20210423(2) ガルラジUnlimited岡崎感想 再会とか再開とか
聞きました。良かったね。ツイート下書きを書き並べたみたいな、脈絡のない、ひどい感想です。
(立ち止まりについて)
なんでここにいるんだろうと思う瞬間がある。とくに気分が落ち込んでいるときとか、嬉しくて高揚しているときとかではなく、ごく日常の生活のあいだに。
例えば、なんでわたしは札幌の街路を歩いているんでなくて、熊本の温泉に浸かっているんでなくて、東十条のスーパーで鶏ひき肉を買おうか合いびき肉を買おうか迷っていなければならないんだろう、というような。
当然この道をあるいていることに、それほど必然性はない(決定論の是非とかいう水準の話ではありません。もっと低級な、わたしがおおまかに知覚しうる範囲で)んだけど、こういう当たり前のことに急に気づかされておどろいて、別の場所にありえた自分を想像する。
でもその想像は上滑りする。なるほど東十条でなくて京都の学生寮にいたかもしれん、確かにね、でもその想像が一体何になるだろう。
結局想像はそこでとまって、いまここにいることに必然性がないという気づきによるふわふわした少し不安な余韻だけが残る。余韻も数分で過ぎ去って、スーパーから家に帰って、肉を焼いたり酒飲んだりして寝てしまう。でまた当たり前のように日常に戻り、いま住む街を当たりまえのように歩き始める。
明日どこにいるのかわからないのと同じ程度には、なぜ今ここにいるのかわからない。
これは藤田ゆきの私論のときにも書きかけたことでした。久しぶりにこすってます。
それで本題、以上の自分語りをしたのは、ガルラジUnlimitedを聴いているときに似た体験をしたからでした。
ガルラジやっぱり楽しいね~みんな愛せるね~って聴いてて、曲・ガールズラジオデイズが流れ始めて。いい曲だな~って思ってるとき、ふと、あ、いつのまにかこんな曲が流れるような地点に来てたんだ、なぜ?と立ち止まってしまった。
楽しんでガルラジガルラジ言ってる間にいつのまにかこんなところまできてしまった。自覚しないまま、昔からは想像もつかないようなすばらしい地点まで押し流されてきてしまった。自分の視点からみるとほぼ偶然まみれの、カオティックな波に押し流されてきて、またどこかに押し流されていく。道を決定してきたぞ、というたしかな必然感というか、そういうものがない。
(交差点について:何度目のこすり?)
この必然性のなさから、この交差点でその道と交わらなければならない必然性はないというところも連想させる。すなわち、多くの場合、道を通るわれわれにとって大事なのは、自分が曲がる予定の角と、そこまであといくつ目で曲がれば曲がる予定の角になるか、というところだけであって、次の交差点で交わる道が言問通りであろうが3号線であろうが金沢バイパスであろうが、この道を直進する限り、それほど関係はない。と思う。
しかるに、このガルラジとの出会いは、通り過ぎるつもりだった四つ角に趣味の良い喫茶店が立っていて目を惹かれて、通り過ぎざまにちらっとみやってみれば、なんか花の咲いたきれいな路地が伸びてるやんけ、と思うような、そういうイレギュラーな有難い出会い方だったのかもしれない。必然性の話題からは普通に逸れてますね…
(再会について)
過ぎた交差点はナビ上マップの画面外へ消えていく。
高校の友人とも、卒業してしまえばたいてい、多くの場合近況を話して、高校時代の思い出を見返して、まあお互い頑張りましょう、と笑いあって別れるような関係に変化して遠ざかっていく。もちろん高3の夏やすみのプールの思い出を会うたび語り続けたり、カフェのひとときをなつかしんだりする、そういう間柄も大切だけど。
でも彼女らのように「みそみそきゅん」とか「まいちゃんがイケメンさん」とか、シャッフルラジオを通して間接的に得た新規の思い出が書き足されていっている、それぞれ別の道にすすんでからの大学一年生の思い出を共有できているのってとても貴重なことですよ。
こうやって彼女ら自身がある意味再会できたことに加えて、われわれとも再会できたんだと思う。あの2019年に交差して以来、まあ順当に通り過ぎて、別の道に向かって「ばいばい」した時を経て、またうれしくも交差するところに来た。
もちろん彼女らが乗っている車は、なつかしい軽トラみたいなラジオ配信形式から、ちょっとぎこちない新車みたいな、ポッドキャスト形式には変わったんだけど。
余談ですが、ポッドキャスト形式のおかげで、わたしがたとえば夜に聴いたとしても、これは昼に収録して録音を公開しているんだろうな、という感じが得られたのは良いかもしれない。22時リアルタイムの岡崎や、あるいは徳光なんかよりも正直リアリティはある。同時性をうしなってリアリティを代わりに得たともいえそう。
(再開について)
二兎さんの台詞。一緒に居ようではなく一緒に居たいと伝える。この成熟よ。
岡崎の景色を思い出したんだ、最後の大声で。確かにあの場、岡崎SAの騒がしいフードコートにいて、ラーメンでもすすってて、らせん階段の下から聞こえる張りのある大声に顔を挙げた、そんな通りすがりの一般人の視界にありありとシンクロした。このシンクロの瞬間にあぁ、ガルラジ再開したな、と感じ入ってしまった。こういう体験を求めてて、たしかにこういう体験をもたらしてくれるコンテンツとして再始動したなと、個人的に思った。これは直前に現地訪問してた効果がまあ大きいのだけれど。実際は全然離れた名古屋の集合住宅の一室でひとりこのラジオをきいていたんだけど。
でも別に、この部屋にいる必然性はない、岡崎のラジオブース横に居合わせる必然性がないのと同様に。ならば、想像力のあばれるままに、両地点を往来してしまってもいいじゃんね。
われわれも、願わくば、もう少しの間だけ同じ車に同乗していきたいね。
なんかずっと続く気がするね。
これはいい曲です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?