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【長編小説】闇袋 第2章
第2章
1
まだ階段の蛍光灯が明滅している。ただでさえ狭くて暗くて汚い階段なのに、蛍光灯が明滅していると、もっと気分が滅入ってくる。
入口前の階段があんな陰鬱な状況だったら、お客さんが入店する気も失せるのではないか、と奈乃は心配していた。だから、昨日マスターの木崎に取り替えてくれるように提案しておいたのに、『大家には言ってある』の一点張りで、結局いつまでも交換されないままだった。
いまもマスター木崎は不在だ。どうせ東急ハンズへいって、なにかを物色しているのに決まっている。
いまは何にハマっているんだっけ?
――そう、鉄瓶よ。
あの黒くてずんぐりむっくりの鉄瓶に、いまは熱中しているのだ。色とか形とか模様とか・・・・。鉄瓶には吟味するところが満載らしい。
でも、東急ハンズに鉄瓶なんて、いったい何個あるんだろう。
携帯に連絡をいれて、帰りにでも蛍光灯を買ってきてくれるように進言しようかと思ったが、マスター木崎はモノを吟味している時はいつも携帯の電源をオフにしているのを思いだしてあきらめた。携帯をつけていると、たとえ連絡がなくても集中できなくなるらしい。
いったい何のための携帯かわからないが、今日戻ってきたらもう少し強く進言してみよう、と奈乃は心に決めていた。
この〈マーシャの光〉という占いハウスは、東急ハンズのすぐ近くにある古い雑居ビルの二階にあった。
一階が東南アジア系の洋服や雑貨が置いてある店で、どの商品もすでに半年ぐらいアジアの未舗装の道路脇で売っていたのでは? と思えるぐらい、くたびれた商品ばかり扱っていた。
その店の右脇にある、狭くて暗くて汚い階段を、それもいまは蛍光灯が明滅している階段を上がったところに、〈マーシャの光〉がある。その二階のフロアー全体をつかって営業していた。
店に入ってすぐ右側の壁には、店にエントリーされている占い師の写真付きのプロフィールがかかっていて、左側のカウンターには、その日待機している占い師の写真と、その日の予定表が置いてあった。
そのカウンターは無人だ。もう半年間受付には誰もいない。
それまで勤めていた受付がいなくなると、マスター木崎は一時的な処置と言い訳しながら、占いが終わると、それぞれの占い師がかかった時間に応じて客に料金を請求し、その四割を〈マーシャの光〉に上納するというシステムに変更になった。それは次の受付係が決まるまで、という暫定処置ということだったが、それから半年間、不在のままになっていた。
マスター木崎は、「求人しているけど、なかなかイイ子が見つからないからなぁ」ともっともらしくボヤいているが、いざこの上納システムに変更してみてもなにも問題なく営業していけるので、必要ない経費を使うこともないと思ったに違いない、と奈乃はにらんでいた。
今日待機しているのは、お香占いのセラノ芳野、タロット占いの月夜のヒカリ、そしてハル(以前この店に勤めていて人気占い師だった〈ナツ〉にあやかって、マスター木崎がつけてくれた北川奈乃の占い師名)の三人だった。日曜日の午前中ということもあって、まだ待機している占い師は少なかった。
ここは以前カラオケボックス店だったこともあって、サイズが違う個室が八部屋に分かれていた。しかし、『それだと不安だ』という声が、占い師の方からあがった。
どんな相談者が来るかわからないのに、というか、病院よりもずっとわけありの相談者が多いのに、密室になってしまう個室はよくない、という意見が多数を占めた。
どうしても個室のままということであれば、せめて各部屋に監視カメラを設置して欲しいということになったが、それを聞いたマスター木崎は迷うことなく各部屋のドアを取っ払い、入口にミラーを取り付けて、通路に立てば各部屋の状況がわかるようにして、なんとか占い師たちの同意を得ていた。
とくに場所が決められているわけではなかったが、奈乃は入口を入って正面の部屋をいつも選んでいた。そこだと、来店した客をいち早く確認できるのだ。
もしかすると、高校の担任教師がいきなり来店するかもしれないし(彼女の高校ではいかなるバイトも禁止だった)、母親だって占いは大好きなのだ(もちろん、母親にもこのバイトは秘密だ)。
とにかく、いち早く来客の顔を確認しないと、その客が帰るまで、ずっと不安な気持ちでいなければならないのが嫌だったのだ。
今日はセラノ芳野が占いに使用するお香の匂いが店内にたちこめているので、いつもより少しだけ神秘的だった。
彼女は占いをしていないときでもお香を焚いているので、二階も東南アジア系の雑貨ショップと思われるのでは、と奈乃はちょっと不安だったが、自分の衣装がインドの民族衣装である真っ赤なサリーだったので、その異国の香り漂う〈マーシャの光〉に一番似合っているのは奈乃だった。
それにしても、と奈乃は思う。
あの男に会ってからもう二週間経っているが、あの黒い袋が割れてしまったときの情景がいまだに頭から離れない。いまでも赤ちゃんの泣き声が耳元で聞こえるような気がする。それに床に落とされたときの、あのなにかが潰れてしまったような音――。
奈乃は、見せかけだけの大きな水晶玉が置かれた小さなテーブルに両肘をついて頭を抱え込んだ。
校長の死以来、次にどこかであの黒い袋をもつ人に出会ったなら、今度はなんとか助けてあげたいと思っていたのに、いまはそんな気持ちがすっかり消え失せていた。
なにも黒い袋をもつ人間がみんな被害者とは限らないのだ。
少し遠回りになるが、あれからこの〈マーシャの光〉に出勤する道順も変えた。
今度あの男に会ってしまったら、どうなってしまうのだろう。
想像もできないし、したくもない。だから会わないでおくのが一番いいのだ。
――でも、あの赤ちゃんは、一体どうなってしまったんだろう。
「ヒマねー」
見ると、奈乃のブースの入口に、月夜のヒカリが立っていた。体重が百キロを優に越えるオカマだ。新宿二丁目でいまでも現役なのが彼女の自慢だった。肌が白いのと、つけまつげをしなくていい立派なまつげも自慢らしかった。
黒い羽根がついた扇子で、その白い巨体をあおいでいた。
「ハルちゃん、今日の予約はないのー?」とヒカリ。
「ええ。今日も、ですけど」
「ホントッ! ココって宣伝がヘタよねー。場所が悪いんだから、賃貸料が安い分、もっと宣伝すればイイのにねー」
「看板も小さいですしね」
「ソウソウ。あんなもの、どんなに目をひんむいたって見えやしないわよ」と誰よりも目が小さい月夜のヒカリが一生懸命目をひんむいたので、奈乃が吹き出した。
「ナニ? なんかおかしいこと言った? アタシ・・・・」
「ううん、別に――。あ、そうそう。マスターってやっぱり、いまハンズですか?」
「そうなのよー。アイツ、また行ってるのよー。ホントにハンズ好きよねー。こんな条件が悪い場所から動こうとしないのも、近くにハンズがあるからよ、きっと」
「そうですね。私もそうだと思う」と奈乃はまじめな顔をして深く肯いた。
「でしょう。ホントに毎日いってるもんねー。よくあんなに、次から次へと買いたいものがでてくるわよねー。感心しちゃうわ、まったく――。
ソウソウ。いま、アイツがなににハマってるか知ってるー?」
「鉄瓶じゃないんですか?」
「アラ。それはもう三つも前の話よ」
ヒカリは丸々と肥ったイモ虫みたいな指を折って、ひとつひとつ数えていった。
「鉄ビンでしょ、おハシでしょ、目ざまし時計でしょ、で、いまは、あの――、ソウソウ、ドライバーなのよー」
「ドライバー?」
「いっとくけど、ゴルフのじゃないわよ。それだったらまだ理解できるんだけど、アイツがいまハマっているのは、あのプラスとかマイナスのネジを締めるドライバーなのよー。変わってるでしょう?」
「そんなものにハマってるんですか?」
「ソウなの。いまはそれに夢中なのよー。あんなもの百均にいくらでもあるのにねー。それじゃダメみたいなのよー。ヒマでしょー。
アタシ、前にアイツがハンズでボールペン選んでるの観察してたんだけど、もう何本も取っ替え引っ替えグリップにぎったり、試し書きしたりしながら選んでるの。たかがボールペン一本によー! 笑っちゃうよねー。
