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【長編小説】踊る骨 第3章/小野アリア
第三章
1
■十月十九日 土曜日
高村亜美が消息を断ってから五日が経過して事態がますます深刻になってきた頃、前野有季は、『沢木未々が木曜日も金曜日も登校していない』のをもっと深刻に受けとめていた。そして土曜日なのに特進クラスだけ補習授業がある今日、彼女は未々の机の中になにも入っていないのを見てますます不安になった。
いつもは乱雑過ぎるぐらいに――教科書とかノートだけではなく、書けなくなったボールペンとか、テディ・ベアの絵がついたプラスチック定規とかで散らかっていた彼女の机の中が、まるで指紋でも採取したみたいにきれいに片づけられていた。消しゴムのカスひとつ、折れたシャーペンの芯一本見当らなかったのだ。
それでも一限目の数学のときはそれほど深刻には感じていなかった。
未々は単に風邪をこじらせて三日間休んだだけなのよ。来週の月曜日になったら、ちょっと病み疲れているかもしれないが、いつもと変わらず登校してくるはずだ。そう信じ込もうとしていた。
しかし二限目の、このクラスの担任であるチョボ河村の顔をみた時から、彼女の不安が一気に膨らんだ。
すねてる幼児みたいに見える彼のおチョボ口はいつも通りなのだが、それがいつにも増してキュッとすぼまっていた。肛門みたい、といってクラス中で毛嫌いされていたその口を半年も見てきたから、彼女もその違いはすぐにわかった。唇のすぐ裏に大切な秘密を隠しているような感じだった。
じっさいその授業中、声が聞こえません! と生徒に二度も注意されたぐらいだ。それに三日も休んでいる未々に関してまったく触れないのはどう考えてもおかしかったし、ぽっかりと空いた彼女の席を一度も見ようとしないのも不自然だった。目だけでなく、身体で避けている感じだったのだ。そんなチョボ河村の臆病な子犬みたいな行動を見て、有季の不安は増大した。
前野有季は呪文のようなチョボ河村の授業を聞きながら、この難問を誰に相談しようかと思い悩んでいた。
時限爆弾をかかえても、その対処の方法はまったく考えずに、そばにいる誰かに手渡すことしか念頭にない彼女は――だって仕方ないでしょう? わたしに何ができるっていうの? というのが彼女の常套文句だ――、この難問の処理方法はまったく念頭になかった。
問題は誰に手渡すかだ。
そう時間をかけることもなく、彼女は二限目が終わるとすぐに隣のクラスの小野アリアのところへ行くことに決めていた。
◇
「で、未々は確かめてみるって言ってたのね」声をひそめてアリアは前野有希に訊いた。
「そう。でも、なんども言うようだけど、ほんとに何にも関係ないかもしれないし――」
「机の中に、いつもあったものがなくなっているのは事実なのね」
前野有季は不安そうに肯いた。
「だからわたしも不安になったの。きのうはあったのよ、教科書もノートも。生理ナプキンだって、未々は机の奥に二つ常備してたんだけど、それもなくなってるの。まるで学校をやめるみたいに――」
「そう」
「でも、単に風邪かもしれないし――」
「そうね。単なる風邪かもしれないわね」アリアは有季の目を見て、安心させるようにゆっくりと肯いた。「それに生理痛かもしれない。あの子はいつも痛みがひどいの。腰にくるんだって。ときどき死にそうな顔してたでしょ」
有季は細かく五回も肯いた。
「とにかく、もう少し時間をおいてみましょう。せめて月曜日までは、ね」
前野有季はそう言われただけでも顔がパッと明るくなった。
そう言われなくても、彼女は席を立つ前には明るくなっていただろう。彼女がここへ来たのはアリアに対処方法を相談しにきたわけではなく、あくまでも時限爆弾を手渡すことだったのだから――。
