する無垢な女性の養成学校〉と解釈していた。

 聖マリー女学園では、ヒザもヒジもひと目にさらすものではないとされていたので、フレアースカートは坐ってもヒザが隠れるぐらい長く、真夏でもシャツは長そでに決められていた。
 フレアースカートは春の空を切りとったような鮮やかな空色で、その色には〈貞淑ていしゅく〉という意味があり、マリーブルーという名前までついていた。もちろん、その色も他校の女子生徒からは、あまりにも明るい空色だったために〈軽薄〉と呼ばれて軽蔑される対象となり、男子生徒はその色を見ただけで闘牛みたいに挑んでしまいたくなる目標となっていた。

「変なマネしないでください」とつぜん切子が言った。やわらかい声だったけれど、言い方がエンピツ削りにつっ込んだみたいにとんがっていた。
「どういうつもりなんですか?」
 彼女はベンチの右端に坐った。ギギっとベンチが軋んだ。
 ペンキが剥がれて腐った部分だ、と僕は思った。
 見ると、彼女はつんと胸を張って堂々と坐っていた。とてもペンキが剥がれて腐った部分に坐っているようには見えなかった。
「アナタが望んでることはわかってます」
 切子はコンクリートみたいに冷たい目で僕を見ていた。はじめてみる顔の種類だったし、彼女が僕に向かって怒るのもはじめて見た。でも、切子の部屋で、ジャスミンの鉢を見て絶句していた母さんを睨んでいた時よりはまだマシだった。
「いろいろと嗅ぎまわってるんですってね」
「だれに聞いたの?」
「だれに、なんて問題じゃないです!」ピシャリ、と切子が言った。それまでにないキツイ言い方で、まるで僕の姉さんになったみたいだった。
「なにを知りたいのか、そっちの方がずっと問題です。いまさら私の父さんのこと調べてどうするんですか?」
「キミの父さんのことだけを調べてるんじゃない」僕は切子を見ながら慎重に言った。「キミのことも調べてるんだ」
「私のことを? どうしてですか?」
「謎だから」
 切子は自分を落ち着かせるように、大きく深呼吸をした。
「私だってアナタのことは謎です。ほとんどなんにも知らないです。だからって、アナタのことを探ったりしないじゃないですか」
「婆ちゃんだね、キミに話したの」
「そんなことどうでもいいんですって!」彼女は本気でイラ立っているみたいだった。
「どうして、そうやって私のことを知りたがるんですか? 世の中ふしぎなことっていっぱいあるじゃないですか。いちいち知りたがってたらキリがないです。そう思わないのですか?」
「そう思う」僕はすぐに同意した。「でも、知りたいんだ」
「勝手です!」とまたピシャリ。「いまさらなにが知りたいんですか? 母さんにまで訊いたりして。正気ですか? お父さんにも訊いたんですか?」
「訊いた」
 切子はイラ立たしげに身体を動かして、ベンチに坐った位置を調節した。それにあわせてベンチもギッギッと鳴った。
 彼女は聖マリー女学園に入学した頃から、手ぶくろをはめるようになっていた。よくタクシーの運転手がはめてるような薄い布製の白い手ぶくろで、彼女はそれを下着みたいに何枚も持っていて、いつ見てもおろしたてみたいに清潔にしていた。
 理由はいつものようにだれにも話さなかったけれど、いまは制服が汚れないようにその白い手ぶくろをはめた手をおしりの下に敷いていた。
「お願いですから、そっとしといてください」
 切子はケヤキを見上げたまま、小さな子供に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「もう、ここには、来ないでください。お願いですから――」
 切子がそういうと、まわりの森が拍手するようにザアーっと騒ぎだした。まるで彼女が逆転満塁ホームランを打ったみたいに、森全体が歓声をあげているようだった。
 それから彼女はずっとケヤキを見上げていた。葉がすっかり抜け落ちてしまった裸のケヤキだ。それをじっと見上げているだけで、もう僕を見ようともしなかった。いくら大きな目でも、僕のことはまったく目に入らないみたいだった。
「ひとつだけ訊いていいかな」僕はひかえ目に切りだしてみた。
 切子はなにも応えなかった。じっとケヤキを見上げたままだった。
 八年間この日を待ちつづけ、ようやくほんの少しだけ開けたと思っていた謎のドアが、じつはまったく開いていなかったことを僕は思い知った。



 

 それから一週間ほど経ったある日、僕の部屋のドアの下から、半分に折られた白い紙がスッと差しこまれてきた。そのときはじめてスリッパが床をする小さな足音が聞こえて、切子の部屋のドアが遠慮がちにカチンと閉まる音が聞こえた。
 紙には『明日の四時、〈人形の森〉で待ってます』と書いてあった。極細の黒いペンで、まん中にきっちりと書かれていた。