――あ、キタキタ! お客さんよ。じゃ、またあとでねー」とヒカリは太い手を小さくふって、自分のブースに戻っていった。
入口に現われた客は女性だった。ツバの大きな黒い帽子をかぶっている。母親も担任教師も、けっしてかぶることのないデザインだ。
奈乃は安心して、背筋をしゃんと伸ばして、手を礼儀正しく膝の上において客を待った。
その女性は、壁にかけられた占い師のプロフィールを、じっくりと時間をかけて見ていた。
つぎに、いま待機している占い師の写真。
そこで正面のブースで待機している奈乃に気づくと、カウンターに置かれた奈乃の写真と見比べてから、奈乃のブースに向かって歩いてきた。
また、ここのシステムを知らない客だろうか、と奈乃は考えていた。
受付係がいないせいで、はじめて来店した人のほとんどは、まず最初に奈乃のところへ来る。そして奈乃がここのシステムを説明してやるのだ。
こんなに多いのなら、マスター木崎に別料金を請求したいぐらいだわ、と奈乃。
もっとも、奈乃は自分がちゃんとした占い師じゃないという負い目があったので、マスター木崎に対してもあまり強くは出られなかった。
彼女の場合、相談者の心の中にある袋で現在と過去を知り、それを参考にしてアドバイスするだけなのだ。
結婚とか仕事などの未来についての相談でも、現在を見た上でのアドバイスにしか過ぎない。
正直に言うと、そんなもの友人から恋愛相談を受けた場合と、そう変わらないレベルなのだ。ただ、彼女の場合は、現在や過去のことを、水晶玉を見ながら小出しに言い当てるので、未来のことをたいして占わなくても、人は不満には思わないようだった。
奈乃は背筋を伸ばし、目だけで奈乃のブースの入口に立つ女性を観察していた。
黒いシャツに黒いロングスカート。それに黒い帽子。
そんな格好で、ここまで来たのだろうか。まるで彼女の方が本物の占い師みたいだった。
「よろしいかしら?」
ブースの入口に立ったまま女が言った。ツヤツヤした美しい声だった。
「どうぞ――」奈乃は背筋を伸ばしたまま、軽く頭を下げる。「なにかご不明な点でも?」
「いえ」
女はすぐに否定して、奈乃のブースに入ってきた。そして向かいの椅子に腰をおろした。帽子はかぶったままだ。大きなツバのせいで、顔の半分が隠れていた。
顔が見えないから帽子を取るように言おうとしたとき、奈乃は首をひねった。
この女に〝さぐり〟ができないのだ。こんなこと初めてだった。
――女を見る。
女は少しうつむき加減でいるので目は見えない。そのままじっとしている。
奈乃はもう一度試してみた。
――やはり、だめだ。力が届かないというのではなく、心の前に鉄の壁があって、完全にブロックされている感じだ。
奈乃は眉をひそめて、女を凝視していた。
「どうしたの?」
帽子の女が笑っていた。その口だけが見えている。口紅が異様に赤い。それが動くのを見ただけでも、悪い呪いにかかってしまいそうな気がした。
女がゆっくりと顔を上げて奈乃を見る。その大きな目は、目の前で男を自由に踊らせることができるほどの魅力をもっていたが、残念なことに、右目が半分以上開かないようだった。――顔面神経痛だろうか。
しかし、それだけに、もっと強烈なパワーをもった呪いにかかってしまいそうな気がした。
「見えないの?」
女が小バカにしたように笑った。
奈乃は声も出なかった。
「思ってたよりもかわいいのねぇ? おいくつ?」
「・・・・」
「あら。こんな簡単な質問にも応えてくださらないの?」
「・・・・」
「じゃ、私を占ってみてくださらない?」
奈乃は女を見たまま、ゆっくりと首をふった。首を右へ動かし、そして左へ動かし、というように――。
「ダメなの? 占い師が占いを拒否するの? ここは占いをしてくれる場所じゃなかったかしら?」
「・・・・あなたは誰?」
ようやくそれだけ言った。心の中の袋がまったく見えない人に遭遇するなんて、これまで想像したこともなかった。
「私を知ってるの?」と奈乃。
「知るもんですかっ!」
女は吐き捨てるようにいって横を向いた。
だが、すぐに顔をもどして奈乃に笑みをみせる。
「それに、名乗っても、あなたにはわからないでしょうねぇ」
「何をしに、ここへ?」
「見に来たのよ」
「なにを?」
「おまえのパワーを」
「そんな・・・・」
不意に、女が黒い袋を投げつけてきた。奈乃の中で、鮮烈な映像がパッと浮かぶ――。
●
すぐ目の前で、
男が犬みたいに荒い息を吐いて動いている。
ハァ、ハァ、ハァ――。
女が仰向けになって、
その男に押さえつけられているようだ。
「畜生!」
男がツバをつけた手を、
自分の股間に塗りつけながら悪態をつく。
「畜生!、
こんな時に、
ハァ、ハァ、
立ちもしねえ!
ハァ、ハァ、
畜生!、
畜生!、
ハァ、ハァ、ハァ――」
男の大きく広がった鼻腔が見える。
その男のアゴから汗がしたたり落ちてくるのを見たとき、
「ヒッ!」
と女の声がした。
下になっている女が叫んだのだ。
男が動きを止めた。
そして女をじっと見下ろす。
「なに見てんだ?」
男が尊大にいった。
前歯が二本なかった。
「バカにしてんのかっ、ゴラァ!」
とコブシでこめかみを殴られた。
「ヒィッ!」と小さく叫んだまま、
女が横を向いたままになった。
もう男は見ない。
ひっくり返ったスリッパが目の前に見える。
女がスリッパのかかとの汚れた部分を目で追っている。
その光景が涙でにじんでくる。
「この売女がっ!」
男が悪態をつきながら、
ふたたび動き出した。
そしてリズムをとるように
男が叫ぶ。
「売女っ、
売女っ、
売女っ・・・・」
女がゆっくりと目を閉じた――。
奈乃は驚いて女を見た。
「・・・・なにをしたの?」
「おまえが好きなものを、ひとつ分けてあげたのよ」女が嘲いながら足を組みかえた。「どう? 気に入った?」
「あなた、いま、私に黒い袋を投げつけてきたの?」
「それはわかるのね」と女が笑った。「闇袋よ。好きなんでしょ?」
「闇袋?」
「そうよ。深い闇に葬り去りたい忌わしい記憶の袋よ」
奈乃は、校長の心の中がこの闇袋でびっしりと被われていた光景を思い出していた。いま思い出しても顔を背けたくなるおぞましい光景だ。
それにしても――、と奈乃は、この女が自分よりもずっと自由に袋を操ることができることに驚いていた。
「さっきのは、あなたの記憶なの?」
「どうだか・・・・」
女は興味がなさそうに、肩をすくめた。
「あなたみたいな力を持った人がまだ他にもいるの?」
女はまた肩をすくめただけで、今度はなにも応えなかった。
年齢は三十前後だろうか。ついさっきはあれほど魅力的に見えた目が、いまはコンクリートみたいにざらついた感じに変化していた。うっかり近づいたらケガをしそうだ。
女が帽子をとった。髪はショートで、イヤリングもなにもつけていなかった。
「おまえは自分がなにをしたか理解してる?」
奈乃は眉をよせた。
なにをしたかだって? 私がなにをしたんだろう。
――まったく心当たりがなかった。
「お気軽にそのパワーを使って、人を苦しめて――。このくそガキがっ!」
女が吐き捨てるように言った。
「いい? その代償は大きいわよ。子供だからって容赦しないから!」
ふたたび女が闇袋を投げてくる。
すぐに奈乃の中で鮮烈な映像がパッと浮かぶ――。
●
バフッ、バフッ、バフッ――。
夜だ。
パジャマを着た女が、
ふとんの上に坐って、
隣のふとんを叩いている。
バフッ、バフッ、バフッ――。
何度も、何度も――。
しばらくその光景を、
ぼんやりと眺めている。
「――ケイコ?」
女に声をかけた。
声も女だ。
「どうしたの?」
ケイコと呼ばれた女の動きが止まった。
「なんでもないよ、そのまま寝てて」
そしてまた女はふとんを叩く。
よく見ると、
女は包丁を握っていた。
暗い闇の中で包丁が光る。
バフッ、バフッ、バフッ――。
「ケイコ! なにしてるの!」
声の女が叫びながら飛び起きる。
ケイコがゆっくりとふり向く。
顔も胸も血だらけだった。
その中で目だけがよく見えた。
白目が磁器みたいな冷たい光を放っている。
「コイツが悪いんだよ。
そうでしょ?