アリアはあからさまに荷が軽くなったように見える前野有季の背中を見ながら、両手でこめかみを押さえ、深くため息をついた。
彼女には月曜日まで待ってみる気はさらさらなかった。
今週はじめの月曜日から、あの不吉な胸騒ぎを感じていたのだ。
私が知っている人に、なにか、どこかで、良くないことが起こる予感がする――。
そこで彼女は、この三ヶ月間、未々に避けられているのはわかっていたが、どうにも我慢できなくなって、三日前の水曜日に忠告にいったのだ。
彼、ますますヒドくなってるから気をつけて、と――。
その同じ水曜日の午後、前野有季が未々に早朝のランニング男の話をし、その翌日の木曜日から彼女は登校していない――。
未々に雪柾のことを忠告してから隣クラスへは一度も行ってなかったので、木曜日から未々が登校していないのは知らなかったが、本当に未々が行方不明になっているとしたら、どうしてこのことを誰も公表しないのだろうか、とアリアは不思議に思っていた。少なくとも学校内での聞き取り調査ぐらいはあっても良さそうなのに・・・・。
やっぱり未々は、本当に風邪でもこじらせて休んでいるだけなのかもしれない、と考えながらアリアは窓側にゆっくりと目を向けてみた。
大川雪柾は、いつもと変わりなく登校していた。
いまも畑本誠一の机に寄りかかりながら窓から見える火葬場を眺めていたが、そんな彼の姿をみていると、未々が休んでいることを気にかけている様子はまったく感じられなかった。
でも――、とアリア。
月曜日から感じている嫌な予感――。
身近な人が亡くなる前に感じるこの感覚――。
身体の中で、蛾が鱗粉をまき散らしながら、ずっと飛び回っているように感じる不快なこの感覚――。
そんな気分になったのはこれで五度目だった。
一度目は、同じクラスで隣の席だった男子が交通事故で亡くなった時。
左折車の巻き込み事故で、彼はトラックの左後輪に踏み潰されて亡くなったのだが、アリアはその事故の数日前から{嫌な感覚}(丶丶丶丶)を感じていた。
まだ彼女も小学三年生と幼かったし、初めての体験ということもあって、それが何なのか、何を意味するのかさっぱりわからなかったが、その感覚だけはいつまでも身体の中に残っていた。
二度目に不吉な予感を感じたのは祖父が亡くなったときだ。
いつものように元気でピンピンしていた祖父が、とつぜん急性大動脈解離で他界する数日前から、アリアはずっと気分が晴れなかった。
どこかが痛いというのではなく、何となくダルい感じ。
心が騒ぐ感じ。
それを〝身体のなかで蛾が飛び回っている感じ〟と思ったのはずっと後のことで、彼女自身そのときの胸騒ぎには、まだはっきりとした確信がもてなかった。
つぎに感じたのは、当時五歳だった近所の女の子が、家の前の用水路に落ちて溺れ死んだ時だ。
彼女は生まれたときから綿菓子みたいにやわらかそうで最高に可愛かったが、その死はあっけなかった。
だれも何も予期していなかっただけに、本当に綿菓子がしぼんでなくなってしまったように、この世から消滅してしまった。アリアが中二の時だ。
そのとき初めて身体のなかで蛾が舞う感覚と、胸騒ぎと、身近な人の死が一致した。
女の子が亡くなる三日前に胸騒ぎを感じ、それを〝身体のなかで蛾が飛び回る感覚〟と自覚し、そして彼女が亡くなった。
その死を知った瞬間から胸騒ぎも蛾の舞もピタリと止んだことで、彼女はその関連性を自覚した。
それを裏付けるように、つぎの感覚は半年後にやってきた。
中学の担任だった数学教師が、校舎の裏の森で首を吊って自殺したのだ。
蛾の舞、そして死――。
狂乱じみた蛾の舞いには、すべて身近な人の死が関連していることをアリアは知った。
そして今、アリアは今週の月曜日から、身体の中であの不吉な蛾の舞を感じていた。
