【長編小説】血族 第3章
第3章 胎児覚醒す
1
最初は驚きと現実感のなさで自分の妊娠を考える余裕もなかったが、いまこうしてベッドに横になり、染みだらけの天井を見つめながら、今日経験したことをひとつずつ確認していくうちに、これはとんでもないことなのだということがようやく理解できるようになってきた。
だけど・・・・。
高木真尾は、お腹の脇にあらわれた突きでた部分をなでてみた。
『ヒジ? それともカカト?』
意識しているつもりはなかったが、妊娠に気づいてから頻繁に動くような気がする。この時期になると、羊水の量が一段と増えてきて、その中で胎児が自由に動きまわるようになるらしい。
考えなければならないことがいっぱいあるはずなのに、いま彼女の頭の中を占めているのは、福祉大学時代に観た一本のビデオ映像だった。
◇
「いいですか――」
産婦人科の医師でもある女性の特別講師が、厳しい顔をしてゆっくりと講義室内を見まわした。
「これから一本のビデオを観ていただきます。時間は五分程度です。雑念もなにもなく、最後まで目を逸らさずに、すべてを記憶するぐらいの心づもりで、観るようにしてください。では――」
そのビデオはテロップもなにもなく、いきなり胎内にいる胎児の映像からはじまった。
粒子の粗い超音波の不鮮明な白黒映像だったが、左側に大きな頭があり、細い胴体の先にかわいらしく曲げた足が見えた。腕を上げて、手をニギニギして遊んでいるようにも見える。
そこへ胎盤鉗子というハサミ状の器具が、下側から差し込まれてくる。それで胎児を捕らえようとするが、胎児が逃げる。鉗子が追う。
それほど広い空間ではないから、胎児はすぐに捕まった。
そして驚いたことに、胎児はその胎盤鉗子に挟まれて、グチャグチャに潰されていく。大きかった頭も、まだかぼそい身体も、枝のように細い足も、ニギニギしていた手も、みんな一緒にグチャグチャにされたのだ。
学生から悲鳴が上がった。
すでに泣いている子もいた。
「画面から眼を逸らしちゃいけません!」
女性講師がきつい調子でいった。
「日本での人工中絶は、毎年三〇万件を楽に超えています。言い換えれば、三十万人の子どもたちが、合法的に殺されているということです」
画面では、キュレットというスプーン状の器具で子宮内の掻爬が行われていた。残留物がないように、子宮内から異物を掻きだすのだ。
講義室のあちこちで、声を漏らして嗚咽する声が聞こえた。
「このビデオを観て、ショックを受けない人はいないでしょう」
講師は画面を横切り、教壇に立った。そしてゆっくり時間をかけて講義室内を見まわした。
「昔から、宗教とか、倫理観とか、世間体とかで人工中絶の是非が問われたりしていますが、なにを論じようと、この映像がすべてをもの語っていると、私は思います。論じる人すべてに、この映像を見て欲しいぐらいです。それどころか、男女に関係なく、全国の高校生に、この映像を見せるべきだと、私は思っています」
講義室内は深海にいるみたいに静かだった。涙をすする音は聞こえていたが、講師の声以外、なにも聞こえてこなくなった。
「私は人工中絶を反対しているわけではありません。というか、そんなこと、恐ろしくてできません。法律で禁止してしまうと、裏で手術する医師が必ずでてきます。どうしても必要とされる場合があるからです。
でも、今回はこうして資料のために超音波の映像を撮っていますが、普段は手探りです。なにも見えない状況で、こんな作業が行われるのです。
器具からの感覚で子宮の向きを確かめたり、胎児を探ったりと、見えないだけに、とても技術のいる手術です。
だから子宮を傷つけてしまったり、子宮内に胎児の残骸が残ったりして、不妊症になってしまう事故がいまでも絶えないのです。それなのに、たいした技術もない医師が手術をするなんて、想像しただけでも恐ろしいことです。無認可の医師もあらわれることでしょう。
ですから、先ほども申しましたように、私は人工中絶を反対はしません。中絶は良いのか悪いのかの問題ではなく、あってはならないことなのです。母体のためにも、そしてなにより胎児のためにも・・・・。
私が否定しているのは、避妊をしない安易なセックスです。もちろん百パーセントの避妊はありませんが、全員がこの悲惨な状況を知って避妊に気をつけるようになると、人工中絶は格段に減ると、私はそう信じています。
みなさんの中には、人にアドバイスをする業務につく方も多いかと思います。ですが、そうでない人も、事あるごとにこの映像を思い出して、自分自身はもちろん、他の方にも避妊の重要性を説いていってください。それが、私がこの映像をみなさんにお見せした一番の目的です。
――今日は、どうもありがとうございました」
女性講師が一礼して出ていった後も、しばらくの間、誰も席を立たなかった。真尾自身も、ショックのあまり放心していた。自分も女性だけに、いま堕胎したばかりのような気分だった。
◇
いま真尾は、あの時の映像をくり返し思いだしていた。
じっさいには二十三週にもなっているので法律上では中絶もできなかったし、十二週を過ぎるとビデオ映像のような掻爬法ではなくて、陣痛誘発剤によって強制的に胎児を外にだす、いわゆる人工的な流産になるのは知っていた。
だが真尾は、あの胎児を、鉗子から必死に逃げようとする胎児の姿を、どうしても忘れる事ができなかった。
真っ暗闇の中で、気分よく浮遊している胎児――。
起きているのか、眠っているのかの自覚もないだろう。
しかし、まだなにも理解できなくても、異物の侵入は察知する。
なにか良くないものが進入してきたのがわかる。
わけもわからず、嫌がるように鉗子から逃げる。
その恐怖はどれほどのものだろう。
そして冷たくて硬くて痛いものに挟まれる。
それに強大な力が加わってくる。
なに?
なに?
なに――?
高木真尾は、自分で気づかないうちに泣いていた。声を殺して、手の色が変わってしまうぐらいきつくシーツを握りしめながら、静かに泣いていた。
でも、父親もわからない赤ん坊を産めっていうの?
――胎児が逃げる。
でも、わが子はわが子よ。すくなくとも半分は私の遺伝子なのよ。それをわが子って言わないの?
――胎児が逃げる。
でも、子供を育てるなんて、私にできるの? それも父親のわからない子を・・・・。
――胎児が逃げる。
いまの生活が激変するのは目に見えている。それでもいいの? なんのために?
――胎児が逃げる。
赤ん坊は赤ん坊の時期だけじゃないのよ! なのにずっと責任もてるの!
――胎児が逃げる。でも、潰される。グチャグチャに・・・・。
・・・・・・・・。
真尾はふとんをかぶって大声で泣いた。子供みたいにわんわん泣いていた。そしていつの間にか、ふとんの中で身体を丸め、膝をつかむようにして寝入っていた。
ちょうど胎児のように――。
子宮の中で、心地よく身体を丸めて眠っている胎児のように――。
◇
翌朝、目が覚めてみると、女の子と大きな男が、ベッドで寝ている真尾を見下ろしていた。
「お寝坊さんねー」と女の子。ニコニコ笑っていた。
「ぐふー」と大男。笑いもせずに、真尾を見下ろしていた。あまり興味ないみたいだった。鉄アレイの方がよほど好きなのだろう。そんな体格をしていた。
その後ろであの少年が面白そうに笑っている。
女の子は小学四年生ぐらいに見えた。胸に『もんてすきゅー』とひらがなで書かれたオレンジ色のトレーナーに、細いジーンズをはいていた。小学生によくいるおかっぱ頭だったが、毛先が切り揃えられることなくバラバラだったので、母親がよほど不器用なのか、それとも自分で鏡を見ながらカットしたみたいだった。
大男の年齢はわかりにくかったが、三十前後といった感じだ。身体にぴったり合った茶色のスポーツランニングと、黒いハーフパンツをはいていた。岩のように頑丈そうな体格だった。
「なに?」真尾は顔の半分をふとんで隠した。「それに誰?」
「まっ。いきなり誰って、高飛車な!」
少女は後ろにいた少年を睨みつけた。
「おいおい。なんでボクを睨むんだよ」
「ぶフー」
「ま、いいわ。私は也子。一也の姉よ。こう見えてもね」とニッコリと笑った。
「いちや?」
「あれ? お前、まだ名前も言ってなかったの?」と也子はふり向いて少年を見た。
少年はドアにもたれたままニヤニヤ笑っていた。
「それに、姉? お姉さん?」と真尾。
「姉はお姉さんに決まってるじゃない! 笑わせないでよ」と小バカにしたように也子が応えた。
「え? だって彼は十七でしょう?」
「そうよ。まだお子ちゃまなの」
也子は一也をみて笑った。
一也は肩をちょっとすぼめただけで、相変わらず真尾をみてニヤニヤ笑っていた。
「がふー」
「ちょっと団地ー、口閉じてなさいよ。ったくー。うっさいのよ」
団地はあわてて大きな右手で口をおさえた。
「え? で、あなたは?」
真尾は也子に訊いた。
「わたしは也子よ。さっき言わなかったっけ?」
「はい、也子、さん。・・・・あなたはおいくつ?」
「まっ! レディに年を訊くなんて失礼な! なーんてウソ。アンタと一緒よ。二十六」
「えー! 二十六? ほんとにー? 私はてっきり・・・・」
「てっきりなによ!」
也子はすぐに噛みついてきた。それを心配そうに団地が見ていた。右手で顔を押さえたままだった。
「てっきり小学生だとでも思ったの? で、何年生? 三年生? 四年生? まさか二年生?」
真尾は応えずに、ふとんから四本の指をだした。
「お? 成長したじゃん」
後ろで一也がからかった。
「もう! オマエはアッチ行ってな!」
也子が一也を睨みつけながらいった。
「だふー」
「ダーンチッ!」
団地と呼ばれた大男は、あわてて口を閉じた。今度は両手だった。
「で、アンタは――」也子は真尾に顔を戻して訊いた。「もう持ってきて欲しい物のリストは書いたの?」
真尾は肯いた。
「これだよねー」
一也がリストを書いた紙を手に持っていた。きのう夕食を食べたテーブルに置いておいたのだ。
也子は一也を睨みつけたまま、ひったくるようにその紙を奪いとった。
「まず、黒のバッグ。――これは、えーと、ベッドの横にあるのね」
「そうです」
真尾は肯いた。もう起き上がってベッドに坐っていた。
「――で、服と。・・・・いろいろ書いてあるけど、全部持ってくるね。どうせたいして持ってないんでしょ?」
「・・・・そうかな」
也子が想像する量がわからなかったので、真尾はあいまいに肯いた。
「とにかく部屋着をもってきて欲しいんです。押入れのクリアーケースの中にありますから」
「わかったわ。――つぎに、冷蔵庫の中身はすべて捨てて電源を抜く、と。本格的にお引っ越しね」
也子はうれしそうに笑った。
「でも、これも持ってきてあげるわ。捨てるの面倒だし。なんなら冷蔵庫ごと持ってこようか?」
それを聞いた団地の腕がひとまわり膨らんだような気がしたが、真尾は丁重にお断りした。
「あと、部屋の鏡の前に置いてあるメイクボックスと、お風呂場にあるシャンプーとコンディショナー?」
「気に入ってるんです」
「却下ね。ピクニックじゃないんだから」
「ピクニックー?」後ろで一也が文句を言った。「少なくとも旅行だろ、そこは。家族旅行とか」
「ウッサいわねー。気分をいってるの。・・・・なんか、こう、ウキウキした気分をいったのよ。アンタは黙ってなさいよ。片金のクセにっ!」
「かっ・・・・」
一也が組んでいた腕をといて抗議の顔をした。でもすぐに抑え込んで、また腕を組みなおし、真尾をみて片方の目を器用にクイっとつり上げた。
やれやれ、と言いたいらしかった。
「それに化粧品なんて、どーせそんなものすぐに使わなくなるわよ。男なんてこの一也と団地と時空だけなんだから」
「え? その三人だけなんですか?」
「そうよ。なに? イケメンとか期待してたの?」
「いえ、いったいここに何人いるのか、まったく見当もつかなくって・・・・」
「そう? もうこれで全員に会ったんじゃない?」
也子は後ろをふり返って一也をみた。
「いや、藤乃さんたちがまだだよ」
「それにミヤコ様もね」と真尾がつけ加えた。
也子が真尾を見た。なにか言いたそうだったが、なにも言わなかった。
「ちょっと、訊いていいですか?」
真尾が也子に訊いた。
「イイわよ。なに?」
「ここは、どういう人たちの集まりなんですか?」
最初は質問の意味がわからなかったみたいだったが、すぐに理解すると、声をだしておかしそうに笑った。
「どういう集まりに見える? 私の方が興味あるわ」
「うーん・・・・」真尾は真剣に考えこんだ。「年齢もまちまちだし、人もまちまちだし、・・・・新しい宗教かなにかの集まりなのかなって」
「へえー、宗教かー。なるほどねー。ま、それは、おいおいわかってくるよ。――じゃ、行ってくるね。――あ、そうそう、アンタの携帯はどこにあんの?」
「携帯?」と真尾はとっさにとぼけた。やはり私の携帯に目をつけていたのだ。いろいろとまとめて荷物をもってきた時に、その中にまぎれて携帯が手に入らないかと期待していたのに・・・・。
「多分、ベッドの上だったと思うけど・・・・」
ベッドの脇に置いた黒のバッグの中にあるのはわかっていた。しかし、それを正直に話す気にはなれなかった。
「あやふやねー。――いいわ。じゃ、ここに番号書いて」
「番号?」
「そうよ。アンタの携帯番号だよ。絶対持ってくるように言われたんだから!」
やはり、そうなのだ。このメンバーでもそれぐらいは気が回るのだ。ここはあきらめて、メモの余白部分に自分の携帯番号を正直に書いた。
也子がメモを受け取ってから団地に合図すると、団地は也子をひょいと抱えあげて自分の右肩に乗せた。
肩の上で也子が真尾に向かって手をふった。
あっけにとられた真尾も、あいまいに手をふり返した。
也子はちょっとしたアトラクションに乗ったみたいにうれしそうだった。その格好のまま二人は出ていった。
団地の背は敷居の高さを超えていたが、部屋を出るときには背をかがめるのではなく、足を折り曲げるようにして、つまり也子が肩に坐ったまま姿勢を変えなくてもいいように配慮して部屋を出ていった。
団地という男は也子のことが心底好きみたいだった。
「そろそろ朝食の時間だけど、どうする? ここで食べる? それとも食堂で?」と一也が訊いてきた。
「良ければ食堂で頂きたいんですけど――、ヤヴォトニクさん」
一也はニヤニヤと笑ったまま、なにも応えなかった。
「ダメですか?」
「いや、もちろん構わないよ。では、ただいまご用意を――」
そう言い残して一礼すると、一也はすぐに部屋から出ていった。
真尾は、てっきりあの緑服の女に持ち物リストを細かくチェックされると思っていたので、逃亡を企てているなんて少しも疑われないように、私がこのマザーハウスへ引っ越してくるぐらいの量を思いつくままに書いたが、こんなことならもう少しセーブすれば良かった、とちょっと後悔していた。
でも、まあいい。ここさえ抜けだせたら、また買い直せばいいだけの話だ。まずは、ここから抜けだすことの方が先決で、ずっと重要ではないか。化粧品をケチったぐらいで脱走を疑われたら元も子もない。
――だからこれで良かったのよ。いうなれば、化粧品も洋服も、ここから抜けだすための先行投資みたいなものよ、と真尾は自分を納得させていた。
そう。まずはここから抜けだすことを早急に考えなくては――。
2
ガンッ、ガンッ、ガンッ――。
いつも団地は、九十年式の古いグロリアワゴンのダッシュボードを、こぶしで思いきり叩いてからエンジンをかける。
起きろよ!、の合図らしかった。
助手席に也子が坐り、後ろに時空が乗っていた。時空は背をシートにつけずに、直角に坐っていた。理由を聞いても、彼は答えない。彼はほとんど誰とも会話をしなかった。
高木真尾のアパートの前まで来ても、誰もすぐには車からはでなかった。しばらくじっとしていて、まだ真尾が拉致されたことが表沙汰になっていないのを、周囲のようすから確認しようとしていた。
朝の九時半過ぎ――。
昭和の和洋折衷な住宅や、今どきのモダンな住宅などが混在する結構規模が大きな住宅街だったが、出勤ラッシュは終わっていたので、人影はまったく見当たらなかった。
「時空。ちょっと見てきて」
直角に坐っていた時空はすぐにドアをあけ、滑るように外へでた。彼は長身だが身軽だ。おそらく階段を使わなくても、五秒で真尾の部屋までたどりつけるだろう。
いまも飛ぶようにアパートへ向かい、真尾の部屋の前で周囲を確認することもなく、いきなりドアを開けて中に消え、音も立てずにドアを閉めた。誰かが真尾のアパートを注意深く見張っていたとしてもまったく気づかないのでは、と思わせるような俊敏性だった。
也子は、この二月から時空が高木真尾を監視していたのを知っていた。マザーハウスには携帯が二台しかなく、一台が時空、もう一台を也子が管理していたために、時空からのメールを彼女が毎日受け取っていたからだ。
『未だ孵化せず』
それが時空から送られてくるメールで、朝の七時、昼の十二時、夜の八時に、自動送信しているのではないかと思えるぐらい、毎日正確に送られてくる。メッセージもずっと変わらなかった。
それが昨日の朝――結局、彼はそれまで一度もハウスに戻ってこなかったが――、『卵、孵る』といきなりメールがきたのだ。
そのメッセージは簡潔で素気ないものだったが、それはエクステンションマークを十個つけてもおかしくないぐらいのできごとだった。
それでようやく大きな歯車がまわり出したのだ。マザーハウスの怨嗟がねっとりと絡みついた大きな歯車が――。
也子には、大きな音を立てて軋みながら動きだす、その重々しい音が聴こえるような気がした。
これでいいのかどうかの判断は也子にはつかなかったが、すでに歯車は回ってしまったのだ。いまはもうその流れに身を任せるしかない、と也子は覚悟を決めていた。
しばらく時空からの反応を待ってみたが、なんの連絡もなく、変化もなかったので、也子も団地も真尾の部屋へと向かった。
途中、誰とも会わなかった。日中の住宅街なんて、ゴーストタウンみたいにほとんど人がいないのかもしれない、そんな気がした。
真尾の部屋に入ってみると、時空が冷蔵庫を開いて内部に入っているモノをじっと観察していた。
彼がなにに興味をもって見ているのかわからなかったが、也子はそんなことには興味なかった。もとから計り知れないものに興味をもつ男だったので、常日頃からあまり関わり合わないようにしていたのだ。
「時空! 急いでね。そんなに時間はないのよ」
そう言うと、ようやく彼は持ってきたゴミ袋に冷蔵庫の中身を詰めだした。でも、パッケージがあるものはじっくりと読み、肉類や野菜や果物は丹念ににおいを嗅いで持ち帰るかどうかを吟味している。調理するメニューにまで思考をめぐらせているみたいにゆっくりだった。
その行為を非難したところでなにも変わらないのがわかっていたので、也子は大きくため息をつきながら、まず真尾のベッドがある部屋に入っていった。
ここへ来る前から、二十六歳OLのナマの部屋がどういったものなのか、とても興味があった。これまで雑誌などで見かけることはあったが、本当のところはどうなっているのか、まったくわからなかったのだ。
じっさい真尾の部屋は、也子が想像していた二十六歳OLの部屋そのものだった。
大きな窓には白のレースのカーテンが引かれ、その左右には厚手の薄いベージュのカーテンがきっちりと束ねられていた。その窓の横には腰の高さぐらいの白い収納棚があり、その上にはちょうど上半身が映るぐらいのちょっと大きめの鏡となぜかトースターが置かれていて、その脇に太めのロープで編まれたかわいいゴミ箱が置かれていた。
ちょっと目を引いたのは、ベッドヘッドの脇に、北欧のミッドセンチュリーで有名な、白いアリンコチェアが置かれていたことだ。イスとして使用した形跡はあまりなく、座面には携帯の充電器とティッシュ箱が置かれていたが、それでもそのチェアがあることで、シンプルすぎて個性のないただの小綺麗な部屋でしかなかったものが、ちょっとデザインに興味のあるセンスのいい女の子の部屋に見える効果はあった。
――いやいやいや! こんなことしてる場合じゃない。携帯よ! 早く携帯を探さなくっちゃ!
ベッドには淡いピンク色のベッドカバーが掛けられていたが、薄い羽毛シーツごと一気にどけても、携帯は見つからなかった。サッと部屋の中を見まわしてみても見当たらない。ベッドの脇に黒のトートバッグがあり、その中を確認してみたがなかった。
携帯を置いて失踪する若者なんてまずいないから、それは必ず持ってくるようにという厳命を受けていたのだ。
也子は手にもった黒のトートバッグを団地に渡してから、メモを見ながら真尾の携帯に電話をかけてみた。もちろん後々の問題を避けるためにも番号は非通知にする。
だが、部屋のどこからも音がしない。
呼び出し音は聞こえるのだが、携帯の着信音はどこからも聞こえなかった。
――バイブにしてるのか?