ユミも聞いたでしょ?」
ユミと呼ばれた女が
ゆっくりとふとんを見る。
人の形に盛り上がったふとんは
なんども包丁で裂かれて
ぼろぼろになっていた。
そのふとんの裂けた穴から
血があふれ出てくる。
それも心臓の鼓動に合わせて
規則正しく・・・・
――不意に映像がやんだ。
みると、月夜のヒカリが女の首を背後から押さえつけていた。
「大丈夫? ハルちゃん!」
奈乃は頭を押さえながら、息を整えていた。
「コイツがなにかしたの?」
「ええ、大丈夫。――ありがとう、ヒカリさん」
女はヒカリに顔をはがい絞めにされていたが、そのまま奈乃を見て笑っている。一度氷に漬けたようなゾッとする笑顔だった。
また、奈乃の中で映像がパッと浮かぶ。
●
自分の腕を見ている。
細い。
それに白い。
青い血管が
稲妻のように走っているのが見える。
その血管をさえぎるようにして、
リストカットの痕が
何十本も見えた。
まだカサブタがついた新しいものから、
すでに肌の色と同化してしまった古いものまで、
細い手首に数え切れないぐらいの傷がついていた。
そこへまたカッターをあてる。
パチパチパチと
音をたてて刃がでてくる。
刃の先端が肌にあてられる。
くぼんだ白い肌に血が溜まってくる。
その刃をゆっくりと引いていく・・・・
「オマエ、ナニしとんじゃー!」
野太い声でヒカリが怒鳴り、女を椅子から引きずり降ろした。そして床に仰向けにして、その上にヒカリの巨体がのる。
「ハルちゃん!」
野太い声のままのヒカリが奈乃を見て叫んだ。
「ハルちゃん、とにかく逃げて!」
「――でも」
「イイから、早く!」
ヒカリはいつもの声に戻して懇願するようにいった。
「いまはとにかく逃げて。私は大丈夫だから」
奈乃は肯いた。
「ゴメンね、ヒカリさん」
ブースの入口には、セラノ芳野が、心配そうに中をのぞき込んでいた。
「どうかしたの?」
「説明はあとよ!」ヒカリが言った。「とにかくコイツを押えて――。あ、その前にハルちゃんを逃がしてあげて!」
セラノ芳野はいわれたとおりに、ふらつく奈乃の手をとって外へと導いた。
奈乃があわてて階段を駈け下りて外へ出てみると、前の道路にエンジンをかけたままの紺色のクルマが止まっているのに気づいた。狭い道路なので、そんな所に駐車しているクルマなんて今まで見たことがなかった。
運転席に一人、助手席に一人の人影が見える。内部が暗くなっていてよく見えなかったが、じっと奈乃を観察しているような気がした。でも、だれも出てこなかった。出てくる気配もなかった。ただ、仮面のような顔をして、じっと奈乃を見ているだけだった。
そのクルマに警戒しながら渋谷駅方面に向かって走り出した時、奈乃は自分があまりにも目立つ格好でいることを思い出した。赤のサリーなんて、神秘的な演出には向いているが、街中を走るには不向きだ。おまけに顔にベールをつけたままだった。
奈乃はあわててベールを外した。
――だれも追ってはこない。結局、あのクルマからは、だれも出てこなかった。
それにしても、あの女は一体なんだったんだろう、と奈乃は足早に歩きながら考えてみた。
第一、私のパワーを知っているのが信じられなかった。両親だって、いまだに気づいてない。たまにサイフとか弁当箱を家に忘れて登校してしまう、ドジな普通の女子高生だと思っている。
なのに、なぜ?
どうして、あの女は私のパワーを知っているのだろう――。
『おまえは自分がなにをしたか理解してる?』と女。そのことで相当怒っているようだった。
私はなにをしたのだろう。
最近か?
たぶん、そうだろう。
最近、私はあの女を不快にするようなことを、なにかしたのだ。
なんだろう・・・・。
まったく思いつかない。
どう考えても、あの女は見たことがなかった。あんなザラついた、不快な目を忘れるわけがない。あの目が壁の穴からのぞいていたとしても、それが誰の目か言いあてる自信さえあった。そんな目だったのだ。
それなのに覚えてない。
おそらく、あの女とは直接接点はなく、間接的にあの女を不快にすることを、私がしたということなのだろう。
奈乃の占いを聞いた客が、不快になることは考えにくかった。彼女は、未来について断定的なことはひとつも言えない占い師なのだ。
それに恋愛相談だろうが、転職の相談だろうが、その答えは本人がすでに決めていて、それを確認にくるような客が断然多い。彼女はそれを、心の中にある袋で確認してから、すでに本人が決めている答えに対して、ちょっと背中を押してあげるだけなのだ。
それだけでも客はとても満足して帰っていく。
そんなお手軽な人生相談と変わらない占いが、誰かを不快にするなんてとても考えられない。第一、あの男に会った二週間前の日曜日から、私は占いの仕事を休んでいる。とても占いができる状態じゃなかったのだ。
だとすると、問題は男に会う前日の土曜日だが、その土曜日の客だとすると・・・・。
奈乃は顔を上げて、その場に立ち尽くした。
センター街を歩いて駅前のスクランブル交差点の近くまできていたのだが、なんとあの男が、あの赤ちゃんを床に投げ落とした男、椎名武生が、以前カメラの三脚を立てていた場所の車止めに腰かけていたのだ。
胸の前で腕を組み、渋谷駅側の道路で信号待ちをしている人たちの方向を向いていた。
もう三脚はなかった。撮影する道具はなにもなく、ひたすら人を探しているようだった。
――たぶん、私だ!
この距離では〝さぐり〟もできない。
奈乃は不自然な動きで椎名に気づかれないように気をつけながら、身体をゆっくりと反転させて、いま歩いてきたセンター街を戻ろうとする。
だが、そこで椎名がふり向いたのがわかった。それだけは目の端でとらえた。
意識はしていないだろうが、何かの気配は感じたのだろう。
しかし、それっきり椎名に背を向けてしまったので、その後、彼がどうしたかまではわからなかった。
気がつかないで!、と祈る思いで、彼女はセンター街を抜けるように、反対側に向かって歩きだした。急に走り出したりなんかせずに、普通に、普通に――。
奈乃は、背後の足音に神経を集中させていた。いきなりダダダッと走ってきたりしないかと、全身で聞き耳を立てていた。
雑踏に混じって、いろんな話し声が聞こえる。
当然ながら、だれにも緊迫した雰囲気はない。いつもの能天気な場所に、能天気な若者が集まる、平和な渋谷のセンター街だった。
奈乃はなるべく周囲と同調するように気をつけてはいたが、この格好ではそうもいかないのはわかっていた。赤いサリーでは、いくら渋谷でも目立つに決まってる。
せめてあやつり人形みたいにおかしな動きにならないように気をつけるしかなかったが、それがかえって意識することになっていやしないかと、いまは決して見ることが許されない背後が気になって仕方なかった。もう背中の皮が一枚剥がれてしまったのかと思えるぐらいにヒリヒリしていた。
それにしても、あの男はいつからあの場所で私を探していたのだろう。
私が逃げた二週間前からか?
それだと怖い。その執拗さは普通じゃない。その執念は相手にしてはいけない類いのものだ。
あの男を助ける思いで黒い袋――、いや、あの女がいう闇袋を取り出そうとしたことが、そもそも間違いだったのだ。そんな、普段から〝さぐり〟をして人の過去をのぞき見しているような私が、〝人を助ける〟なんて、おこがましいことだったのだ。
でも、あともう少し――。
このセンター街を抜ければ、もう大丈夫だろう。
それまで気づかないで。お願い――。
奈乃は歩きながら、祈るように目をきつく閉じて、強くそう願っていた。
しかし、いまにも手荒く肩を捕まれそうな気がする。それともいきなり背後から、腕をキツくつかまれるのだろうか。
そんなことを想像すると、いますぐにでもふり向きたくなった。
ふり向いて確認したい――。
男がまだスクランブル交差点の駅側を監視している姿を――。
それとも、信号を渡ってくる人並みの中に、私の姿を求めて、ひとりひとりの顔を確認している姿を、この目で確認して安心したい!
