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悲しみに向き合う

私がYさんと出会ったのは、去年の冬だった。

Yさんは69歳の男性でちょうど私の父と同じくらいの年齢なのだが、画像検査でstageⅣの末期の肺がんが分かり、がん宣告を受けた次の日。抗がん剤の治療を始めるためにその抗がん剤について説明する担当薬剤師となったのが私だった。

私はまだ病院薬剤師として働きはじめて2年目で、抗がん剤の説明をするのはまだ2~3回目の新米だったため、すごくドキドキして事前によく下調べをして病室に向かったのを覚えている。

((こんな経験の少ない薬剤師が担当で患者様に申し訳ない)) ((質問を受けても機転のきいた答えが返せないかもしれない))という不安な思いを抱えたまま、説明の資料をもって「Yさん、失礼しまーす。薬剤師の〇〇です。」と病室のカーテンを開くと、ベッドはもぬけの殻。さっきまで居たような形跡はある。トイレにでも行っておられるのか。

時間をあけて何度かストーカーのように病室を訪れたがYさんはなかなか姿を現さない。

担当看護師さんを探して聞いてみると、「あら、Yさんならチャイルドルームにおられると思いますよ!」と意外な答えが返ってきた。


不思議に思いながらチャイルドルームを覗くと、私の両親と同じくらいの年齢のご夫婦と、私と同じくらいの年齢に見える女性が、幼いこどもをおもちゃで遊ばせているのが見えた。

((あ、奥様と娘さんとお孫さん…!

え、てことは家族全員が私の説明聞くってことか。

患者さん本人にしか説明したことないよー。緊張するよー…))

と内心焦りまくったが、平静を装って「Yさんですか?」と声をかけて抗がん剤の説明を始めた。

まず、上品なご夫婦だなぁと思った。どんなにかお辛いであろう場面なのにこんな小娘に対しても礼儀正しく、たまに微笑みを浮かべて話を聞いてくださる場面すらあった。

ただ、副作用の話になるとご本人も奥様もとても真剣な表情になり、娘さんは少し離れた場所でこどもをあやしながらも、静かにじっと私の話を聞いているようだった。

私の心臓はドクドクして緊張は最高潮になり、説明しながらいつの間にか大量の汗をかいていた。

Yさんはそんな私に茶化すような冗談を言い、緊張をほぐしてくださったように記憶している。アハハと明るく笑ってくださるYさんをみて、私は申し訳なさと同時に、ただただYさんの器の大きさに感動していた。

暗い雰囲気になるのが嫌な人なんだと思う。「もう、また。そんな冗談言ってる場合じゃないでしょう」と言いたげな顔で奥様は困ったように笑っていた。

ご本人は明るく振舞い、奥様はなるべく暗い顔をしないように努めておられて、娘さんも黙っているがとても心配しているのが伝わった。

Yさんはご家族からとても愛されているんだなぁ。

そう思った。


それからすぐに抗がん剤の治療が始まり、投与当日の体調変化やその後の副作用チェックのために私は何度もYさんの病室を訪れた。

薬剤師が体調どうですか?と聞いても、「何回聞くんだ。医師には診察でもう話したからあんたらにわざわざ話すことはない。」「別に変わらん。」と患者様から塩対応されることも多い病室訪問業務なのだが、Yさんはいつも「おぉ、〇〇さん。来てくれてありがとう。」とベッドから起き上がって笑顔でお話ししてくださるので、最初緊張していた私も打ち解け、すっかりYさんと仲良くなった(私はそのつもりでいる)。

私がいい年して独身なのも心配してくださって、「今診てくれてる呼吸器内科の先生は若い先生だけど、あの人は結婚してるのかな。どうなの?あなたにとても良いと思うんだけどなぁ。」と真剣に話してくれたこともあった。


Yさんの治療は、同じ薬剤を一定の間隔をあけて点滴で5回投与する治療だったのだが、数回目のときに副作用が強く現れてしまい、Yさんは食欲不振と貧血に苦しんでいた。

いつもあまり弱音を言わないYさんだが、そのときは本当に苦しそうだった。

「この治療が終わっても治っていなかったら、次の治療はあるのかな。こんなに苦しいのは何回もできない。今はネットでなんでも自分で調べたら少しは分かると思うんだけど、それもなんだか怖いような気がして。元気がでなくてダメですね。」

と弱々しく微笑む姿に、私は思わず泣いてしまった。

泣いてしまうくらいにYさんのことが人間として好きで、大切な人だった。

今行っているYさんの治療は、治すというより延命に近いもの。余命は半年~1年だとカルテに書いてあったのだが、ご本人には余命宣告まではされていないのか。私はどう答えて良いのか分からず、胸が押しつぶされるように苦しかった。