音もなく、乾いた土色した鱗粉が、身体の内部にふり積もっていくのがわかる。
原因は未々ではないかもしれないが、誰かの身の上に死が降りかかろうとしているのは確かだ。もうすぐ、じきに答えがでる死――。
彼女は眼を閉じて、その蛾の舞がいままでと違う種類なのかどうかを探ってみた。
だが、その違いまではわからなかった。
ただ音もなく、不吉な蛾が、彼女の中で飛び続けているのを感じるだけだった。
2
■十月二十日 日曜日
まだ誰もが眠っている日曜日の早朝、小野アリアは前野有季から聞いた海岸へと向かった。
時間は五時をすこし過ぎたところで、そんなに早く出ることもなかったのだが、昨夜寝つかれなかったこともあって、〈ちょっと散歩をしてきます。八時前には戻ります〉と台所のテーブルの上に書き置きをして家をでた。
アリアは堤防に向かって軽く走りながら、海へ行くのなんて何年ぶりだろう、と思い返してみた。
ここ二、三年は海水浴にもきていない。
海だけでなく、〈ゆったりした時間を楽しむ〉ということをまったく忘れてしまっていた。
一流大学へ進学することが絶対とは思っていなかったはずなのに、クラスの雰囲気に影響されて、勉強に関すること以外はすべて時間をつぶす行為として避けるようになっていた。
時間をつぶす――。なんて嫌な表現だろうとアリアは思う。時間を使うことには変わりないのに、その使われ方で不当に扱われる。つぶされる時間の不満に満ちたシュプレヒコールが聞こえてきそうだ。
以前、なにかの本で、石臼を使って時間をつぶしている男の話を読んだことがある。
背丈の倍ぐらい溜まった時間のつぶを、少しずつ手にとって石臼の中にいれ、くる日もくる日も重い石臼を動かして、黙々と時間をつぶしている男の話だ。
ゴリゴリ、ゴリゴリ、さらさらさら、ゴリゴリゴリ――。
「何してるの?」と女の子が訊く。
「時間をつぶしてるのさ」と男はふり向きもせずに応える。
・・・・ゴリゴリ、さらさらさら――。
「そんなことしてどうするの」
「とびっきりおいしいパンにして食べるのさ」
・・・・ゴリゴリ、さらさらさら――。
「それって本当においしいの?」
「それがわからないから作ってるんだよ」
そんな他愛もない話だったと思うが、それからしばらくの間、その時間をつぶす心地好さそうな石臼の響きが、頭の奥の方でずっと響いていた。
・・・・ゴリゴリ、さらさらさら――。
もちろん音を聞いたわけではなかったが、不思議にその音はいつまでも頭の中に残っていた。いまでもリアルに想像できるほどだ。
ゴリゴリ、ゴリゴリ、さらさらさら、ゴリゴリゴリ――。
堤防にはついたが、まだ陽が昇っていなかった。
前野有季が見かけたぐらいだから、男が来るのは陽が昇ってからだろう、と考えていた。だったらあと三十分ぐらいは時間がある。
アリアはとくに隠れることもなく、堤防に寄りかかってその雪柾に似た男を待つことにした。
それらしき男が来たら、正面からちゃんと確認するつもりだった。
でも、もしそれが大川雪柾だったら、どうすればいいのだろう。
沢木未々がいなくなったことを聞くのか?
早朝に? 堤防で待ち伏せをして聞くことなのか?
もう雪柾がぜったい怪しいと思って来てみたが、本当に未々は風邪をこじらせただけだったら、いまの私の行動はおかしいだろう。
どうして昨日学校で訊かなかったんだ? と思うだろう。
そう言われたら、ちょっと学校では話しかけにくかったから・・・・、とでも答えよう、とアリアは考えていた。
だから私はあくまでもここで大川雪柾を待ち伏せしていたわけではなく、勉強ばかりして火照った頭を潮風で冷やしていたということにしよう。
大川くんもなの?
そう!
じゃ、また明日ね。
それで終わりだ。それで走って帰って、日曜日だから母さんがちょっと凝った朝食をさっくりと食べよう!