也子がバイブのかすかなモーター音を聞き逃さないように意識を集中していた時、五回鳴ったところで誰かが出た。
也子はビックリした。
「・・・・もしもし?」と遠慮がちな女の声がする。
もちろん、也子は黙っていた。息を殺してじっと相手の様子をうかがう。
相手の声は真尾ではない。あきらかに真尾よりも高い声だった。
騙されたのか? と也子は、相手の気配を探りながら考えていた。アイツは自分の異変を知らせるために、友だちの携帯番号をメモに書いたのだろうか。
「真尾なの? 真尾、大丈夫なの?」
也子は携帯を切った。
「もっと時間がなくなったよー。急いでー!」
そういっても時空に急ぐ様子はなく、カマンベールチーズの箱をひっくり返して、そこに書かれた内容をじっくりと読んでいた。
団地は也子から手渡された黒いバッグをかかえたまま、どうしていいのかわからずに、ただただウロウロしていた。
「とにかく服と化粧品よ、団地っ! 急いでったら! もうっ!」
服は半畳サイズの押入れの中にあったが、そこには息をのむぐらいビッシリと服がつまっていた。
上段にはジャケット、ワンピース、サマーセーター、パンツ、スカートなどがハンガーラックにかけられ、下段にはクリアーケースが六個あって、その中にはTシャツや下着類が入れてあった。
也子は二十六歳の女のクローゼットをはじめてみた。
こんなに持ってるんだ、と思った。こんな溺れるようにある服の中で生活しているんだ。私もこんな風に服の中で溺れてみたい・・・・。
彼女は服の中に顔をつっこんで頬ずりした。とてもいい匂いがした。うらやましい、と正直に思った。それにひき換え、私の生活のなんとつつましいことか・・・・。
身長が一三〇センチではサイズが中途半端で、洋服のバリエーションが少ないという現実的な問題もあったが、それを割り引いても也子の生活はつつましかった。部屋着も含めてまともな服をもっていないのだ。
そう、私だって外出着は必要よ。今日だってこうして外に出てきてひと仕事してるんだから――。もっとあったって、バチは当たらないはずだ。今度ちょっとマーさんに交渉してみよう、と也子はこころに決めていた。
也子は押し入れの中にあった服を丸ごとつかんで、部屋の中にぶちまけた。そして手を広げて服の中に倒れこんだ。
「まずは、そこの衣装ケースを運んで」
也子は服の中でウットリと目を閉じたまま、団地に指示した。
「全部よ。それからこのブチまけた服もね」
団地は言われたとおりにした。
衣装ケースを三ケースずつ二回に分けて運び、部屋にぶちまけられた服は大きな腕いっぱいに三回に分けて運び、最後に、まだ服の中に埋もれてウットリしている也子を服に包んだまま車まで運んだ。
也子はグロリアワゴンの大きな荷台スペースに服を目いっぱいに敷きつめて、そこに大の字になって寝そべっていた。
時空は冷蔵庫の中身を入れた大きな袋を脇に置いて、やはり後部座席に直角に坐っていた。
「あ、化粧品忘れた!」と也子は身体を起こしたが、「ま、イイや」とすぐにあきらめてまた服の上に横になった。
「団地ー。あんまり揺れないようにお願いねー。べつに急がなくてイイからねー」
「ブふー」
そのとき、時空が坐っていた側のドアがいきなり開けられた。
「ちょっと、アナタたちっ!」
全速力で走ってきたのか、開いたドアをつかんだまま、肩で大きく息をしていた。小野アリアだった。
アリアは時空をみて怯んだ。
なに? この頭に被った透明なものは・・・・。
帽子?
次に運転席を見た。
ゴリラみたいに大きな男が面倒くさそうにふり向こうとしたが、首が太くてまわらないので、途中であきらめたみたいだった。
「・・・・ぐフー」
アリアはすぐにドアを閉めようとした。いま目の前にいる、透明な帽子を被った頭のイカれた男に手をつかまれる前に――。
「ナーニー?」
荷台から女の子の声がした。
みると、少女が大量の服の中から顔をだした。
「だーれー?」
小野アリアは、もう一度、時空、団地、也子の順に顔を見直した。
「あなたたちは誰?」とアリア。
「いきなりナニよっ!」
「ここで何してるの?」
「アンタこそ誰よ!」也子は服の上にすわり直した。あきらかに不機嫌そうだった。「ちゃんと名乗りなさいよ!」
「名乗る必要はないわ」とアリア。
「じゃアタイたちもだ。アンタには名乗らない」
小学生のケンカだ、とアリアは思った。かといって他の男たちがまともな会話ができるようにはとても見えない。
アリアは也子に目を向けた。
「あなたはここで何しているの? 学校は?」
この場に一也がいたなら、吹きだしていたに違いない。
みるみる也子がもっと不機嫌になった。
「団地。出して」
ガンッ、ガンッ、ガンッ――。
団地はいつものようにダッシュボードを三度叩いてから、車のエンジンをかけた。
「ちょ、ちょっと、まだ話は終わってないわ!」
「私は終わったのよ。団地、出して」
団地と呼ばれた男は言われたとおり、すぐに車を発車させた。アリアの方を一度も見なかった。興味もないみたいだった。
アリアはまだドアをつかんだたままだった。
「チョーっと! 危ない、危ない!」
そのとき時空が手をのばして軽々とアリアをかかえ込み、車内に引き入れた。そしてドアを閉める。
気づいた時には、アリアは車の後部座席に坐っていた。荷台にいる也子から見て、右から時空、ゴミ袋、アリアの順だ。
最初、アリアはなにが起こったのかわからなかった。
「エーッ!」と、しばらくしてアリアが叫んだ。
そして時空をみた。
「どうしてーっ!」
「うっさいわねー」也子がニラんできた。「なんでアンタが乗ってんのよ」
アリアは反対側のドアから逃げようとした。
しかし開かなかった。
見るとドアロックがかかっていた。
あわててそれを外す。
でも開かない。
「壊れてるのよ、そこ」
アリアは正面を向いて坐りなおした。
両手をきちんとヒザの上に置いて、これからどうすればいいのかを急いで考えていた。
「急におとなしくなったわね」也子がおかしそうに笑った。「言っときますけど、アタシはこう見えても二十六なんだから、言葉には気をつけてよね」
「えーっ!」アリアはふり向いて、改めて也子を見直した。「ホントにー?」
「そうよ。アンタはいくつ?」
「二十六だけど・・・・」
「へー、タメじゃん。アンタもアイツと一緒なんだ」
「アイツって真尾のこと?」
「そうだっけ?」
也子は時空をみた。
時空は瞬きもせずに直角に坐ったままだった。
アリアはそんな恰好でいる時空を、上から下まで改めてじっくりと見直していた。
「たぶんそう」と也子。「で、アンタはなんなの?」
「真尾の友だち」
「そう? 古いの?」
「いや、まだ三カ月ぐらいかな」
「じゃ、たいしたことないわね」
「たいしたことないって・・・・。それよりあなたたちこそなんなの? 真尾をどうしたの?」
「どうしたって?」
「どこかへ連れてったの?」
「そうよ」
「無理やり?」
「・・・・そう、かな。アタシじゃないよ。だからよく知らないわ」
「で、彼女はいまどうしているの? 元気なの?」
「ピンピンしてるわ。このアパートにモノを取りに来たのも、アンタのお友だちの指示なんだから」
「指示?」
「そうだよ」
「真尾が持ってきてって希望したの?」
「そうだよ。だからこうしてわざわざ来たんじゃん」
「そう・・・・」
アリアには信じられなかった。でも、嘘をいっているようにも見えなかった。
「じゃ、会わせてよ」
「は?」
「彼女が元気なら会わせてよ」
「ウーン。急にそんなこと言われてもナー」
也子は顔をしかめた。本気で嫌がっているみたいだった。
「ダメなの?」
「だってアタシには決められないよ、そんなこと――」
「じゃ、連絡とってよ。その・・・・、本部に」
「本部? ナニよそれ」
「真尾がいるとこよ」
「なんで本部なの?」
「いえ、たんに、そういうとこは本部かなーって」
「どういうとこよ」
也子がちょっと笑った。
「わかったわ。ちょっと連絡してみる。でもまた怒られそうな気がするナー」と嫌々ながら携帯を出して連絡をとった。
最初に電話をとった相手に事情を説明しているようだった。
途中からケンカになっていた。
「もう! だーかーらー、入れたのは時空だって。じーくーうー。わかった? 誰もアイツを止められないでしょ? アンタだってそうじゃない。――じゃ、アンタが来ればよかったんでしょ! 私なんてちーっとも来たくなかったんだから。・・・・そうよ。――えーっと、ちょっと待ってよ。アンタ、名前なんて言うの?」
アリアは言いよどんだ。言ってはマズいような気がした。まだこの連中が敵か味方かもまったくわからないのに、本名を教えるなんてあまりにも無防備だろう。ここは偽名で・・・・、と考えていると、横から時空が也子に一枚のメモを差しだした。昨夜、アリアが携帯を預かっていることを記入したメモだ。
「えーっと、『ゴメンネ。とても心配だから携帯を預かって・・・・』、エーッ、時空、なによコレ!」と也子がすぐに文句を言ったが、時空はすでに直角に坐って、じっと前を向いたままだった。
「もうっ! ――エーっと、ちょっと待ってよね。んー、アリア、だって。それしか書いてない。うん、そう。アリア。――はい。――わかってるわよ。――ナニそれ! いま関係ないじゃない! ――わかったわよ。もうカタキンって言わない。早くしてよねー! ――はい、はい。じゃ、よろしくネー」
也子は携帯を閉じた。
「折り返しするって。――それより、時空! アンタ、アパートに入ってこのメモ見たの? じゃ、なんでそれを最初に言わないのよ。だから、こんなことになったんじゃないの! もうっ!」
「・・・・」
やはり時空は前を向いたまま、なにも応えなかった。
「カテキンってなに?」アリアが訊いた。
也子はびっくりしてアリアをみた。
「カテキン?」と也子。
「あなた、いま電話でカテキンって」
「あー、カタキン?」也子が笑った。「片金って言ったんだよ。片方の金玉」
「片方の・・・・?」
アリアが絶句した。それを見て也子が笑った。
「アタシの弟のことよ。まだ十七なんだけど、オンナに全然興味ないみたいだからそう呼んでやったの。片方しかキンタマがないんじゃないの?って。ハハッ、ちょっと怒ってた」
どこでも見る普通の姉弟ゲンカのように見えた。なぜ、真尾はそんなところにいるのだろう。小野アリアにはさっぱりわからなかった。
「ねえ。アンタもこんなに服をいっぱい持ってるの?」
也子はぶちまけた洋服を指して訊いた。
アリアは荷台をのぞき込んだ。
「これって、真尾の服?」
「そう。全部持ってきたんだ。――言っとくけど、本人の希望だからね」
「ふうん、そう。まあ、真尾は倹約家だから、これでも少ない方かなぁ」
「ウソ・・・・」
也子はしきつめた服を見渡しながら黙り込んだ。
「ま、私より少ないのは確かね」
「そう・・・・」
「なに? どうかしたの?」
その時、也子の携帯が鳴った。
表示された名前を見て、嫌な顔をしたがすぐに出た。明らかに先ほどの片金の弟ではなさそうだった。
ボスか? とアリアは勝手に想像していた。也子からはあまり発言することはなく、いろいろと指示を受けているようだった。
電話が終わると、也子は広げられた洋服からなにかを探していた。
「なに探してるの?」とアリア。
「アンタを目隠しして連れてこいって」
「え? 私を? どこへ?」
「マザーハウスよ。――んー。これじゃ細すぎるなー。ちょっと、アンタも探してよ」
「マザーハウスって?」
「アンタの大好きな真尾ちゃんがいるとこだよ」
「そうなの。――でも、どうして私を?」
「さあ――」也子も首をひねった。「でも、連れてこいって」
「嫌よ、そんなの――」
「だって連絡とれって、アンタが言ったんだよ!」
「連絡とれって言ったけど、連れてってなんて一言もいってないじゃない!」
「でも連れてこいって言うんだもん!」也子は文句を言った。「仕方ないでしょ! もう決まったの。ワーワー言わないで!」
アリアはまたドアを開けようとした。
「だからそこは開かないっつーの! 言っとくけど、窓もね。いまさら逃げようとしてもダメよ。時空! その子、押さえといて」
時空は、自分とアリアとの間に置いてあったゴミ袋をサッと助手席へと移動させてからアリアを見た。
「オマエ・・・・」
時空がしゃべった。アリアはしゃべる時空に驚きながらじっと見ていた。なにを言うのかと思った。
也子も手を止めて時空を見ていた。
「オマエ――、会わせてって言った」
「はぁ?」アリアは何のことを言っているのかわからなかった。「なに? なんなの、もうっ! いいから、こっちへは来ないでよ!」と手で制止しながら時空をにらむ。
「いいわ、時空」也子が止めた。「どうせ逃げられないんだから・・・・」
手にトレンチコートのベルトを持っていた。
「いい? マザーハウスに着くまでじっとしてる? だったら時空に触らせない」
「そんなことしたら着いちゃうじゃない!」
「じゃ時空に押さえこんでもらうだけだよ」
アリアは時空を見た。
時空はふたりの会話すら興味がないように、前方を見たままじっとしている。
それがアリアにはよけいに気持ち悪かった。
「わかったわ。じゃ、目隠しだけね」
アリアはおとなしく目隠しをさせた。
「痛ッ。もうちょっとゆるめてよ」
「ダメだよ。見えたら元も子もないもんねーっと」
「イテテテッ。・・・・そこは遠いの?」
「そうねー。どうかなー。いいよ、寝てて。アタイも寝るから。――時空はちゃんと見張っててよ。逃げそうになったら抱きついていいからね」
「そんな指示やめてよ」
「じゃ逃げなきゃイイさ。団地ー。わかってるわねー。急がなくてイイからねー」
「ぐフー」
しばらく右に曲がったり左に曲がったりをくり返しているうちに、すぐにいったい今、どの方向へ向かっているのかもわからなくなった。
しかし、私はこんなことをしている場合じゃないのだ、とアリアは考えていた。
昨夜、真尾のアパートで、お腹の中でなにかが動くのを感じて以来、そのことしか頭になかった。真尾の携帯が鳴らなかったら、いまもずっと自宅にこもったまま、だれにも相談できずに悩みつづけていたに違いない。
妊娠検査薬は、昨夜、真尾のアパートから、自分のアパートへ帰る途中にあるコンビニで購入した。
陽性だった。
検査する前から覚悟はしていたが、じっさいに陽性だとわかると、ショックは大きい。
二年ぐらい前に、しつこい先輩と味気ないセックスをして以来、一度もしていないのになぜだ?
理由がわからなかった。
きっと真尾も同じ状態なんだろう、そんな気がした。
少子化対策のための方策で、闇の政府が女性を片っ端から妊娠させているとでもいうのだろうか・・・・。
生理がこなくなったのは一月末だ。
その頃は阿島コウイチのせいで、心も身体もボロボロの時期だった。
生理がこないことを気にかけてるどころじゃなかったのだ。そもそも生理がこないことも、『心身症型自律神経失調症』のいち症状かとも思っていたのだ。
それが妊娠していたなんて・・・・。
アリアは目を閉じたまま、そっとお腹に手をあててみた。
――また動いてる。
お腹の中で旋回しているように、ゆっくりと動いている。
彼女には、お腹の中で育っている生き物が、エイリアンに思えてしかたなかった。いまにもお腹を突き破って出てきそうな気がして、不安でならない。やっぱり早く病院へ行って処分してもらわなくては、と彼女は考えていた。
あー、でも眠い。
昨夜は一睡もできなかったのだ。
そりゃそうだろう。
お腹の中にエイリアンを抱えながら眠れるか?
そんな太い神経持っていたなら『心身症型自律神経失調症』にもならないってものよ。
いや、でも、いまは寝ちゃいけない。
今だけは眠っちゃいけない。
どこに連れていかれるのかわからないのよ?
なのに眠れるの?
その程度に私の神経は太いの?
いやいや、ダメダメ――。
このシチュエーションで寝るなんてあり得ない!
死んでも眠っちゃダメよ!
死んでも・・・・。
・・・・眠っちゃ・・・・。
・・・・。
3
高木真尾は食堂へ向かうために部屋を出た。
考えてみると、このマザーハウスに来てから自分ひとりだけで部屋をでるのは初めてだった。監禁されているという意識があるだけに、その自由な感覚はちょっと意外だった。
でも、カメラかなにかで常時監視されているのかもしれない。
真尾は昼間でも薄暗い廊下を注意深く見まわしてみた。
『ホラホラ、見てるよー! カメラを探してるよー。見つかるわけないのにー。キャハハハハハーッ!』なんていう声を意識しながら――。
部屋を出て右側は廊下の行き止まりで、窓もなにもなかった。一面漆喰で、ヒビが入って崩れているところもあったが、そのまま放ったらかしだった。
昨日と同じで、二階には人の気配がまったく感じられない。それこそ博物館の〈関係者以外立ち入り禁止〉エリアに立ち入ってしまっような気分だった。
中央の階段で下に降りてみる。
重厚そうな木製の手すりだ。表面がツルツルに光っていて、古くから人が触り続けてきた年季を感じさせた。
一階に降りてみると、正面が玄関になっていた。元病院だけあって間口は広く、三十人ぐらい靴を脱いでもまったく問題ないぐらいの広さはあった。
驚いたことに、玄関ドアは施錠されてなかった。手回し式の錠がちゃんとついていて、それは壊れることなく機能していたので、意図的に鍵がかけてないのだ。
もう脱出できる場所が発見できたと思って喜んだが、玄関を出てみると、それはすぐに失望に変わった。玄関のすぐ外側に、巨大な黒い壁があったからだ。高さは二階ぐらいまであり、左右に見える範囲はその壁がずっと続いていた。
――壁じゃなくて、塀なの?
黒い壁に触ってみる。
冷たい。ザラザラしたコンクリート製だ。
ツヤのない黒い塗装が施されていて、叩いてみても、まったく振動を感じない。海岸にある堤防みたいに頑丈で、分厚いのだろう。
そんなに真新しいようにも見えないので、少なくとも自分の監禁が目的で作られたものではないようだった。
しかし、その黒い壁の存在はあきらかに異様だった。玄関を出てすぐの場所に、こんな壁があったら、病院の玄関としてはまったく機能しないだろう。
――閉鎖?