 翌日、約束の時間よりも三十分も前に〈人形の森〉に行ってみると、すでに切子はいつものベンチに坐って待っていた。
 その日も〈人形の森〉には誰もいなかった。風もない日だったので、まるで誰もいないコンサート会場みたいにしらじらとしていた。
 彼女がベンチのまん中に坐っていたので、今度は僕が右端のペンキが剥がれて腐った部分に坐った。
「どういう風の吹きまわしって訊きたいんでしょ」
 僕はすぐに吹いた。
「なんだよ、それ――」
「なに?」
「なにって、〝どういう風の吹きまわし〟って、はじめてナマ丶丶で聞いたよ。なんだよ、吹きまわし丶丶丶丶丶って――。最近のドラマでも聞いたことない」と僕が笑うと、切子も笑いながら「それは、ゴメン」とすぐに謝ってきた。
 そのセリフを聞くのは初めてだった。いつもは僕に向かっても〈すみません〉だったり、〈ごめんなさい〉だった。
「人と話すのって、あんまり慣れてないから――」
 切子はそう言って僕に目を向けた。
「もちろん、アナタともね。――わかってるでしょ?」
「知ってる」僕ははっきりと肯いた。
 それは事実だったと思う。小学校、中学校を通して彼女がだれかと楽しそうに話しこんでいるのを見たことがなかったし、高校生になってからも、友だちとどこかへ遊びに行くなんて聞いたことがなかった。あい変わらずいつも本を読んでいるか、勉強していた。
 でも人気はあった。中学一年生の後半から彼女は上級生からも遠巻きに観察されるほど、美しい存在になっていた。僕から見て切子よりきれいだと思える女の子も何人かいたけれど、彼女みたいに勉強ができて、それにほほ笑むこともできる女の子丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶は少なかった。ほとんどの子はどれかが欠落していた。二つとも欠落している子ももちろんいた。
 唯一体育だけは、切子が苦手とする科目だった。どんな種目でも、あまりうまくなかった。でもスポーツができない女の子は減点の対象にならないみたいで、かえってその方が女の子らしくていい、という男子が多かったぐらいだ。
 一度、中学二年の春に、バスケット部のキャプテンで、勉強もできる人気者の上級生と噂になったことがあった。切子は何をいわれても、あのほほ笑みを顔に浮かべたまま肯定も否定もしなかったけれど、その噂が偽りだったのを僕は知っていた。噂の最中にその上級生から電話がかかってきた時にこっそりと聞いていたのだ。
 電話を切子にとりついだ母さんはウキウキしていた。それを受けとった切子ははじめから浮かない顔をしていた。話はじめるともっと沈鬱な表情になった。けっして学校では見せない顔だ。
 切子は受話器にむかって「いえ・・・・、ごめんなさい・・・・」としか応えなかった。それ以外は沈黙をとおしていた。
 相手が受話器を置いてどこかへ行ってしまったような長い沈黙がしばらくつづいた。それを見た母さんも切子みたいに表情を固くして、なにもいわずに台所へ戻っていった。
 それから半月もしないうちに上級生はべつの女の子と噂になった。今度は本当みたいだった。

「どうして誰ともまともに話をしようとしないのか、それも不思議だったんだ」
 僕は切子を見ながら言った。
「それも含めて、これから話すね。もう、ぜんぶ話す。なにもかもスッキリとね。どうして話す気になったかは後にして、まずなにか私に訊きたいことってない?」
「そりゃいっぱいあるけど・・・・」と応えながら僕は考えていた。謎がいっぱいあるのはわかっていたけれど、どれから切り出せばいいのかを迷っていた。
「いまはあまり私に関係ない質問の方がいいんだけど・・・・」と切子はケヤキに目を向けながら言った。
 いまは、切子がいきなりタメ口になっているのが一番の謎だったけれど、それを指摘すると元の切子に戻ってしまうのも嫌だったので、僕は少し考えてから、目の前のケヤキのことを訊いてみた。ふしぎに思っていることでもあり、無難な疑問だとも思った。
 どうして夏になっても一枚も葉がついていないのか、と僕は訊いてみた。
「それはね、彼は丶丶もう死んじゃったの」切子はケヤキを見上げながらとても残念そうに言った。
「昔はちゃんとみごとな葉もつけてたんだけど、アナタも見たでしょ? 私たちが兄妹になって、まだそう日が経ってないときに――」
 僕がケヤキを見上げたままなにも応えないでいると、切子はおかしそうに笑いながら再びケヤキを見上げた。まだ慣れてない笑い方だった。
「異変に気づいたのは五年前で、毎年その頃になると、ちっちゃな薄緑色の芽がプツプツって出てくるんだけど、その年もはじめはちゃんとでてきたんだ。でも、日が経つうちにそれが大きくもならずにそのまま茶色くなっていって、最初は気のせいかなって思ったんだけど、夏が近づくにつれてそれがそうじゃないっていうことがわかってきたの。その年にちゃんと葉になったのは三分の二ぐらいで、それが次の年になるともっとなくなってしまって――。まるで少しずつ首にかけたロープを絞めていくような、そんな感じ。そうやって本当にしずかに死んでしまったの」
 彼女にそういわれると、ケヤキはいかにも苦しそうで、骨ばった腕を空にむけてみずからの死を{嘆}(なげ)いているように見えた。
「詳しいことはわからないけど、だれもそれを疑問に思わないし、私以外興味をもつ人もいないのよねー」
「それじゃ、死にたくもなるね」
「私もそう思う」切子は口元だけを動かして笑った。慈愛をこめた笑顔で、今度は自然だった。
 〈人形の森〉の入口の方角から、細い飛行機雲がすうっと伸びてきて、そのまま鋭利な刃物で空を傷つけていくように進んでいく。ときおり雲の先端がウインクするようにキラキラと光り、その先端に置き去りにされたうしろの雲は、しばらくうじうじ悩んだ末に、釈然としないままぼんやりと空ににじんでいった。
「私はね、よくここで父さんに遊んでもらってたの。――アナタが知りたがってた、私の父さんのことよ」
 僕は切子を見て、黙って肯いた。
「いま思うと、記憶にあるのはほんの三年間ぐらいのことなんだけど、私はその三年間の記憶で、この十年間もちこたえてきたような気がするの。――嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とか、そんな時に、このベンチに坐って、あのケヤキを見上げているだけで落ち着いてくるの。こういうのっておかしいかな?」
 僕はケヤキを見上げながら、ゆっくりと首をふった。そして切子になにかうまい言葉を返そうと思ったけれど、なにも思いつかなかった。
『そんなことないよ』じゃ当たり前すぎてバカみたいだし、『ぜんぜんおかしくない!』って言えるほど、彼女のことを理解しているわけでもないのだ。
 それよりも、嫌なことがあった時とか、どうしようもないぐらい落ち込んだ時とかに彼女がこの場所へきて、心を落ち着かせようとしていたということが頭から離れなかった。
 確かに家では、ひどく落ち込んだ彼女の姿なんて一度も見たことがなかったのだ。
 一緒に遊んでくれた父親との思い出がつまったこの場所で、火照った身体をクールダウンさせていくように、彼女はこのベンチに坐って、じっとケヤキを見上げつづけてきたんだなと思った。
 僕は切子を見て、もう一度首をふった。
「なに?」
「いや・・・・。ちっとも変じゃない」と、結局僕が普通のことばを返しても、切子は「アリガト」とこれまで見たことがないぐらいチャーミングな笑顔でニッコリと笑った。
「じゃ、他にどう?」と切子が言った。「なんでもいいから、他に訊きたいことってない?」
 彼女はなんだかちょっと焦っていた。
「なんでも訊いて。私はアナタを選んだんだから」
「選んだ?」僕は驚いて切子を見た。「僕を?」
「そうよ。アナタに決めたの」切子は明るく言った。いつもとは違う種類の明るさで、電圧を無理に上げているみたいだった。
「だから、今日アナタをここへ誘ったの」
「そう。――でも、どうして急に?」
「急なの。わけあって急いでるの。いまは言えないけど、すぐにわかるわ。なにもかも、この夏ですべてを終わりにしようと思ってるの」
「終わりに?」
「それもじきにわかるわ。でも、いまはなにも聞かないで。簡単に話せることじゃないし、簡単に聞いてほしくもないの。すべてはちゃんと段取りをつけてからね」
 なんのことかさっぱりわからなかったけれど、僕は肯いた。
「じゃ、はじめの儀式よ」
 切子はそういって僕の口にキスをした。おやすみのキスみたいに簡単なものだったけれど、僕はそれだけでも本当にビックリした。
「兄妹といっても血が繋がっているわけじゃないんだし――」切子はサラリと言ってのけた。
「でなきゃ、先に進まないもの。予定としてはちょっと早かったんだけど、ウジウジ立ち止まってる場合じゃないわ。あなたにとっては急かもしれないけど、私はずっと考えてたの」
「ずっと?」僕はベンチに坐り直して切子を見た。「ずっと・・・・」
「かん違いしないで――」切子は笑いながらあわてて手をふって否定した。
「ずっと、あなたのことを考えてたわけじゃないのよ。いまはうまく言えないけど、あまり深く考えないで。いい? わかった?」
「わかった」
「少なくとも、この〈人形の森〉の中では、わたしたちは恋人同士丶丶丶丶になる必要があるの。わかってもらえるかなぁ・・・・」
 僕はあいまいに肯いた。
 じっさいそれからも、家に帰ると切子はいままでのように〈すみません〉や〈ごめんなさい〉の彼女に戻り、優秀で控えめな妹を演じきっていた。不思議にそれは〈人形の森〉を出た瞬間からそうだった。
 僕としては八年前に彼女を妹として受け入れるよりも困難なことだったけれど、そのようにして僕と切子の謎に満ちた夏がはじまった。