だが、ふり向いた瞬間に男が目の前にいる姿を想像すると、とても怖くてふり向けなかった。目の前で男がニヤニヤ笑っている光景が容易に想像できてしまって、どうしてもふり向くことができなかった。
彼女は歩きながら背中に全神経を集中させて、背後の気配を必死になって探っていたとき、いきなりドンッと、知らない若者と軽くぶつかってしまった。
「ゴメンねー」
色白で、そう背の高くない男の若者は、右手をあげて奈乃に謝ってきた。
目に精気がない。二日間ホルマリンに漬けてたみたいに濁っている。見ると、鼻や唇や舌までピアスだらけだった。驚いたことに、右手の親指のつけ根にもピアスをしていた。
「大丈夫だったー?」
「あ、はい。スミマセン」
奈乃はそれだけ言った。
その瞬間、その若者の背後をサッとみた。
男が見える。
まだ同じ場所で、車止めに腰かけている。
でも、こっちをジッと見ている。
奈乃は声を上げそうになってすぐに向き直り、すこし足を速めた。あまり目立つ動作は避けたかったが、もう我慢できなかったのだ。すぐにも全速力で走り出したい気分だった。
「ネー、どうして、そんな格好してるのー?」
みると、さっきの若者が、奈乃の横に並んで話しかけてきた。頬につけたピアスを指先で引っ張っている。
「いえ。なんでもないです」
「ナンでもない子が、そんな格好するかなー。ナンかお店かナニかー?」
「・・・・」
「ネー。教えてよー。お店に遊びにいってあげよっかー?」
「・・・・」
「ネーネー。これ引っ張ってみない?」
「・・・・」
「チッ、アンだよ」と若者が舌打ちして向きを変える。
奈乃は足早に歩く。いきなり強い力で肩をつかまれる恐怖に耐えながら先を急ぐ。
そしてセンター街をぬけて最初の路地をさっと右へ曲がる。その瞬間に確認してみると、男は背伸びをしながら、こちらにむかって歩き出していた。
もしかして、と思いながらも、まだ半信半疑のようだ。
奈乃は右折するとすぐに走った。
これだけ距離があれば、そう簡単に捕まるものではない。
だが、いまはサリーが身体にまとわりついて、とても走りにくい。おまけに靴はエスパドリーユで、サイズもちょっと大きいこともあって、速く走ろうとするとすぐに脱げてしまう。それでも服をたくし上げながら、彼女はなるべく速く走った。
そして井の頭通りにでて左折し、すぐにロフト方向に右折する。すぐに曲がった方が後姿を見られる心配がないと思ったのだ。
背後に男の姿は見えない。
彼女は服をたくし上げるのをやめて速度をゆるめた。そして、なんども後ろをふり返りながら、ここまで執拗に私を探しているあの男の目的を考えてみた。
あの闇袋を椎名の中で破裂させてしまった時、そのとき見た映像と同じものを、あの男も観たのだろう。椎名にとっては、もう二度と思い出すことがないようにと、心の奥深く閉じ込めていた心の闇の記憶だ。
そして、自分の中で『赤ん坊をわざと床に落とした記憶』が蘇るのと同時に、私に強く非難されたということは、とても信じられないことかもしれないが、私に心が読まれていると思ったのだろうか。でないと、あのときの会話の流れで、いきなり私に非難されるなんて説明つかないからだ。
そして、私に『人の心が読める能力をもっている』と考えた時、そのときあの男はどう考えるだろうか・・・・。
奈乃は下唇をつまみながら、懸命に考えていた。
もう公園通りを左折し、パルコの方面に向かって歩いていた。
後ろに男はいない――。
当然、あの赤ちゃんをワザと床に落とした行為は、絶対に誰にも秘密にしていただろう。
最悪バレた場合でも、事故だと言い張る。
なにせ赤ちゃんはただ泣くだけで、なにも語らないからだ。自分を落としたのが父親だとわかっていても、非難することはけっしてない。
だが、そのことを知っているヤツがいたらどうするか――。
たとえそれが、男の心を読んだのだと訴える女の奇抜な言動だったとしても、かねてから男の行動に疑惑の念を抱いていた人がまわりにいたとしたら、少なくとも赤ちゃんの死因の再検討という、あの男にとってはとても面倒なことになるのではないだろうか。
――男がそう考えたとしたら、どうするか・・・・。
奈乃は眉をしかめた。
あの男は血まなこになって私を探している。
もう二週間もの間、あの場所で私を探しつづけていたのだ。
その理由は明白ではないか?
――あの男は私を亡き者にしようとしている、と奈乃は思った。
これまで隠し続けてきたことを、これからも隠し続けるために――。
なにしろ赤ん坊を床に投げつけるような男なのだ。私の口を封じるためなら手段を選ばないだろう。
奈乃はあわてて背後を見る。
人通りは多いが、あの男の姿は見当たらない。
このまま右折してファイヤー通りの方向に向かえば、さらに男に遭遇する危険は減るだろうが、そのままだといつまで経っても〈マーシャの光〉へ戻れないような気がした。
なにしろあの男は、二週間もの間、あの場所に立って、私を探しつづけるような男なのだ。
もうしばらくは渋谷にも来れないだろう、と奈乃は思った。
だが、いまならまだあの男も、この近くまでは来ていないだろう。
だったら今のうちに一度〈マーシャの光〉へ戻り、必要なものを持って、もちろんこのサリーも着替えて、しばらくの間休職させてもらおうと奈乃は考えていた。
彼女はパルコを通り過ぎ、角にパルコパートⅡがある通りを左折した。そのまま足早に東急ハンズの手前まで向かい、道端に停めてあったトヨタのタウンエースの後ろに身を潜ませた。
そこからもう〈マーシャの光〉の店の前が見えるのだ。
初老の警備員が不思議そうに奈乃を見ていた。
私の格好が不思議なのか、そのクルマの後ろに隠れた挙動が不審に思われたのかわからなかったが、いまはそのことを気にしている場合じゃない。警備員も東急ハンズの警備に支障がなければ、声をかけてこないようだった。
さっきの紺色の車は、もう店の前には止まってなかった。周囲にもいないようだ。
すぐにでも携帯を使ってヒカルさんに確認したいところだが、奈乃には携帯どころか、公衆電話をかけるお金すら持ってなかった。手には顔から外したベールしかない。
彼女はもう少し東急ハンズの入口方向までいって、〈マーシャの光〉の入口が見えるところまで移動した。すると、二階の階段にある窓を開けて、セラノ芳野が外の様子をうかがっていた。おそらく私を探してくれているのだろう。
あわてて奈乃が手を振るが、セラノ芳野は気づかない。
そこで今度は身体全体を使ってアピールしてみると、ようやく芳野も気づき、奈乃に向かって手をふり返してきた。
奈乃が腕で大きい丸をつくると、芳野も丸をつくってなんども肯く。でも、深刻な顔をして、すぐに戻って来いというように手招きしてきた。
奈乃はそこではガードレールがあって道路を横断できないので、一度先ほどいたタウンエースの所まで戻ってから道路を渡ろうとした。
その時、いきなり背後から強い力で腕をつかまれた。
もう声も出ない。
店の前まで来たということで、安心しきってしまったのだ。
驚いてふり向くと、さっきの初老の警備員だった。
「危ないですよー。いま渡っちゃ」
確かに警備員が注意したように、奈乃の目の前を、真っ赤なスポーツカーが通り過ぎていった。
「ここは見かけによらず、人身事故がけっこう多いんですよ。昨日も接触事故があったんだから・・・・」
「すみません」
奈乃はすぐに頭を下げた。
その時、スペイン坂方面の路地の向こう側で、あの男が立ち止まったのが見えた。
こっちを見ている。
私のこの目立つ赤いサリーを目印にしているのだろう。
椎名はすぐにこちらに向かって走り出してきた。
すごい勢いだ!
「ああああああ」
「どうしたの?」
警備員が驚いて手を放す。
「――どうかしたの?」
「い、いえ、なんでもないですっ! どうもあり○×※△・・・・」
あわてて道路を渡ろうとすると、警備員がふたたび腕をつかんできた。
「だから危ないって! クルマ来てるだろ? 見えないの?」
奈乃はもう警備員の話を聞いていなかった。
とにかくどこかに逃げなくては――。
もう〈マーシャの光〉に戻るのは間に合わない。
東急ハンズに逃げこむか、ファイヤー通りに向かうか。
そうよ! マスターよ! マスター木崎なら、まだ東急ハンズへにいるはずよ!
奈乃は警備員を押しのけるようにして、急いで東急ハンズに入っていった。
走りながら、いまマスターがハマっているものを思い出してみる。
もう鉄瓶ではないのだ。それはわかっている。
でも、鉄瓶ではないということを思い出しただけで、じゃ、いまは何を、というのがさっぱりわからなかった。
さっきヒカリさんが言ってたじゃないの!
奈乃は自分自身に〝さぐり〟を入れたい気分だった。
奈乃はエスカレーターに乗って、そこを駆け上がろうとしたが、前に人が詰まっていたので、たった三段しか進めなかった。日曜日ということもあって、人出が多いのだ。おまけにここのエスカレーターは幅が狭いくて追い抜くこともできず、奈乃はそれっきり前に進むことができなかった。
あわてて後ろを見るが、男の姿はまだ見えない。
彼女の後ろからも人が乗り込んでくる。
そして、だいたい三分の二ぐらいエスカレーターを昇ったところで、椎名が入口に駆け込んできた。
まず店内を見回してから、エスカレーターを見上げる。
奈乃はすぐに頭を下げたが、見つかってしまったようだ。
顔が見えなくても、このサリーが見えたのだろう。奈乃は今すぐにでも、このサリーを引き裂きたい気分だった。
男がすぐにエスカレーターに乗り込んでくる。
すると、驚いたことに、椎名はなんの迷いもなく、人を強引に押しのけるようにして昇ってきた。
「ヒッ!」
奈乃は焦って前を見る。
二階まであと五人だ。
そうする間にも、男が昇ってくる。
奈乃は前と後ろを交互に見比べながら、手すりのベルトを強く叩いていた。
「早くっ、早くっ――」
しかし、もうどうにも我慢できなくなって、彼女も人を押しのけて前に進んだ。
痛タタッとオバさんが大げさに顔をしかめる。
奈乃は謝りながらもようやく二階にたどり着いた。
うしろを見ると、男はエスカレーターの半分ぐらいのところにいた。
人並みが大きく横に動いていて、その後ろの方から男を非難する声が聞こえる。
ここから先は階段かエレベータしかない。
彼女は急いで階段に向かいながら、いまマスターがハマっているものを必死になって考えていた。
でも、どうしても思い出せない。
文房具か?