今日はなんだろう。
フレンチトーストとプレーンオムレツかな。
それともハムと目玉焼きのホットサンドかも――。
そんなことを考えていると、急にお腹が空いてきた。
まだ太陽はまったく見えないが、空が少しづつ明るくなってきていた。
相変わらず堤防には人の姿は見当たらない。
ジョギングしている人とか、犬の散歩をしているとかいても良さそうなものだが、まったく人影は見当たらなかった。
そうしていると、私は見当違いのことをしているのか、とまた不安になってきた。
また邪魔する気! と怒る未々の顔が思い浮かぶ。
でも、いまでも身体の中では、ずっと蛾が飛び回っているのだ。音もなく、乾いた土色の鱗粉をふり撒きながら・・・・。
そのことだけで、アリアがここへきたと言ってもよかった。
その不吉な予感だけで、彼女はこうして早朝の堤防に来たのだ。
その嫌な予感の原因は未々ではないかもしれないのに・・・・。
そんなことを考えていると、意外に早く太陽が昇りきった。
もう周囲はいつもの朝と変わらないぐらいに明るい。
しかし、そうなっても雪柾に似た男は現れなかった。それどころか誰も通らなかった。
今日は日曜日だから、ランニングもお休みなのか?
アリアは堤防を乗り越えて砂浜に降りてみた。
天気は良かったが風が強く、まだ早朝ということもあって、トレーナーとジーンズだけでは少し肌寒かった。
彼女は両腕で身体を抱きかかえるようにして砂浜を歩いてみた。
テニスシューズを履いていても砂の冷たさを感じる。冷たい塩の結晶を踏んでいるみたいだった。
こんな感覚も何年ぶりのことだろう、とアリアは考えてみた。
――中二の時のダブルデート以来か?
そう。未々に告白してきた男と、その友だちと私とでダブルデートしたのだ。
ふたりとも長身でなかなかのイケメンだったが、私たちがどれだけ話しかけても会話にならず、退屈で退屈でちっとも楽しくなかった記憶しかない。
それで退屈な男も、海も、いっぺんに嫌いになったのだ。
もう男と海なんて絶対くるものか! と決めたのだ。
そんなことも、もうずっと昔のことのように思えた。
ほんの三年前のことなのに、デジタル時計の数字をダイヤルで早回しするように、パタパタパタッっといろんなことがあったような気がする。
中学卒業、高校入学、新しいクラス、新しい友だち、新しい教師――。
そんなことを通して自分が変わったとはとても思えなかった。
それだけの経験をすればどこか変わっても良さそうなはずなのに、まったく実感がない。
そういうものなのだろうか。
中学と高校の差なんてその程度のものなのだろうか――。
そのとき、アリアは足を止めて周囲をうかがった。
身体の中で蛾が激しく飛び回りだしたのだ。バサバサバサーっと。
アリアは吐きそうな気がして胸を押さえた。
なに?
どうして急に?
彼女は後を見た。
誰かが飛びかかってきそうな気がしたのだ。
だが、うしろには誰もいなかった。
太陽によってまだ温まってない冷たい砂浜と、単調に打ち寄せる白い波が見えるだけだった。
あらためて周囲を見渡したとき、彼女は左前方に、放置されたままの海の家があることに気づいた。それまでにも見えてはいたが、気にはなっていなかったのだ。
しかし、いま改めて見てみると、その様相は異様だった。どうしていままで気づかなかったのか不思議なぐらい、暗い妖気を放っているように見えた。
彼女はゆっくりと海の家に近づいていった。
その時点で恐怖心はなかった。
彼女の胸騒ぎの原因がまだ不確かなものだったし、じっさいこの感覚が悪いことの前兆という強い確信もなかったからだ。
アリアは海の家の前に立って、青色の波板スレートのすき間からそっと中をのぞき込んでみたが、積み重ねられたテーブルの脚に邪魔されて、奥の方までは見えなかった。
音がしないように気をつけながら波板を手前に引いてみると、それほど力を入れることもなく、彼女が入れるぐらいのすき間ができた。でも、すぐにひどい臭いをたっぷり含んだ湿った風が内部から襲いかかってきたので、あわてて波板を放して両手で鼻をおおった。
感覚的に肌で感じる妄想じゃない。現実の悪臭。圧倒されそうな腐敗臭。動物がドロドロに液状化した臭い――。
しばらくして青く染まった内部の暗闇に目が慣れてくると、天井からなにか白いものが吊り下がっているのが見えた。だがそれもやはり入口に積まれたテーブルに邪魔されてよくは見えなかった。
脂肪のかたまりみたいな形をした白くて大きなもの。
巨大な冷凍庫に吊り下げられた、牛の肉のかたまりみたいなもの。
それにしてもなに、この臭いは!