 

 翌日は雨だった。
 傘を差さなくてもわからないぐらい細かい雨だったけれど、三分もすると身体のしん丶丶までグッショリ濡れてしまいそうな雨だった。
 その日も切子は先にきて僕を待っていた。
「遅かったのね」
 切子は僕を見上げてニッコリと笑った。聖マリー女学園で決められているマリーブルー色したビニール傘を差しているせいで、海の底にいるみたいに青い顔をしていた。
 彼女は制服が雨に濡れないように、黒いビニール袋を腰から下にぴったり巻きつけていた。安物の皮のタイトスカートをはいているように見えなくもなかったけれど、広場のケヤキにも同じビニール袋が巻かれていて、そちらの方は痩せ細った身体にオムツをつけただけの認知症の老人のように見えた。
「格好はちっとも問題じゃないわ」決然と切子は言った。僕は何もいわなかったけれど、彼女もケヤキをみてあまり格好良くないと感じていたらしい。
「問題は誠意よ。まごころよ。――違う?」
「そうすれば彼も自殺しなかった」
「そう。そうすれば彼も自殺しなかった。まさしくその通りよ!」
 切子は満足そうに肯き、アナタの分も・・・・、と言いながら学生鞄から同じビニール袋を取りだしてニッコリと笑った。僕はそれを腰にピッタリ巻きつけてから切子の横に坐った。

 それからしばらくの間、切子も僕も黙ってケヤキを見上げていた。彼女は傘を肩でささえ、濡れた両手を口元にもっていって擦りあわせながら寒そうに息を吹きかけていた。脚も小きざみにバタバタさせていた。それにあわせてビニール袋もシャリシャリ鳴った。
「今日は手ぶくろをはめてないんだね」
 切子は脚の動きを止めずにコクリと肯いた。
「雨だから?」
「雨は関係ないわ」
「じゃ、そういう気分なんだ」
「待って」と、手に息を吹きかける格好のまま僕を見た。
「まだそのことはうまく話せないの」
「まだ早いってこと?」
 そうじゃない、と言ってちょっとイラ立たしげに首をふった。その動きに合わせて傘の上に溜まっていた雨のしずくが、彼女の腰に巻いたビニール袋の上にパラパラと音をたてて落ちた。それまで少しも雨音がしていなかっただけに、ひとにぎりのパチンコ玉を床にばらまいたような、とても大きな音に聞こえた。
「手ぶくろの事だけを切り離して話せないってことなの。カエルの生殖器を理解するためには、まずその生態を知る必要があるようにね」
 僕は切子が言ったことを頭の中でゆっくりと復唱してみた。
 カエルの、生殖器のメカニズムを理解するためには、まず、その生態を知る、必要がある、と――。
「確かに――」と僕は言った。「カエルの生殖器がナゼないのかは、まずその生態を知らないと理解できない」
「そういうこと」と切子は傘を左肩に移してから、僕を見てニッコリとほほ笑んだ。
「そのためには順を追って話せばいいんだけど、私自身まだうまく整理できてないから、他に、私にあまり関係ないことで、訊きたいことってない?」
 僕はすこし考えてから『マリー女学園』について識りたいと言うと、切子はすこし驚いたようだった。
「それも謎なの?」
「ほとんどの男子生徒の謎だと思う」
「それなら簡単ね。――じゃ、アナタを含めた多くの男子生徒の謎である、聖マリー女学園の謎から答えるね」と切子はちょっと楽しそうに笑った。
 彼女の一方的な恋人宣言から二日目にして、いままでのぎこちなさ丶丶丶丶丶がなくなっていた。それがいつからだったのか、いま降りつづけている細かい雨のように、僕にはうまく思い出せなくなっていた。

