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”正しい絶望の仕方”って何なんだ

👟漫然とした歩行のためのエクリチュール1



正しい絶望とは?


歩行のきっかけ

”みんなで正しい絶望の仕方を発明しようよ。”

 先日、そうTwitterで呟いた。

 
 呆れたことに、書いた本人も「正しい絶望の仕方」というのが何を指すのかよくわかっていない。ただ、真剣にそれが必要だと思ったのだ。

 『若いほど絶望しやすい』とどこかで小耳に挟んだのが引っかかって仕方なかったのである。絶望はキルケゴールにより「死に至る病」と呼ばれ、絶望は罪、と称されたようであるが、知ったこっちゃない。私の絶望はキルケゴールの絶望で総括できないんである。洒落臭く言えば、孤独な闘いなのだ。

 しかし、自分で書いておいて恐縮だが、「正しい絶望」とは今のところ思いつきの範疇に留まる反語的レトリックでしかないと思う。しかし、それがレトリック以上に意味があるものではなかろうか、という建設的な希望を持ちつつ、後付けではあるが自分なりに考えてみようと思う。

”意味を求めがち” ”頭でっかち”が今のところ身の丈

 悩むことなど無意味だと冷笑するかのように、”若い時は意味を求めがち”というフレーズや”頭でっかちになるな”という言葉が氾濫しているが、それは年老いると体の老いの方が切実な問題になるからだと思う。そんなことより足腰が痛い。そもそも寿命が近い。でも、そこまで生き延びることさえ辛いのが現在悩んでいる若者なのだ。
 それを忘れられる、あるいは考えずに済んだのは、それだけ幸福だった、あるいは忙殺されていたということだろう。

”絶望死”というワード

 自死であれ、薬物などによる緩慢な死であれ、自ら死を望む大まかな理由は、将来に対する望みを持っても仕方がないという”諦念”が原因だと思う。現在を生き延びる術がないのだ。好きなことよりも愛する人よりも、苦痛の方が大きい時、人は絶望し、死を希求する。
 『生の完璧な形が死であるため自死を望むのだ』という説もあるのだがここで扱いたいのは形而上的な問題では決してなく、当人にとっては物凄く切実な感覚の方である。有体にいえば問題の解決により得られる将来よりも苦痛の方が大きいのだろう。

死に方さえも歪めてゆく人類、しかし人類が自然である以上行為そのものも自然の域を出ない

 記憶を保存する研究が盛んだと聞いた。しかし、それは学びを得、生の喜びを得たもののみが欲するのもではあるまいか。自身に何の価値も見出せずただただ生きることが苦行であると経験則より導き出した人間が、記憶の保存を望むとは思えない。


※宗教的な意味での「正しい絶望」ではなく※
 
私はいかなる宗教にも属していない。
「正しい絶望」と検索すると、「他力本願」的な回答が出てくる。
 勿論、信じることそのものは人間の素晴らしい能力の一つだと思うが、宗教団体になると大概、金や権力争いが絡む。その様に嫌悪感を感じるので、宗教の教えは完全に自由であるし、信仰の自由は保たれるべきであると思うが、ここでは宗教的な意味が加味されたとしても、自分なりに考えることを優先したい。信じるべき神でさえ科学により駆逐されそうな現代では科学そのものが宗教のようだ。しかし、解明する対象がこの世界である限り、この世界の存在のみが信仰の基本だとしか私には言えない。


絶望とは

 絶望とは希望が全く見出せない状態を指す言葉である。
 絶望を和訳する際、『望みを(自ら)絶する』と『望みが絶たれる』の2通りがあると思う。
 能動か受動か。それが差異である。
 正しさは明るい方とされるより良い方向。ポジティブで完全無欠な太陽。能動的であることも文脈の中で正しい、と分類されることが多い。

 逆に、絶望そのものは暗闇である。絶望の海に完全に沈み、その水圧で呼吸ができなくなりながらも、我々は正しさを保たなければ容易に命は死に傾いてしまう。


絶望は海か大地か

 先ほど絶望の海洋と比喩したが、絶望は干からびた大地かもしれない。さらに掘り進めれば沸々たるマグマである。それはむしろ暗闇ではなく熱いドロドロした光なのだが、それは”怒り”という単語を当てはめるべきなのだろうか。


孤独

 絶望と孤独は紙一重だ。しかし、孤独”感”は周囲に存在する人間の数に比例しない。祭りの最中に高揚感や一体感を感じる人間もいれば却って自分の暗部を意識してしまう人間もいる。


正しさとしての明るさ、ポジティブ:ポジティブな絶望は存在するか

 漢字の字義から掘り下げて考えてみよう

「絶」の旧字体は”絕”であり、これは糸を刀で断ち切る様と膝を折った人間が組み合わされた漢字だ。
「望」の旧字体は”朢”であり、遠くの月(光)を眺める様である。

 私は、この絶望の”望み”が、月光を絶っているということが何だか象徴的な気がした。月は周知の通り、太陽なしでは輝くことはできないし、夜の闇でなければ見ることができない星である。望みとは、そもそも朧月夜が多いように、霞みやすいものであると古代の人も思っていたように感じて心強い。
 では、絶望という状態は実は常態なのではあるまいか。
 その意味で、絶望とは”諦念”などに近いのかもしれない。人間は社会的動物とアリストテレスが述べたように、一人では生きることはできない。それこそが”諦念”の源泉ではないだろうか。


絶望によって死なないために

 絶望によって死なないために。
 望みがないことが常であるなら、生きていること自体、生まれたこと自体が絶望そのものなのである。しかし、そこで朧月夜を死ぬまでは紡ぎ続けることが生きるということなのではないだろうか。


だけど、その結論は息苦しいからなんか厭

 しかし、うまく纏めようと試みてはみたものの、

絶望が基本的スタンスだとしても、
when it is dark enough, we can see the stars.
(暗くなればこそ星がよく見えるってもんさ)

とか言われてもなあ、と正直思う。根暗だから。

 海に例えれば海面がアップアップの0地点でかなり苦しくて、それ以下ならいくらでも沈んでいけるし、水圧が高くなりすぎれば死ぬだろう。どれだけハイになったって一緒だ。大気圏以上までGoしたところで、無酸素と無重力で死ぬ。
 均衡がおかしくなれば適応できない弱者の方がダメージ大だ。

 私がここまで考えたことを総括しても、
 
正しい絶望=現実を受け止めて周囲の援助を受けながら死ぬまで生きること 以上の意味がない。


正直なところ。。

 御免なさい、今、これ以上何も思いつかないです。もう少し、的を射た問いが必要なのかもしれません。それは決して、今までの思考の過程が無意味であったという意味ではなく。

本気で沈み切ろうとも、生き続けるしぶとさを持つこと、それが一瞬の希望になるのかもしれないと思う。


これらに対し、解や問いを思いついた方は是非、教えてください。


2023/11/28 文責:島つくえ
 

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