過去にこの病院で重度の疫病が発生してしまって、被害の拡散を防ぐために、強制的に玄関をコンクリートの壁で塞いでしまった。もしくは、建物全体を壁で囲ってしまった。そんな感じだった。でも、だからといって、こんな恒久的なコンクリート製の壁でこの建物を囲ってしまうなんて・・・・。
やはり情報が少ない今の段階では、真尾には何もわからなかった。
一階のレイアウトは二階と同じようだった。階段を境にして左右に四部屋ずつ配置されている。ただひとつの違いは、玄関を背にして右側の廊下のつき当りにドアがあることぐらいだった。
そのドアがある廊下側の、手前の部屋から一也がでてきた。
「ここにいたんだ」一也が足を止めた。「お食事の準備ができましたよ、真尾さま」と食堂の入口に立って、真尾を案内するように手を広げた。高校出たてのホテルのドアボーイみたいに動きがぎこちなかった。
「これはなんなの?」真尾は黒い壁を指し示しながら、一也を責めるように言った。「気味悪い壁ね」
一也は黒い壁を見た。しかし、すぐに視線を外した。
「それは後ほど、ご説明致しますから・・・・。とにかく、こちらへどうぞ」
真尾は言われるまま一也の前まで歩いていった。
「ここは何?」
「食堂でございます、真尾さま」と一也が軽く頭を下げる。
食堂の広さも真尾の部屋と同じだった。ただ、隣室に面した壁が取り払われていて調理室になっていた。そこには、女性が二人忙しそうに働いているのが見えた。
食堂の中央には真鍮製の古ぼけたシャンデリアが下がり――昼でも灯りは点いていたが、電球が三個切れていた――、その下には向き合って八人が楽に坐ることができる大きな長方形のテーブルがあった。重厚で、根気よく磨き込まれた艶のあるテーブルだった。このテーブルも昭和五年から使用しているのでは? と思わせるぐらいの風格を感じさせた。
窓は木枠で、よく手入れが行き届いた庭が広がっているのが見えた。それぞれの窓には重厚な色と模様のカーテンがきれいに束ねられていたが、それも昭和五年からずっと束ねられたままみたいに見えた。
部屋の隅には腰までの高さのキャビネットがしつらえてあり、そこには青いガラス製の花瓶に花が生けられていた。カサブランカをメインにソルボンヌをうまく散らせて、背景にはスモークツリーがきれいに構成されていた。
明らかにここには活け花ができる人がいるようだ。
「では、こちらへ」
一也が大きなテーブルの中で一番調理室に近い椅子を引き、真尾が坐るのを待っていた。
そこには生成りのランチョンマットが向かい合わせに二枚並べられていて、ナイフとフォーク、それにデザートスプーンがきちんと置かれていた。
だが、時空が並べたほどではなかった。おそらく一也が並べたのだろう。
真尾が坐ると、その向かいに一也が坐った。ほどなく料理が運ばれてきた。時空ではなく、緑服の女と同年輩ほどの中年の女性だった。
「こちらが藤乃さん。ボクが生まれる前からずっとここで働いてもらってるんだ。掃除とか、料理とか、ミヤコ様のお世話とか、とにかくこのマザーハウスの管理を全部してもらってるんだ」
真尾がお辞儀をすると、藤乃さんはニコニコと笑って、真尾よりも深くお辞儀をした。そしてニコニコと笑ったまますぐに下がっていく。
「言っとくけど、彼女、話せないんだ。耳が悪いわけじゃないんだけどね」
なんらかの大きな心的ショックで話すことができなくなる人がいることを、真尾は授業で習ったことがあった。
そういう人と無理に話をしようとすると逆効果だ。彼女らにとっては拷問と同じらしく、話せないことを意識せずにそっとしておくしかない。そうしておいて心の雪解けを待つしか・・・・、ぐらいの知識しか真尾にはなかった。
運ばれてきた料理をみると、真尾が好きなサッと湯通ししたほうれん草に、オリーブオイルでカリカリに焼かれたベーコンがのったサラダだった。それに表面が石みたいに硬く、中がふんわりと焼かれたバゲットが、ちゃんと二センチにカットされた状態で籐のカゴに入っていた。
真尾は声にこそ出さなかったが、自分の好みのモノが、それも好みの状態で並べられているのが嬉しくてならなかった。自分で作っても、なかなかこううまくはいかない。
それからすぐに、プレーンオムレツが運ばれてきた。今度は若い女の子だった。
「彼女は藤乃さんの娘さんで、アオちゃん。ボクと同じ十七才で、現在絶賛登校拒否中! それもボクと同じ!」と笑う。
そう紹介されたアオは、顔を真っ赤にしてすぐに引っ込んでいった。
「彼女も誰とも話さないんだ。ボクとだけは、普通に話をしてくれるんだけどね」
「・・・・そう」
真尾は一也のセリフをよく聞いておらず、運ばれてきたプレーンオムレツをじっと見つめていた。そして、ケチャップがかかってない部分に軽くナイフを入れてみた。
すると焼けたタマゴの表面が割れて、中にある半熟たまごと溶けたチーズが見えた。
その溶け方も絶妙だった。
チーズの原型が小さく残る程度に表面がトロリと溶けて、半熟たまごになじんでいる。
真尾はため息をついた。
「どういうこと?」
「なにが?」
フォークだけを使ってプレーンオムレツを口に入れながら、一也は真尾を見た。
「うまいねー、コレ!」
一也が調理室に向かってOKのサインを送ると、藤乃さんが嬉しそうにほほ笑んでいた。
「これは誰が作ったの?」と真尾。
「たぶん、藤乃さんだよ。ちゃんと時空の指導を受けて、だと思うけどね。お口に合わないの? ――ってまだ食べてないか」
真尾は手にもったナイフとフォークを置いて一也をにらんだ。
「どうして私の好みをこんなに知ってるの?」
「え? そう? 朝食ってこんなもんじゃない?」
「そんなことないわ」
真尾はドレッシングがはいったガラスの瓶をつかんで、目の高さまで上げた。
「これはなに?」
「七味唐辛子」
「んなわけないでしょう。これは、なーに?」
「・・・・ドレッシング」
「それもただのドレッシングじゃない。オリーブオイルと、ワインビネガーと、コショウと塩が入ってる、までならわかる。だけど――」
真尾はドレッシング瓶のフタをとってにおいを嗅いだ。
「ちゃんと、レモンの皮を細かく刻んだものまで入ってる。そんなオリジナルドレッシングなんてありえないわ」
「そう? ボクがレモン好きだから、時空が入れてくれたんだよ、きっと」
「そんなことあるわけないでしょう!」
「・・・・だってお客さんだろ? おもてなしをするのは当たり前だよ」
「おもてなしはうれしいけど、気味悪いわ。いったい、あなたたちは、私のことをどこまで知ってるの?」
「わかった。知ってることはちゃんと答えるから、とにかく食事をしようよ。ホラ、藤乃さんたちが心配そうに見てるよ。せっかく作ってくれたのに――」
調理室の方を見ると、藤乃さんたちは全然こっちを見ていなかった。
食堂と調理室の間につくられたカウンター越しに、藤乃さんは調理器具の片づけに、アオは紅茶をいれる準備をしているのが見えた。
「ほら。私がコーヒーがダメなのもちゃんと知ってる」
「好き嫌いが多いんですね」
一也は言った。開き直ったようだった。
「なんで君が怒るのよ」
「だって、せっかくおいしい朝食を食べようとしてるのにぃ・・・・。もう怒ってばっか」
「そりゃそうでしょう? だって気味悪くない? クツのサイズから食事の好みまで、もうなんでも知ってるのよ?」
「イイじゃん。みんな、キミに良かれと思ってやってんだから。ちょっとでも快適にいてもらおうと思って」
「・・・・うーん。なんか変」
「そう? 考えすぎだって。これでキミの口に合わないものが出てきたら怒ってよ。そっちの方がずっとわかりやすい」
「そういう問題じゃなくて・・・・」
「そういう問題なの! 食べてみれば? ホントにおいしいよ」
真尾はプレーンオムレツをひと口食べてみた。
「・・・・!」
確かにうまい。
ちゃんと鉄のフライパンで焼いている焦げ加減と、たまごの半熟具合が絶妙だった。
「ホント、おいしい! もういいわ。おいしいから許す」
「そう! それが一番!」
一也もうれしそうにまたプレーンオムレツを頬ばった。
◇
食事が終わると、一也が屋敷内を案内してくれることになった。
食堂を出てすぐ正面が時空の部屋、その左側が風呂場ということだった。
「どこから観たい?」
「お風呂場からお願いします」
「わかった」
風呂場のドアを開けると、もうそこでも熱気を感じた。
「ほんとに二十四時間沸いてるのね」
「ここにはワガママな人間が多いから」と一也が笑った。君もその一人でしょ、と言ってやりたかったが、口には出さなかった。
右側に蛇口がふたつ並んだ洗面所があり、奧に脱いだ服をいれておく編みカゴがならんだ棚、左側は砂荒らし模様の型ガラスがはまった木製の大きな引き戸があって、その奥が浴槽らしかった。
「浴槽も見せてもらっていい?」
「もちろん」と一也がそのガラス引き戸を重そうに引き開けると、いま沸いたばかりみたいに湯気がもうもうと立ち込めていた。
「大っきいのねー。これがいつも沸いてるの?」
「そう。浴槽には樹齢何千年っていうヒノキをつかってるんだって。――ま、ボクは岩風呂の方が好きだけどね」
「そう? いい匂いよ。私はこのヒノキの匂いが大好き」といって大きく深呼吸した。そして「いま入っていい?」といって服を脱ごうとする。
「おいおい、マジかよ」
あわてて一也が止めた。
「ウソよ」
一也はため息をついた。
「アンタはほんとに二十六か?」
「君は確かに十七っぽいけどね」
一也はもう一度ため息をついた。
次に時空の部屋へと向かい、一也が軽くノックをしてから返事も聞かずにドアを開けた。
時空は不在だった。真尾の部屋と変わらない広さだったが、そんな広い部屋の中央に金属フレームのベッドが置いてあるだけの、おそろしく殺風景な部屋だった。その他にはなにもない。机もイスもタンスも何も・・・・。窓にはカーテンすらついてなかった。
その光景を驚いて見つめている真尾を、一也が笑いながら見ていた。
「スッキリしてるでしょ」
「彼は、ここで生活してるの?」と真尾は部屋をのぞき込みながら不思議そうに訊いた。
「そうだよ」
床は古い杉材のままで絨毯もなにも敷いておらず、もちろん壁も古い漆喰のままで、装飾はなにもなかった。時計もなかったし、驚いたことに天井に照明もなかった。部屋を見回してみてもフロアーランプすらなかった。
「・・・・ここで生活できるの?」
一也が吹き出した。
「どういう意味? 時空はちゃんとここで生活してるよ」
「そうなんだ・・・・」
「昔はちゃんと部屋っぽくモノはあったんだけど、それがだんだんなくなっていって、いまではベッドだけ」と笑う。
皺がないようにキレイにシーツが被せられたベッドが、広い部屋の中央に置かれている空間。それも部屋に沿ってまっすぐに置かれているわけではなく、三十度ぐらい歪めて置かれていた。なんだかその部屋ごと、大切なメッセージが込められたアート作品のようだった。
「彼の着替えの服とかはどこにあるの?」
「知らない。こんど聞いてみれば?」
真尾は、難しい顔をしたままうーんと唸るだけで、それ以上はなにも言わなかった。それもまた一也には面白いようで、彼は真尾を見てニコニコと笑っていた。
つぎに玄関ホール。
「さすがに玄関は広いのねー」それは真尾の正直な感想だった。「それにとっても気持ちいいわ。天井が高くって」
「まあね」
「さっきも訊いたけど、あの黒い壁は何なの?」
一也は黒い壁を見もしないで大げさに肩をすくめてみせた。まだ生まれてから三回ぐらいしかしたことがないんじゃないかと思えるぐらい、その肩のすくめ方はぎこちなかった。
「あそこからは君も出られないの?」と真尾が訊くと、
「そうだよ」と一也は素っ気なく応えた。「ボクだけじゃない。誰もこの玄関からは出られないんだ」
「誰も?」
「そう、誰も」
真尾は改めて黒い壁を見た。
「あなたたちが造ったの?」と真尾。
「まさか・・・・」一也は吐き捨てるように言った。そして忌々しそうに、玄関のすぐ外側にある黒い壁をにらみつけながら続けた。
「このマザーハウスは、あの黒い壁で囲われてるんだ。だからキミも逃げるのは諦めたほうがいい」
「黒い壁で囲われてるって、じゃ、やっぱりあれは塀ってこと?」
「ま、状況はそうだね」
そう聞いても、真尾は状況がよくのみ込めなかった。そんなものが街に存在するの? そもそも街にそんなものが存在することが可能なの? 刑務所じゃあるまいし――。
「でも、あれは塀じゃないんだ」一也が言った。彼はまったく別のことを考えているみたいだった。
「あれは、あくまでも壁なんだ。社会とボクたちを隔てるための――」
ここと社会とを隔てるための壁? ここにはそんな隔てるものが必要なんだ、と真尾は思った。
――選ばれし者たちが生息する場所、と一也が言っていた場所。それは建物ごと黒い壁で囲う必要がある場所なんだ。
なんなんだろう、ここは・・・・。
「あの壁で、ボクたちのなにかが狂ってしまったんだと思う」と一也は言った。そのセリフには冷たい怒りがこもっているように聞こえた。
なにかが狂ってしまったという一也のセリフが引っかかったが、いまはなにも聞けない雰囲気だった。
一也は真尾に目を向けて笑った。
「――で、次にこっちがミヤコ様の部屋」と玄関からみて左側の廊下に入り、その右側の部屋を指した。
「ミヤコ様の部屋は、壁をぶち抜いてひと部屋になってるんだ。そしてこっちが――」とその向かい側の部屋を指す。
「――あの例のふたりの部屋」
「緑さんと黄色さん?」
「そう呼んでるんだ」一也が笑った。「そう、そのふたり」
ミヤコ様の部屋から規則的な呼吸音が聞こえる。人工呼吸器の音だ。
「ミヤコ様はご病気なの?」
「そう。肺の病気なんだ」
「――高齢なの?」
「八十五、だったかな。もうずっと臥せってるけど」
「そう――」
真尾は教祖様的な装飾でもされてないかと思って、ミヤコ様の部屋のドアのまわりを見回してみたが、他の部屋のドアと同じでなんの飾り気もなく、それらしいモノはなにもなかった。
「なに探してるの?」と一也。
真尾は一也に目を向けた。
「ミヤコ様って教祖さまじゃないの?」
一也が吹いた。
「也子にも訊いてたよね。新興宗教がどうのこうのって。ミヤコ様はミヤコ様だよ」
「ミヤコ様はミヤコ様? よけいに意味がわかんないんだけど・・・・」
「それはおいおい、そのー、緑さんが――」と言って一也は照れたように笑った。緑さんという呼び方が面白いらしかった。
「ちゃんと説明してくれるよ」
「またそうやってみんな逃げる。ちょっとでもいいから教えてよ」
一也は笑った。
「ダメだって。そんなこと話したら、ボクがこの天井から――」と一也は玄関前のふき抜けの空間を見上げた。「両腕を縛られて吊るされるんだ。何時間も・・・・」
真尾も同じように天井を見上げた。
それは、吊るされるなら信じられない高さだった。想像しただけでも失神しそうだ。
一也を見ると、彼は神妙な顔をして腕をつき出してきた。
「ほら、これが吊るされた時のロープの痕」
真尾が恐る恐る一也の腕をのぞき込む。
その耳元に一也は口を近づけた。
「ウソ」
「ちょーーーっ!」
真尾は一也の肩をたたいた。
そのとき電話が鳴った。
昔の電話機のベルの音だった。
真尾はどこで鳴っているのかわからなかったが、一也はすぐに食堂に向かって走っていった。
真尾も食堂の入口までいって、聞き耳をたてていた。
最初はわからなかったが、電話の相手は也子のようだった。
クルマに誰かを乗せているらしい。
すぐにケンカになっていた。
「あなた・・・・」
驚いてふり向くと、藤乃アオが立っていた。
「なに?」真尾は向き直ってアオを見た。「どうかしたの?」
「あなたは、どうして、ここにいるの?」
真尾は驚いていた。喋れるのだ。一也以外誰とも話さないと言っていたアオが、私相手にでも、ちゃんと喋りかけてくれているではないか。
真尾はあわてて彼女の腕をつかんだ。
「痛っ」
「あ、ゴメンなさい」
手の力をゆるめる。そしてアオを見上げる格好になるように、その場にしゃがみこんだ。
「私ね、監禁されてるの。わかる? かんきん?」
焦って小学生相手の口調になっていた。相手は不登校とはいえ、高校生なのだ。でも、わかっているのかいないのか、アオは表情ひとつ変えなかった。
すでに怯えきってしまったのかもしれない、と思うと、真尾は焦ってしまった自分に舌打ちしたい気分だった。
「ね、助けて。あなたはどこに住んでるの?」
「ここの二階ですけど・・・・」
「二階? ここの?」
「はい」
「――アリア?」と一也が叫んだ。
真尾はびっくりして一也がいる方をうかがった。でも、その後は急に声が低くなって聞こえなかった。
・・・・アリア?
アリアがクルマに?
どうして?
アリアって、あの小野アリアのこと?
真尾もすぐには理解できなかった。
それからすぐに一也は電話を終えて走り出てきた。
廊下に真尾がいることに気づくと
「ちょっと部屋に戻ってて」と指示したが、アオに気づくと立ち止まって怖い顔をアオに向けた。
「どうした?」
「いえ、あう○△✕◆・・・・」
アオの返事は言葉にならなかった。
「ああ、アオちゃんは私の――」
「戻ってろよ!」
一也は真尾の言葉をさえぎり、アオに向かって言った。怖い顔がよけいに怖くなっていた。
「今すぐに!」
「そんな言い方はないんじゃ――」
調理室から藤乃さんが飛んで出てきた。そしてあわててアオに駆け寄り、なんども頭を下げながらアオを引きずるようにして調理室に戻っていった。
一也は真尾を見ずに、すぐに緑服の女の部屋に消えた。
何もかもがあまりにも突然のことだったので、真尾はその場にしゃがみこんだまま、しばらく呆然としていた。
アリアが也子たちのクルマに乗せられているの?
そうでなければ、彼らの口からアリアの名前がでるわけがない。
そこで真尾は、昨日が月曜日だということを思い出した。
アリアは〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉に連絡もなにもないまま休んだ私を気に掛けて、アパートまで来てくれたんだ。
そして今朝、偶然? 私の部屋から荷物を運びだす也子たちを見て、なんらかの行動を起こしてくれたのだ!
それって危険じゃないの?
なにも関係ないアリアがここに連れてこられるなんて、なにか秘密にしておきたいことを知ってしまったからじゃないの? と真尾は思った。
だったら危険じゃない?
アリアが危ない!
真尾はすぐに駆けだして、緑服の女の部屋のドアを開けた。
ノックもしなかった。
びっくりして一也がふり返り、緑服の女も真尾を見た。
緑服の女は電話をかけていた。
「ちょっと! アリアをどうするつもりなの? なにもしないでよ! なんかしたら、このお腹をかっさばくから! 本気よっ!」
真尾は切腹を真似て、右手でなんどもお腹を左右にこすった。彼らに対して一番効果があると思ったのだ。
そのとき真尾は、背後からはがい絞めにされていた。
みると、黄服の女だった。
彼女は背が低いので、真尾をうしろからはがい締めにするのも大変そうだったが、力は意外に強かった。最初は男につかまれていると思ったほどだ。
すぐに一也が出口に向かってきた。
緑服の女は電話に向かって小声でなにかをしゃべっている。
なにを言っているのかはわからなかった。
「アリアがクルマに乗ってるの?」
真尾は近づいてきた一也に訊いてみた。だが、一也は黙って首をふるだけだった。
「そんなことも教えてくれないの?」
黙ったまま一也が肯く。
「まさか、殺す気じゃないでしょうねぇ」
「コロす?」
一也も足を止めてビックリしていた。
そして笑って首をふった。
「そんなこと、ボクたちがするわけないじゃないか」
「そうなの?」
「あたりまえだよ。ボクたちをなんだと思ってんの?」
「なんだって・・・・、見たままよ」
一也はその場で苦笑した。
「だったら、キミが見ているのは間違ってる」
「じゃ、アリアをどうする気なの?」
「いま相談中なんだ。でも、悪いようにはしないさ。約束するよ」
一也が真尾の背後で腕を懸命につかんでいた黄服の女を見て肯くと、ようやく黄服の女が手を放した。
一也は真尾を押すようにして部屋の外へでた。
「ちょっと外へいこうか」
「そんな気分じゃないんだけど」
「大丈夫。心配いらないって。ウソだとわかったら、腹をかっさばいてくれてもイイから」
真尾はちょっと考えた。
「・・・・なんか損な取引じゃない?」
「キミが言ったんだろ?」一也はおかしそうに笑った。「急になにを言いだすかと思ったら――。電話聞いてたんだ」
「あんなに大きな声でケンカしてたら、この屋敷のどこにいたって聞こえてたわよ」と真尾。
「確かにね」と一也もすぐに同意して笑っていた。
◇
廊下のつき当りにあった中庭への出入り口は古い木枠の引き戸で、やはりここも施錠はしてなかった。よほど黒い壁が堅牢なのだろう。
得意げに一也が脇にあったゲタ箱を指し示した。見ると、〈高木真尾〉と名前が書かれた棚があり、そこには新品のナイキのスニーカーが入っていた。白地に赤いナイキラインのやつだ。その上にビニールに入ったままの靴下もあった。それも白だった。その他の棚にも色々と履き物がはいっていたが、とくに名前は書かれていなかった。
「多少の運動は必要だからね」と一也もスニーカーにはき替えながら言った。彼のは黒のアディダスだった。
真尾はゲタ箱の横に置いてあった木製の丸椅子に坐って白色の靴下をはき――靴下もナイキだった、スニーカーをはいた。やはりサイズはピッタリだった。
彼女は身長に比べて足が大きく、二十五センチだったにもかかわらずにだ。靴によると二十五・五だってこともある。横方向に広いのだ。
だが、そのスニーカーはピッタリだった。
真尾は一也を見た。
一也はニッコリ笑って真尾を見ていた。
「どう?」
「ピッタリ・・・・」
「良かった。言っとくけど、こういうものも全部時空が選んでるんだからね」
あの時空って人が私のすべてを調べ上げてるっていうの?