 ◇

 聖マリー女学園は、創立者である故マザー・マリーの遺志をついでいまだに一学年三クラスしかなく、その少ない学生の質を保つために入学試験は一切なくて、中学校からの推薦状と教師の面接によって生徒を厳選していた。その選ばれた生徒を、マザー・マリーが女性の理想像としていた〈清心・慈愛・高潔〉をより高めること、それを教育の大きな目的としていた。
 その目的が多くの親の願い丶丶丶丶に叶っていたために、かわいいわが娘の入学を希望する親は絶えなかったが、ほとんどの女子生徒が聖マリー女学園に対して嫌悪に似た反感を抱いていたのも事実だった。
「マリー女学園は、親の幻想によって成り立っている学校なのよ」と切子。
「あるいは社会の幻想、だね」
「そう」
「でも、みずからマリー女学園を志願する変り者もいるんだよね」と切子を見た。彼女はみずから志願したくち丶丶だった。
「なかにはね」切子は僕を見てクスリと笑った。「反感を抱かない子だっているよ。悪い学校じゃないんだもん」
「たしかに悪い学校じゃない。でも、正しい教育とも思えない」
「外から見ると、そうかな。――私がマリー女学園を希望したのは、この人形の森に近いっていうのもひとつの目的だったんだけど、いまでもあの学校を選んだことは間違ってなかったと思ってるわ」
「いまだに反感を抱いてないんだ」
「少しはあるよ。たとえば――、そう、この靴なんかそうね」切子は靴のかかとで雨に濡れた芝生をとんとんと叩いた。
「慣れるまでけっこう痛いの。ちょっと細すぎるのね。でも、こんな問題ってどこの学校でもあるんじゃない?」
 確かに、と僕は肯いた。どこの学校にしたって、窮屈で慣れるまで少し痛いことには変わりない。

 聖マリー女学園は、大正時代に建てられた洋館をそのまま使用していた。かつて役所だった建物で、明治時代の洋館よりも装飾が控えめでスッキリとしていた。
 校舎は、漆喰の壁と、黒い窓枠が均等に並んでいるシンプルな二階建ての木造建築だったけれど、屋根の瓦は鮮やかなマリーブルー色だった。
 校舎の左側には体育館を兼ねた講堂が建ち、右側には八角形の礼拝堂があった。どれも同じマリーブルー色した瓦だった。
 マリー女学園では、他校のように文化祭とかバザーといったものがまったく開かれなかったので、建物内部の様子まではまったくの謎だった。
「このあたりの学校で、最初にバザーを開いたのは、マリー女学園なのよ」と切子はすぐに弁明した。
「でも、最初にバザーをやめたのもマリー女学園だよね」
「そういうことにもなるわね。バザーと教育の相関関係がうまく見いだせなくなったからって聞いたわ」
「バザーをするにも教育との関連性が必要なんだ」僕は腰に巻いたビニール袋を直しながら訊いた。どこからか雨が沁みこんできていた。
「そうじゃなくて、バザーをすることでかえって教育に悪影響を及ぼすと判断したらしいの。単なるお祭りじゃないんだからって」
 僕は肩をすくめてため息をついた。それを見て切子がおかしそうに笑った。
「怒ってる」
「そんなことない」
「ほら、怒ってる」
 僕はもう一度、肩をすくめてため息をついて見せた。切子がまた笑った。