その後も便秘や下痢など次々と現れる副作用に耐えて、Yさんは無事に5回のコースを修了し、入院ではなく外来で定期的に通院する形となった。

あと数日で退院するという頃、私は自分が普段飲んでいるお気に入りのハーブティーをもって病室に訪れた。外来通院となると薬剤師が関わる余地がなく、もうしばらく会えないと分かっていたからだ。

「あんまり個人的に患者さんに物をあげたりするのは良くないかもしれないので、内緒ですよ。」と笑って渡すと、Yさんは嬉しそうに「ありがとう。」と言った。


それからYさんと会ってお話しする機会もないまま半年以上経ち、毎日の業務に追われて忙しくしていたのだが、つい2週間前のこと。

たまたま粉薬を機械に撒いて分包する業務を担当していた私は、調製するお薬のリストで懐かしい名前を見つけた。

「あ!Yさん、入院してたんだ!」


でも、入院するということはつまり、あれから病状が進行していてかなりまずい状況になっているということだった。

処方されていたものは塩化ナトリウム。いわゆる塩だ。

久しぶりにカルテを見ると、肺のがんが腎臓や脳に転移しており、脳が浮腫んで歩きづらくなったり、食欲がなくてほとんど何も食べられない状態だと分かった。健常な人であれば食べ物から無意識に塩分を摂れるのだが、薬として摂取しないといけないくらい塩分が足りていない、ということから、本当に何も食べられていないのが現実として突きつけられているようで、私は絶望的な気分だった。


入院されていることが分かった以上、病室に上がってYさんに会いに行きたい気持ちが沸き上がると同時に、会うのがとてつもなく怖くなってしまった。

カルテの記録から、私が何度も病室を訪れてお話ししていた頃と比較すると体重が10kg以上減ってしまっている。10kg減るって、一目見て「痩せたなぁ」と分かって驚くくらいの痩せっぷりだ。


Yさんの入院が分かってから私はしばらく訪問する決心がつかずに数日悩み続け、「やっぱり会いに行こう」と決めた。あんなに優しく何でも話してくださったYさんにこのまま一生会えなかったら絶対に後悔する、と思ったからだ。


去年の冬とはまた全く違う緊張を感じながら、私はYさんの病室を探し、ネームプレートの名前を確認してドアをあけた。

するとそこには、ベッドの縁に腰かけてうなだれるような背中のYさんの姿があった。

胸をぎゅっと掴まれたような思いでその場で一瞬立ち止まってしまったが、私はつとめてあの頃と同じように「Yさん、お久しぶりです。薬剤師の〇〇です。」と声をかけた。

パッとこちらを振り返ったYさんは、はっとした表情で私を見た。

頬がげっそりした感じはあるが、瞳はまだキラキラしていた。60代はまだがんで死ぬには早すぎるくらい若い。


それからYさんは静かにたくさんお話ししてくれた。

入院する1週間前くらいから足をぶつけたり転んだりするようになって、おかしいと思って受診したら脳の転移がみつかり、即日入院になってしまったこと。

食事はほとんど食べられず、ご家族からの差し入れのフルーツを食べて過ごしておられること。

コロナのせいで家族とも自由に会えないのがとてもさみしく、孫が自分のことを覚えてくれているか不安なこと。

奥様がもってきてくれる着替えやタオルをきちんとたたんで返したいのに、体がしんどくて綺麗にたためないのを悔しく思っていること。


ベッドサイドの足元には、奥様が持ってきてくれている着替えやフルーツの入った大きいバッグが、きちんと整理されて置かれていた。

猫ちゃんの柄と白クマの柄の可愛いバッグが2つ並んでいる。

奥様の想いがたくさん詰まった差し入れ。


Yさんはお話してくださるうちにゴホゴホと強く咳き込んでしまい、「無理してお話されるとしんどくないですか。」と私が何回か声をかけても、「いや、大丈夫。」とそれを制してしばらくお話してくださっていたのだが、

何度も咳で苦しそうにされているのを見てたまらず

「また来ますね。またお話聞かせてください。」と声をかけると

「そうだね。うん。また話しに来てくださいな。」と力なく笑って手を振ってくれた。


部署へ戻るため階段を降りながら私は悲しい気持ちだったけど、やっぱり会いに行ってよかったなぁと思った。

私と話したことで少しでも気晴らしになってくれたら良い。

あなたを心配している人間がここにもいますよ、とYさんに伝わりますように。

きっとそういうさりげないことが実は生きる気力につながったりしないだろうか。


私も関わった人からそう思ってもらえるような誠実な人間になりたい。

Yさんからはたくさんのことを学ばせてもらったように思う。

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