だからあの料理――。
だからあのドレッシング――。
だからこのスニーカー――。
あの時空が買い物をしている光景がまったく想像できなかったが、彼ならすべてが完璧にできそうな気がした。
「・・・・ありがとう」
無表情に真尾は礼を言った。
その引き戸から出てすぐ正面は、例の黒い壁だった。右を見ると、壁はすぐに直角に曲がっていて、そのまま玄関前の壁とつながっているのだろう。高さも同じで、少なくとも二階の窓から外部が見えないぐらいの、もしくは外部の歩行者から建物の屋根が見えないぐらいの高さはあった。
左に曲がってすすむと、急に開けた庭にでる。
広さはテニスコート四面ぐらいあった。
庭はきれいに手入れされていた。
赤レンガで区切られた花壇に、六月に咲く花がちゃんと棲み分けされている。アジサイ、花ショウブ、小紫、つゆ草、桔梗など、色とりどりの花が植えられていた。
「スッゴくキレイに管理されてるわねー。ここに立っているだけでも気持ちイイー」と真尾は手を大きく広げて深呼吸した。
これだけの広さがある庭を、これだけのクオリティで維持するなんて相当大変だと思った。
「庭の管理はさっきのアオが担当してるんだ。だから花の種類もレイアウトも、すべて彼女の好みなんだ」
ところどころにディズニー映画の白雪姫にでてくる七人のこびとの小さな人形が置かれていた。それぞれ身体を傾けたり、花壇とは別の方向を見ていたり、二体がくっついて相談しあっているようなものまであった。
ここではアオのオリジナルストーリーが展開されているのだろう。
「彼女にあんな言い方はよくないわよ」真尾は言った。「命令はよくない」
背後にいた一也がなにも言い返さずに黙っていたので、ふり返って見ると、彼はしゃがみ込んで、アジサイの葉についたカタツムリをつついていた。
真尾の大嫌いな系統だ。
「ちょっと! あとでちゃんと手を洗いなさいよ!」
一也は真尾をみてニヤリと笑った。
「なによ! いい? もう小学生じゃないんだからね! わかってるわね!」
一也が笑いながら立ちあがった。手にカタツムリを持っていた。
「ちょーーーっ!」
真尾は叫んだ。
「いい? わかってるわね! あっ! 痛っ! 痛たたたたたーっ!」
真尾は前かがみになってお腹を押さえた。
一也から笑顔が消えた。
あわてて真尾に近寄ろうとするのを真尾が止めた。
「ちょーっ! そのカタツムリは放しなさい。お腹痛いんだから――」
一也はカタツムリをアジサイの葉に戻した。それから真尾に近寄る。
「大丈夫なのか?」
「うん。なんとか。いい? もう、あんなことしないでね。でないとお腹の子に悪いわ」
「わかった。悪かった」
一也は素直に謝りながら、右手の親指とひと差し指で、真尾の頬をつまんだ。
「なに?」
真尾は一也を見た。頬をつままれていたので「はに?」に聞こえた。
一也はつかんでいた頬を放して、その右手を真尾に見せた。
真尾はその手を見た。
親指とひと差し指がすこし汚れていた。
あのカタツムリをつかんだ手だった。
真尾はあわてて一也から離れた。
「もうっ! 子っどもなんだからっ!」
真尾は一也をにらみつけながら、手でなんども頬をぬぐった。
「もうっ! 一メートル以上近づかないでよね!」
一也が笑った。
「それも大人げないと思うけど」
「いいの! 大人げなくても! もう大人なんだから・・・・」
「ナンだそれ。意味わかんねーぞ」
一也は肩をすくめて、庭を見渡した。そしてひとつ大きく伸びをした。
「気持ちイイだろ? この庭を管理しているのはアオだけど、虫たちを管理しているのは時空なんだ。アイツは外で虫を捕まえてきてはこの庭に放すんだ。ムカデだって持ってくるんだぜ」
真尾は顔をしかめた。
「そうしないと自然じゃないって。植物たちにはすぐにバレるって」
「いいじゃない、バレても。私にはそっちの方がずっと自然よ」
一也は真尾を見て笑っていた。
「アオはなにか言ってたのか?」
真尾は一也の顔をのぞき込んで笑った。
「気になる?」
「・・・・別にいいけど」
「あんな短時間じゃ、なにも話せないわよ。――っていうか、彼女話せるじゃない。普通だったわよ」
「やっぱり話したんだ。なに言ってた?」
「私の質問に応えてよ。話できないって言ったくせに」
「できないとは言ってない。誰とも話さないって言ったんだ。きっとキミは彼女に気に入られたんだ」
「そうかしら」
「そうだよ。アオはホントに気に入った人としか話さないんだ」
「どうだか。――じゃ、藤乃さんも話せるのね」
一也は首をふった。
「少なくとも、ボクは一度も声を聞いたことがない」
「じゃ、今度確かめてみる。いいのね?」
「べつにボクはかまわないさ。でも、藤乃さんたちにつよく迫らないでね。繊細な親子なんだから」
「あの人たちも、君のおかげでだいぶ抵抗力がついたんじゃない?」
「やっぱりキミはボクを誤解してる。ボクはキミが思っているようなヤツじゃないんだ」
「そうかしら。これでもソーシャルワーカーやってるのよ。人を見る目は、人並み以上にあると思ってるけど?」
「でも、間違ってる。ま、そのうちわかるさ」
どうかしら? と真尾は思った。
今晩中にわかることかしら? とも思った。
もう逃げだす気満々だった。
アリアにも危険が及びそうになった今、グズグズしている場合じゃない。
決行は今夜だ、と彼女は心に決めていた。
そう――。
なにもこんなところにいなくちゃならない理由が見当たらない。
でも、逃げてどうするの?
堕ろすの?
――胎児が逃げる。
中絶するの?
――胎児が逃げる。
真尾はあわてて頭をふった。
いまはそんなことを考えている場合じゃない。とにかく逃げだすのが先決よ。考えるのは後からでも充分に時間があるわ。
そう。
とにかく今は逃げ道を確認しなきゃ。
真尾は庭を眺めるフリをしながら出口をさがしていた。
一也が言うように、建物と庭を含めて、周囲はあの黒い壁で囲われている。だが、どこにも出入り口が見当たらない。門みたいなものはおろか、簡単な勝手口すら見当たらない。それどころか、壁のどこにも切れ目さえ見えないのだ。
――いったいここの住人はどこから出入りしているのだろう。
それにしても、なにがあったにせよ、よくも屋敷の周囲をこんな壁で囲もうと考えたものだ。一也がいうように、屋敷の住人が承知していないとなると、ほんとうに人権無視もいいところだ。
真尾はまた頭をふった。
――ダメよ! 余計なこと考えちゃ。私は逃げ出すのよ。早くその道を探さなきゃ。
「頭、まだ痛いの?」
一也が訊いた。それほど心配しているようでもなかった。
「ううん。もうだいぶ大丈夫。――それより高い壁ねー」
「ああ」
「もしかして、君たちも監禁されてるの?」
「まさか」
一也は片頬だけで笑った。
「そう見えるだろうけどね。でも、なんにも規制はされてないんだ。ただ壁があるだけ」
「頑丈そうね」
「破る気なのか? やめた方がいい。厚みが二十センチもあるんだ。中に鉄筋もあるし。掘り進んでも、貫通するまでに産まれちゃうよ」と一也が真尾の腹を指差しながら笑ったが、真尾は笑わなかった。
どういう形にしろ、いまは『脱走』というキーワードには触れたくなかった。それを臭わすのも厳禁だと考えていた。マイナス効果しかない。
真尾は空を見上げた。
「ここって東京の郊外なの?」
「なに?」
一也も空を見上げた。
「空で場所がわかるのか?」
「そういうわけじゃないけど、郊外かなーって」
一也が真尾を見てニヤニヤ笑っていた。
「逃げ出すのはまず無理だって――」
「そんなこと言ってないじゃない!」と思わず真尾は抗議した。それを見て一也はニヤニヤ笑っていた。
でた! 狂信者の慢心だ! 私はそれを破ってやるのだ! 明朝、それを思い知るがいい!
「逃げる気マンマンだね」一也がまた笑った。「茶化すのも悪いと思うけど、キミはぜったい脱走には成功しないよ」
「どうしてそんなことがわかるのよ!」
「脱走を企てて成功する奴って、いまみたいな話にも乗ってこないって――」
真尾は黙り込んだ。
それを見て一也がまた笑った。
「キミはホントに、バカがつくぐらい正直者だね。ソーシャルワーカーらしいや」
「どういう意味よ」真尾がにらんだ。「バカでもなれるってこと?」
一也は首をふった。
「バカ正直に、なんでも素直に聞いてくれる人じゃなかったら、相談する気なくなるだろ?」
「だからバカ正直が適任だと?」
「まあ、そういうこと」
「わかった風なこと言って――。君にソーシャルワーカーのなにがわかるの」
「わかるさ」
「どうしてよ。入院したことでもあるの?」
「まあね」
「どこに?」
「それは内緒」
「そんなことも言えないの?」
「言えないこともないけど、いまはそんな気分じゃない」
「じゃ、聞いてあげる。ソーシャルワーカーのお姉さんに相談してみなさい」
「だから、相談する気も、相談することもないの! とくにバカ正直に話したって、ウンウン肯くだけで、ホントはなーんにもわかっちゃいないんだから」
それを聞いて、真尾はウンウンと肯きながら笑っていた。
「ま、なんとでも言いなさい。こう見えても私はちゃーんと働いてるんですからね」
「ボクだって不登校なだけだよ。ちゃんとした高校生だ」
「ちゃんとした?」
「ああ、そうさ。ちゃんとしてるし、考えてもいる。考えすぎて胃壁が薄くなって・・・・。バカ正にもボクの胃をひっくり返して見せたいぐらいだよ」
「ちょっ! 誰がバカ正よ!」
「モチロン、すっごくイイ意味だよ。もう最上級のバカ正」
――ま、いいわ。どうせ、今夜限りなのだ。あまりそのことにこだわっても意味がない。それより早く出口を探さなきゃ。
「ま、いいわ」と真尾は声に出して言った。
「えっ! いいのか?」
「・・・・よくはないけど、まあいいわ。ちょっと庭をまわってきていい?」
「はい。どうぞ、どうぞ」
一也がニコやかに笑った。
やはり彼には真尾の考えていることが見透かされているような気がした。
「ボクはココにいていいかな?」
「どうぞご自由に――」と応えながら、真尾はあまり壁に近づかないようにして歩いてみた。
顔は花壇に向けて、目だけは壁を見て――。
そうして一周まわってみる。
しかし、やはりどこにも出口は見当たらなかった。
思いきって二周目はもっと近づいてみる。
さりげなく壁に近づいて叩いてみたが、重厚な音しかしなかった。
やはり中までちゃんとコンクリートが詰まっている音だ。
一也はしゃがみ込んで、なにか虫を観察しているようだった。
真尾は茫然として、その場所から屋敷を眺めてみた。庭の中でも屋敷から一番離れた場所だ。
屋敷の窓は一階と二階あわせて十個、中央の階段部分を境にして均等に並んでいた。窓わくは金属製の黒、壁面は白。
いっさい飾り気がなく、機能一辺倒な造りだ。確かに病院だといわれると納得してしまう形だった。
その屋敷にほとんどくっつくようにして黒い壁があったので、正面の方へ抜けられるスペースがない。
いったい彼らはどこから出入りしているのだろうか?
地下か?
真尾は地面を見た。
ただの、花に適していそうな黒っぽい土だ。
地面が自動で割れて、出口が現れるのか?
足でどんどんと地面を叩いてみる。
・・・・わからない。
真尾は改めて黒い壁を見上げてみた。
近くで見みると、よけいに雄大に感じて、こちらへ倒れてきそうな錯覚に陥る。
彼らはいちいちこれを乗り越えて出入りしているのだろうか?
真尾はハシゴを探してみたが、もちろん見当たらない。
どこかにあるボタンを押すと、壁が倒れるしかけになってるとか?
でも、じっさいそんな仕掛けだとしたら、出口を捜す意味がなくなる。
たとえ出口を見つけたとしても、そのボタンの場所が厳重に管理されていれば、脱出は不可能になるのだから――。
真尾は出口を探すのをあきらめて、この壁を乗り越える方法を探ることにした。
真尾はもう一度壁を見上げてみる。
そこでちょっとジャンプしてみる。
無理だとわかっていても、もう少し強くジャンプしてみる。
そのとき一也がこちらを見て、腹を抱えて笑っているのに気づいた。
真尾は飛ぶのをやめた。
「オモシローい!」一也が口に手を当てて大声で叫んだ。「つぎは、ナニー?」
真尾は一也に背を向けた。
どうしよう。
このままでは本当に逃げられない。
真尾はちょっと焦っていた。侮っていたのは自分の方だったのだ。
もう一度、黒い壁を見上げてみる。
つぎに屋敷を見上げてみる。
屋敷の向こう側には、どんよりと曇った空しか見えない。
このマザーハウスの周囲には、高い建物は存在しないようだ。
それぐらい田舎ってこと?
ここがどこにあるのか、真尾にはまったく想像もつかなかった。
一也が笑いながらこちらへ近づいてくるのが見えた。
もう絶対なにも話してやるものか!
「満足しましたか?」
一也がニコやかに言った。
真尾は黙っていた。
それもまた一也には面白いらしかった。
「ゴメン。笑ったりして。でも、おっかしいんだもん。考えてることがミエミエで。飛び越えようとでも思ったの? だったらキミはもう金メダルだ」
真尾は黙っていた。一也を見ようともしなかった。
「わかった。ソッとしておきましょう。――いや、ソッとしておきます」
一也は真尾の顔をのぞき込んだ。
「――まだ? じゃ、ソッとさせていただきます」
「なに言ってんの?」真尾は一也をにらんだ。「バッカじゃないの?」
「あ、そんな、ソーシャルワーカーらしくないお言葉。もうキレちゃったんですか」とマイクをにぎる真似をして、手を真尾の口の下にもってくる。
真尾はそっぽを向いた。
「わかりました。これからアナタが何をしても、目をつぶります。今後一切からかいません。いかがですか?」とまたマイク。
「からかうのはいいから――」真尾はマイクに向かって言った。「教えてよ、出口」
「これはまたストレートで安易なご質問。そんなことにボクが答えるとでも思ったのでしょうか?」とまたマイク。
「やめてよ、このマイク。バカみたいよ」
一也はやめようとはしなかった。
「今日のランチですが、なにかご希望は?」とまたマイクで訊く。「いまならなんなりとご用意できますが・・・・」
真尾は黙っていた。じっと壁を見上げていた。
一也はマイクを持つのをやめて、真尾と同じように壁を見上げた。
「ホントに逃げる気なんだな」
「当たり前でしょ。なんで私がここにいなくちゃならないの?」
「気持はわからないでもないけど、それは無理だ」
「わかったわ。もう訊かない」
「じゃ、そろそろ戻らないか。まだ案内してないとこあるから」
「どこ?」
「二階の、キミの部屋とは反対側の方・・・・」
真尾はいつでも人の気配が感じられないあの暗い廊下を思いだしていた。
「わかったわ。行きましょう。あ、その前に、アリアのことを確認してきてよね」
一也は肯き、真尾に前を歩くように促して、ふたりは屋敷へ戻っていった。
4
不覚にも、小野アリアは車の中で眠ってしまっていた。也子に起こされるまで一度も起きなかった。夢も見なかった。
だから彼女は、目を覚ました時に真っ暗だったことにビックリしていた。
すぐに手で目隠しされていることを確認したが、時間とか、場所とかもまったくわからなかったし、どうして自分がここにいるのかさえもすっかり忘れていた。
「イイ? 歩ける?」
也子はアリアの肩に手をおいた。
「誰?」
「寝ボケてんじゃないわよ。目隠しはしたままよ。イイわね。ハイ、ちょっと立って」
アリアは促されるままに立ち上がったが、すぐに頭をぶつけた。
「痛っ!」
「なにやってんの。クルマの中だよ。はい、腰を屈めたままでてきて。そうそう――」
アリアは両手を也子に持たれたまま、ヨロヨロと進んだ。
「アー、面倒クサッ。もうイイ! 団地、持ってきて」
そう言うと急に体が浮き、誰かの肩に抱きかかえられたのがわかった。
あの運転手だ、とアリアは思った。このガッチリした安定感はアイツしかあり得ない。
そのまま古い家屋に入ったようだ。木の床がひどく軋む音が聞こえる。それに古い家屋独特のにおいもする。同じ古い家屋でも、昔行った母の実家のにおいとは違う。ここにはあんな温かさはない。もっと暗くて、冷たくて、まるで長い間、人が住んでいないような退廃したにおいだった。
――そう。納屋だわ、とアリアは思った。
土がついたクワ、長靴、大きな麦わら帽子、除草剤、古タイヤ、ミシン、布きれ――。
そんなあらゆるものが放置されていて、時間の経過とともに放つ退廃したにおい。それに似ている。
私は納屋に監禁されるの?
されるがままに、このままじっとしてていいの?
危険じゃない?
これは無茶苦茶、危険な事態じゃない? とアリアは考えていた。
真尾に会わせると言ってたけど、それも本当かどうかわからない。私はこの得体の知れない連中に、このまま監禁されてしまうのか? それとも殺されるの? 真尾を誘拐した秘密を守るために、私はここで亡き者にされるとか?
あの也子って子を見てると、そんな過激な集団とも思えないが、彼女の背後にいる誰かが一人でも過激だったら、これは相当ヤバいことになるんじゃないの?
でも、身体はまったく動かない。この大男は軽く抱えているつもりかもしれないが、強くしめつけられていて、ちっとも身体が動かないのだ。
――もうっ! 爆弾でも運んでいるとでも思ってんの! とアリアは文句を言ってやりたかった。しかし、文句を言ったところで、この男には通じないだろう。爆弾がしゃべっているとでも思って、気にもかけないのだ、きっと――。
そんな低能さが顔に出ているのよ!
そのバカさ加減が、顔からにじみ出ているのよ!
わかってる? 自覚してる?
そうやって大男を罵倒したかったが、もちろんアリアは黙っていた。
それにしても、いったいどこに連れてこられたのだろう。
アリアは少しでも目隠しがズレるように、顔の筋肉を動かしてみた。
しかし、それは何重にもきつく巻かれていたので、すこしも動かなかった。かえってベルトを止める金属製の穴が後頭部に当たっていて、目隠しを動かそうとすると、その穴が頭を圧迫して痛い。
――もう! 頭が痛いのよっ!
と叫びたかったが、もちろんそれも黙っていた。
いつもそうだ。
私はいつも叫んでいる、どちらかというと熱い人間なのに、これまでそれをずっと封印してきたのだ。クールだ、冷静だ、落ち着いている、なんて優等生的な評価を得たいがために、これまで一切叫ぶことはしてこなかったのだ。
叫ぶ人も、その行為も、嫌いなのは事実だ。叫ぶ人を見下していたし、そんな人は低能だとも思っていた。でも、頭に浮かんだことをそのまま叫んだらきっと気持ちいいだろうな、とも思っていた。
いっそのこと、ここで叫んでやろうか、とアリアは考えていた。
いまここで私に優等生らしさなんて誰も求めてないし、私が低能だと思われたところで、それが何だというのだ?
そう。ここで思い切り叫ぶのよ!
それぐらい深刻な事態なのよ!
だから、ここはありったけの力をふりしぼって『心からの叫び』を叫ぶのよ!
そう。いま、この時しかないわ!
アリアは、大きく息を吸い込んだ。
大男に身体を押さえられていたので普段の三分の一ぐらいしか息が吸い込めなかったが、それでも吸い込めるだけ吸い込んだ。
そして叫んだ!
「どこに連れていく気なのよー! このー、とうへんぼくーっ!」
「なに? どうしたの?」
すぐ横で、あの少女の声がした。
「とうへんぼくってなに?」
なんでそんなこと言ったんだろう、とアリアは自分でも不思議だった。よりによって、とうへんぼくって――。
「ねえ、ナニ? とうへんぼくって」
也子はもう一度訊いた。アリアの肩をゆすっていた。
「団地のこと? それとも私のこと? ねえ?」
「いや、誰っていうわけじゃ・・・・」
アリアは情けなかった。
不審者に襲われそうになったら『このー、とうへんぼくー』って叫んで逃げろ、と教えてくれたのは祖母だ。突拍子もないセリフで不審者が怯んだ隙に、ということだとアリアは解釈してはいた。
しかし、それは今じゃない、とアリアでもわかった。
なのに、どうしていま出てきたんだろう。これまで一度も口にしたことなんてなかったのに・・・・。それもよりによってこんな時に・・・・。
それに、あの女の子がすぐ近くにいたのも恥ずかしかった。
アリアはあまりにも情けなくて、心の底から深いため息をついていた。
◇
一階だわ! と高木真尾はすぐにベッドから飛びおり、裸足のまま部屋の入口のドアまで駆けよって聞き耳をたててみた。
アリアかどうかはわからなかったが、たしかに女が叫んだのだ。
なんて叫んでた?
最初はよく聞き取れなかったが、後半は『この、とうへんぼくー』って叫んでなかったか?
そんなこと、アリアが言うだろうか・・・・、と真尾は考えていた。
あの食堂にいた年配のおばさんか?
藤乃さんが、これまでたまりにたまったものを、ようやく吐きだしたのか?
真尾は一也に二階を案内してもらった後、自室に戻っていた。
時計を見る。九時四十分過ぎ。アリアの件で電話があったのが九時過ぎだったから、私のアパートから四十分ぐらいかかる場所に、このマザーハウスがあるのはわかった。しかし、クルマを持っていない真尾には、それがどれぐらいの距離なのかは想像もつかないことだった。
あの叫び声以来、一階が静かになった。もう叫び声はおろか、物音ひとつしない。
真尾はちょっとドアを開けて外をのぞいてみた。
隣室のドアが開いていた。見ていると、その部屋から一也が出てきた。
手にガラス製の古いランプを抱えていた。
「お引越し?」
「ああ」一也は真尾を見た。「いきなりね」
「手伝おうか?」
「いや。もうすぐ団地もくるからすぐに終わるよ」
「そう。――誰かがここに来るの? それとも出ていくの?」
「両方さ。出ていくのはボクの荷物。入ってくるのはキミのともだち」
「えーっ! それって、アリアなの? アリアがここへ来るの?」
「そうだよ」
悪びれることなく一也が言った。
「状況がわかったら知らせてくれる約束だったじゃない!」
「ゴメン。着くまで話すなって言われてたんだ」一也は申し訳なさそうに言った。「いま着いたみたいだから行ってみれば? 食堂だよ」
真尾はすぐに部屋を飛びだした。
「おいおい、裸足は危ないよ」と一也が足元にあったスリッパを蹴り出してきた。
真尾は礼をいってそのスリッパをあわてて履き、急いで食堂へと向かった。
◇
食堂のドアは開いていた。
入ると、緑服の女、黄服の女、也子、団地の四人がいた。
緑服の女がふり向いて真尾をみると、意外にもニッコリとほほ笑んだ。そしてなにも言わずに、手だけでアリアの前へ行くようにと促した。
小野アリアは目隠しをされたまま、窓際に置かれた椅子に坐っていた。
ゆっくりと顔を動かして周囲をうかがっている。
鼻をヒクヒクさせていた。
真尾は怯えているアリアにゆっくりと近づいていった。
『――? 母さんのベルト?』
真尾はアリアに顔をぐっと近づけて、その目隠しに使われているベルトを確認してみた。
――間違いない。母さんのだ。
ベルトの先端が茶色っぽく変色しているのは、私がコーヒーにどっぷりと漬けてしまった跡だ。どれだけ洗っても落ちなかった染みを、それでも母がくり返し洗い落とそうとしているのを見て、心から申し訳ないと思った記憶。それで母が亡くなってみると、コートの方は処分できたのに、そのベルトはどうしても処分できなかったのだ。
それが、どうしてアリアの目隠しに?