 聖マリー女学園が、規則を守らせることに病的なまでに厳しかったのは事実だ。
 教師なら誰でも、マリーブルーに塗られた細い竹製の棒(教師は『規律棒』と称していたが、生徒は単に『仕置き棒』と呼んで嫌悪していた)をもち歩き、授業が始まっているのに廊下でおしゃべりにこうじていたり、廊下を小走りしている生徒をみかけると、呼び止めて少し前かがみの姿勢を取らせてから容赦なくおしりをぶった。その場合は、軽罰丶丶としてその場で許されたが、その他の違反、たとえば髪を染めたりとか、スカートの丈が規則よりも短いとか、靴下が二つに折ってないという重罪(と学園側は判断した)が二度つづくと本当に停学になり、それ以上に罪を重ねるとあっさりと退学になった。
「『きのう新井さんは粛清されました』って、淡々とみんなに報告するの。わたしと同学年の子も、これまでにもう三人も粛清されたんだ。たしかに異常といえば異常よね。教師は女性ばかりだし、みんな修道女の格好して、音もさせずに歩いてるの」
 そのあたりから聖マリー女学園というものが、僕にはうまく想像できなくなっていた。
「でね、毎朝朝礼が講堂で開かれるんだけど、そこで学園長の説教が十五分ぐらいあって、それが{抑揚}(よくよう)もなく、淡々としゃべるもんだから――、わかるでしょ?」
「眠くなる」
「そう。でも、そこでウトウトしようものならピシッ(と切子は僕の胸を水平に叩いた)」
「え! 胸をぶたれるの?」
「まさか。お尻よ。整然と並んでいる生徒の間を、ゆっくり歩いてまわっている先生がいて、その先生に仕置棒で肩をトントンと叩かれると、横を向いてお尻を突き出さなきゃいけないの。それで、ピシッと。あとで椅子に坐るのも苦労するぐらい{腫}(は)れるの。それでね、いつも朝礼の終りには讃美歌を唄うんだけど、それを唄っているときにもピシッ、ピシッて聞こえるの。それぐらい強くぶつの。ヒドいでしょ」
「たしかにヒドい」僕はなんども深く肯いた。「それでも、学校に対する反感にはならないんだ」
「そうね。仕置き棒は嫌いだけど、その朝礼の雰囲気は好きよ。なんだか朝から厳粛な気分にさせられるもの。それに朝礼が終わると、窓が両側に等間隔に並んでるながい廊下をみんな整列したまま歩いて教室にもどるの。窓から朝日が射してる日はもっと気持ちいいわ。そこをみんな話しもせずに、木の廊下なんだけど、なるべく音もさせないように、しずかに、おごそかな気分で帰るの。途中にラファエロの『大公の聖母』とか、ティツィアーノの『聖母被昇天』なんかが掛けてあって、悪いもんじゃないわね」
 僕はそういったことが毎朝くり返される〈学校〉というものを想像してみた。
 でも、うまくいかなかった。僕が通っている男子校でそういったことがあれば、たった一日でマルティン・ルターが誕生しているに違いない。
「どう? 少しはわかった?」
 僕があいまいに首を傾げるのを見て、切子は声をだして笑った。
「たぶん、じっさいに体験しても理解できないでしょうけど、とにかくマリー女学園はそんな学校なの」
 そう言われてもあいまいに肯くだけの僕をみて、切子はまたおかしそうに笑った。その日だけでもこれまでの一年分ぐらいの笑顔を見たような気がした。
「ちょっと寒くない?」と、ほんとうに小さく震えながら切子が言った。
 彼女の手に触れると、磁器みたいにしん丶丶まで冷えこんでいた。
「人形の館へ行こうか」と切子が言った。
「人形の館?」
「行ったことある?」
「ない。一度もない」
「一度も?」と切子は目をむいて驚いていた。
「え? キミはあるの?」
「もちろん。なんども行ってるけど」
 僕は驚いていた。昔から恐怖の対象でしかなかった〈人形の館〉へ、それも何度も行ってるなんてとても信じられなかった。
「そんなに人形が好きなんだ」
「人形が好きってわけじゃないんだけど・・・・。じゃ、いい機会かも」と言いながら切子が立ち上がった。ちょっと嬉しそうだった。それが、これから〈人形の館〉へ行けるのが嬉しいのか、一度も行ったことがない僕を案内するのが嬉しいのかはわからなかった。
「いい機会って・・・・」と僕は渋っていた。もう高校生にはなっていたけれど、気持ちは小学生のままだった。
「大丈夫だって」と切子が笑った。
「・・・・ぜんぜん気が進まない」と僕は正直に言った。
 切子はそれには応えずに濡れたビニール袋をきれいに折りたたみながら、意味ありげにほほ笑んだだけだった。それを見て余計に行きたくなかったけれど、拒否できるような雰囲気でもなかった。切子は嫌がる子供にするように僕の脇に手を入れて立たせ、ビニール袋を外してきれいに折りたたみ、自分の分と一緒に袋に入れてからカバンの中に入れた。そして手を差しだす。
 僕は黙ってその手をつかむしかなかった。



 

 〈人形の館〉はレンガ造りの古い洋館で、建物の中央にはクルマが二台停められるぐらい大きなひさしがついた玄関があり、その玄関をはさんで、二階の屋根まで届きそうなシュロの木が左右に三本ずつ、建物の前に植えられていた。
 玄関のひさしには、昼間なのに満月のような丸い電灯がぼんやりとついていて、そこから階段を三段上がったところに、観音開きの大きな木製のドアがあった。いまはきっちりと閉じられていたけれど、右側の扉に掛かっていた白いプラスチックプレートに青いペンキで〈開館〉と書かれていて、その下に開館時間〈午前十時から午後五時まで〉、入場料金〈大人 二百円、学生 百円、中学生以下 無料〉と黒いペンキで控えめに書かれていた。
「近くに来てもやっぱり陰気なところだね」僕は傘をたたみながら切子を見た。「においまで陰気だよ」
 切子は傘についた雨のしずくをはらい落としながら、犬みたいにクンクンとにおいをかいだ。
「そう? だったら、建物の中はもっと陰気が充満してるわ」
「キミはそう思わないんだ」
「そういうとらえ方をしたことはないわね」
 切子はていねいに傘のホックまでしっかり止めてから、入口の外に置かれたスチール製の傘立てにコンっと立てた。
「深呼吸してみて――」
 僕はいわれた通り大きく深呼吸した。
「もう一度」と、切子も僕にあわせて深呼吸した。
 そうしていると身体の隅まで〝陰気〟が、じっくりと沁みこんでくるような気がした。
「覚悟はいい?」と笑いながら切子。僕が肯くのを確認してから〈人形の館〉の重そうな扉を開いた。
 ギギギっとお化け屋敷の扉みたいな音がするのかと思ったけれど、音はなにもしなかった。重そうな扉だったけど、すべるようにすうっと開いた。
 切子が扉を押さえたまま、先に入るように僕に促す。
 〈人形の館〉の内部は、雨模様の外よりもずっと暗かった。正面に大きな階段があり、そこの踊り場につけられた窓からはいる光も頼りなげだった。
 壁面は長い年月を感じさせる黄ばんだ漆喰の壁で、腰から下は重いツヤを放っているチーク材になっていた。それらは〈人形の館〉に重厚な印象を造りだし、熟成された空気を醸しだしていた。
 左側に個人医院の受付みたいな小さな窓があり、そこにはクリーム色のシャツを着た小太りのおばさんがひとり坐っていて、僕たちが入ってきても十四インチのテレビからすこしも目を離さなかった。大きな音のまま、胸の前で腕を組んで、怒ったようにじっとテレビの画面をにらんでいた。
 それでも僕たちが受付の前に立つと、小窓から太った腕がにゅっと出てきた。
「学生二枚お願いします」マリーブルー色した生徒手帳を見せながら、慣れているように切子が言った。
 あわてて僕も生徒手帳をだすと、おばさんの手が引っ込み、親指と人さし指で二枚の券をもってふたたび出てくると、小指でクイックイッと入館料を請求した。
 僕はそのイモ虫みたいな小指を見ながら、その手の中にふたり分の入館料をいれた。でも、切子がその中から自分の分だけ抜き取って僕に返し、サイフから自分の分の入館料を取り出しておばさんの手の中に入れた。
「でどころは同じよ」切子が僕の耳元で笑った。とてもいい匂いがした。寒い冬の朝の匂いだ。その匂いをどこから持ってくるのかわからなかったけれど、切子が近くに寄るといつもその匂いがした。