アリアは右腕で鼻と口をきつく押さえつけながら、もう一度内部をのぞきこんでみた。
ぜったい何か死んでる。
魚だろうか。
それとも猫?
犬?
じっさい腐敗臭だけではそれが何なのか特定できなかったが、何かの死臭に間違いなかった。
耳を澄ましてみると、なにかモーターが回っているような音が聞こえる。それが中から聞こえてくるのか、外からなのか、近いのか遠いのかすらもはっきりしない。
彼女は空を見上げてみた。
遠くでラジコンのヘリコプターでも飛んでいるのだろうか。
アリアは深呼吸をした。深く、しずかに、ゆっくりと――。
そして五度目に、より深く息をためてから波板をめくりあげ、思いきってうす暗い内部に入ってみると、外部とは薄い板で隔てられているにしか過ぎないのに、澱んでいる空気も、湿った砂も、まったく異質で別世界のようだった。
そこでアリアは、天井から吊り下げられた白い物体を凝視した。視力が左右とも〇・三だったので、そこまで来てもよく見えない。曇った夜空の満月みたいにぼうっとしている。
彼女はテーブルの脚部が邪魔にならないように、もっと身体をかがめて見た。それに眉をしかめて目を細めてみた。人相が悪くなると母親に何度もとがめられた顔だが、どうせ誰もいないのだ。構うことはない。
アリアはぐっと目を細め、亀みたいに首を長く伸ばして白い物体を見つめてみた。
「そんな所にいないで、もっと近くにくればいいさ」
アリアはビックリして立ち上がった。子ネズミがでてきてもすぐに逃げだす用意はあったが、予想外の展開にそこから一歩も動けず、その白い物体の前に坐っている黒い人影を茫然と見つめるだけだった。
一瞬、モーター音がより一層大きくなったような気がする。
「そんな所にいたってよく見えないだろ?」
雪柾だ!
薄暗い中でにこやかに笑ってこっちを見ている彼の顔が見えた。
いつもなら吐き気をもよおす笑顔だが、そのときのアリアはちょっと救われた気分になった。
それは、こんな別世界のようなところに人がいたこと。
それも知り合いの雪柾だったこと。
その彼がにこやかに、なにも危険がないみたいにほほ笑んでいること。
すべてが安全のしるしであるような気がして、アリアはホッとして肩の力を抜いた。
「アンタこそ、何しているのよ」
雪柾は質問には応えずに、アリアにむかって親しげに手招きしてきた。
そう誘われても、アリアは動かなかった。しばらくそこに立ったまま、雪柾を凝視していた。
「さあ」と、彼はふたたびアリアを促した。あい変わらず笑っている。電球みたいにツルツルした笑顔だった。
アリアは乱雑に積まれたテーブルを避けるようにして、雪柾から眼を逸らさずに入っていった
雪柾は近づいてくるアリアをみて立ち上がった。白い歯を見せてニコニコと笑っている。パーティの席を案内するホストみたいに愛想がよかった。
すぐ横にきたアリアに向かって、彼は笑顔のまま坐るように手で指し示した。
見ると彼が坐っていた部分がくっきりと丸くくぼんでいて、背もたれになるように後ろ側に砂が盛り上げられていた。
アリアがそのくぼみを見ていると、雪柾はサッとしゃがみ込んで同じようなくぼみと背もたれの盛り上がりを作ってくれた。そして砂がついた手をはらいながら、もう一度彼女に坐るように促した。
「どうして制服を着てるの?」とアリアが訊いても、雪柾は笑顔のままなにも応えなかった。
アリアは、雪柾と砂の上にできたくぼみを交互に見比べながら坐りこみ、それまで雪柾に注意し過ぎて忘れていた目の前の白い物体を見上げてみた。そして息を呑んだ。
それがあまりにも信じられない光景だっただけに、〇・三の視力でもよく見えるぐらい近かったにもかかわらず、目を細めた。身体も前に乗りだしてじっと見た。息をするのも忘れ、傍らに雪柾がいることもずっと遠くの世界のような気がした。
やがてアリアは周囲に充満した腐敗臭の不快さも忘れて大量に息を吸い込み、目が裂けるかと思えるぐらい大きく目を見ひらいて、とつぜん訪れた嘔吐のように一気に叫び声をあげた。
声は大きく、怪鳥のように高かったが、口をおおった自分の手に阻まれて少しくぐもって聞こえた。
最初雪柾は、アリアの叫び声を止めようとはしなかったが、四度目の叫び声をあげようとしたときに、彼女の手の上から大きな手を強く押しつけてきた。
「叫び声は好きじゃないんだ」雪柾は冷静に言った。「キミの友だちも歓迎しないよ」
アリアは抵抗した。なにがなんだかさっぱりわからなかったが、身の危険だけはわかった。
狂気だ!