まあいい。アリアは目の前にいるのだ。それが今はとても心強かった。
アリアの横に立った也子が、もったいぶるようにその目隠しをゆっくりと外していく。ここまでしっかりと目隠ししたのよ! とアピールしたいのかと思うほど、ゆっくりとした動作だった。リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が聞こえてきそうな演出だ。
そして、ついに目隠しが外された。
でも、アリアはなかなか目を開けない。というか、目を閉じたままショボショボさせている。
もう、じれったい!
でも、真尾はアリアの名前は呼ばなかった。私のように拉致されて、とても不安に思っているはずの彼女をビックリさせてやるのだ。
真尾はアリアの前に立ち、いますぐにでも抱きつきたい気持ちをぐっと抑えて、満面の笑みを浮かべながら、アリアが目を開ける瞬間をじっと待っていた。
◇
小野アリアは自分が椅子に坐らされたのはわかっていた。そして、複数の足音が聞こえることも――。
なにかの部屋なの?
いままでとは違って、ちょっと温もりを感じる。納屋じゃない。あの退廃した匂いはまだするものの、ずいぶんと薄らいでいる。
アリアはちょっとホッとしたが、それで危険が去ったわけではないのはわかっている。現にいま、複数の人間が私に注目している視線を痛いほど感じる。
みんなあんな風に奇人の集まりなのだろうか。それだとちょっと怖い。今度はなんだろう。
オオカミに育てられた少女とか?
胴体がない少年とか?
妙に頭がでかい男だとか?
全身毛むくじゃらな生き物だとか?
アリアが連想する〝恐怖〟が、小学校の図書室で熱心に読んだ『世界の怪奇ファイル』だったので、今となっては現実感がまったくなかったが、恐怖感は小学生のままだった。
それに時間が経つにつれて、恐怖感がどんどん増していくのがわかった。
なんか、みんながじりじりと、少しずつ私に近づいてきているような気がする・・・・。
そのとき、誰かがペタペタと音を立てて、部屋に走りこんできたのがわかった。
ヒレ? 足にヒレが付いてるの? カエル人間なの? それとも半魚人?
少し待って、床を擦る音がゆっくりと近づいてくる。
なに?
なにか引きずっているの?
皮膚?
皮膚がただれているとか?
まさか・・・・。
音はアリアの目の前で止まった。
しばらくしてから、ぐっと顔を近づけてくるのがわかる。
――えっ、えっ、なに! なんでそんな近くに? やめてよ! 気持ち悪い!
さすがにアリアも叫びそうになったが、ここでもグッとこらえた。まだ様子見だ。相手の出方がわからないのに、むやみに叫んだりしたらさっきの二の舞だ。相手が私の顔に触れたりしたら、思い切り叫んでやろう。
しかし、アリアの予想に反して、目の前の怪物はアリアから離れた。それを待っていたかのように目隠しが外されていく。
一重ずつゆっくりと――。じれったいぐらいにもったいぶって――。
どうしてゆっくり外すの?
意味ないじゃない!
それとも何?
怯えきっている私の様子を楽しんでるの?
その楽しみが、目の前にいる怪物たちの活力源とか?
舌舐めずりするナメクジみたいな男の顔が目の前にあったらどうしよう、と思うと、彼女の恐怖はピークに達していた。
叫ぶのか?
ここで心から叫んで、さっきの汚名を晴らすのか?
でも、なんて叫ぶ?
考えるのよ、早く!
こんな場所で、ナメクジ男に会ったときに叫ぶセリフよ!
『このー、おたんこなす?』
・・・・んなわけないじゃない!
叫ぶことに迷ってしまって、アリアは目隠しがすべて取り外されてからも、なかなか目を開けることができなかった。
なに? なんて叫ぶ? 化け物みたいな奴らに向かってなんて叫ぶのが一番効き目があるの?
しかし、どう考えてみても、こんな時は『キャーッ』と叫ぶしか考えられなかった。ほんとに驚いたときに気の利いたセリフなんて言えるわけないじゃない! とも思った。そういうワザとらしさが墓穴を掘るのだ。
マリアは精いっぱい叫ぶ覚悟で息を思いきり吸い込んだ。あの大男に身体を抱きかかえられていない分、肺の中の空気はすぐに満杯になった。
そこで、ちょっとずつ目を開いていくなんてちゃちなことはしない。
いきなり大きく目を見開いて叫んでやる! とアリアは思った。
大声で――。
さっきよりもずっと大きな声で。
さあ、叫ぶ心の準備をして――。
キャーよ、ここではキャーよ。
そしてアリアは、ナメクジ男を吹き飛ばすぐらいの勢いで大きく叫んだ。
「キャーーーーッ」
真尾は思わず後ろにひっくり返って、尻もちをついた。彼女の方が、ナメクジ男を見たような顔になっていた。
そこの部屋にいた全員、とつぜん叫びだしたアリアに驚いていた。なぜ女が急に叫んだのかがわからなかった。
アリアは叫ぶのをやめて、尻もちをついている真尾を見た。
そしてまわりをみた。
緑の服を着た女と、黄色い服を着た女。
知らない顔だ。
私のすぐ横に立っていた少女を、あの大男が抱きかかえて保護していた。そしてすごい形相でアリアを睨む。
見たことのない少年が食堂に走りこんできた。少年はアリアと真尾を交互にみて、なにが起こったのかを早く理解しようとしているみたいだった。
アリアは顔が赤くなっているのが自分でもわかった。
やはりまた、なにか間違いを犯してしまったようだ。現にナメクジ男なんてどこにもいない。目の前には、あの真尾が尻もちをついているだけだ。
アリアは立ち上がって真尾の手をとった。
真尾はまだ怯えを含んだ目で、アリアを見据えたままゆっくりと立ち上がった。
「ゴメンね」アリアは心から詫びていた。「ちょっと気が動転して・・・・」
「いえ、いいのよ。それよりあなたこそ、大丈夫?」
真尾の声はまだ震えていた。怖くもなく、寒くもなかったが、身体の震えが止まらなかった。
「真尾こそ、急にいなくなったから、どうしようかと思ったのよ。ずっと心配してたんだから――」
「ゴメンね。ほんと、私も急だったの」
真尾は震える右手を左手で抑えた。でも左手も震えていたのでなんの効果もなかった。彼女は両手をもった格好で震えていた。
「私もまだなにもわかってないんだけどね」と真尾。
「大丈夫? 震えてるけど」
「どうしてかな。寒くもないのに・・・・」真尾は力なく笑った。「おかしいわね」
「あなたは――」緑服の女が一歩前に出てきた。「小野、アリアさんですね?」
アリアはすぐには応えなかった。緑服の女を見て、黄服の女を見て、真尾を見て、それから応えた。
「そうだけど・・・・」
「わかりました。とりあえず、そこに坐ってお話を・・・・」
緑服の女は八人掛けのテーブルを指した。
アリアは真尾を見た。
真尾は肯いて、アリアの背中を軽く押した。
テーブルにはアリア、その横に真尾、向かい側に緑服の女と黄服の女が坐った。
一也はもういなかった。
団地は也子を肩に乗せたまま出ていった。
食堂には四人だけになった。
すぐに藤乃さんが緑茶をもってきて、それぞれ四人の前に湯飲みをだし、ゆっくりと頭を下げて出ていった。
緑服の女が音をさせずにお茶をすすった。そして湯飲みを手に持ったまま、アリアを見る。
「ちょっと、お伺いしたいことがあります。――いいですか?」
アリアは緑服の女を見たまま、注意深く肯いた。
「あなたはどうして今日、高木真尾さんのアパートにいたんですか?」
「ちょっと待って――」
アリアは緑服の女と真尾を交互に見た。
「私はあなたたちの正体を知らないし、なにを、どこまでしゃべっていいのかもわかんないわ。いったい、あなたたちは誰? 真尾とはどんな関係なの? そもそも真尾はどうしてここにいるの?」
真尾も一番知りたい謎だった。
そう、あなたたちは誰?
私はどうしてここにいるの?
真尾も緑服の女の返事を待っていた。
「残念ながら、それにはちょっとお答えできません。真尾さんにもその答えは十月まで待ってくれるように、お話してあります」
「十月?」アリアは緑服の女をマジマジと見つめた。「いま何月だっけ?」と真尾に訊く。
「六月」と真尾。
「そうよね。なによそれ? 四ヶ月間なにも教えないってこと?」
「そうですね、はい」
「それは、ちょっとないんじゃない?」と呆れたようにアリアが言った。
「そうでしょうか・・・・」
緑服の女は落ちつきはらいながら、ゆっくりとお茶をすすった。
「そんなこと通ると思ってるの?」
「はい。少なくとも、ここでは――」
アリアは眉をひそめ、小さい声で「ここではって・・・・」と言ったきり黙り込んだ。
「ちょっとだけですよ、質問は――」と安心させるように緑服の女が言った。
アリアは真尾を見た。
「問題がありそうだと思ったら止めてね」
「わかったわ」
「では、いいですか?」
緑服の女は真尾とアリアを交互に見た。ふたりは小さく肯いた。
「さっきの質問ですが、アナタはどうして、今日、高木真尾さんのアパートにいたんですか?」
「それは――、えーっと、――昨日の晩、真尾が、あのー・・・・」
「〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉ですか?」と緑服。
「それは知ってるんだ」とアリアは驚いていた。
「この人たち、なんでも知ってるのよ。私の好きな食べ物から足のサイズまで。ほんと、気味悪いぐらいにね」と真尾が非難がましく言った。
「ほんと? ――じゃ、私のことは?」
緑服の女は首をふった。
「残念ながら・・・・。だからいくつか質問を――」
「そりゃそうよね」
アリアは真尾を見て、ちょっとおかしそうに笑った。
「その〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉で、あなたはなにを?」
「オペレーターよ」とアリア。「悩みを抱えている女性から掛かってきた電話の受付をしてるの」
アリアは、昨日仕事が終わってから、出社しなかった真尾のアパートへ行った話をし、そのとき真尾の携帯を持ち帰ったことも話した。だが、ここでは妊娠検査薬のことは黙っていた。真尾のことも、それから自分のことも――。
「それで、今朝、あなたが持っていた真尾さんの携帯が鳴ったから、あわててアパートへ向かったのですね。――よーくわかりました」
緑服の女はニッコリと笑った。
「その携帯は?」緑服の女はアリアに訊いた。「いまお持ちですか?」
「もちろん」アリアは胸を張った。「――置いてきたわ」
「置いてきた? アパートに?」
「さあ、どこだか・・・・」とアリアはとぼけた。
緑服の女が急に立ち上がった。
椅子が後ろにひっくり返ったが、かまわずに黄服の女を見る。
「彼女の持ち物を調べて!」
黄服の女はアリアに立つようにいった。そして身体を触る。
「疑ってるの?」
アリアは緑服の女に言った。顔が笑っていた。
「だってほんとに急いでたんだから――。自分の携帯もないのよ。もちろんサイフもね」
黄服の女は、緑服の女をみて首をふった。
「なにか書くものを――」緑服の女はちょっと焦っていた。「それと団地と也子を呼んで」
黄服の女はアタフタしていた。ふたつの命令を同時にされると、パニックに陥ってしまうようだった。
「もう! いいわ。とにかく団地と也子を呼んできて!」
緑服の女は自分で部屋の隅へいき、飾り棚の引き出しからメモとペンを出してテーブルに戻ってきた。
「ここにあなたのアパートの住所を書いて」
アリアは立ったまま、そのメモを見下ろした。
そして背の低い緑服の女を見下ろす。
「――イヤよ」
サッと緑服の女の顔がこわ張ったのがわかった。
「これは質問じゃないわ」
「そう? でも、却下よ」
緑服の女が怖い顔になった。
アリアはその顔をにらみ返した。絶対しゃべるものか、と思った。
二階から団地が降りてきた。肩には也子が乗っていた。団地はいつもと違う空気を感じたのか、食堂に入ったところで立ち止まった。
「――じゃ、いいわ」
緑服の女が折れた。そしてふり返って、団地のうしろに隠れるように様子をうかがっていた黄服の女をみた。
「もういいわ。彼らを元の作業にもどして」
黄服の女はヨタヨタと動きながら、団地たちを二階に戻るようにうながした。
そういえば、今日は彼女、あの音の鳴る靴をはいてない。だが、黄色いリュックはしょっていた。関連性があるのかないのか、真尾にはよくわからなかった。
緑服の女は、アリアに坐るようにうながした。
「じゃ、次の質問です。ご家族とは一緒に住んでるんですか?」
「却下よ」
アリアは椅子に坐りながら言った。そう強い調子ではなかったが、毅然としていた。
「――お年は?」
「却下」
「じゃ、――あなたはいつから〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉に勤めてたの?」
「それも却下よ」
緑服の女はため息をつき、身体を起こして椅子の背にもたれかかった。
「困りましたねー。そこまでなにも答えてもらえないとなると・・・・」
緑服の女は戻ってきた黄服の女に、お茶のお代わりを指示したが、すぐにそれを止めた。
「あなたたち、お茶を飲んでないけど、別のお飲み物の方がいいの?」
「大丈夫です。私はお茶で――」
真尾はすぐに応えた。
「じゃ、私はスタバのラテがいいわ。トールでね」
黄服の女があわててテーブルに戻り、メモを手に取った。
「えっと?」とアリアを見る。
「スタバの、ラテ。――トールでね」
「スタバの、ラテ。トール、と」
そこで真尾を見る。
真尾も試しに言ってみることにした。
「じゃ私は、アッサムのミルクティで」
黄服の女はそれを書きとめる。そして緑服の女をみた。
「私はいつもの棒ほうじ茶を」
黄服の女はすべてを書き込むと、隣室の調理室に消えていった。
「ちょっとお茶が来るまで休憩にしましょう。それまでリラックスしててください」
そういうと、緑服の女も部屋をでていった。
「スタバのラテなんて・・・・」
真尾はアリアを見てニッコリと笑った。
「べつにスタバじゃなくてもいいんだけど、ちょっとでもマズかったら承知しないんだから」とアリアも笑った。
「でも、ほんとに、一体どーなってんの?」とアリアは真尾の手を取りながら言った。
「私もさっぱりわからないの」と真尾。
「ここはなに?」
「ここの人は『マザーハウス』って呼んでるけど、それがどこだかさっぱり・・・・」
「知ってる人たちなの?」
「全然」
「全然知らない人たちに監禁させられてるの?」
「そう」
「なに、それ。なんかスゴいね」とアリアは本気で驚いていた。「――ここから逃げ出せそうにないの?」
「そう言えば、あなたはどこから入ってきたの?」と真尾。最初から彼女に確かめたかったことだった。
しかし、アリアは残念そうに首をふった。
「目隠しされてたし、それまで寝ちゃってたし・・・・」
「あなたもなのね」真尾も同情した。「頭痛くない?」
「頭? 全然。どうして?」
「私はしばらくとっても痛かったから」
「そうなんだ。――で、逃げ出せそうにないの?」
「うーん。まだ昨日きたばっかりだからよくわかんないけど、ここはね、建物のまわりがすっごい高い塀に囲まれてて、その塀の出口がわからないのよ。まだ全部見たわけじゃないからなんともいえないけどね。でも、大丈夫。二人そろってるんだから、きっと脱出できるはずよ」
「だよねー。一日だってこんなとこにいたくないわ」
「ほんと、そうね」
「それにしても、なに、その服――」アリアが笑った。「ここで支給されるの?」
「そうよ。いまにあなたも支給されるわ。何色かしらねー、あなたは」
「いやー、その原始人っぽさがなんとも・・・・」とアリアがまた笑う。「――あ、だからかー。あの女の子、あなたの服、いっぱいクルマにつみ込んでたよ」
「そう?」真尾はちょっと嬉しそうに笑った。「じゃ、もうこの服ともお別れね。――残念だけど、あなたに譲るわ、この服」と袖をヒラヒラとさせながらアリアを見る。
「いやいやいやいや――」と身体をうしろへのけ反らせて嫌がるアリア。
「いやいやいやいや――」とアリアを見て笑う真尾。久しぶりに心から笑えたような気がした。
「でも、あなたには悪いけど、ホント来てもらって助かったわー」と真尾。
「そう?」とアリア。「まあ、いきなりこんなとこにつれて来られちゃね。でも、いつからここへ来たの?」
真尾は昨日の朝から起こったことをかいつまんで話した。
もちろん妊娠していることは黙っていた。私のアパートへ行ったのなら陽性の妊娠検査薬に気づいているだろうが、自分の口からは言い出しにくかった。それに、自分がちゃんとした説明を受けていないのに、どうやって彼女に説明すればいいの? と真尾は思った。
だから彼女が話したのは、突然アパートに訪ねてきた緑服の女に薬で眠らされて、ここまで連れてこられたということだけだった。
「え?」とアリア。「薬で眠らされたの? ドラマみたいに?」
「え? あなたは違うの?」
「私?」アリアは首をふった。「私は、あの、時空って人にクルマに乗せられて、連れてこられたの」
「クルマに? じゃ、だいたいここの場所わかるんじゃない?」
「いや――」とアリアは首をひねった。「目隠しされてたし、クルマに揺られて、その――、ちょっと眠ってしまったの・・・・」
「え? 自分から?」
「そう。眠っちゃいけないとは思ったんだけど、ガマンできなくって・・・・」
「あきれた」真尾は笑っていた。「悪質な奴らに誘拐されたかもしれないのに・・・・」
「そうよねぇ。ほんと、よく眠れたもんよ。そこで眠ってなきゃ、なにかわかったかもしれないのに・・・・。ちょっと自己嫌悪」
アリアも、昨夜妊娠に気づいて一睡もできなかったのだということは黙っていた。
自分に非がないとはいえ、やはり言い出しにくいことだった。
真尾も黙っているのに、私から、それも自分のことを言い出すのもおかしいように思えた。でも、そう長くも秘密にはできない。いずれそのことも話し合わないといけないだろう、と覚悟もしていた。
ラテと紅茶を運んできたのは、藤乃アオだった。
真尾はアオをみてニッコリと微笑みかけた。
しかしアオは真尾を見ることはなく、ずっと硬い表情を崩さなかった。
「ありがとう、アオちゃん」と声をかけても、アオは決められたお辞儀をしただけで、表情を変えることもなかった。
真尾は去っていくアオの背中を見ながらいった。
「ここから脱出できる可能性があるとすれば、あの子ね」と真尾。
「まだ高校生ぐらい?」
「そう十七才だって。あの子と、あの子の母親は、この屋敷の食事とか、掃除とかをしてるらしいんだけど、あの子だけは協力してくれそうな気がするわ」
「まあ、見ただけでも一番マトモだもんね」と納得しながら、アリアはラテをひとくち口に含んだ。
「んっ? なにこれ? オイシーっ! スタバよりおいしいんじゃない? 飲んでみて?」
真尾もラテをひとくち飲んだ。
「ホーント! ミルクがきめ細かくて、とってもクリーミーね。さすが時空!」
「じくう? なにそれ。あっ。あのビニールかぶってる?」
「ラップよ。彼は頭に世界地図のタトゥをしてて、それを守るために、頭にラップを巻いてるのよ」
「刺青を守るために?」
「そう、かな?」
「へー。やっぱり変わってる。でもこれオイシーっ。毎日これでも飽きないわ」
「あなた、もう長居する気?」
アリアはあわてて首をふった。
「それとこれとは別よ。――それより、そっちは? あれ? 砂糖入れないの?」
真尾には紅茶を口に含むまでもなく、わかっていた。
やはり、予想していたとおりだ。
昨日、藤乃たちが淹れてくれた紅茶はティーパックのありきたりな紅茶にすぎなかったが、やはり時空となると違う。ちゃんと上質な茶葉を使用して、きちんと淹れている。
というか、この茶葉は私のだろう。彼は私の冷蔵庫から持ってきたのだ。
それはいい。それをちゃんと淹れることができるのが、時空らしいのだ。
そしてミルクは低音殺菌牛乳。だからミルク臭くなく、生クリームのような舌触りでほのかな甘みがある。成分無調整の牛乳の方が好きだという人もいるが、私は低音殺菌の方が好みだ。
それは私の冷蔵庫になかったから、ここの調理場にあったものだろう。
そして砂糖の分量も適量だった。自分で入れても微妙に気に入らないことが多いのに、やはり時空だ。
彼はなにもかも心得ているような気がした。
「仮にだけど――」
真尾はアリアに顔を近づけて言った。
「ここに少しでも滞在するのなら、あなたの好みを時空に伝えておいた方がいいわよ。確実にいいものを作ってくれるから」
「そうなの? そんなお姫様みたいな体験してみたいわね」
アリアは満足げな笑みを見せながら、またラテをくっと口にふくんだ。
◇
ようやく緑服の女が戻ってきて、元の位置に坐った。眉間にシワをよせて、さっきよりもっと難しい顔をしていた。
そのまま深くため息をつく。
「どうかしたの?」とアリアが軽く訊いた。
緑服の女はアリアを見た。そこでちょっとなにかを考えているようだったが、すぐに「いえ――」と否定した。そしてなにかを吹っ切るようにテーブルを見渡して、
「お飲み物は、お口に合いましたか?」と、二人を交互に見ながら笑顔で言った。無理に明るさを装ったような笑顔で、まるでクレームが多い客を担当するパーティコーディネーターみたいだった。
「まあね」アリアは笑いもせずに、素っ気なく応えた。
「紅茶の方は?」
「はい。おいしく頂いてます」
そんなふたりの返事を聞いているようにも思えなかったが、緑服の女は満足したように肯いた。
調理場で見ていたのか、黄服の女が入ってきて、緑服の女の前に棒ほうじ茶をおいた。そして自分にも同じ棒ほうじ茶をおいて、元の位置に坐った。
「では、よろしいですか?」緑服の女は、アリアと真尾を交互に見て肯いた。「えーと、小野アリアさん――」とアリアを見る。
緑服の女の雰囲気があきらかに違っていた。さっきまでは部外者に対する冷徹な応対だったのに、いまはもう少し遠慮した感じに変化していた。
なぜだろう? と真尾は考えていた。
「率直にお伺いしますが――、あなた、もしかして、――えーっと、――妊娠、されてますか?」
え? 妊娠? と真尾は自分のことを言われたのかと思った。
あれ?
