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【長編小説】踊る骨 第5章/再び、小野アリア
第五章
1
■十月二十日 日曜日
もうどれぐらい時間が経ってしまったのだろう、と小野アリアは考えていた。左腕には高校受験の時に買ってもらった小さな腕時計をしていたが、それを見る気力も失せていた。
なにをするのも、なにを考えるのも億劫で、以前からあれほど雪柾を疎んじていたにもかかわらず、その感情さえも乾いた砂に吸い込まれてしまったようだった。
時間はとっくに八時を過ぎてしまっているだろう。それは感覚でわかる。母も祖母も心配しているに決まっている。約束した時間を過ぎても帰らないなんてこれまでにもなかったし、今日は私がいつも楽しみにしている日曜日の朝食なのだ。
アリアは行先まで書き置きしてこなかったことを心から悔やんでいた。せめて『堤防へ行く』ぐらいのことは書いてくればよかったと考えていた。
この場所に人がやってくる可能性はゼロに等しい。
事実、これまでにも、この海の家の方までは誰も来なかったのだ。
子供が冒険心を起こしてここまでやってきてもよさそうなものだが、砂浜がこの海の家から少し先のところで終わっていることもあってか、誰もやってこなかった。犬の散歩コースにもならないようだった。
アリアは醜くむくんだ未々の臀部をぼんやり眺めていた。どす黒く変色してしまった未々の臀部の周りを無数の蝿が飛び交っている。
その光景はあまりにも悲惨で、あまりにも哀しいはずなのに、彼女はずっと見つめていた。
そうして未々との記憶をていねいに想い返していた。
未々と私との記憶――。
未々と私しか知らない、彼女が生きていた{証}(あかし)――。
未々が夢に描いていた将来の生活――二十五までには結婚して、子供は二人で、そうね、上が女の子で下が男の子。でね、犬を飼うの。大きいやつ。シベリアンハスキーかゴールデンレトリバー。名前はダンス。二匹目はウィズ。次はウルブズ。ね、かわいいと思わない?
あの未々の夢はどこへいってしまうのだろう。
彼女がもっていた私との記憶はどこへいってしまうの?
すべてが〝無〟になってしまうなんて、アリアはとても信じられなかった。考えたくもなかった。
頭痛は治まりつつあったが、それがどうしたっていうの?
それよりもずっと大切な未々との記憶。
未々しか知らない私との記憶。
それはみんなどこへいってしまうのだろう。
市民プールでつきっきりでクロールを教えてあげたのは中学の時だ。
いつまで経っても全然うまくならなかった未々。
平泳ぎにしたって、ぶざまな格好で泳ぐ未々の姿に大笑いしたあの記憶。
そして私が泳いでみせるとたちまちむくれた未々。そんな彼女の記憶はどこへ行ってしまうのだろう。
アリアは肩を落としたまま何十回目かのため息を静かについた。
そのとき雪柾がもどかしげにうなり声をあげながら立ち上がり、未々の死体のすぐ前までいった。そしてゆっくりと死体を見上げる。鼻がくっつきそうなぐらいすぐ近くだった。
雪柾はそこで立ったまま、ずいぶんと長い間、未々の死臭を嗅いでいた。
彼はなにを求めているのだろう。
人間の腐臭から得られるなにか?
それとも未々の身体から感じるなにか?
しかし、彼はそこでなにかを得るのかもしれないが、失うものの大きさを考えなかったのだろうか。雪柾自身の生活と、未々を失うことによって人生がすっかり変わってしまう人たちのことを――。
アリアはまたため息をついた。今度は熱くてじめじめしたため息だった。
雪柾の呼吸がしだいに早くなっていく。鼻だけで強く息をしているので、それはアリアのところまではっきりと聞こえた。そのまま精神錯乱を起こすのではないかと思えるような呼吸で、それはますます早くなっていった。
結局そこまでしても彼にはなにもつかめなかったらしく、悔しそうに「ンガアーーーッ!」と大きく叫びながらガックリと膝をつき、その場にすわり込んだ。その時すがるような恰好で未々の脚をつかんだので、すわり込んだ雪柾と一緒に、未々の膝から下の皮膚がズルリとはがれ落ちた。
アリアは大きく叫び声をあげた。ここに来てから一番大きな叫び声だった。
想像を絶する量の、赤黒く腐乱した液体が大量に落ちていく。狂喜したように蝿が飛び交い、あたり一面強烈な腐敗臭におおわれた。
そんな中で、雪柾は手にもった皮膚を凝視していた。すぐ横を流れ落ちる腐敗した未々の体液には目もくれずに、手にもった皮膚だけをじっと見つめている。
アリアのところから見ると、それは一度ドブに突っ込んだゴム手袋のようにしか見えなかったが、雪柾は目を閉じるのも忘れたように、それをじっと見つめている。そうしてしばらく未々の脚の皮を凝視したあと、ゆっくりと目を閉じてその皮膚をきつく胸に押しつけた。まるで生まれたばかりのわが子を抱きしめる母親のように――。
制服がひどく汚れていたが、雪柾はまったく気にも止めていなかった。ただただ天を仰いで、無事に産まれたわが子を神様に感謝しているように見えた。
しばらくしてから彼は手にもった皮をそっとおいて立ちあがり、トレーニングスーツのポケットからカッターナイフを取り出して未々を吊り上げていた紐を切り、そっと身体を横たえて、手に巻きついていた黄色のビニールテープもていねいに、身体を傷つけないように慎重に外していった。その間まったくの無言だった。