 〈人形の館〉は、正面の大きな階段を中心にして左右に廊下があり、天井から吊り下げられた蛍光灯が、ため息のでるような暗い光を放っていた。
 一階の右側には欧州各地の人形が展示された部屋が四室あり、左側はアフリカ・エジプト・中近東が同じく四室、そして二階が日本という構成になっていた。
「どこか見たいと思う場所はある?」切子が声をひそめて訊いてきた。
「人形を?」
「もちろん。ここにはそれしかないんだもん」
「変わった人形があればみたいね」
 切子がきゅっと肩をすくめた。
「価値があった人形は、戦争で焼けてしまったらしいの」
 そのときおばさんがテレビのボリュームをもっと大きくした。おかげで受付から離れた場所でも、息子が母親を殺害した事件を興奮気味にレポートしている女性レポーターの声が聞こえてきた。
「私は二階へ行きたいんだけど・・・・」切子はチラッとおばさんを見て声をひそめた。「ここよりはゆっくりできると思うし」
「だろうね」僕も声をひそめながら答えた。「ここよりゆっくりできない場所なんて『毎日屋』ぐらいだよ」
 切子は僕を少しにらんでから、ひとりでサッサと二階へと向かったが、その時とても大きな音をたてて階段が軋んだので、僕はあわてておばさんを見てみた。でも、テレビのボリュームが上げられることはなかった。かえって少し下げた。そういう音は気にならないみたいだった。
「あのおばさん以外、ここには誰もいないんだね」と二階へ上がったところで待っていた切子にそう訊いてみた。
「だからいいのよ。――人が集まるとろくなことがないわ」
「たとえば?」
「蛍光灯の数が増える」切子が天井をゆび差した。
 僕は天井を見上げながら肯いた。
「壁を白く塗りかえる」と、今度は壁を差した。「あと、床も張り替えるかもしれないし、そうなるともう全面的に改築ってことになっちゃいそうだし――。人が集まるとろくなことにならないものよ」
「僕だったら、まず最初に券売機を設置するね」
 切子がすぐに首を左右にふった。
「ここはこのままでいいの。ここも、〈人形の森〉も、ずっと今のままで――」
 それが実現しないのが、すでに彼女にはわかっているみたいな言い方だった。

 二階には日本各地の人形が展示されていた。階段をあがって右側が東日本、左側が西日本に分かれていた。
「見たい地域は・・・・」と切子は僕の顔をのぞきこみ、「ないわよね」と笑いながら西日本側へとさっさと向かい、そのまま廊下を突き当たって左側の〈九州・沖縄地方〉と書かれた部屋へ入っていった。
 そこは〈毎日屋〉と同じぐらいの広さで、要するにダンプカー一台分の広さで、部屋へ入って正面と右側に木枠の窓があり、どちらにもペルシャ絨毯のように細かい織りで重そうなカーテンが左右に束ねられていた。
 左側の壁面にそって置かれたガラスケースの棚にさまざまな人形が展示されていたが、〈九州・沖縄地方〉に限定されているにしろ、たいした展示数ではなかった。
 棚の高さも僕の背丈ぐらいしかなく、ざっと見ただけでも二十点あるかどうかで、それも和服の女性人形、木彫りの七福神、焼き物の人形、陶器製のシーサー雌雄セットなど、どこでも見かけそうなものばかりだった。それに、それぞれの人形に下にタイトルが書かれていたけれど、和服の女性人形にしても〈博多人形ー思慕〉と書かれているだけで、細かい解説もなにもなかったので、とくに興味がわくこともなかった。
 切子は部屋の中央に置かれた二人掛けのソファに腰かけて、ティッシュペーパーで靴についた雨のしずくをていねいに拭っていた。
 切子の隣に坐ると、僕のテニスシューズをみてほほ笑み、なにも言わずにゴムの部分だけをチョイチョイと拭ってくれた。それを終えると、汚れたティッシュペーパーをきれいに折りたたんで鞄の中にしまい込んだ。あらかじめ〈汚れたティッシュペーパーをいれる場所〉というのが決められているみたいな、手際のいいしまい方だった。
「ちょっと暑いわね」パチンッとカバンの留めがねをかけながら切子が言った。
「へんなにおいもする」
「そう?」切子は僕を見た。「どんなにおい?」
「象をふいた雑巾を蒸したにおい」
 切子はなにも言わずに正面を向いた。
「やっぱりこの場所が好きじゃないのね」
「嫌いでもないけど、好きにはなれないかな。悪いけど・・・・」
「だからいいのよ」と切子。「万人受けしても、ろくなことにはならないわ」
「あくまでも、ここをキミの個人的なものにしておきたいんだ」
「そうじゃなくて、いつまでも変わらないで欲しいって願ってるだけよ。そう難しいことじゃないと思うんだけど・・・・」
 そういいながら彼女は、坐った目線のちょうど正面に飾られていた三段重ねの赤いガラス製のお重に目を向けていた。
 近くに行ってタイトルを見てみると、『薩摩切子 蓋付三段重』と書いてあり、その下にΦ210×H210mmとサイズが表記されていた。
「わたしの名前は、その器からつけられたの」
「薩摩切子?」
「そう――。わたしの父さん丶丶丶が、まだ小さい頃に、その薩摩切子に出会って、すっごく感動したんだって」
 父さんというのは死んだ彼女の父親のことで、僕の父さんの場合は『お』がついて父さんになった。その差に気づいたのは最近のことだ。
「私が産まれるずっと前の話なんだけどね――」
 切子はそう前置きしてから、この〈人形の館〉のこと、そして彼女の父さんの幼い頃の話しをしてくれた。