いつの間に私の話に?
いま、小野アリアさんって言わなかった?
横をみると、アリアが蒼白な顔をしていた。
もともと肌が白い彼女だったが、いまは透けて消えてしまうのではと思えるぐらいに、いつもより透明感が増していた。
真尾はアリアの手をとった。
蝋みたいに冷たくなっていた。
真尾はその手を両手に包み込んだ。
「・・・・まさか、あなたもなの?」と真尾。
しかし、アリアはそれには答えなかった。じっと緑服の女を睨んだままだった。
「なんで知ってるの? 私だって昨日知ったばかりなのに、どうしてアンタが知ってるのよ!」
「・・・・やっぱり」と緑服の女は、あきらかに苦悩の表情を浮かべていた。
「アンタたちが、私と真尾になにかしたのね! 一体どういうこと? もう全然わからないわ! ちゃんと説明してよ!」
真尾はアリアの身体におおいかぶさって、落ちつかせようとした。でも、アリアはそれをふり払って立ち上がり、緑服の女を睨みつけた。
「もう、わけわかんないわっ! いったいどういうことなの! 人を勝手に妊娠させるなんて、ほんと、信じられないっ! なに? なにかの実験なの? それとも、たんなる嫌がらせなの? ね? どうなの? どういうことなの? そもそも赤ちゃんをなんだと思っているのっ! ちゃんと説明しなさいよーっ!」
アリアは叫んでいた。いつもあれほど叫ぶことに戸惑っていた彼女だったが、いまは正直な心の叫びを、緑服の女に向けて思いきり投げつけていた。
真尾はアリアを止めることも忘れて泣いていた。
確かに、人を妊娠させるなんてどうかしてる。嫌がらせにしても度が過ぎてる。けっして冗談ですまされることではないのだ。第一、赤ちゃんをなんだと思ってるんだ! と。
驚いたことに、黄服の女も小さくなって泣いていた。子供みたいに、流れでる涙が邪魔ものみたいに、なんどもなんども手で払いのけるようにぬぐっていた。
まるで彼女が責められているみたいだった。
「あなたたち、この赤ちゃんをどうしようっていうの?」とアリア。
真尾も訊きたかったいちばん核心の部分だった。
だが緑服の女は応えない。棒ほうじ茶を手にとって、ゆっくりとした動作でお茶を飲み、それを手に持ったまま、前方を見つめていた。
「あなた、そんな風に黙りこんで、十月まで知らん顔をするつもり?」
――お茶をすする。
「そうやってごまかすことが通用するとでも思ってるの? 私はごまかされないわ!」
とアリアは緑服の女が持っていたお茶を叩き落した。
湯呑が飛んで壁に当たったが、割れはしなかった。
黄服の女が泣きながらあわてて拾いにいった。
緑服の女は正面を見て平然としていた。
まだ熱かったお茶が緑服の女の腕にかかっていたが、少なくとも、外見上はなにも起こってないみたいだった。
「そうはさせないわよ。とてもじゃないけど、十月までなんて待てないし、ずっとここで暴れまくってやるわ!」
「わかりました」
緑服の女はじっとアリアを見上げた。
「でも、少しお時間をください。私一人で決められることではないので――」
「他に誰かいるの?」とアリア。
それは真尾も意外だった。ボスがこの緑服の女と思っていたのだ。
「それも含めて、お話することになります。ですから、少しお時間を――」
「少しってどれぐらい?」
「それはお約束できません。ですが、近いうちに、必ず――」
アリアは真尾を見た。
真尾はゆっくりと肯いた。
アリアは緑服の女を見た。
「わかったわ。ちゃんと納得のいく話をお願いね。私たちには時間がないんだから・・・・」
緑服の女はだまって頭を下げた。
黄服の女も横で頭を下げた。
そして二人は立ちあがって、ゆっくりと部屋を出ていった。
「あなたも妊娠してたのね」
真尾は服のソデで涙をぬぐいながらアリアに訊いた。
アリアは真尾の手をとり、「あなたが妊娠を知ったのも昨日なの?」と訊いた。
「そう。昨日の朝まで、まったく気づかなかったの」
「私もそう。体調は良くなかったけど、自分が妊娠してるなんてまったく疑ってなかったもの。私、なんかひどいこと言った?」
「ううん。全然」
真尾は再び涙をぬぐいながら笑った。
「立派だったわ。私なんて、なんにも言えなかったもの。私が言葉にできないことまで、全部言ってもらった気分よ」
アリアは肩をすくめて笑った。
「あの女にはあんなこと言ったけど、私、ほんとは、妊娠がわかってすぐに、相手が誰であれ、原因がどうであれ、堕ろす気満々だったんだ。なんの疑問もなくね」
「え? そうなの?」
「そりゃそうよ。誰の子かもわからないのに――。え? なに? 真尾は産む気なの?」
「正直迷ってる」
「えーっ! ウソ? 本気なの?」
「ただ迷ってる。それだけ」
「でも、迷ってるってのも意外だなー」
「あなたはもう決めてるの?」
「ううん、私も、いまは迷ってる」
「え? じゃ一緒じゃない」
「一緒なんだけど、人は違うと思ってた。っていうか、私もこうなる前は、こんなケースを聞いたらぜったい堕ろすって即答していたと思う。あったりまえでしょ! って言い切ってた。
でもね、さっき、あの女に言ったじゃない? 赤ちゃんをなんだと思ってるのーっ! って。それがね、すぐに自分に帰ってきちゃったんだ。赤ちゃんをなんだと思ってるのーって。――あー、どうしよう」アリアは頭を抱えこんだ。「ホントに、なんでこんなことになってしまったんだろ。早く説明しろっての!」
「でも、説明を受けたところで、どうする気?」真尾はアリアの顔をのぞき込んだ。本気で知りたい疑問だった。
「そりゃその話の内容によって、そのとき考える、かな」とアリア。
「そう? で、考えが変わると思う?」
「うーん。わからない。もう、ホントにわからないことだらけよ」
二階で大きなものを移動させる音がした。ベッドか何かだろう。アリアの部屋のセッティングがまだ続いているのだ。
「で、真尾の予定日はいつ頃なの?」
「十月だと思う。はっきりしたことはわかんないけど、最後にきた生理日から数えるとそうなるわ」
「やっぱり・・・・。私も十月。だから説明は十月だっていってるのね。でも、ほんとに産まれたら、あいつらどうするつもりなんだろ。私たちから取り上げるつもりなのかなぁ」
「この子があいつらにとっての救世主、とかね・・・・。でもね、宗教がらみでもないみたいなのよ」
気がつくと目の前に藤乃アオが立っていた。
「ちょっと早いですが、ランチのご用意を致しましょうか?」
時計を見ると、まだ十一時前だった。
「助かるー!」とアリアがいきなり言った。「お腹、ペッコペコだったんだよねー」
「そうなの?」と真尾。
「だって、朝からなんにも食べてなかったから」
「そりゃそうか」と笑いながら真尾はアオに目を向けた。「アリアの分もあるの?」
「モチロンです」
「さすがね。じゃ、お願いします」と軽く頭を下げた真尾は、戻ろうとしていたアオを呼び止め、手招きして近くまで来させてから、そっと腕をつかんだ。
「ちょっとアオちゃんとお話できないかな? いつでもいいんだけど――」
「そんなこと、困ります」
アオは逃げようとした。でも真尾はつかんだ手を離さなかった。
「ね? ちょっとでいいの。ゴメン。お願い。部屋には何時ごろもどるの?」
「・・・・九時前ですけど」
「わかった。お願い。ちょっとでいいから、今晩行くね」
真尾が手を放すと、藤乃アオは肯きもせずに、すぐに調理室に戻っていった。
「彼女はね――」
真尾は、アリアにだけ聞こえるように小声で言った。
「不登校なのよ。きっとアスペかなにかね」
「まぁ、心身症型自律神経失調症でないことだけは確かね」とアリア。
「確かに――」
真尾はそんな自虐をいえるまでに回復したアリアを見て、心の底から嬉しかった。
5
午後からは真尾がアリアを連れて、屋敷内を案内してまわった。
他の部屋に入らなければ、どこを歩き回ってもいいということだった。それほどここからは脱出不可能だという自信があるのだろう。現に、アリアと二人してあの黒い壁のどこを見て回っても、出口はわからなかった。
――いったい私はどうやってここへ入ってきたんだろう、と小野アリアは首をひねっていた。
目隠しをされていたにせよ、この屋敷へ入ってくる時には起きていたのだ。ちゃんと意識もあったし、においも感じていたのだ。なのに、どうやって入ってきたのかがさっぱりわからない。あの大男に抱きかかえられていた時に、どこか高くに上ったり、かがんだり、飛び越えたりしたような記憶もないのだ。
車を止めたのがすでに屋敷の家屋内だったのだろうか・・・・。
二階へ上がって左側へ行くと、手前がアオの部屋で、その奥が藤乃さんの部屋だと午前中に一也から聞いていた。だから日中は廊下の電灯も消されていたのだ。
その二人の部屋の向かい側が、ふた部屋分のスペースを使ったアスレチックジムになっていて、そこのドアはいつも開きっぱなしになっていた。
「圧巻ね――」アリアがアスレチックジムの部屋を見渡しながらため息をついていた。「ちょっとしたジムもかなわないわね。それに器材の種類も多いし・・・・」
よくあるジムのように、同じ機器が四、五台並んでいることはなかった。せいぜい多くて二台。使い方がわからない機器もたくさんあった。
「これだったら、身体がなまってきても、不自由しないわね」とアリア。
「確かに。――ここで鍛えて、あの黒い壁を乗り越えるってことになるかもよ」
「ハハっ。ホント。そっちの方が早いかも――」
その部屋から階段を挟んでひとつ目の部屋が也子と団地の部屋だった。
団地がひとときも也子から離れたがらないので、二人は小さい頃から同室なのだそうだ。
その奥が一也の部屋だ。真尾の部屋の向かい側になる。
午後から彼は自分の部屋にずっとこもっていた。部屋に戻した荷物を片付けないと落ち着かないからだそうだ。
そうしてふたりは、真尾の部屋の隣になるアリアの部屋をはじめてのぞいてみた。
部屋の広さは真尾と同じで、置いてあるものも変わらない。
ベッド、ライティングデスク、その上に古いダイヤル式の黒電話、そして部屋の中央に丸いテーブル。
どれもデザインは多少違っていて、そこそこ使用感があった。ちゃんと壁にも時計がかかっていたが、白くて丸い小学校にあるようなアナログ時計で、部屋にはまったく合ってなかった。サイズも大きすぎで、掛けてある場所も低すぎた。でも、時間はちゃんとわかった。いまは三時十二分を差していた。
唯一真尾の部屋と違うのは、部屋に入った正面にしか窓がないので、その分ちょっと窮屈な感じになっていた。
「なんか変なにおいしない?」
アリアが部屋のにおいを嗅ぎながら言った。
「そう? どこもこんな古ぼけたにおいのような気がするけど?」
「なんだろう、このにおい」とアリアは真尾が言うことを聞いてなかった。そして部屋の中をゆっくりと歩いてにおいを嗅いでまわった。
「どっかで嗅いだことがあるにおいだわ」
「なんか薬品のにおい? だったらここの下はミヤコ様の部屋だから・・・・」
アリアは真尾を手で制して、首をふった。
「そうじゃない。なんか、こう、私の記憶と繋がってるにおいよ」といいながらぐっと顔をしかめる。バードウォッチャーが、遠くの方で啼く珍しい小鳥のさえずりに全神経を集中させているような表情だった。
「それも、あまりいい記憶じゃない」
時々アリアが不思議なことを言いだすのを真尾は知っていた。
人の死が事前にわかるとか、嫌な予感がわかるとか――。嫌な予感がするという漠然としたものではなく、はっきりとわかるというのだ。
そう感じたときは必ず嫌なことがあると――。
近いうちに間違いなく嫌なことが起こると――。
要するに、彼女のどこかの部分が、異常なことに対して人よりも何倍も敏感なんだ、と真尾は解釈していた。
「あー、思いだせない!」アリアは悔しそうだった。「なんかすごく近いような、遠いような・・・・。ゴメン。ちょっとあなたの部屋へも行っていい?」
「もちろん」
真尾はアリアを自分の部屋へと案内した。
驚いたことに、もうテレビが入っていた。まだ画面に五十二インチとシールが貼ったままの液晶テレビだ。
テレビ台にはちゃんとDVDビデオ機が入っていた。
「なにー、この差!」アリアは驚きの声をあげた。「スゴいじゃない! それも新品!」
「昨日、頼んだのよ。なにか足らないものはないかって聞かれたから、映画観たいって」
「なるほど。で、これ?」
「そう」
「それにしてもスゴいわね。――大っきいテレビ! お金持ちなのね、ここ」
「うーん。よく、わかんないけど・・・・」
アリアは部屋の中央の丸テーブルに置かれたイスに腰かけて、部屋を見回していた。
「でも、この部屋は、あのにおいがしないわねー」
「そう? よかった。変なにおいっていわれたら気味悪いし」
「気味悪いってにおいでもないような・・・・、うーん、わかんないなー」
「あなたもこの部屋で寝る? ここちょっと広すぎるから落ちつかないし、一緒にいた方が心強いし――」
「いいの? っていうか、私もあのにおいの中で寝るの嫌だなーって思ってたの。さすが真尾先生。察しが早ーい!」
「当たり前でしょ、小野君。何年ソーシャルワーカーをやってると思って?」
「・・・・二年だっけ?」
「三年と二ヶ月よ」
「なるほど。もうベテランの域だ」アリアがサッと親指を立てた。「じゃ、すぐにベッドを移そうよ。彼にも手伝ってもらわない?」
「一也くんのこと? ――わかった。声かけてみる」
一也はまだ部屋にいた。ノックをするとすぐに出てきた。相手が真尾だとわかっていたらしく、ドアを開けて素早く外にでて、さっとドアを閉めた。
「まだ片づけてるの?」と真尾。
「まあね」
「そんなにいろいろモノを持ってるの?」
「まあね」
「なんだか部屋を見せたくなさそうね」と真尾の肩から顔をのぞかせてアリアがからかうように言った。
「うん。――まあね」と一也は真尾を見たまま応えた。
「見せてよ」アリアは遠慮なく言った。「興味あるわ」
一也は真尾を見たまま笑うだけで、それには応えなかった。
一度もアリアを見ようとしない。
ずっとそうだ。
アリアが苦手なタイプなのだろうか?
一也のように繊細な人種は、苦手とする人種も多い。だからはっきりモノを言うアリアのようなタイプは、普段強がっているだけに、苦手なのかもしれない、と真尾は考えていた。そんな苦手な人が目の前にあらわれただけで吃音になってしまう人も多いのだ。
真尾は、アリアと一也の間に入るようにして話題を変えた。
「アリアのベッドを、私の部屋に移したいんだけど、いいかな?」
「え? そうなの?」と一也はちょっと驚いていたが、「いいんじゃない。最初はそうしようかって言ってたぐらいだから」とすぐに肯定した。
「そうなんだ。ま、二人の方が色々と安心だしね」
「アナタもどう?」とアリアはニコニコしながら言った。「お姉さんたちの間に――」
「アリア!」真尾がにらんだ。「いまはまじめな話してるの!」
「ハイハイハイ。――だから、ちょっと手伝ってくれない?」
「わかった。――いますぐ?」と一也は真尾に訊いた。
「その方が助かる」とアリアがすぐに応えたが、「OK」と一也は真尾に向かって肯いた。
そこで枕やシーツ類は真尾が運び、ベッドはアリアと一也とで運んだ。
「やっぱり男ねー。ちゃんと力あるじゃない」とアリア。
「まあね。これぐらいはね」と一也は真尾に言った。「じゃ、もうイイかなー」
真尾が礼をいうと、一也はすぐに出ていった。
「なんか、私、透明人間になった気分よ」とアリアは一也が出ていくのを待ってから不服そうに言った。
「ま、慣れてるけどね。――でも、あんなにあからさまに無視されるのって珍しいわ。私のことが嫌いなのかな」
「嫌われるほど知らないじゃない」
「そうだけど。でも、一回も目を合わせないのよ。彼の目の色だって、いまだに何色かわかんないわ」
「そんな大げさな」真尾が笑った。「すぐに慣れるわよ。彼だって」
「あーっ! なにそれー。ひとを珍獣みたいに! イイわね。あなたは、みんなに好かれて」
「そんなわけないわよ」
「そう? じゃ、真尾のことが嫌いって人いるの?」
「もちろん」
「本当? だれ?」
「だれって急に言われても・・・・」
父親よ、と真尾はすぐに応えてやりたかった。
私を一番嫌っているのは父親だ。高木先尾だ。本当は即答だってできるのだ。
いままでにアイツほど私のことを疎ましく思っている存在に会ったことがない。
◇
「こいつの目は、だれの目だぁ?」
高木先尾は、酒を飲むと決まって真尾の目をのぞき込んだ。
正確には上まぶたを押さえて、瞳を観察していた。
当然ながら、そんな時の父親は猛烈に酒臭い。瞳をよく見ようと顔を近づけるものだからなおさらだ。
真尾は息を止めつづけるのに必死だった。
「母親は茶色、俺も茶色。でも、コイツの瞳は、ちょっとグレーがかってないか? ああん?」
「そんなことないわ。真尾もきれいな茶色よ。まだ子供だから少し薄く見えるだけよ」と真尾の母親である真記は、いつものようにやんわりと否定した。
先尾の目がすわっていた。
普段は大学病院の勤務医だが、酒が入ると地べたに坐り込んでクダを巻くうす汚れた労働者に変貌する。先尾は黄色く濁ったその労働者の目で、じっと真尾の瞳をのぞき込む。そしてゲップをひとつする。
「うっぷ。・・・・いいや、確かに、グレーがかってる」
そう言って身体を後ろにのけ反らせて、真尾を少し離れたところから見る。
真尾は顔が離れて救われた気分だった。
息を吐く。
そして吸う。
まだちょっと臭い。
でも、大きく吸う。
また近づいてきても我慢できるように――。
「そういや、耳はバカでかいし、鼻は豆みたいに小せーし、口だって、ちっともオレに似てねーじゃねーか。――おまえは誰だぁ?」と真顔で言う。
「ちょっと、やめてよ」
母親が割って入る。そして真尾を胸に抱く。
「なにバカなこと言ってんのよ。真尾はちゃんと私たちの子よ。変なこと言うのやめてよ、真尾の前で」
先尾は母親を見る。
なにか言いたそうだ。それとも吐きたいのか? またゲップをする。
「いい? 真記の真、先尾の尾、で真尾。両方から一文字ずつとって、あなたが付けたんでしょ? 名前も身体も、真尾はそういう子なのよ。へんなこと言わないでよ」
母親はきつく否定した。そして、真尾を抱きかかえて立ち去る。
父親はゆっくりとした動作で、真尾をかかえた母親の姿を目で追う。ようやくお坐りができるようになった0歳児のように、坐っていても身体が前後にフラフラしていた。
そうしていま母親が吐いたセリフを頭の中で二回復唱するのだ。
そして怒りだす。
たったいま目の前から真尾が連れ去られたみたいに――。
「お前、俺の仕事はなんだと思ってるんだぁ? 俺に、そんなことがわからないとでも思っているのか? ああん? バカにしてるのか!」といって立ち上がる。
そしてふらついた足で母親の後を追うのだ。ようやく歩きはじめたばかりの一歳児みたいに――。
でも、手は出さない。せいぜい肩をぶつける程度だ。
「そういう根性もないのよ!」というのが母親の口ぐせだったが、そこで手を出すような父親だったら、もっと早く家庭は崩壊していただろう。
酒を呑まないときの先尾は別人だった。
大学病院の勤務医らしい礼儀正しさと、温和さをきちんと併せもっていた。患者の瞳をのぞき込むときだって、酒を呑んだ時のような乱暴さは当然ながらない。
しかし、真尾に対しての態度は冷たかった。それは酒を呑んでも呑まなくても、変わりなかった。酒を呑むと、その冷淡さに、面倒な難癖が加わるだけだ。
真尾がテストで良い点数をとろうが、絵画のコンテストで入賞しようが、自分とは関係ない他人の子供の話を聞いているようだった。
「真尾が学校の絵画展で入賞したのよー」
「・・・・絵はうまいんだな」
「今度の国語、九十五点だったのよー。おしかったわねー」
「国語はいいんだ。じゃ、算数は?」
「・・・・八十二点」
消え入りそうな声で真尾が応える。
「ほう――」
したり顔で、父親が言う。
「算数はできないんだ。私は得意だったのになぁ」
父親はいつも、自分との違いを真尾の中に見出そうとしていた。そして、それを探り当てたときには、どんな些細なことでも得意になって厭らしい笑みを見せる。
真尾は父親のその笑みが大っ嫌いだった。その笑みを見せたときは、無表情の時よりもよけいに疎外感を感じる。より一層、父親が父親でなくなってしまうのだ。
そして真尾が八歳の時、ついに家庭が崩壊した。それまで両親がそれぞれ少しずつ誤魔化してきたものが、真尾のことばによってついに表面化したのだ。
「私って、パパの子供じゃないの?」
真尾は母親にそう訊いた。まだ小学三年生だったにしても、それがなにを意味するのかはわかっていた。それをいままで口に出さなかっただけのことだ。
自分が父親の子供じゃないという思いは、もの心ついた時からずっとあった。父親が真尾の顔を手で抑えつけて、呪文のようにずっと唱え続けてきたからだ。
酒臭い息で――。
それもゲップも混ぜながら――。
だから、真尾が母親にそう訊いた時には確信に近かった。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「パパが、私のこと嫌いみたいだから」
「そんなことないわ。パパだって真尾のこと大好きよ。決まってるじゃない」
「ウソよ。パパ、いつもあっち行けって――。今でもそう。ちょっと部屋をのぞいただけで、しっ、しっ、って、犬みたいに・・・・」
「・・・・ごめんね、真尾。パパは、おうちでも、お仕事で忙しいの。だから・・・・、そうね。ママが勉強みてあげるから・・・・」
真尾は母親に宿題を見てもらいながら、やがてポロポロと泣きだした。
こらえようと思っても、こらえ切れかなったのだ。
これまで見たこともない量の涙が、ポタポタとノートに落ちる。
「真尾? どうしたの? そこ、難しいの?」
真尾は首をふった。
「じゃ、どうして泣いてるの? おかしいよ、三年生にもなって」
真尾ははげしく首をふった。
「・・・・違うの。ママ」
真尾は身体をしゃくりあげながら母親を見た。
涙でよく見えなかったが、母親のやさしい顔を見て、よけいに涙が溢れてきた。
「どうしたの? 真尾。――わかった! じゃー息を吸ってー。はい、息を止めて・・・・。そのまま、そのまま・・・・、はい、吐いてー」
真尾は母親の言うとおりにした。
「はい、もう一度――」
それを五回くり返していると、少しは落ちついてくるのが自分でもわかった。
呼吸も普通にできるようになってくる。
「はい、落ちついた?」
真尾はコクリと肯いた。
「じゃ、なに? どうしたの、急に」
「あのね、パパがね――」と真尾は言いよどんだ。また泣きだしてしまいそうだった。
「パパがどうかしたの?」
「パパがね、真尾のこと、なんか臭うぞって――。なんか変な臭いがするぞって――。おまえの体臭か? って。――ママ、臭う? 真尾って、臭い?」
真尾は再び泣きだした。
そのとき母親の顔色が変わった。一瞬にして、真尾が見たこともないような怖い顔になっているのが涙越しでもわかった。そして真尾にはなにも言わずに、父親の書斎へノックもせずに入っていった。
その時のケンカは凄まじかった。
普段から口ゲンカの絶えない両親だったが、その時は窓ガラスが割れ、大きな本棚が倒れ、真尾がドアの陰に隠れて部屋の中をのぞいた時には、父親は大きな机と壁との間に挟まれて苦しんでいた。
もちろん机を押しつけているのは母親だ。母親は父親も見ずに、机を壁に押しつづけていた。なにを叫んでいるのかわからなかったが、とにかく下を向いたままなにかを叫び続けていた。たんに「ぐぉー、ぐぉー、」と叫んでいただけかもしれない。
父親は机を押し戻そうとしていたがビクともしなかった。
やがて押し戻すこともあきらめたのか、それともほんとに苦しいのか、ただ両手を上にあげて苦悶していた。その姿だけみると、まるでジェットコースターに乗って歓喜の叫び声を上げている少年みたいだった。
それ以来、父親はますます真尾を遠ざけるようになった。
話しかけようとしても、仕事だと言って背中を向ける。真尾の視線に気づいた時には、軽くにらみ返してため息をつく。そしてすぐに書類に目をおとす。
母親も、父親とは口をきかなくなった。朝も、夜も、食事中でも口をきかない。
真尾が間違って箸を茶碗に当ててチンッと音を出すと、すぐに父親が目だけで睨んできた。それに気づいた母親がお椀をガンッと音をたてて置く。
そんな食事だった。
そのうち父親はほとんど外で食事をしてくるようになり、家庭内別居の生活がはじまったのだ。
両親が離婚したのは、真尾が十歳の時だった。
「ねえ真尾。ちょっと聞いて――」
母親はリビングで、真尾にソファの横に坐るように言った。
「ママはね、いま、新しい生活を始めようと思ってるの」
真尾はとびっきりの笑顔で歓んだ。
「本当? 大賛成よ!」
「まだ、なにも言ってないけど?」
「ママの新しい生活に、カンパーイ!」とグラスを持ったフリをして手をかざした。
「ふざけないで。まじめな話よ」
「わたしもよ。ちっともふざけてなんかない。本気で祝福してんだから」
「でも、わかってるの?」
「離婚するんでしょ? パパと」
「・・・・そうよ」
「だから祝福するって言ってるじゃない」とニコニコ笑う。
母親はこめかみを押さえた。
「あのね、真尾。よく聞いて。――あなたに父親がいなくなるのよ。わかってる?」
「私に父親がいたことってあるの?」
逆に真尾が訊き返した。
もう笑ってはいなかった。
「私の父親は、私が生まれたときに死んだのよ」
母親は言葉をのみ込んだ。
「いつも抱っこしてくれて、ヒゲだらけの頬をすりよせてきて、それがとても痛くって、疲れるのに長い時間、肩車して花火をみせてくれる、そんな父親はとっくに死んだのよ」
「真尾・・・・」
「公園でオニになってワザとゆっくり追いかけてくる父親も、釣りにいって退屈しきってる私に、釣ったお魚を私に見せて機嫌をとる父親も、運動会で一生懸命走ってもいっつもビリな×○△※◇・・・・」
あとは言葉にならなかった。八歳のあの時以来、父親のことでは一度も泣いたことはなかったが、その分、いまはワンワン泣いた。次から次へと涙が出てきてどうしようもなかった。
母親はそんな真尾を黙って抱き寄せた。母親も一緒に泣いていた。そうしながら二年間という時間を考えていた。
私はどう?