そう、文房具にもよくハマっている。ステープラーでもクリップでも、マスターにとって特別なものをそろえている。
彼女はエレベーターの脇にあった案内板を見て、文具売り場が五階なのを確認すると、迷わず階段を選んで駆け上がっていく。
後ろをふり向いてみたが、男の姿はどこにも見えなかった。
五階までいっきに駆け上がると、さすがに息が切れる。そのまま休むことなく文具売り場まで行き、そこで急いでマスターを探す。
手帳売り場、ペン売り場、ノート売り場――。
彼女は二度、文具売り場をまわってみたが、マスターの姿はどこにもなかった。
文房具じゃなかったの?
おそらく違うのだろう。確かに、いまは文房具にハマっている、とヒカリさんから聞いた気がしない。
思い出すのよ!
なに?
なんだっけ?
とにかく、落ち着いて、思い出すのよ――。
彼女は金庫売り場の隅にしゃがみこんで、息をととのえながら、さっきヒカリさんが言っていたことを思い出してみる。
マスターの興味が、鉄瓶からお箸に移ったまでは覚えている。だが、その次からもう忘れてしまっていた。もともとマスター木崎が興味を持つモノになんて、まったく興味がなかったのだ。
いま、マスターがハマっているものに関して、ヒカリさんは呆れていたのだ。
そんな呆れるモノなのだ。
・・・・なんだっけ?
ダメだ。
どうしても思い出せない。
彼女は立ち上がって、用心深く、店内を見回してみた。だが、このフロアーには人が多すぎて、あの男の姿は確認できなかった。
もう一度しゃがみこんで考えてみる。あの男の執念深さなら、私を確保するまで、店を出ることは絶対ないだろう。だからいまでもこの東急ハンズのどこかに絶対いる。いつまでもいる。
ここはフロアー自体はあまり広くないし、私はこの服だ。むやみに動き回るのはあまりにも危険過ぎる。だからやはり、ピンポイントでマスターを見つけなくちゃいけない。もうあれこれ迷っている場合じゃ・・・・
・・・・ドライバー?
そうだ! ドライバーだ!
ネジ回しだ!
いまマスターはドライバーにハマっているのだ。
「そうなの。いまはそれに夢中なのよー。ヒマでしょー」と顔をしかめて言っていたヒカリさんの姿が目に浮かぶ。
奈乃は飛び上がって歓声を上げたかったが、もちろん、うずくまったまま胸の前で小さくガッツポーズをしただけですませた。
奈乃はすみやかに移動した。
男の姿には気をつけていたが、これだけ人がいる中で、男になにかされるとは思えない。
秘密を知っている私を消したいのはやまやまだろうが、それはあくまでも自分の安全を守るためなのだ。自分の安全な生活を維持する為に、私を消したいのだ。ここで目立った行動をとって警察にでも捕まってしまったら元も子もない。
だから、あの男につかまれただけでも、大声をあげてやればいいのだ。
なにしろここは東急ハンズ。
アウトドア大好きな屈強な男たちが必ず助けてくれるはずだ、と奈乃は考えて、少しでも自分を落ち着かせようとしていた。
フロアーガイドで確認すると、工具売り場は地下一階だった。
奈乃は迷ったが、やはり階段を使って地下へと向かった。
エレベーターだと、止まるたびにエレベーターを待つ椎名の姿に怯えなくてはいけないのが怖かった。それに乗り込んできたりしたらもう逃げ場がない。それはもう想像もしたくない恐怖だった。
さっき思いきり五階まで一気に駆け上がったせいでもうヒザがガクガクして、彼女は手すりにすがりつくようにして地下まで急いだ。
だが、三階の家具売り場まできた時、椎名を見つけた。
椎名がふり向いて奈乃を見る。
そう。忌々しいことに、呼んでもいないのに、椎名がふり向いたのだ。
男が急いでこちらへと向かってくる。
奈乃は疲れているのも忘れて階下へと急いだ。しかし、サリーが足にからまって思うように進まない。男が階段にまで達して、二段、三段と跳ぶように階段を降りてくるのがわかる。彼女はもういまにも強い力で肩をつかまれるような気がして、悲鳴を上げそうになった。
ドッ、ドッ、ドンッ! と階段を飛び降りてくる音がすぐ背後で聞こえる。
もうダメ。とても逃げ切れない。もう捕まってしまう――。
ドッ、ドッ、ドンッ! と、すぐ背後で音がしたとき、それこそ二段か三段の階段を飛び降りたその振動まで身体で感じた時、彼女は近くにいた東急ハンズの店員にすがりつくようにしてつかまった。
急に身体をつかまれて、店員は驚いていた。
「どうかされましたか?」
店員は奈乃の身体を手で支えながら、心配した声でいった。
若い、テキパキとした感じの女性店員だった。テントも数分で組み立ててしまうに違いない。
「どこかご気分でも?」
「・・・・いえ」
奈乃は恐るおそる、背後をふり返ってみる。
――いない。
椎名の姿はどこにもなかった。
幻覚かと思えるぐらい、男の姿は煙のように消え去っていた。
店員は小首をかしげて、奈乃の返事を待っている。
「あ、あの、工具売り場って、どちらですか?」
「工具売り場は、地下一階のCフロアーでございます」
「・・・・地下一階。そこにドライバーも売ってますか」
「はい、置いてございます」
「わかりました。どうもありがとうございます」
奈乃はていねいに頭を下げた。
できることなら、この店員に地下までついてきて欲しかった。それよりも、マスターをここへ連れてきて欲しかったが、店員は軽く頭を下げてさっさと行ってしまった。
奈乃は疲れた脚を引きずるようにして、ふたたび階下へと向かった。
男の姿は見えないが、ぜったいどこからかこの私を監視しているだろう。二週間も探し続けてきたのだ。いまさら逃すまい、と悪魔みたいに充血した目で、私の姿を追っているに違いない。
奈乃は、まるで全人類が敵だと思っているみたいに周囲をニラみつけながら階段を降りていく。
一段、二段、三段と――。
一階のBフロアーにはいないようだ。
どこに潜んでいるかわからないが、少なくとも視界に入る場所にはいなかった。
つぎはパーティ用品が売っているCフロアーだ。
――そこに、椎名がいた。
階段近くに設置されたボードゲームを宣伝するディスプレイの向こう側に椎名がいた。手になにか持っているが、目はじっと私を見ている。
奈乃は男の視線を見返しながら、階段を降りていく。
男は奈乃から目を離さずに、手に持っていたものを棚に戻す。そして、獲物を選び終えた野獣のように、ゆっくりと動きだす。
奈乃は男から目を離さない。後ろをふり返って男をニラみつけたまま、ゆっくりと階段を降りていった。
椎名も売り場から出てくる。いまにも飛び掛ろうとする力が、全身にみなぎっていくのがわかるようだ。片時も奈乃から目を離さない。
奈乃が地下一階に降り立った時、男はその階段の最上部に立っていた。大きくジャンプをすれば、つかまる距離だ。
奈乃は男から一瞬も目を離さずに、工具売り場へと向かった。
そこにいた初老の店員にドライバー売り場を聞くと、それは目の前にあった。
「ここ?」
「はい。こちらでございます」
初老の店員はていねいに応えた。
「ここだけ?」
「はい。ドライバーは、こちらだけとなっております」
「・・・・そう」
初老の店員がまだ奈乃の質問を待っていたようなので、奈乃は礼をいって周囲を見渡した。
マスター木崎がいないのだ。
ふり返ると、椎名が奈乃を見たまま、ゆっくりと階段を降りてくるところだった。
奈乃は焦りだした。あの男がきても、マスター木崎がいれば何とかなると思っていたのだ。その肝心のマスター木崎がいない。もうすでにドライバーには興味がなくなって、いまは他のものに興味が移ったのだろうか。
男がドライバー売り場の棚をまわってくる。悔しいぐらい、ゆっくりとした動作だ。顔が笑っている。それは、獲物を仕留めたあとの、その新鮮な肉の味を想像しているような笑顔にしか見えない。
奈乃は動けなかった。もうどうしていいのかわからなくなったのだ。
男が近づいてくる。奈乃から一瞬も目を離さない。瞬きすらしない。じっと奈乃を凝視している。そして、男が手をあげて、奈乃の腕をつかもうとしたが、奈乃はよけた。
「なんですか!」
奈乃が男を睨む。
「変なことすると、大きな声を出しますよ」
まだ声はそれほど大きくはなかったが、絶対大きな声をだしてやると心に決めていた。
「ぜったい大きな声をだします」
奈乃はもう一度いった。
男がなにかを言おうとした時、「ハル?」と声がした。
見るとマスター木崎が隣の棚の上から顔をだしていた。
「どうしたんだ?」
「もうっ! マスターッ!」
奈乃はすぐに棚をまわって、マスター木崎のところへ行って腕にしがみついた。
「ん? なんだ、なんだ?」
「ゴメン。説明している時間はないの。ちょっと来て」
「おいおい、なんだ、急に――」
マスター木崎はあわてて手に持っていたビスを棚に戻した。
「それも置いて!」
奈乃はマスター木崎からドライバーを取り上げて、棚に置いた。
「おいおい、ここじゃないって」
マスター木崎はドライバーを手にとって棚を回り、元にあった場所に戻した。