そんな作業を冷静にこなしているのも驚きだったが、アリアは彼の変化に気づいていた。
なにかが彼のなかで起こったのだ。
いまの彼は、ついさっきまで怪物に見えた男ではなかったし、これまで毛嫌いしていた男とも違っていた。
心なしかアリアが感じつづけていた死臭、雪柾の内部から感じたあの腐敗臭が感じられなくなったような気がする。これほど腐敗臭の充満した空間にいるにもかかわらずに、だ。
アリアは息を呑んで彼の行動をじっと見守っていた。
やがて黄色いテープをすべて外し終えると、彼も未々の横にゆっくりと横たわった。なにか話しかけているようだったが、アリアのところまでははっきりと聞こえてこなかった。
「未々・・・・」とも聞こえたし、「ママ・・・・」と呼びかけているようにも聞こえた。いずれにしろ、彼は未々のむくんで太くなった左腕につかまりながら、胎児みたいに身体を小さく丸めていった。両足が胸についてしまうぐらいに小さく、小さく――。
アリアにはなにを話しかけているのかまったくわからなかったが、未々の腕につかまって囁きかけているその光景は、公園の芝生に寝そべって母親に甘えている幼児のように見えた。暗く落ちくぼんだ未々の目に語りかけている雪柾は、どうみても心から未々に甘えているように見えてならなかった。
アリアは混乱していた。いったい彼の内部でなにが起こり、これからなにが始まろうとしているのか、まったくわからなくなっていた。いったい彼は何をしようとしているのだろう。そもそも彼は何がしたかったのだろう。アリアは泣くことも忘れてふたりの光景をじっと見守っていた。
しばらくして雪柾は身体を起こし、未々の両手をとって、すっかり萎んでしまった胸と腹の上にていねいに重ねて置いた。そこでちゃんとした死者のように両手の指を組んであげたそうだったが、それはできなかったようで、左手の上に右手を重ねるだけで満足したみたいだった。そして彼はまた横になった。
しばらく眠り込んでしまったような永い沈黙が続いていた。
もう未々に話しかけているようにも見えなかった。彼も一緒に眠り込んでしまったように静かだった。
あい変わらず、屋根の上に置かれたトタン板が、バタンバタンと大きな音をたてている。トタン板までがやりきれない気分でいるような音だった。
不思議に波の音が聞こえなくなっていた。風の音からすると波がやんだとも思えなかったが、いくら聞き耳をたてても、波の清らかな音は聞こえてこなかった。
雪柾が静かに横たわって以来、ここから逃げ出すチャンスはいくらでもあったが、アリアは寝転んだままの二人をじっと見守っていた。
とても悲惨で、ひどくて、むごいことだけれど、これも私と未々の想い出なのだ、とアリアは考えていた。
きっと未々は、こんな姿を私に見られたくないっ! って拒絶するだろうが、これも、これからはもういっさい作ることのできない彼女と私との想い出なのだ。どんなに悲惨でも、どんなに罵倒されようとも、しっかりと心に刻んでおこうと思った。そうしないと、あまりにも未々が不憫で可哀想過ぎる。
そうすれば、少なくとも未々は私の中で生きつづけることができるのだ。
彼女はそんな思いで二人の光景を、黙ったままずっと見守っていた。
ずいぶんと時間が経ってしまってから、不意に雪柾は上体を起こしてアリアを見た。
「まだいたんだ」と雪柾はニッコリとほほ笑んだ。
いつもの笑みだ。明るくて健康的な笑みだったが、こんな場所では不快でしかなかった。
「なにナメてんの?」雪柾が笑った。
そこではじめてアリアは、自分の左手の親指を吸っているのに気づいた。
幼い頃でもそんな習慣はなかったのに、いまは幼児のように左手の親指を吸っていた。でも、不思議にこころが落ち着くような気がしたので、彼女は雪柾に指摘されてからも指を吸うことをやめなかった。
「もう帰ってもいいんだよ」雪柾。今度は笑っていなかった。ちょっとめんどくさそうな感じだった。
「アンタの目的のものは見つかったの?」とアリア。
それには雪柾は答えなかった。いつもの白い歯を見せて、少し笑っただけだった。
そうして彼は右手に持ったカッターナイフの刃をパチパチパチとゆっくりと出し、しばらく光った刃を見つめていた。そしてアリアを見てニッコリと笑うと、刃を自分の首の左側にあてて、その上を左手で押さえるようにして、横一文字にゆっくりと引いていった。
引く間に二度パチパチと刃がでる音がしたが、彼は手を止めなかった。じっとアリアを見つめたまま、ゆっくり首をかっ切っていった。
アリアは叫ぶこともなく、黙ってその光景を見つめていた。
二人の向こう側に敷いてあった青いビニールシートに大量の血が降りかかり、激しい通り雨のような音がした。
未々の身体も驚くほどの早さで真っ赤になっていく。雪柾はそんな未々の姿をしばらく見た後、またアリアに目を向けて
「オレ、キミが言うように、本当に身体のなかが腐ってたんだよ」と言った。
そして最後に「じゃあね」といって、ふたたび眠るように横になった。
アリアは声もなく、二人の光景をじっとみつめていた。
やがて未々の髪をやさしく撫でていた雪柾の手が動かなくなった。そしてゆっくりと未々の身体と重なり合い、そのまま寝入ってしまったように静かになった。
外から射す青い光がふたりを照らしていた。
心なしかとても清潔そうに見えた。
アリアはしきりに自分の親指を吸っていた。