この二年間、私はなにをしていたの?
思えばずっとあいつへの不満ばっかり吐き続けてきたような気がする。テーブルに向って、流し台に向って、炊飯器に向って――。
真尾にだって、どれだけ夫の悪口を吐き続けてきたか知れない。
なのに、どう?
この子は確実に成長している。ほんの二年前は、父親のことをずっと気にして生活していたのに、いまはどう? 彼女は確実に父親という存在を切り離している。意識の中で殺しているといってもいい。
そんな風にしたのはもちろん父親だが、そんな風にさせたのは私なのだ。新しい生活をはじめる勇気もないくせに、いつまでもウジウジと文句ばっかり言って、この二年間を暮らしてきた結果がこうだ。この娘から父親を喪失させたのはほかでもない、私なのだ。
彼女は今までよりもずっと強く、真尾を抱きしめていた。
意外にも、高木先尾は離婚に反対した。別居してもいいし、なんなら親権も放棄する。だが、離婚は絶対認めない、とかたくなだった。
これまで他人の離婚を、 " 一番身近なパートナーさえもコントロールできない無能な男 " として卑下してきた男なのだ。自分の離婚を認めるわけがなかった。
その代り、決められた養育費は真尾が大学卒業するまで払うという条件だった。
母親は真尾とふたりで近くのマンションを借り、書店でパートをはじめた。生活費は父親からの養育費で充分足りていたので、それはあくまでも空いた時間を埋めるためのパートだった。ただ、楽だと思って気楽にはじめた仕事だったが、扱う本が重いので、思っていたよりも結構力のいる仕事らしかった。
そんな母親は、真尾が高校二年生の時に他界した。胃癌だった。あっという間というより、道ばたで転んで、アタフタと騒いでいるうちにそのまま他界してしまったような、じつにあっけない死に方だった。通夜も葬儀も終わってマンションへ一人で帰ってきたときでも、部屋を見まわして母親の姿を探したほどだった。
葬儀の喪主は父親が務めた。七年ぶりに見る父親はすこし小さく見えた。真尾は父親の横に並んで、母親の遺影を持っていた。
父親は喪主として挨拶するとき、感極まって嗚咽した。
泣いたのだ。
七年間ずっと別居していた妻が亡くなったことに、彼は涙したのだ。
――妻に先立たれた不幸な亭主。
そうなりたかったようだ。
真尾は、そういうものか、とそんな父親を魚みたいに冷たい目で見ていた。
それ以後も、父親は決められた養育費だけはしっかりと振り込んできた。それに加えて母親の生命保険の受取人が真尾になっていたので、お金のことで困ることはなかった。そして彼女は希望通りの大学に進学し、バイトをしながらではあったが、卒業することができたのだ。
大学卒業後、父親からの養育費はぴったりと途絶えた。そのことに関して、なにも連絡はなかった。いまだに父親からの連絡はないし、こちらから取ったこともない。
今となってみれば、父親と私が血でつながっていたのかどうかはわからない。しかし、真尾からすれば、 " 血 " にそこまでこだわった父親がまったく理解できなかった。
親子の関係の中で " 血 " がそれほど重要か? といって非難してやりたい気分だった。
とはいえ、もうそれもどうでもいい。そういう考えの人もいる、というだけのことなのだ。いまはもう父親に対して、憎しみも憐れみもなかった。ただ、かつてそういう人がいた、という事実だけしか、彼女の中にはなかった。
それを成長だと、母親は褒めてくれるだろうか。
そう。母さんなら褒めてくれるはずだ。
それも私を胸にきつく抱きしめながら――。
髪もくしゃくしゃにしながらギュッと。
そんな気がしていた。
6
「よーく考えてみたんだけど――」小野アリアは、自分のベッドの上で、足を抱えるようにして坐っていた。「このままじゃ、私たちって、ほんとに発見されないかもよ」
「かも、じゃないわ。発見なんてされないわよ」
「だよねー。私たちがいなくなったことがわかっても、どこへ行ったかなんて、絶対わかんないよねー」
「そうなの。友だちとかが騒いで警察に届けてくれても、じっさい失踪ぐらいでは警察もたいして動けないでしょ」
「じゃ、自力で解決する手段を考えないとダメなんだ」
「そういうこと」
アリアはベッドから降りて、ライティングデスクに置かれた黒電話の受話器をとって耳にあててみた。
「重ーっ。この受話器って意外に重いのねー。はじめて知ったわ」
アリアは耳から外して受話器を見た。そして改めてまた耳にあててみる。
「やっぱり、これは内線専用ね。当たり前だけど――。あの也子って子、携帯持ってたよね」
「そうなの?」
「だって、携帯使って、私のこと連絡してたもん」
「そーいえば、也子さんからの電話、一也くんが食堂の電話で受けてたわ」
アリアは目を輝かせた。
「食堂の電話は外線につながってるってこと?」
「そうね! つながってるのは確かよ!」と真尾も目を輝かせた。
「まずは、それね。――で、警察に連絡して・・・・」アリアは真尾に目を向けた。「それでどうすりゃいいの?」
「うーん」真尾もベッドから降りて、ふちに寄りかかった。「警察にここの場所を訊かれても、なんにも応えられないしねぇ。――でも、友だちが一一〇番したときに、すぐに折り返しその電話に警察からかかってきたって言ってたわ。確認とか何とかいって。逆探知じゃないけど、そういうことが簡単にできるみたい」
「そうなの?」とアリア。「それで場所がわかるのかなぁ」
「折り返し電話が掛けられるぐらいだから、わかるんじゃないかな?」
「わかった。とにかく連絡先は警察っていうことで。つぎに、いま食堂には――」とアリアは時計を見た。三時五十三分だった。「・・・・たぶん誰もいないだろうけど、調理室に誰がいるとしたら、藤乃さん親子と、あの時空もいるかもしれないわよね。――見つかったらマズイかな」
「時空さんはダメね」と真尾はきびしそうな顔をして首をふった。「彼は不正とか誤魔化しとかが病的に嫌いそうだから、そういうのをみつけたら黙っちゃいないと思う。もう手刀かなんかで攻撃してきそう」
「ああ、それ目に浮かぶわ」とアリアは身震いした。「ものすごく身軽だって言ってたし・・・・」
「やっぱり夜中に行動するのが一番いいんじゃない?」真尾は腕を組みながら、そう提案してみた。「みんなが寝静まってから、そっと実行するのが・・・・」
アリアは顔をしかめて首をふった。
「いまでもこんなに静かなのよ。夜はもっとすごいよ。ダイヤルを回す音だって館内中に響くんじゃない? ――ん? 電話ってダイヤル式だったの?」
真尾は少し考えてから首をふった。
「憶えてない」
「じゃ、とにかく、いま見に行こうよ」
真尾はすぐに同意した。
部屋の外にでてみると、トレーニングルームから金属的な音が響いていた。
時空だった。
ベンチプレス台に寝転んで、重そうなバーベルを素早い動きで上げ下げしていた。
『ラッキー!』
アリアが声には出さずにそう言いながら、真尾に向かって右手の親指をつき出した。
二人はそのままそっと階下へ降りた。
もっとも、時空のトレーニングの音がけっこう響いていたので、音にそれほど気を使わなくてもよかったが、これから行おうとしている行為を思うと、二人はすでにドキドキしていた。
玄関前のホールには誰もいなかった。
ミヤコ様の部屋からは、規則正しい人工呼吸器の音が聞こえている。それはとてもゆっくりだったので、まるでこの屋敷全体が呼吸しているような感じがした。
食堂にも調理室にも誰もいなかった。
電気も消えている。
真尾がシャンデリアの電気を点けると、アリアが驚いて真尾を見る。
「電気を消したままコソコソしてると、余計に怪しいわよ」と真尾。「飲み物でも飲みに来た、みたいにしないと・・・・」
アリアは深く肯いてからすぐに電話機の前へ行って確認してみたが、残念ながらその電話機も部屋にあった内線電話と同じで、ダイヤルはついていなかった。
「残念・・・・」八人掛けの大きなテーブルに坐りながらアリアが悔しがっていた。「ま、それほど期待してたわけじゃないけどね」
「でも、確かにここで電話してたんだけどなぁ」真尾が受話器をとって確かめてみたが、部屋と同じプープーという不通音しかしない。「外から掛かってきた時だけ、取れるようになってるのかなぁ」
「ま、そういう対策はちゃんとしてるってことね。この屋敷の出入り口もそうだけど・・・・」
「そうだ!」と真尾が受話器を乱暴に置いたので、アリアが大きく目を見開きながら口の前で人差し指をたてて注意した。そのまま無言でなんども首をふる。
真尾も無言で謝りながら、急いでアリアの前まで行った。そして顔をぐっと近づけた。
「あの緑のおばさんの部屋にも電話があったわ」と真尾は声をひそめて言った。「で、私見たの。あの部屋から誰かに電話をかけてたのよ」
「なるほど」とアリア。満面の笑みを浮かべていた。「確かにあいつの部屋だったら、外部につながる電話がありそうよね」
「でしょう?」
「でも、一気に危険度が増すわね」
「そこよねー、問題は――」
真尾はため息をつきながらアリアの向かいの椅子に腰を下ろした。
「あー。考えただけでも、怖気づいちゃうなー」と真尾。
「ま、ダメでもともとだし――」とアリアは真尾を見て明るく笑った。「とにかく行動してみようよ」
「そうね。何もしなかったら、何も起こらないもんねー」
「そうそう、そういうこと。――でもよーく考えないと。失敗は許されないわよ」
「そうね。チャンスは一度きりよね」
二人は顔を見合わせて深く肯きあった。
「まず、今からアイツの部屋へ行く」とアリアは腕を組み、椅子の背に身体をもたせかけながら言った。
真尾はなにも言わずに黙って肯いた。
「アイツが部屋にいたら、当然なんにもできない。――私たちへの説明の催促でもして、ごまかせばいいわ」
「まだですかぁって?」と真尾。
「そうそう。まだですかぁ? まだですかぁ? まだですかぁ? って三回ぐらい言ったら、ちょっとイタい奴だと思って、説明するの急ぐんじゃない? うまくいけば気味悪がって釈放してくれるかもしれないし」
「かもね」と真尾も笑った。
やっぱりひとりじゃなくてほんとに良かった、と真尾は心底思っていた。でなかったら今ごろひとりでどんどんふさぎ込んでいたことだろう。
「で、問題は、誰もいなかった時よ。その時にどうするか――」とアリアは身を乗り出して、真尾にグッと顔を近づけながら言った。
「そりゃまず電話が外につながるかを確かめる」と真尾。
「そう。確かめる。それは間違ってない。そして、その電話が外部に通じるようならすぐに電話をかける。それも間違ってない。――でも、やっぱりそこで誰にかけるのかが大問題よ」
「え? 警察じゃないの?」
「考えてみたら、すぐに折り返しかかってきても問題じゃない? この屋敷中に電話のベルが鳴り響くシステムになってるかもしれないのよ。――也子って子からかかってきた時はどうだったの?」
「憶えてない」と真尾は首をふった。「でも、それは恐怖ねぇ」とその事態を想像して身震いした。
「それで誰かが電話をとって、子供がイタズラしてしまってスミマセン、で終わりよ」
「そうねえ・・・・」
「かといって、ここの場所は説明できないし・・・・」
「逆探知してください! ってすぐに訴えるとか」と真尾が言ったが、アリアは腕を組んで首をひねった。「それで、仮に警察が不審に思って様子を見に来てくれても、ここの住人にとぼけられたら、それで終わりよ」
「そうよねぇ」
「かといって、電話でこの状況を説明しても信じてもらえるとも思えないし、それに、細かく説明してる時間なんてないし――」
真尾も「うーん」としか言えなかった。
彼女には電話の連絡先に警察しか思いつかなかったのだ。警察に連絡すればすべて解決すると思い込んでいたが、よくよく考えてみると、確かになにを話せばいいのかがわからない。
私たち妊娠させられて、いま拉致されてるんです! か?
――どこに?
マザーハウスです。
――マザーハウスってどこ?
――住所は?
・・・・。
確かに答えられないことが多すぎる。これではどれだけ時間があったって、説明できそうにない。
これは思っていた以上に深刻なんだと、真尾は改めて実感していた。もうずっと逃げられないかもしれない。そして私とアリアはこのままどんどんお腹が大きくなっていって、この場所で誰が父親なのかわからない子を産むことになるのだ。
そして――。
「じゃあさ、私の携帯にワン切りするってのはどうかな?」とアリア。
「ワン切り? それだけ?」
「そう。それだけ。もう一瞬にして終わる作業よ」
「確かに時間は少なくて済むけど・・・・」
「いい? ちょっと考えてみて――。私がいなくなったことに一番最初に不審に思うのは、小村ユミっていう私の友だちだと思ってるの。で、その子が私の異常に気づいたら、まず私のアパートへ行って、カギがかかってないことにもっと不審に思い、それで部屋の中に入って、ベッドのところに置いてある携帯に気づくと思うの。
携帯を置いて失踪するなんて絶対怪しいと思うだろうから、まず着信履歴を確認するでしょ。そこで、アドレスにはいってない番号があると不審に思って、とりあえず掛けてみる。で、知らないオバさんがでる。なんだか適当なことをオバさんが応える。怪しむ。
あの気味の悪いダンスビデオ事件があったでしょ? 彼女はそのことも知ってるから、それもコミで警察に訴えてくれると思うし、それで少なくともその番号から契約者を割り出すぐらいは警察もしてくれるんじゃないかな。どう思う?」
「そうねえ・・・・」
「私もうまくいく確証はないんだけど、彼女にはシンジっていう彼氏がいて、あの二人なら動いてくれると思うんだけどな-」
「やってみる価値は充分あると思う」と真尾は同意した。「――っていうか、私には他にはなんにも思いつかない。悪いけど・・・・」
アリアはニッコリと笑った。「でさ、そのとき時間がありそうだったら、真尾の携帯にもワン切りするね」
「私の携帯にも?」
「そう。私の携帯と真尾の携帯を二つ並べてベッドに置いてあるんだけど、ユミには誰の携帯かわからないだろうけど、二つの携帯に同じ番号が着信履歴に残ってると、もっと怪しむと思わない?」
「なるほど! いいわね、それ!」
「でしょう? なかなかの名案でしょう?」
「ホント! もう尊敬しちゃう!」
「じゃ、それでいきましょう! ――真尾の番号教えて。私、ひとの携帯番号、ぜんぜん憶えてないから――」
真尾は笑って立ち上がり、部屋の隅にあった飾り棚を開けた。
やはりそこには先ほど緑服の女が出してきたメモとボールペンがあった。そこに番号書いてアリアに渡す。
「じゃ、行くよ」というアリアのことばに、真尾は力強く肯いた。
真尾はアリアの後についていきながら、彼女の変貌ぶりに驚いていた。
こんなに行動力がある子だったのだ。こんなに物事をテキパキと、せっかちなぐらいにこなしていくような子だったのだ。
それでも、あんなセクハラを受けるとボロボロになってしまう。行き場を失って、追い詰められて、やがて自分が自分でなくなってしまうために、より深い闇へとはまり込んでしまう。
それがセクハラの本当の恐怖だ。
セクハラの性的な部分も重大な問題だが、その奥に潜む闇はもっと恐ろしい。自分を見失って、再起不能になってしまった女性を何人も知っている。
真尾はセクハラの怖さを改めて知った思いがした。
廊下にでてみると、こういう時に限って、床板が大きく軋むような気がする。この屋敷が住人に向けて警告を発しているみたいだ。そして屋敷のどこかにいる全員が異変に気づき、息をひそめて、私たちのようすをじっとうかがっている、そんな気がした。
二階では、なんの変化もなく、ベンチプレスの音が規則正しく続いている。
アリアは大股に歩いて緑服の女の部屋の前まで行くと、真尾を見た。
そして肯く。
真尾も肯く。
ノック――。
真尾は、アリアがはっきりと二度ノックしたことになぜか安堵していた。
・・・・。
しばらく待っても返事がない。
アリアはもう一度ノックした。
・・・・。
同じだった。
彼女は奥の黄服の女の部屋に行ってみてノックしてみた。
・・・・。
同じだった。
アリアは真尾を見てニッコリ笑った。
そしてまた緑服の女の部屋の前に戻り、そこで立ったまま周囲の様子をうかがった。
真尾は玄関ホールの真ん中に立って周囲を見回していた。二階のベンチプレスの音が止まったりしないかとか、階段を誰かが降りてこないかとか、どこかの部屋のドアがいきなり開いたりとかしないかを――。
アリアはドアノブにそっと手をかけた。真鍮製の古いドアノブだ。カギは真尾の部屋のドアと同様に付いてなかった。持っただけでグラグラして外れそうだったが、壊れてはいないようだ。
それをつかむ。そして磨りガラス越しに部屋の内部をじっと見ている。そのまま少し待つ。そしてゆっくりと回す。
――ドアが開く。それが予想以上に大きな音がした。
アリアが動きを止めて目を閉じる。真尾は息を止めて周囲を見回す。
ベンチプレスの音はそのままだ。
アリアが細く開いたドアから内部の様子をうかがってみる。
やはり誰もいないようだ。
真尾も近くに行って部屋の内部をのぞいてみた。
右側の壁にそって背の低い本棚が並び、左側にクイーンサイズの大きなベッド、中央に革製のソファが置かれていた。
正面にある窓の下に大きな机があり、そこに黒電話が置かれていた。とても大切なモノのように、黒電話の下には白いレースの敷物が敷いてあった。
アリアはなるべく床板が鳴らないようにと思って、スローモーションでかけっこをしているような動きで黒電話へと向かった。
お香のいい匂いがした。ソファの前にあるローテーブルの上で燃やしていたようだ。そこに置かれた壺の形をした香炉からは、もう煙は上がっていなかった。
ベッドもきれいにメイクされている。背の低い本棚も乱雑じゃない。それにホコリもかぶっていないようだ。
緑服の女は意外ときちんとしているのね、と考えていると、ようやくアリアが黒電話にたどりついた。
アリアが真尾を見て、喜んだ顔をして指を回す。
ダイヤル式のようだ。
その時、二階でカランカランと金属音がした。
アリアの動きが止まった。
部屋の中に入っていた真尾も動きを止めた。ちょっと開けたドアのすき間から二階の様子をうかがってみる。
音がしたのはトレーニングルームのようだ。
すこし待つ。
真尾がアリアに目を戻す。
そして肯く。
アリアも肯いて、黒電話の受話器を手にとって耳にあててみると、すぐに満面の笑みでOKの合図を送ってくる。
ダイヤルを回す。
〇、九・・・・。
あー、もどかしい!