「せっかく選んだのに――」
「またいつでも来られるでしょ。緊急事態なんだから――」
「え? 深刻なのか?」
「ものすごく深刻よ。とにかく早く――」
奈乃はマスター木崎から手を離さなかった。
周囲を見まわしてみたが、あの男の姿はどこにもなかった。まるで、奈乃にだけ見える亡霊のようだ。
とにかく奈乃はマスター木崎の腕をつかんで、店まで急いだ。
2
店に戻ると、月夜のヒカリがいなくなっていた。あの黒づくめの女と一緒にでていったの、と興奮したセラノ芳野が教えてくれた。
すぐに月夜のヒカリの携帯に連絡してみたが、電源が切ってあるようだった。
「ハルちゃんをね、外に出してからね、戻ってみるとね、ヒカリちゃんがね、椅子に坐ってたのね」
セラノ芳野はあわてて言った。
六十を優に越えているが、彼女はいつも幼稚園児のように途切れとぎれにしゃべる。それがいまは興奮が加わっているせいで、よけいに聞きづらくなっていた。
だが、マスター木崎も奈乃も、ひとことも口をはさまずに、辛抱強く、黙って彼女の話を聞いていた。
「そしたらね、ヒカリちゃんがね、椅子に坐ったままぐったりとね、首をうなだれててね。その前にね、あの女が立っててね、ヒカリちゃんにね、なにか話しかけてたのね。ヒカリちゃんがね、それを神妙な顔をしてね、じっくりとね、聞いてたのね」と、そこで不意にセラノ芳野が黙り込んだ。そして、マスター木崎と奈乃の間の、店の入口の方を見たまま視線が止まった。奈乃は誰かが来店したのかと思って入口を見てみたが、誰も来てはいなかった。
それから三呼吸ほど沈黙が続いたあと、急にまたセラノ芳野が話しはじめた。
「ヒカリちゃんはね、私がね、声をかけてもね、ちっともね、ふり向きもしなかったのね。それからね、すぐにね、二人は出て行ったのね。ヒカリちゃんはね、なにも持たずにね、それこそね、私も見ずにね、スウッとね、ほんとにスウッとね、出て行ってしまったのね。ヒカリちゃん、ヒカリちゃんって私が呼びかけてもね、まったくふり向きもしなかったのね」
ひと呼吸おいてから、マスター木崎と奈乃が顔を見合わせた。
「・・・・終わり?」と奈乃。
セラノ芳野は、目を大きく見開いて、奈乃をみた。そして次にマスター木崎を見て、なんども細かく肯いた。
「もしかして、ヒカリさん、携帯も持ってないんじゃない?」と奈乃が聞くと、セラノ芳野が目を大きく見開いたまま奈乃を見て、すぐに首をふった。
「ヒカリちゃんはね、携帯とお化粧品はね、ぜったい離さないのね。だからね、いまもね、ぜったいもってるわね。でもね、さすがにね、いまはね、お化粧品は持ってないと思うけど・・・・」
奈乃がもう一度ヒカリの携帯にかけてみたが、同じだった。
「おいおい、一体どうなってんだ?」
マスター木崎が、詳しい説明もなく話が終わってしまったことにイラだっていた。
顔がカマキリみたいに逆三角形なので、いつも神経がささくれ立っているように見える。だから、マスターがしゃべると、たとえそれがただの挨拶でも、いつもトゲがあるように聞こえた。でも、いまは本当にイラだっていた。
奈乃は今日のいきさつを、順を追ってマスター木崎に説明した。
見かけたことのない女が来店してきて、その女と話していると、急に気分が悪くなってきたこと。それをヒカリさんが助けてくれたので、奈乃が逃げ出すことができたこと。それで東急ハンズにマスター木崎を探しに行ったことを話した。
「で、ヒカリは出ていったきり、連絡がないんだな」
確認するようにマスター木崎が訊くと、セラノ芳野がなんども肯いた。
「そうそうそう。――警察に連絡しなくちゃ!」
セラノ芳野が携帯を取り出そうと、手にもったピンク色のエナメルバッグの中をさぐった。
「いや、ちょっと待った」マスター木崎がセラノ芳野を止めた。
「その女はヒカリに危害を加えそうな感じだったのか?」
その質問にセラノ芳野が首をふったが、奈乃は、あの闇袋を人にぶつけることが暴力ならば、あれは立派な暴行行為だろうと考えていた。
「ハルはどう思うよ?」とマスター木崎。
「ヒカリさんに危害を加えるとは思えないけど・・・・」
「そうか。じゃ、もうちょっと様子を――」
その時、奈乃の携帯が鳴った。月夜のヒカリからだった。
「ヒカリさんから・・・・」とマスター木崎を見ると、木崎はなにも言わずに肯いて、奈乃に携帯にでるようにうながした。
「もしもし?」と奈乃。
「・・・・」
相手は無言だ。でも、なにか唸っているような声が聞こえる。
「もしもし? ヒカリさん?」
「・・・・」
「ヒカリさんなの? ねえ、ヒカリさん、大丈夫?」
「・・・・」
「返事できないの? ――返事できない状況なの?」
「・・・・」
携帯を耳に強く押し当ててみる。
確かに人の唸り声のようなものが聞こえる。それも一人じゃない。何人もの人間が唸っている。
いや、泣き声? 複数の人間が泣いているのか?
「いま、どこなの?」
とつぜん、あの黒服の女の声が聞こえた。
絶望的な泣き声の中にいるせいで、よけいに冷淡に聞こえた。
奈乃が黙っていると、女が笑いだした。
「おまえはわざわざ袋を見なくても、丸わかりだからおかしいわ。ホント、子供ねぇ――」
心を読まれることで、こんなに悔しい思いをするとは思わなかった。
奈乃は携帯を強くにぎりしめた。
「で、いまどこなの?」と女。
「――教えない」
「もうっ! 子供みたいなこと言わないで!」女は面倒くさそうにいった。「そんなこと言える立場じゃないのは、子供のおまえだってわかるでしょう」
「ヒカリさんは大丈夫なの?」
「おまえ次第よ」
「・・・・あなたは誰なの? 私になんの関係があるの?」
「それが知りたかったら、質問に応えなさい。――おまえはいま店にいるのね?」
「・・・・そうよ」
「わかったわ。三十分後に迎えにいくわ」といって女は電話を切った。
「え? 迎えにって・・・・」と言っても、もう電話は切れていた。
すぐに掛け直そうかと思ったが、思いとどまった。
あの女は絶対出ないだろう。目の前で最大音量で携帯が鳴っていても、平気で無視できることが容易に想像できる。
「なんだって?」
マスター木崎が心配そうに訊いてきた。
「いまから迎えに行くって」
「あの昼間きた黒づくめの女がか?」
「そう。三十分後だって」
「三十分?」木崎がうなった。「まあまあ、離れた距離なのか・・・・」
「とにかく警察に――」
携帯をとり出したセラノ芳野を、木崎がまた止めた。
「まだ、犯罪と決まったわけじゃないだろ?」
「でも、ヒカリさんが――」と奈乃。
「いや、ヒカリだって無理やり拉致されたってわけじゃなさそうだし――」
「でも・・・・」
「いいか。とにかく警察への連絡は待ってくれ。こういう商売をしていると、どういう形にしろ、一度警察のやっかいになると、後々めんどうなんだよ。わかるだろ?」
セラノ芳野がなにもいわずに携帯を閉じた。
「とにかく、俺も一緒にいく。いいだろ?」
奈乃はすぐに肯いた。
「とても私ひとりじゃ怖くて行けない」
「そうだよなー」と言いながらマスター木崎は受付カウンターの中へ入っていき、なにか武器になるモノを物色していた。
しばらく経って、マスター木崎は金属製のクギ抜きを持って出てきた。それを左手のソデ口にいれて攻撃を受けたときの盾とし、サッととりだして相手を殴る動作をした。
「なかなかなもんじゃねーか?」と奈乃をみて笑う。
「そんなモノを使う機会がないのが一番だけど・・・・」と奈乃は不安になりながら携帯を見た。あの女が時間に几帳面なら、あと二十四分だった。
しかし、またあの闇袋を投げつけられることを想像すると、気が滅入ってくる。あれはマスターでも防ぎようがないのだ。
マスターは私の力を知らない。私は水晶玉の力を借りて人の過去と現在を知り、未来を占うフリをしていると思っている。そんな彼に、あの女は私に闇袋を投げつけてくるのだと訴えても、まったく理解できないだろう。
奈乃は無理だと思いながらも、あの女が投げつけてくる闇袋を防ぐ方法を懸命に考えていた。
3
あの黒服の女が宣告したとおり、きっかり三十分後にふたりの男が店にやってきた。どちらも二十代半ばといった感じだ。
一人は、薄汚れた鼠色のTシャツで、胸に〈孤島に椰子の木〉のありふれた柄が紺色でプリントされていた。十月も半ばだというのにまだ半袖だった。ジーンズもところどころ破れているが、ダメージジーンズとして破れているわけではなく、本当にはき古して破れてしまったようだった。
足は裸足で、ビーチサンダルをはいていた。それも元の色がわからないぐらいに潰れてしまっていて、薄っぺらい油粘土を踏んでいるみたいだった。髪はボサボサで、頭を掻くと、その形のままクセがついてしまいそうだ。
――なんか下水管の中でずっと生活しているみたい、と奈乃はひと目見ただけで眉をひそめていた。
もう一人の男は、ひと目見ただけで気分が滅入ってしまいそうな青色の綿シャツを着ていて、ボタンが全部きっちりと止まっていた。首のところもだ。