とても正常じゃない。
常識が通用しない世界。
人の世界ではありえない光景。
アリアは雪柾から逃れるために抵抗したが、背後にまわった彼のきゃしゃにも思える白い腕が、首を締めつけてきた。それがあまりにも想像を越えた力強さだったので、彼女は今になって彼が本当に雪柾なのかどうかを疑ったほどだった。
どんなに優しそうに見えても、百パーセント人を安心させる笑顔を身につけていても、彼は男なのだ。
力で圧倒的な支配力をもつ男。腕力ではかないっこない。絶対に――。
アリアは空気をもとめて口をパクパクさせていた。
人から見ると酸欠の金魚のようでバカみたいに見えるだろうが、それもしだいに気にならなくなってきた。よだれが垂れるのも、左耳のすぐ後で怪物の荒い息を感じるのも、もうどうでもよくなってきた。
目の前を細かい光の粒子が乱れ飛ぶ。
強い光が当てられた鱗粉のようだ。
あの不吉な蛾の鱗粉が、現実に目の前を舞っているようだった。私の口から金色に輝いた鱗粉が吐き出されているのだろうか・・・・。
彼女は死を覚悟した。私もこの忌まいましい怪物に殺されて裸にされ、天井から吊り下げられるのだ。
冷凍の牛の肉みたいに――。
目の前の沢木未々みたいに――。
そのとき雪柾が腕の力をゆるめてアリアを解放したので、彼女は砂の上に前のめりに倒れた。
意識こそ失っていなかったが、きつく目をつむり、放心したように胸を激しく上下させて息ばかり吸っていた。
そこら中の空気をすべて吸いきってしまうぐらいに強く――。
何度もなんども――。
くり返し、くり返し――。
息がようやく落ちついてからも、アリアはしばらく動けなかった。
全身が気だるく、まるで予定された死の苦悶から自分を守るために、身体と意識が切り離されたみたいな感じだった。
遠くの方で涼しげな波の音が聞こえる。屋根の波板が風にあおられて、バタンバタンとけだるそうに音をたてていた。
ひどい臭いは相変わらずだが、それも気にならなくなっていた。
あのモーターの音だと思ったのは、大量の蝿だったのだ。
考えただけでもおぞましい蝿。その存在理由。すべてが未々と接触をもった忌まいましい虫たち。
「未々の登場にも驚いたけど、キミまで来るなんてホント、予想外だよ。他にも誰か来るのかなぁ」
アリアは応えなかった。応える気力がまったく失せていた。口に入った砂も吐き出せないほどだった。
「まあイイけどね。とにかく坐りなよ。そこにいると目障りなんだ」
目障り?