ダイヤルって、こんなに時間が掛かるものなの?
アリアは無理やりダイヤルを戻したい気分だった。
――〇っと。
え?
何番だっけ?
アリアの頭の中から、自分の携帯番号の記憶が飛んでいた。
なにも考えられないのだ。
アリアは泣きそうになって真尾を見た。
『番号、忘れたの?』
かすれた声で真尾が訊く。
アリアが細かくなんども肯いた。
真尾が憶えていた番号を伝える。一度訊くとアリアも思いだし、番号を間違えないようにして、最初から番号をかけ直す。
それにしても、十一桁の番号を回すのに、驚くぐらいの時間を費やしてしまう。もう、ジレったいったらない。いまにも緑服の女が戻ってきそうで、アリアはダイヤルがゆっくりと戻るたびに真尾の方をなんども見た。
真尾もそのダイヤルの遅さに、身体を細かく上下に揺らしながら、そのもどかしさを表現していた。
そうしてようやく回し終える。受話器からはガチガチっと機械的な音がする。
――早くつながって!
早く!
早く!
すこしでも速くなるなら、アリアは受話器をふり回したい気分だった。
そしてまたちょっとガチガチっと機械音がして休憩するような沈黙のあと、ついに電話がつながった。
――そう、ワン切りよ。
すぐに切るのよ。
アリアは受話器を置く白いボタンの上に手を置いて、すぐに電話を切る準備をしていた。
――ツーーーッ、ツーーーッ、ツーーーッ・・・・・・。
え? 話中? アリアの頭の中は真っ白になった。
私の携帯で誰かが電話を?
それとも掛け間違い?
アリアは電話を切った。そしてもう一度番号をまわす。
その時、真尾が驚いた顔をしながら、少し開いていたドアを静かに閉めた。
二階から誰かが下りてくるようだ。
アリアも回しかけていた電話を切って様子をうかがう。
緊張がピークに向って駆けあがっていく。
二階から降りてくる足音が一階のホールまできた。
どっちへ進む?
真尾は相手が見えもしないのに、ドア越しにきつく睨みつけていた。
アリアは自分の携帯が話中だったことが頭から離れない。
いったい誰が?
もう小村ユミが探してくれているのだろうか・・・・、とまで考えたところで、アリアは思わず声を上げそうになった。
あわてて口を押さえる。
・・・・そうだ。
妊娠検査薬も置きっぱなしだ。真尾と同じ状況だ。
小村ユミはあれを見てどう思うだろう。
それが理由で失踪したと思うだろうか?
携帯も持たずに?
自殺と思うのか?
いや、それはないだろう。
真尾をみると、彼女がにっこり笑って手で◯をつくっていた。
二階から降りてきた足音は、どこかへ行ったようだ。
アリアは、今度は絶対間違えないように、番号をよく確認しながら電話をかけた。
再びガチガチっと機械音がした後、今度はちゃんと呼び出し音がする。
どうする!
ワン切りか?
それともユミが相手先不明の番号をいま凝視しているところなのか?
コールが二回。
どうなの?
コールが三回。
どうする?
切る?
やっぱりさっきのは番号を間違え・・・・。
「はーい!」
「!・・・・」でた!
「だれー?」
「・・・・?」
違う。ユミの声じゃない。ユミよりもっと高い声だ。誰?
「・・・・誰かな、イタズラするのは――。まさか、小野、アリアちゃんじゃ、ないでしょうねぇ」
声が笑っている。
也子だ!
どうして彼女が私の携帯を・・・・。
「正直に言いなさい。マーさんの電話から掛けてんのはわかってんだから・・・・」
「――どうして、あんたが私の携帯を持ってるのよ」
アリアが低い声で非難した。
「怒ってる! キャハハハハハー」
也子は嬉しそうだった。
「アンタこそダメでしょ。人の電話勝手に使っちゃ。マーさんに言っちゃおーっと」
「――マーさんって誰よ? 緑のオバさんのこと?」
「緑のオバさんって!」
也子はまたおかしそうに笑った。
「なかなか素敵な名前ね。本人は傷つくと思うけど」
「――で、あんたはどうして私の携帯を持ってるのよ」
「取りに来たからよ。わざわざ。今日はこれで二回目の外出よ。特別手当をもらわないとやってられないわ」
「どうして私のアパートがわかったの?」
「ミヤコ様に訊いたのよ」
「ミヤコ様? 誰よ、それ」
「あれ? 知らないの? まだ言ってなかったっけ?」
「知らないわ」
「わかった。――いま教えるわ」と言うと、いきなりドアが開いた。
アリアの電話に集中してドアの取っ手も押さえていなかった真尾は、驚いてふり向いた。
見ると、也子、緑服の女、黄服の女、団地がドアの外に立っていた。
緑服の女が二階に向って一也を呼んだ。
一也が飛ぶように降りてきた。驚いて真尾をみる。そのとき初めてアリアも見た。そしてすぐに受話器を持ったままの手を見る。苦い顔をした。
「一也! どういうこと?」
緑服の女は怒っていた。
「ちゃんと見張っといてって言ったでしょう!」
「・・・・」
「それに、アンタ――」と緑服の女はアリアに顔を向けた。「他にどこかへ掛けたの?」
アリアは応えなかった。緑服の女が嫌がる答えが、すぐにはわからなかったからだ。
「ま、いいわ。時空に調べさせて」
そう言われて、黄服の女がすぐに出ていった。
緑服の女は改めてアリアを見てから深くため息をついた。
「ちょっとアンタたちを侮ってたようね」と緑服の女は自嘲いながら首をふっていた。「アンタたちの行動もわからなくはないけど、こんなことをすると、ものごとがもっと混乱してしまうの。いまのアンタたちにはわからないと思うけど――」
「わかるわけないわ」アリアは受話器を置き、身体を緑服の女の方に向けて、正面から彼女を見据えた。「そちらは今回の外出で、なにか成果はあったの?」
「もちろん」也子が自信たっぷりに応えた。「あなたのことも、よーくわかったし」
「也子!」
緑服の女が、背後から也子をたしなめた。
「私の住所はどうやって調べたの?」
「だから言ったでしょ。ミヤコ様が・・・・」
也子はふり向いて緑服の女の怖い顔をみてから、言うのをやめた。
「とにかくみんな、私の部屋からでてちょうだい。食堂で話をしましょう」
高木真尾は、緑服の女のセリフを意外に思っていた。
以前の彼女なら、計画が瓦解してしまってもおかしくないようなこの私たちの行動に理解を示したりはしなかっただろう。強制的に独房(というのがあればの話だが)に閉じ込めて、猛省を促してもおかしくない行動だったのだ。それぐらいの覚悟で、アリアも私も行動したのだ。
なのに「わからなくはない」だなんて・・・・。
真尾が緑服の女を見ていると、彼女が真尾の視線に気づいて戸惑い気味に眼を伏せた。
いけないものを見てしまったみたいに――。
なにかあるの?
まだ何かこれから起こるの?
真尾にはさっぱりわからなかった。
アリアが横に来て、真尾の肩に手を置いた。
見ると、『ダメだったね』というように小さく肩をすくめていた。
食堂の八人掛けのテーブルに、真尾、アリア、也子、黄服の女、緑服の女が坐った。一也はもう二階に戻っていた。
テーブルに坐る時に、黄服の女が緑服の女に顔を近づけてなにかを耳打ちしていた。
緑服の女は深く肯いて、アリアに目を向けた。
「どうして最初に警察に連絡しなかったの?」
アリアは肩をすくめただけでなにも応えなかった。
「また、却下ね。――ま、いいわ」
緑服の女はテーブルの上に手を出して、両手をこすり合わせていた。
「ミヤコ様って誰よ」といきなりアリアが訊いた。
彼女にはいまはそれが気になって仕方なかった。もしかすると、この騒動の元凶かもしれない、そんな気がしたのだ。
「昨日、真尾さんには少し話しましたけど、ここはかつて病院だったの。開業は昭和五年。当時は何科という区別もなくて、なんでもやっていたそうよ。その創業者の娘がミヤコ様なの」
「私のお婆さまよ」
也子は自慢げに言った。
「え?」真尾は也子を見た。「私のお婆さまって、血が繋がってるってこと?」
「もちろんよ。じゃないと〝私の〟って言えないじゃない。――美也子って書くの」と空中に右手で〝美也子〟と書いた。「そこからひと文字もらって私は也子。そして弟の一也なの」
真尾は納得がいったように肯いていた。そして緑服の女を見た。
「じゃ――」
「そう。美也子様は私の母親よ」
「あなたの母親・・・・」アリアはちょっと考え込んだ。「え? じゃ、あなたたちは親子なの?」
「そうよ」と也子。「見えない?」
「うーーん」とアリアは首をひねりながら、緑服の女と也子とを交互に見ていた。「そうなんだ――。で、その方は預言者か何かなの?」
緑服の女は笑って首をふった。
「教祖様とか?」と真尾。
「それも違うわ。今年で八十五歳になる普通のおばあさんよ」
「じゃ私の住所を知っているというのは?」とアリア。
「ウソよ」
也子が、アリアの携帯をいじくりながら言った。
アリアが奪い返そうとするとサッと隠す。
「大丈夫よ。携帯の扱いには慣れてんだから」と言って、細いジーンズのポケットからもう一台携帯を取り出した。
「あ、それ、私の」と真尾。
「へへ。アンタの古っるいわねー。いま時めずらしいよ、こんな画面が小さいの」と言いながら携帯をいじる。
「ちょっとやめてよ。壊れちゃうでしょ」
「也子っ!」緑服の女がきつく注意した。「いいかげんにしなさい!」
「はいはい。わかりましたよっと」
也子は携帯を二台ともジーンズの左右のポケットに突っ込んで、足をブラブラとさせていた。
「じゃ、どうして私のアパートの住所がわかったの?」とアリア。
「却下よ」と也子。「そんな質問には応えられないわ」
「その美也子様が――」真尾が緑服の女に顔を向けながら訊いた。「私を選んだっていうのもウソなんですね?」
ここへ連れてこられたときに、彼女がそう言っていたからだ。
「未也子様が?」と也子。「なんで未也子様が? だって・・・・」
「也子っ!」と緑服の女がきつくさえぎった。そして「アンタは二階へ行ってなさい!」と反論もさせないように強い調子で言った。
それでも也子は反論しようとしたが、緑服の女の顔をみて口をつぐんだ。大人しく立ち上がり、ていねいに椅子を戻し、団地の肩にも乗らずに、ちょっと首をうなだれながら出ていった。すぐ後ろについていく団地も首をうなだれたまま出て行った。
じゃ、私の妊娠を指示したのは誰なの? と真尾は考えていた。
私を選んだのは誰?
たまたまなの?
街のどこかでたまたま見かけた私が選ばれたの?
でも、アリアも?
ふたりの共通点はなんだろう。
〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉か?
いや、それでは時間的におかしい。アリアが大村クリニックに通院をはじめたのは二月だ。それで私が〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉を紹介したのだから、それはよく憶えている。
それより前に私はアリアのことを知らないのだ。なのに同じような時期に、同じような心当たりのない妊娠をしている。
これは一体どういうことなのだろう。
他にもまだ妊婦が何人も出てくるのだろうか?
それとも――。
「美也子様に会わせてよ」とアリアがストレートに言った。
緑服の女が眉をひそめてアリアを見た。
「それは許可できないわ」
「別にあんたの許可なんかいらないわ! いる場所はわかってんだから!」とアリアは立ち上がって美也子様の部屋へ行こうした。
それを黄服の女が止めようとする。だが、体格も体力もあきらかに勝っているアリアは止まらない。黄服の女を引きずるようにして、美也子様の部屋へ向かおうとする。それを「ぐぐぐぐぐぅ」と歯を食いしばりながら顔を真赤にして黄服の女が止めようとしていた。
「やめなさい!」と緑服の女が子供を注意するように言った。
それでもアリアはまったく止まらなかった。どんどん黄服の女を引きずりながら歩いていく。
「ちょっと、わかりました! わかりましたよ!」と緑服。
アリアが押すのをやめて緑服の女を見た。
「なにがわかったの?」
「わかりました。――いまから未也子様に会わせます。それでいいですね?」
「いいわ」とアリアは満足そうに笑みを浮かべた。
そして真尾を見て『いい?』と目で訊いてきたので、真尾もアリアを見てしっかりと肯いた。
「でも、状態があまりよくないので、短い時間だけどいいですね」
「わかったわ」とアリアは素直に肯いた。
「ひとつ気になってるんですけど――」と真尾が遠慮がちに訊いた。
「なに?」と緑服。
「美也子様って、あなたのお母さまですよね?」
「そうよ」
「どうしていつも{様}(ヽ)をつけて呼んでるんですか?」
緑服の女は難しい顔をして、
「それはもう昔からそう呼んでるから・・・・・・」
「小さい頃から?」
「そうよ」
真尾は、母親の名前に{様}(ヽ)をつけて呼ぶ家庭を想像してみたが、うまく想像できなかった。そう呼ばせる母親も、そう呼びつづける娘も、彼女には理解できない家庭、としか思えない。
「父親のことも{様}(ヽ)づけなの?」とアリア。
「父親はいないのよ」
「ああ、そうなの。産まれた時から?」
「産まれる前からだよ」
「は?」とアリアが訊いたが、緑服の女が「もう、行くの? 行かないの?」と急かすように聞いてきたので、「あ、行きます、行きます」とあわててアリアが応えると、緑服の女がニッコリと笑った。
「では、案内するよ。私についてきてね」
真尾は緑服の女の後ろを歩きながら、『産まれる前から父親がいない家族』というものを考えていた。要は、産まれる前に、父親が認知をせずに逃亡してしまった、という類いのことなのだろう。一見不幸なことように見えるが、私のように最低の父親がいるより、どんな父親なのかを知らない方がまだマシなんじゃないか、と思った。
とはいえ、父親に絶望した私の生活が誰にも想像できないように、産まれる前から父親がいない家族も、母親のことをずっと{様}(ヽ)づけで呼びつづける家族も、やはり私には想像できないことだと思った。
――まあそれも、いま会う未也子様を見ると、少しは理解できるかもしれないわね、と真尾は少し期待していた。
そうして緑服の女、真尾、アリア、黄服の女の順で未也子様の部屋に向かった。
未也子様の部屋の前までくると緑服の女がふり返った。
「母は{臥}(ふ)せってますから、直接お話はできません。いいですね」
真尾もアリアも神妙な顔をしたまま肯いた。
もうそこでも人工呼吸器の規則正しい音がしていた。
くぅー、ぱしゅう・・・・・・。くぅー、ぱしゅう・・・・・・。
緑服の女は、ノックをしたが、とくに返事を聞くこともなくすぐにドアを開けた。
部屋の中は、熱帯樹林の植物園みたいに、ひどい湿気でむっとしていた。
見ると、五台もの加湿器が右の壁側に並んでいた。どれもミスト量が最大になっているみたいで、未也子様の部屋を盛大に加湿していた。深く呼吸をすると、肺に水滴が付いてしまいそうな気がした。
真尾たちの部屋をふたつ繋げた大きさだというのは知っていたが、それでも思っていた以上に部屋は広かった。
窓は厳重に目張りされているらしく、まったく外光が入らないようになっていた。それで照明は天井から吊り下げられた電灯ひとつしかなかったので、新聞の文字が読めない程度に暗かった。目に優しい光加減ということだろうか、と真尾は考えていた。
無菌室みたいに、ベッド全体が透明なビニールシートで被われていた。
そんな中で、未也子様が酸素吸入器が取りつけられた状態のまま眠っているようだった。痩せているせいか、目がひどく落ち込み、シーツからでた手が、老木のようだった。盛り上がったシーツからすると、身長も百五十なさそうなぐらいとても小さく見えた。
もしかすると、美也子様は大村クリニックの元患者なのかもしれないと考えていたが、真尾にはまったく見覚えのある顔ではなかった。
がはんっ! と未也子様が大きく咳払いをすると、すかさず黄服の女が透明なビニールシートの中に入り込んで、手慣れた手つきで呼吸器を外し、そこに吸入器を差し入れて痰を除去したあと、また呼吸器をつけ直していた。そして未也子様の口をティッシュペーパーでぬぐう。そうすると、また未也子様は静かになった。
「美也子様はどこが悪いの?」と声をひそめてアリアが訊いた。
「肺よ。肺気腫なの。少しずつ肺の壁が破壊されていく病気なのよ」
真尾は神妙な顔をして肯きながら、自分の想像とはあまりにも違った未也子様の姿に言葉を失っていた。
もしかすると、今回の騒動をすべて取り仕切っているのが未也子様じゃないかと考えていたのだ。だが、これでは取り仕切るどころか、もう命すら危ぶまれているような状態ではないか。
彼女は混乱したまま、そんな未也子様の姿をじっと見下ろしていることしかできなかった。
未也子様の顔の左側に寄り添うように、手作りの人形が一体置かれていた。真尾はベッドに近づいてその人形をじっくりと見てみた。
ぬいぐるみの身体はシーツの中に隠れていたのでわからなかったが、頭だけでも潰れたソフトボールぐらいの大きさはあった。
顔はラテぐらいの薄い茶色のフェルトで、髪の毛はなく、左目が茶色の丸いボタン、右目が青色の四角いボタンで、眉は三角に切られた黒い布、鼻は長方形の濃い茶色の布、口は血みたいに赤い布をカットして作られていた。形がいびつだったので、いま自分が置かれている環境を不敵に{嗤}(わら)っているように見えた。
その時、美也子様が、じっと真尾を見ているのに気づいた。
顔は天井に向けたままで、眼だけで真尾を見ている。最初は目が半開きの状態でなにも見えていないのかと思ったが、しっかりと真尾を凝視している感じだった。
真尾は眼を{逸}(そら)した。そして、しばらくぬいぐるみに目を向けて心を落ちつかせてから再び目を向けると、美也子様はもう真尾を見てはいなかった。目を閉じて、人工呼吸器の可動に身を任せるままになっていた。
くぅー、ぱしゅう・・・・・・。くぅー、ぱしゅう・・・・・・。
「もうすぐお食事ですから、それまではまた部屋に戻っていてください」と緑服の女が静かに言った。
真尾とアリアはお互い話すこともなく黙ってミヤコ様の部屋をでて、ゆっくりと階段をのぼり、真尾の部屋へと戻っていった。