サイズが小さいのか、それとも胸筋を自慢したいのか、胸がぱんぱんに張っていて、とても窮屈そうに見えたが、男は気にならないみたいだった。シャツも無理やり綿パンの中にたくし込んでいるが、左脇腹のところが外にでていた。
みているだけでイライラする格好だ。しかも、一週間外に干しっぱなしの洗濯物のような不潔感があった。それに、臭いに神経質な犬みたいに、しょっちゅう鼻をクンクンさせている。しかしそれは、臭いを嗅いでいるという感じではなく、鼻にちゃんと空気が通るかどうか心配でならない、といった感じだった。
ふたりとも、髪も、目も、鼻も、口も、顔の形さえも似ている箇所は一箇所もないのに、同じにおいを感じる。
なんだろう、と奈乃は考えていた。
なにかが似ているのだ。
――そう、目よ、と奈乃は思った。
下水男がカミソリでサッと切っただけのような鋭利な一重、青シャツ男は妙にはっきりとした南方風の二重、と目の形がまったく違うのだが、ふたりとも瞳がつくりものみたいに光がなかった。いま見えている目の前の光景にはまったく興味がない感じだ。
そんな目は以前どこかで見たことがある。
そう、中学の時に父親のDVで入院した女子生徒の目だ。あのときの彼女もこんな目をしていた。
入学当初は快活で、まわりの女子と変わりなかったが、中二のはじめ頃に母親が再婚してからふさぎこみがちになり、それから急速に瞳から光が失われていったのだ。
まだ奈乃が〝さぐり〟の力を得る前の話で、後日、その女子生徒が怪我で入院したことによって、母親の再婚相手から受けていたひどい性的DVが判明したのだが、この男たちは、あのときの女子生徒と同じ目をしていた。
「あれは希望を失った目じゃなくて、絶望を見た目よ」と決めつける女友だちがいた。
希望を失っただけならまだ回復の余地はあるが、絶望を見てしまった目は生涯変わらない、というのがその子の持論だった。真相は奈乃にはわからなかったが、その普通じゃない目は彼女にもわかった。
そんな彼らに〝さぐり〟を入れてみると、驚いたことになにもなかった。
あのカメラマンのように記憶の袋の中になにもない、というのではなく、袋自体がなかった。心の中がツルツルしていて、なにも引っかかりがない感じだ。
そんな人もはじめてだ。
いまこの瞬間にも、なにも考えていないのだろうか。
それも、ふたりそろって――。
「迎えにぃ、きましたぁ」
前にいた下水男が、目を二度ショボショボさせてから言った。それがクセみたいだった。
「はぁ?」と、あまりにも小さな声だったので、マスター木崎が大きな声で聞き返した。ワザとなのか、いつもよりトゲが多くあるように聞こえた。
「・・・・あのぉ、ボクたちはぁ、迎えにぃ、来ただけぇ、なんですけどぉ・・・・」
下水男の声がますます小さくなる。しゃべり終えた後に、出っ歯を一所懸命隠そうとしているのが、よけいにイライラさせた。すでに、目を八回もショボショボさせている。奈乃はそこで数えるのを放棄した。
「誰を?」とマスター木崎。
「えーっと、迎えをー、待っている人を・・・・」
「だから、誰を!」マスター木崎がもっときつく言った。「それも知らないのか?」
下水男が困ったように、後ろにいた青シャツを見た。
青シャツは、胸の前で腕を組み、マスター木崎と奈乃の間のなにもない床を睨みつけながら、なにも言わずに鼻をクンクンさせていた。
彼には自分の鼻の通り具合しか気にならないみたいだった。
下水男が、あきらめてまた木崎に目を向ける。
「ボクはぁ、ただぁ、人を迎えにきたぁ、だけなんですけどぉ・・・・」
マスター木崎が憤りを抑えるように、深呼吸をひとつした。
「どこへ連れていくつもりなんだ?」
「『無想の家』ですよ」と下水男は誰もが知っていることのように言った。当然でしょ、と言ってるみたいでもあった。
「無想の家? なんのことだ」
「お迎えをー、待っている人をー、無想の家にぃ、連れてこい。そう言われたんですよ。ぼくはそれだけしか知らないんだ」と下水男は言い切った。もうそれでミッションを終えたような顔をしていた。
「だから、その無想の家って、なんのことなんだ?」
「闇袋を吐き出させて、〝無〟にしてくれる場所ですよ。行けばわかりますよ」と下水男はスラスラと応えた。ちょっと誇らしげだった。
「闇袋? なんだそれ。聞いたこともないなー」
マスター木崎がふり返ると、奈乃もセラノ芳野も、同調するように首をふった。
そんな場所があるんだ、と奈乃は驚いていた。人を救うために、人の心の中からあの黒い闇袋を吐き出させる。そういう活動をしている場所があるんだ。あの女が投げつけてきた闇袋も、そこを訪れた人が吐き出したものなのだろうか・・・・。
「でかいのか、そこは――」
そのとき、青シャツが前に進みでてきた。
「おいっ!・・・・クンクン」
意外にも、彼の態度は尊大で、胸の前で大きく腕を組んだままだった。
「お前の質問に応える義務はない・・・・クンクン。とにかく、俺たちはハルっていう女を・・・・クンクン、連行するだけだ」
じっさいには一六五センチ程度の、そう大きくない、どちらかというと小さい部類に入る身長だったが、その態度だけは二メートルを超える屈強な男のようだった。
青シャツは下水男を一べつし、奈乃を連行するようにアゴで指示した。
下水男が奈乃を指差して青シャツの男に確認すると、青シャツが尊大に肯いた。
「ちょっと待てよ」木崎が奈乃の前に立ちふさがった。「いきなり連行だなんて、そりゃおかしいだろう」
「電話で連絡したはずだ・・・・クンクン」と青シャツ。
「いや、そうじゃなくて――。まあ、いい。じゃ、オレもついて行く」
青シャツがゆっくりと木崎に目を向けて尊大に首をふる。
「ダメだ・・・・クンクン。許可できない」
「なぜだ?」
「計画外だ・・・・クンクン」
マスター木崎は意外な顔をした。
「これは計画されたことなのか?」
「そうだ・・・・クンクン」
「誰の計画だ?」
「・・・・もう質問は終わりだ・・・・クンクン」
青シャツが、ふたたび下水男に女を連行するように指示した。
「ちょっと待った!」マスター木崎が食い下がった。「ハルだけを、そんな訳のわからないところへなんて、やれるわけないだろう」
そのとき青シャツが俊敏に動いた。
次の瞬間、マスター木崎の身体が宙を飛び、奈乃の占いのブースの前まで転がっていった。
「なにをするの!」
あわてて奈乃がマスター木崎に駆け寄ろうとする。
それを下水男が止めた。
「え? なに?」
腕をつかまれた強い力に、奈乃はふり向いて下水男を見た。
「なにするの! ちょっと、放してよーっ!」
あい変らず、下水男は目をショボショボさせていて、とても力を入れているようには見えなかったが、握力は信じられないぐらいに強かった。どれだけ抵抗しても、男の手は奈乃の腕から離れない。
「痛いっ! 放してっ!」
下水男は片手で奈乃の腕をもったまま、ジーンズのポケットから白いガムテープをとり出した。あらかじめテープの芯が抜いてあって、コンパクトにしてあった。
それで奈乃の両手をあわせてぐるぐる巻きにして、彼女の手の自由を奪った。
つぎにそのテープを十センチぐらいにちぎって奈乃の口に貼る。
もう一瞬のできごとだった。
奈乃は今されていることが信じられないまま、男の肩にかつぎ上げられていた。
「あなたたち、やめなさい!」
セラノ芳野が強い調子で、下水男に向かって叫んだ。
携帯を耳にあてている。
「警察呼ぶわよ!」
ダンッと床を踏み鳴らす大きな音とともに、青シャツの男が携帯をはたき、セラノ芳野の頬を殴った。それもコブシでだ。
奈乃はびっくりして声も出なかった。
セラノ芳野が横向きに倒れた。それから身動きもしない。
マスター木崎は腹を押さえて苦悶していた。
青シャツが、下水男を見る。
そしてアゴをしゃくって早く連れていくように促すと、青シャツは倒れている木崎の方へ近づいていった。そのとき奈乃は、ベルトのうしろ側に刺さっている文化包丁を見た。
『ちょっと! なにする気ーっ!』と叫び声を上げたつもりだったが、それは粘着テープにはばまれてとても言葉にはならなかった。
青シャツが、手から金属製のナックルを外している。太い指輪が四本分つながったようなやつだ。ふたりはそんなもので殴られたのだ。
セラノ芳野の頭部に血だまりができている。
青シャツはベルトのうしろ側から文化包丁を抜き取り、苦悶しているマスター木崎の方へと近づいていく。
『なにーっ! なにする気なの! やめてーっ!』
もちろんその声も、青シャツには届かなかった。
そこまでの光景を見たのを最後に、店のドアが閉まった。あとは、いまもまだ蛍光灯が明滅しているうす暗い階段を降りるだけだ。奈乃は両手と口の自由を奪われたまま、下水男に抱えられるようにして階段を降りていった。
しかし、どれだけ考えてもあの文化包丁の意味がわからない。
まさか、マスター木崎を刺すというのか?