アリアは吊り上げられた未々に恐る恐る目をむけてみた。
さいわい顔がむこうを向いて垂れているので、想像を越えた断末魔の表情はみえない。だが、あのしなやかで、ツヤのあるきれいな長い髪は未々のものだ。いまは悲しいぐらいにボサボサで、ホウキみたいに生気がなくなっているが、形も長さも中学生の頃からちっとも変わっていない。
服装の好みも髪型も、女の子らしさから一歩もでようとしなかった彼女に、ショートカットがどんどんエスカレートして短くなっていく私の髪型を何度笑われたことだろう。しまいには「大工さんみたいよ」と言って大笑いされたものだ。
未々は両手首を黄色のビニールテープで縛られて吊り下げられていた。何重にも巻かれたテープが見えなくなるいぐらい手首に深く食い込んでいて、ひどく痛そうだ。
手首から先はどす黒く変色していた。
腰から下がとても未々の脚とは思えないぐらい醜くむくんでいる。
かつて未々が自慢していた太もものつけ根と、膝の上と下、それに足首の四ヶ箇所にすき間ができて向こう側が見えるのがいいんだって、と自慢していたきれいな脚が、細身の上半身と同一人物とは思えないぐらいぶよぶよに膨らんでいた。
アリアはそれを見て泣いた。涙と鼻水と涎が流れでるのもかまわずに、子供みたいに声を出して泣いた。
「ちょっと静かにしてくれないかな」背後で冷徹な雪柾の声が聞こえた。こんな場所にいても、彼はいつもの雪柾だった。
「集中できないんだ、悪いとは思うけど・・・・」
集中?
アリアは泣きながらぼんやりと考えていた。
なにを集中しているのだろう。
こんな未々の姿を前にして。
変わり果てた姿をみて。
アリアは悔しくて、どうしようもなくて、トレーナーを着た自分の腕に思い切り噛みついた。
「こんなことするなんて、人間のすることじゃないと思ってるんだろうけど、ボクだってこんなことをするつもりじゃなかったんだ。いまさらこんなこと言ってもムダだと思うけど、きっかけはキミが作ったんだぜ。キミがこのスイッチを押したんだよ」
『・・・・きっかけ? ・・・・スイッチ?』
どういう意味かわからなかったが、どういう意味かわかったとしても、アリアは応えるつもりはなかった。こんな男のことを深く考えるつもりはまったくなかった。
「どうしてここがわかったの? 未々になんか訊いたの?」
気の滅入る声だ。どうしてコイツはこんなに明るいのだろう。なにも感じないのだろうか。今の状況をまったく理解していないのだろうか。
「ほかに誰か知っているの?」
「――せめて未々を降ろしてあげて・・・・」力の抜けた声でアリアは訴えたが、雪柾はゆっくりと首をふり、「もう少しなんだ。たぶん、もう少しで、すべてがわかる気がするんだ」と嬉しそうに応えた。
「どうでもいいから服ぐらい着せてあげてよ」
「それが邪魔だったから脱がせたんだよ」
「邪魔?」
雪柾は両手で脚をかかえこみ、星を観察しているような目で未々を見上げていた。
「においさ。洗濯された服のにおいが邪魔だったんだ」
アリアはゾッとした。雪柾は未々を未々として見ていない。それどころか、未々を人としてすら見ていない。
おまえにとって未々はなんだったの!
付き合ってたんじゃなかったの!
好きあってたんじゃなかったの!
あんなに未々は嬉しそうだったのに――。
私との仲を壊してまでおまえと付き合っていたのに――。
アリアは悔しくて、唇をつよく噛んだ。そしてひとつかみの砂を、雪柾に向けて力いっぱい投げつけた。
ふざけんじゃないわよっ! と罵りたかったが、声にはでなかった。
砂は雪柾の背後の壁にも当たって、通り雨のようにパラパラッと音をたてたが、雪柾は動かなかった。嫌悪にみちたアリアの顔をみようともしなかった。じっと黙って、未々を見上げていた。
しばらくしてまた静かに波の音が聞こえるようになった。
「これは神様のお告げなんだ」そういって雪柾はニヤリと笑った。そのセリフを言うとすべてが許されるとでも思っているみたいだった。
「なあ、もうイイだろ? 時間がないんだ。でないとキミも吊しちゃうよ」
自分を吊すということがどういうことなのか、アリアにはうまく理解できなかった。
現実に吊されている未々が目の前にいても、よくわからなかった。
いま見ているこの情景が夢なのかどうなのかもはっきりしない。
ひどい頭痛のせいだ。雪柾に首を絞められたときから割れるように頭が痛い。呼吸するだけで頭の芯までひびいてしまう。
いったい私は何をしているの? なぜここにいるの? もう帰りたい。早く帰って母さんが作ってくれる日曜日の特別なモーニングを楽しむのだ。
彼女は心の底からそう願っていた。