 ◇

 いまの〈人形の館〉は、明治から太正にかけて貿易で財を成した資産家の別邸丶丶で、本邸はあの芝生広場のケヤキが植わっている場所にあった。
 当時からその本邸が〈人形の館〉として有名だったが、一般に公開されていたわけではなかったので、〝おびただしい数の人形が飾られているらしい丶丶丶〟というウワサを聞くだけで、だれもその実態は知らなかった。
「髪が伸びる人形があるってよ!」と切子の父さんの友人A。
「なかにはミイラもあるって兄ちゃんが言ってた!」と友人B。
 まだ小学校の低学年だった切子の父さんたちは、そんなウワサだけで心底怯えていた。
 切子の父さんは〝おびただしい数の人形〟の光景を思い浮かべるだけで恐怖でしかなかったし、髪が伸びる人形やミイラとなると、もう想像したくもなかった。
 そんなとき、同学年で双子のマサルくんとサトルくんが、あの〈人形の館〉の住人だということがわかった。切子の父さんとはどちらともクラスが違ったので、どんな経緯でそうなったのかは不明だったが、友人Aがどちらかに交渉して〈人形の館〉を見学させてくれることになった。友人Bも切子の父さんもOKだった。正直なところ、切子の父さんはまったく行きたくなかったが、なかば強引に連れて行かれたそうだ。
 本邸である〈人形の館〉への門は、いまの〈人形の森〉の入口にあった。
 それは鉄製の重そうな門で、本当に重いらしく、マサルくんかサトルくんが門の横にあったベルを押してから切子の父さんたちの方を向いてニッコリと笑った。その横でマサルくんかサトルくんが同じようにニッコリと笑っていた。
 マサルくんとサトルくんは本当にそっくりだった。小学校では制服は決まってなかったけれど、ふたりとも白いシャツに紺色の半ズボンに紺色の二本のラインが入った白い靴下という、まったく同じ格好をしていたのでよけいにわからなかった。
「どうしたの?」と友人A。
「待ってるんだ」とたぶんマサルくん。
「ヨシカワさんが、この重い門をあけてくれるんだ」とたぶんサトルくん。
 そうしていると、当時から砂利がしかれていた坂を、見事な白髪をしたヨシカワさんが、落ち着いた足取りで降りてきた。
「友だちを連れてきたんだ」とたぶんマサルくんが、ヨシカワさんが門の前まで来るのを待ってから言った。
 ヨシカワさんは門を開けてから一歩身を引きながら「いらっしゃいませ」とよく通る声で、切子の父さんたちにていねいに頭を下げた。
 マサルくんとサトルくんについて坂を上がっていくと、小学校のように大きな屋敷があり、正面にあった重厚そうな扉をまたヨシカワさんが開けてくれた。
 ウワサの人形は、玄関を入ってすぐ正面に置かれていた大きな棚にすでに飾られていた。
 切子の父さんたちは、想像していたよりも遥かに多い人形の量に圧倒されてしまい、三人ともしばらく呆然と人形の壁を見上げているだけだったという。
 それからマサルくんとサトルくんが、ダイニング、リビング、寝室など、とにかく人形が飾られているところはどこでも案内してくれた。トイレにも連れて行ってくれたそうだ。
 人形の収集には決まりはないようで、とにかく人形ならなんでも、飾ることができる場所であればどこでもすき間なく飾られていたので、人形の視線だけでもめまいがしそうだった。
 そんな人形を見回しながら、髪が伸びる人形ってないの? と恐るおそる友人Aが聞くと、マサルくんとサトルくんが同時に吹き出した。
「そんなのあるわけないじゃん!」とそれもふたり揃って否定した。
「ミイラは?」と友人Bが聞くと、「ないない」とそれもふたり揃っていた。手の振り方まで一緒だった。切子の父さんは心底ホッとしたそうだ。
 そんな膨大な人形コレクションの中で、切子の父さんがいちばん強烈に印象に残ったのは、リビングの飾り台に置かれていた三十センチぐらいのアフリカの木彫像で、女性なのに髪飾りもなく頭が禿げていて、乳房がロケットのようにとんがっており、お腹もお尻もビックリするぐらい突きでているという、とても理想の女性像丶丶丶丶丶丶とは思えないつくりの人形だった。
「スゴく気味悪いよね、それ」とたぶんマサルくんが顔をしかめながら言った。
「安産のお守りなんだって」とサトルくん。
 そのわりには荒く手彫されたその表情は、これからの出産を心から憂いて、暗く沈んでいるようにしか見えなかった。見ているだけで、よけいに不安になってくるのでは、と切子の父さんは思ったそうだ。
 悪いことに、家へ帰ってきてからもしばらくその人形の幻影に悩まされる日々が続き、自分はアフリカの呪いにかかってしまったのでは? と本気で心配したが、日が経つにつれて、その人形の恐怖が薄れてくると、今度は〝赤いガラス製のうつわ〟のことが頭から離れなくなってしまっていることに気づいた。
 それまでにもずっと頭の中に残っていたが、アフリカ人形の恐怖があまりにも大きくて見えなくなっていたのだ。その時は名前すら忘れていたが、赤いうつわ丶丶丶丶丶ばかり集められていたこともあり、それが人形ばかりのコレクションの中で異彩を放っていたのは確かだった。
 それは主人の寝室に飾られていた。そこには人形が一体もなく、壁面に置かれた飾り棚に、薩摩切子だけが飾られていた。
 大皿、大鉢、小付鉢、花器、フタつき壺、脚つきフタ物、脚つき杯、猪口、丸い三段重など、形や用途はさまざまだが、すべて赤い色の薩摩切子だけが飾られていた。
「これはね、サツマのキリコっていうんだ」と言いながらマサルくんが飾り棚の照明をつけると、薩摩切子に光が当たって、宝石のようにキラキラと輝いて見えた。その時の印象があまりにも強烈だったので、いつまでも切子の父さんの記憶に残っていたのだ。
「幕末のたった七年間しか生産されなかったんだって」とサトルくん。
「だから収集がムッチャ難しいって父さんが言ってた」とマサルくん。
 切子の父さんたちは「ふうん」としか返事ができなかった。その時は人形だけでも食傷気味だったし、それにガラスの器なんて人形以上に興味がなかったのだ。
 しかし、時間が経ってみると、それにアフリカ人形の恐怖が薄れてくると、あの照明があてられた薩摩切子のことが気になって仕方なかった。それが宝石のように綺麗だったからなのか、数年で生産されなくなったという希少性からなのかはわからなかったけれど、とにかくもう一度薩摩切子が見たいという思いは、切子の父さんの中で日増しに強くなっていった。
 しかし、残念なことに、それをマサルくんかサトルくんにお願いする前に、あの本邸は大規模な焼夷弾大空襲で焼けてしまい、膨大な人形コレクションと共になくなってしまったのだ。マサルくんとサトルくんは運良く難を逃れていたが、薩摩切子は本邸と同時に失われてしまっていた。
 それから戦後ずいぶんと経ってから、奇跡的に残った別邸と土地、そしてそこに残っていた人形をすべて市へ寄贈という形で〈人形の森〉と〈人形の館〉が生まれたのだそうだ。