なぜ?
どうしてマスターが刺されなくちゃいけないの?
下水男は奈乃を抱えたままでも、身軽に階段を降りていく。奈乃が激しく足をばたばたさせていたが、なんの効果もなかった。体幹は鋼鉄みたいにしっかりしているようだった。
階段を降りきったところで男が止まる。まだ外は明るい。十月の夕方の四時前なのだ。外だって人が歩いている。ここからは見えないが、あの東急ハンズの警備員だってまだいるはずだ。まだ私のことを覚えているだろうか。あの赤いサリーを着た、どれだけ注意しても道路を渡りたがった女のことを――。
店のドアが勢いよく開いて、青シャツが走り出てきた。胸の辺りが真っ黒だ。
――血?
青いシャツに血がついて黒く見えてるの?
青シャツが階段を駆け下りてきたので、もっとよく見てみる。
やはり、血のようだ。それもまだヌラヌラと濡れている。
奈乃は下水男の背中を叩いて暴れたが、それもまったく効果がなかった。
「いくぞ!」
青シャツが短くそれだけいうと、道に走りでた。
道の向かい側に、あの紺色の車が止まっていた。エンジンは掛かっていなかった。
青シャツが運転席側に回ってクルマに乗り込んだ。
すぐに下水男が後部左側のドアを開けて、奈乃を座席に放り込んだ。そのあとすぐに乗り込み、急いでドアを閉めようとした時、そのドアを誰かが押えた。
「なにしてんだ?」とドアを押えた男が言った。
椎名だ!
それほど強い言い方ではなかったが、理由を言わなければ離さないという強い意思は充分に伝わってきた。
下水男が、目をより一層ショボショボさせて男をみる。そのときエンジンがかかった。
「ちょっとお前、出ろよ」
椎名が下水男を引きずり出す。続いて奈乃をだそうとした時、運転席にいた男が文化包丁で椎名の左腕にいきなり切りつけてきた。
「なっ!」と椎名が叫びながらふた突き目の攻撃をかわし、包丁を持った青シャツの腕をとり押さえて強くねじる。
「ぐおーっ!」と青シャツが叫ぶと同時に、グギッと鈍い音がした。文化包丁が下に落ちる。
椎名は奈乃をかかえて外にでた。不思議に下水男は攻撃してこない。目をショボショボさせながら、椎名の行動を黙って見守っている。呆然としているのか――。
椎名は奈乃を肩に担ぎ上げながら、広い道路に向かって走りだした。東急ハンズがある方向だ。
「んーっ!」と肩に抱えた女が短く叫ぶのが聞こえたのでふり返ってみると、青いシャツを着た男が走ってくるのが見えた。
右腕は力なく脇に垂らしたままだが、左手にあの文化包丁を持っていた。
綿パンの前が赤い血で汚れているのが見える。そんな格好のまま包丁を手に持って走っている男の姿に、周囲から悲鳴が上がるが、それには構わずに青シャツ男が追ってくる。
椎名は道路を渡らずに、ファイヤー通りの方向へ向かった。
こちらは女を抱えたままで、あっちは右腕を負傷しているにせよ、足は無傷なのだ。二十メートルも行かないうちに、すぐに追いつかれてしまうだろう。
椎名は止まって歩道の脇に奈乃を降ろす。そして走ってくる男に向かって身構えた。空手でもやっているような構えだ。そこへ青シャツが、包丁を振りかざしながら突っ込んでくる。椎名は低く身構えて、男の腹に膝蹴りをくらわせた。
「ぐふっ」と男が倒れこむ。その弾みで文化包丁も手放した。
青シャツ男が腹を押えたまま立ちそうにないので、奈乃に目をやると、そこに彼女の姿はなかった。見回すと、テープで止められた両手を前に突き出した格好のまま、左の路地へ曲がったところだった。
椎名もすぐに追いかけた。もう最初から全速力だった。
4
どうしてアイツがいるのよーっ!
奈乃は夢中で走っていた。うしろをふり返って見る。男はまだ気づいていない。血相を変えて走ってくる血だらけの殺人鬼を迎え打つのに意識を集中している。
いまのうちになるべく遠くまで逃げるのだ! もう場所はどこだっていい。とにかく急いであの男の視界から消えなくては! でないと、取り返しのつかないことになってしまう!
奈乃は走りながら口の粘着テープを外し、つぎに手の粘着テープを外そうとしたが、両手が使えないので外れない。仕方なく、両手を前で縛られた格好のまま、彼女は全速力で走り、すぐに左に曲がった。しかし、こんな時に限って、それも渋谷の日曜日なのに、人通りがまったくない通りだった。
左側は学校のようだ。
小学校? それとも中学校?
どちらにしろ、彼女は人に助けを求めることができない状況を恨めしく思いながら、次の路地を右へ曲がろうとした時、あっけなく男に捕まってしまった。
「――どうして逃げるんだよ!」
椎名が非難がましく言った。ちょっと怒っていた。
奈乃は、どうして逃げるんだと言われて、あらためて自分がなぜ逃げているのかを考えていた。
私はなぜ、この男から逃げているんだろう・・・・。
・・・・そうよ! 闇袋よ! それを見てしまった私を、この男は消し去ろうとしているのだ!
だから逃げているのよ!
奈乃があらためて男を見上げてみると、男はホッとしたような笑みを浮かべている。
そりゃそうだろう。二週間も探し続けていたのだ。この奇跡を神様に感謝しているに違いない。
それとも悪魔か? この男はひざまずいて悪魔の足に接吻する男なのか? もしくは、もうすでに接吻をしてしまった男なのか?
「こりゃヒデーな」
男が手に巻きつけられたテープを見た。
「痛いだろ」
「・・・・どうして追いかけてくるの?」
「え?」
「どうして私を探してるの?」
「もう一度、話を聞きたかったからさ」椎名はテープを剥がしながら応えた。「頼む。俺の用事はそれだけなんだ。だから逃げないで欲しい」
奈乃は用心深く、椎名の顔を見た。
だが、いまは〝さぐり〟ができない。たぶん、集中できない私に問題があるのだろう。
「ちょっと、痛いけど、がまんして――」
「チョーッと!」まだ心の準備が! と制止しようとしたが、間に合わなかった。椎名は一気にテープを剥がした。
もう肉が剥がれたんじゃないかと思うような激痛が走る。だが、手を見ると、うぶ毛がきれいになくなっているのと、ちょっと赤くなっている程度だった。
「こっちもヒドいなー」
男が指先で奈乃の口のまわりにそっと触れる。
「え? ひどいの?」
「ああ。赤ヒゲのオヤジみたいになってる」
奈乃は眉をしかめながら、口のまわりをそっと触ってみた。ヒリヒリするが、怪我はしていないようだった。
「それより、ここにいちゃ、ヤバいだろう」
そう言われて、奈乃はマスター木崎のことを思い出した。
私のブースの前に倒れた木崎。そこへ文化包丁をもって近づいていく青シャツの男。
マスター木崎もセラノ芳野も、あの男に殺されてしまったのだろうか。
奈乃は血だらけの青シャツを思い出して、思わず顔をしかめた。
「店にもどらないと!」
走り出そうとした奈乃の手を、椎名がつかんだ。
「痛っ!」
今度は椎名が顔をしかめた。
見ると、レザージャケットの左腕部分が切れている。腕の外側が包丁で切られたみたいだった。
ジャケットを脱いで確認してみると、傷口はそう深くはなかった。椎名は奈乃の腕から剥がした粘着テープを、そのまま傷口にきつく巻きつけてから、またジャケットを着た。
「えー! そんなのでいいの?」
「ああ。傷は深くない。すぐに治るさ。それより、いまヘタに動いちゃダメじゃないのか? アイツらちょっとヤバいよ。普通じゃない」
「でも、マスターたちを助けないと――」
「人のことをどうこう言ってる場合じゃないんじゃないのか? アイツらの仲間が必死になって、キミを探しているかもしれないだろ」
奈乃はいま来た通りをさっと見た。
この路地には人はいなかったが、奈乃たちが来た通りには、左右からひっきりなしに人が行き来していた。
遠くの方からパトカーのサイレンの音が聞こえる。
「とにかく、ちょっと身をひそめよう」
椎名はもう簡単には逃げられないようにきつく奈乃の腕をつかみながら軽く走り出した。