 ◇

「薩摩切子って知ってた?」と切子。
「知らない」僕は薩摩切子に目を向けたまま首をふった。「なんにも知らない」
「でしょうね」と切子が笑う。
 僕は立ち上がって、薩摩切子にぐっと顔を近づけてみた。やはりそれは新品のような光沢はなく、時代を感じさせる、曇った古いガラスの器だった。
「透明なガラスの上に、色のついたガラスをかぶせて、その表面を削って模様をつけていくの」
「ふうん」と僕はもっと近づいてうつわを見てみた。
「薩摩切子のいいところはね――」と切子。「かぶせる色のガラスが厚いから、削り具合によって〝ぼかし状態〟になることにあるんだって」
 確かに、紅色ガラスを削った場所によってシャープにカットされたり、ぼんやりとカットされている部分があった。
「それと、その美しい紅色――。藍、緑、黄色、紫とかはできても、透明な紅色はどこもつくることができなかったの。当時はね。それを幕末のたった七年間ぐらいのあいだに造りあげて、それからぷっつりとなくなってしまったの」
「ぷっつりと?」
「そう。鮮やかでしょ。この薩摩切子を強力に推し進めた島津{斉彬}(なりあきら)氏が急死してしまったら、たちまち縮小されたんだって。もしそのまま存続していたら世界のガラス史が変わっていたかもしれないって言われてるぐらい、当時でも完成度の高いものだって評価されてるの」
 僕は改めて薩摩切子をじっくり見てみた。
「本邸にもっとたくさんあった薩摩切子が見たかったなー」と切子が感慨深げに言った。
「それも紅ガラスばっかりなんて、壮観だったろうね」と僕もすぐに同意した。
「いまでも本邸にあった人形や、薩摩切子が全部残ってたら、もっと立派な博物館になってたでしょうね」
「残ってたら、〈人形の館〉もなかったよ」僕はふり向いて肩をすくめてみせた。「ずっと、個人のものだよ」
「それもそうね」と、彼女も肩をすくめてニッコリと笑った。
 僕は切子の隣に坐り、膝の上に置かれていた右手をそっとにぎってみた。
 そうして改めて触ってみると、彼女の手は想像していたよりも柔らかく、つるつるしていた。すこし力をいれると、切子が僕の手の上に冷たい左手をそっと重ねてきた。そしてひとつ小さな、ゴルフボールぐらいのため息をついた。
「わたしのこと好き?」切子は真面目に訊いてきた。
 僕が黙っていると、切子はもう一度おなじセリフを、おなじ調子で訊いてきた。
「難しい質問だね」そう僕が応えても、彼女は承知しなかった。またおなじことを訊いてきた。
「まだよくわからない」僕は正直に応えた。
「たぶん――」切子はすこし間をおいてからゆっくりと言った。「ずっとわからないでしょうね、お互いに――」
 僕は切子の肩をひき寄せてキスをした。切子は目を開けたままだった。唇を強くおしつけても、眼は閉じられなかった。僕の顔が邪魔になって薩摩切子が見えなくなっていても、赤く輝くうつわを見ているような目をぼんやりと開けていた。
 僕がもっと強く唇をおしつけてみると、こんどは切子が僕の頭をおさえて唇をおしつけてきた。その時には彼女もきつく目を閉じていて、まぶたが小さく震えているのがみえた。ほおもぴくぴくと動いた。切子は噛みつきそうなぐらいに激しく、僕に唇をおしつけてきた。切子は泣いていた。泣くことにあらがうようにどれだけ強く僕を求めてみても、どうにもならないようだった。

 やがて涙がまぶたに溜り、それが頬を伝う頃になってからゆっくりと力を抜き、僕からそっと離れ、それまで一度も見せたことのない涙をぬぐおうともせずに薩摩切子をぼんやり眺めていた。
 あたりは静寂に満ちていた。人形の冷淡な視線を感じるだけに、その静寂はより深く、濃いものになっていた。
「――ごめんなさい」切子は薩摩切子をじっと見つめながら{喘}(あえ)ぐように言った。彼女の目には血のように赤い薩摩切子がちいさく映っていた。
「もうすこし考えさせて――」ようやくそこで僕に目を向けた。薩摩切子を見ていなくても、赤い眼をしていた。
「やっぱり、もうすこし時間が欲しいの」
 大きな蝿がガラス窓にこんっと当ってから、レースのカーテンに止まった。雨はいまもガラス窓にいくつかの線をつくって流れ落ちていた。雨音はしなかった。おばさんのテレビの音もここまでは聞こえてこなかった。
 しばらくして、もう帰りましょう、といって切子はゆっくり立ち上がった。


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